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12.欲の束縛と心の晴れ
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田沼が帰った後は店は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
賄賂を渡さずに届け出たものが、役人でも新しい賄賂でもなく、老中の訪問でひっくり返ったのだ。
この話に一番驚いたのは、饅頭を作る役の清である。
当然、喜ぶだろうと修三は厨房に駆け込み、清にことの顛末を告げた。
……そして、今。
修三は仁王立ちの清の前で頭を下げている。
「すまん、清」
「聞こえないね」
「すまんと言うておる!」
清は不服そうな顔はしていたが、それでも手ぬぐいを頭に巻いた。
「全く。こんなに急に大量に饅頭作れって無茶なんですよ! なんで先にこっちに確認しないかね!」
「さすがに田沼様がいらっしゃるとは思わんだろう」
往生際悪くぶつぶつと文句を言う清に、修三は拝み倒す。
もとはといえば清のためにしたことだが、ここまで来たら春日屋の進退が関わってくる。
もはや修三ひとりが責任を終える問題ではない。
「だからって、今から仕入れに仕込みにって、どれだけ大変だと思ってるんですか! 今日はみなさん蕎麦でも食べに行ってくださいよ! 食事なんて作ってられませんからね」
手痛い出費だ。だが身から出た錆でもある。
「わかった。……俺が持つ」
「本当にわかってるんでしょうね」
「わかってる。清、お前にはなんだ、寿司でも買ってくればいいのか」
次の給金が出る日まで、保つだろうか。気前良い態度を取りながらも、修三は青ざめて、胸算用をしていた。
「寿司ですか。江戸前穴子もいいねえ」
「少しは遠慮しろ」
さすがに耐えかねて、修三は自制を促した。
そんな修三を、清は残念そうに見た。
「わかってませんねえ……」
まだ何か言い足りないのか、頼み足りないのか。どちらにせよ、修三の財布の中身か精神にはまだまだ負荷がかかりそうだった。
「何が! まだ何かあるのか!」
それでも、店が潰れるよりはマシである。
堂々として見せながらも、これ以上は厳しいと、修三は無意識に少し後ずさりする。
「……ありがとうございます」
清はそれだけ言って、忙しそうに厨房に戻っていった。
あっけに取られている修三は、思わず自分の頬を叩いた。
「……痛い」
自分の頬に触れると、少しばかり、熱を帯びていた。
そんなすったもんだの末、なんとか饅頭は五十ほど間に合わせ、田沼の屋敷に届けられた。
遣い役は修三だった。
「斬られないようにしてくださいよ」とふざけたことを言ったのは喜助だ。
喜助はあの吉原でのしっかり者ぶりは店で見られることは少なかった。
継続もまた才能で、どうやら喜助にはその才能はあまりないようだった。
おかげでできれば粗相がないようにと修三にお鉢が回ってきたのだった。
修三が納品に行くと、田沼は面白がって、また注文をした。
田沼家が春日屋の上得意となったのだ。
そうして慌ただしく、師走が過ぎていった。
いつの間にか藪入りの時期となっていた。
奉公人が一斉に宿下がりする薮入りは慌ただしいが、奉公人たちは久しぶりに遠方の実家に戻る者もおり、どこか楽しげな浮足立つ空気があった。
さらに今年の薮入りの直前には、小番頭を決めるために票を入れろとのお達しがあった。
修三は、まだ帰らずに最後の片付けをしている清の様子を見に厨房を覗いた。
煤払いが終わらない清を手伝い、はたきでかまど周りの煤を落としていると、清が茶を入れてくれた。
「どういう風の吹き回しですか。厨房の片付け手伝うなんて」
「初がもう帰ってしまったからな。清ひとりでは大変だろう」
手を休めて一服することにした修三の横に清も座った。
「人気取りのつもりなら無駄ですよ。私はもうお伝えしましたから」
「もう伝えたのか」
別にそんなつもりは修三にはなかったが、そう思われても仕方ないことも、修三は理解していた。
「もう戻ったらどうです? 妹さん、まだ小さいって言ってたじゃないか」
「最近生意気でなあ。……楽させてやろうと思っても、あっという間に大きゅうなって、嫁に行ってしまうんだろうな」
残念そうに茶をすする修三に、清はケラケラと笑い、背中を叩いた。
口に含んでいたお茶を手にこぼしてしまった修三は、清に文句を言う。
「熱いだろう!」
「兄というより、父の心境じゃないか、それ。ほら、せっかくの薮入りなんだし早く帰りなさいよ。待ってるよ」
「いや、最後まで片付けるよ」
この一年はいろいろなことがあった。
その記憶を確かめるように、修三は部屋を回っては掃除を手伝っていた。
「もしかして誰が次の小番頭か、気になるかい?」
「気にならないわけじゃないが、俺じゃなくても、もういいんだ」
そう、自分でなくてもいい。もし喜助がなったとしても、そのときは自分ができることを重ねていけばいいのだ。
賄賂を渡さずに届け出たものが、役人でも新しい賄賂でもなく、老中の訪問でひっくり返ったのだ。
この話に一番驚いたのは、饅頭を作る役の清である。
当然、喜ぶだろうと修三は厨房に駆け込み、清にことの顛末を告げた。
……そして、今。
修三は仁王立ちの清の前で頭を下げている。
「すまん、清」
「聞こえないね」
「すまんと言うておる!」
清は不服そうな顔はしていたが、それでも手ぬぐいを頭に巻いた。
「全く。こんなに急に大量に饅頭作れって無茶なんですよ! なんで先にこっちに確認しないかね!」
「さすがに田沼様がいらっしゃるとは思わんだろう」
往生際悪くぶつぶつと文句を言う清に、修三は拝み倒す。
もとはといえば清のためにしたことだが、ここまで来たら春日屋の進退が関わってくる。
もはや修三ひとりが責任を終える問題ではない。
「だからって、今から仕入れに仕込みにって、どれだけ大変だと思ってるんですか! 今日はみなさん蕎麦でも食べに行ってくださいよ! 食事なんて作ってられませんからね」
手痛い出費だ。だが身から出た錆でもある。
「わかった。……俺が持つ」
「本当にわかってるんでしょうね」
「わかってる。清、お前にはなんだ、寿司でも買ってくればいいのか」
次の給金が出る日まで、保つだろうか。気前良い態度を取りながらも、修三は青ざめて、胸算用をしていた。
「寿司ですか。江戸前穴子もいいねえ」
「少しは遠慮しろ」
さすがに耐えかねて、修三は自制を促した。
そんな修三を、清は残念そうに見た。
「わかってませんねえ……」
まだ何か言い足りないのか、頼み足りないのか。どちらにせよ、修三の財布の中身か精神にはまだまだ負荷がかかりそうだった。
「何が! まだ何かあるのか!」
それでも、店が潰れるよりはマシである。
堂々として見せながらも、これ以上は厳しいと、修三は無意識に少し後ずさりする。
「……ありがとうございます」
清はそれだけ言って、忙しそうに厨房に戻っていった。
あっけに取られている修三は、思わず自分の頬を叩いた。
「……痛い」
自分の頬に触れると、少しばかり、熱を帯びていた。
そんなすったもんだの末、なんとか饅頭は五十ほど間に合わせ、田沼の屋敷に届けられた。
遣い役は修三だった。
「斬られないようにしてくださいよ」とふざけたことを言ったのは喜助だ。
喜助はあの吉原でのしっかり者ぶりは店で見られることは少なかった。
継続もまた才能で、どうやら喜助にはその才能はあまりないようだった。
おかげでできれば粗相がないようにと修三にお鉢が回ってきたのだった。
修三が納品に行くと、田沼は面白がって、また注文をした。
田沼家が春日屋の上得意となったのだ。
そうして慌ただしく、師走が過ぎていった。
いつの間にか藪入りの時期となっていた。
奉公人が一斉に宿下がりする薮入りは慌ただしいが、奉公人たちは久しぶりに遠方の実家に戻る者もおり、どこか楽しげな浮足立つ空気があった。
さらに今年の薮入りの直前には、小番頭を決めるために票を入れろとのお達しがあった。
修三は、まだ帰らずに最後の片付けをしている清の様子を見に厨房を覗いた。
煤払いが終わらない清を手伝い、はたきでかまど周りの煤を落としていると、清が茶を入れてくれた。
「どういう風の吹き回しですか。厨房の片付け手伝うなんて」
「初がもう帰ってしまったからな。清ひとりでは大変だろう」
手を休めて一服することにした修三の横に清も座った。
「人気取りのつもりなら無駄ですよ。私はもうお伝えしましたから」
「もう伝えたのか」
別にそんなつもりは修三にはなかったが、そう思われても仕方ないことも、修三は理解していた。
「もう戻ったらどうです? 妹さん、まだ小さいって言ってたじゃないか」
「最近生意気でなあ。……楽させてやろうと思っても、あっという間に大きゅうなって、嫁に行ってしまうんだろうな」
残念そうに茶をすする修三に、清はケラケラと笑い、背中を叩いた。
口に含んでいたお茶を手にこぼしてしまった修三は、清に文句を言う。
「熱いだろう!」
「兄というより、父の心境じゃないか、それ。ほら、せっかくの薮入りなんだし早く帰りなさいよ。待ってるよ」
「いや、最後まで片付けるよ」
この一年はいろいろなことがあった。
その記憶を確かめるように、修三は部屋を回っては掃除を手伝っていた。
「もしかして誰が次の小番頭か、気になるかい?」
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