日向に咲かぬ花

伊音翠

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11.正しき悪人

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 春日屋にとんでもない来客があったのは、数日後の昼下がりだった。

 供をひとり連れただけの初老の男だ。
 地味な着物ではあるが、明らかに武家の装いであり、その生地と仕立ては遠目にも上質なものであった。

「頼もう」

 年の割にはしっかりとした声色が店に響いた。
 
 これはおそらく名のある方だ。
 修三が対応しようとしたが、それより早く伊兵衛が駆け寄った。
 それほどの場を支配する客に、店の空気が一斉に張り詰めたものになった。

「名のある武家の方とお見受けしますが、本日は何をご所望でしょう。私、当店の大番頭、伊兵衛と申します」

 伊兵衛は深々と頭を下げた。粗相ひとつで店の明日に関わってくる。
 伊兵衛も堂々たる振る舞いではあったが、その緊張は修三にも見て取れた。

「いや、春日屋に疲れによい薬酒饅頭があると聞いてな」
 男はそう言うと、店先に腰を下ろした。

 伊兵衛は困惑した表情を浮かべた。
 あの薬酒饅頭はお上に届けたものの、まともに取り合ってもらえたかもわからない。賄賂を通しておけば、形だけでも審議されたかもしれないが、あのどこに消えたかわからぬ饅頭が、なぜ、これほどの侍にまで届いたのだろうか。

「それはまだ、お上に届け出したばかりで。販売はおそらく年明けからになるかと」

 用心深く状況を伝える伊兵衛に、老侍は残念そうに、天井を見上げた。
「なんじゃ。旨かったので寄ってみたのだが」

 修三はそっと近くにいた初に、お茶を用意するように耳打ちした。
 薬酒饅頭に興味があるなら少なくとも、薬湯も役に立つ。
 初は頷いて、そっと奥へと向かった。

「あの、どちらでその饅頭を?」
「町奉行のところでな。めずらしく小判のない饅頭だと笑っておったわ」
「これは大変失礼を」

 これは袖の下をもう一度用意する他あるまいと、立ち上がりかけた伊兵衛を老侍が手で制した。

「ああ、よい。そんな金があるなら、開拓の事業に出してくれ。全く、こちらは何も言ってはおらんのに、受け取ると思えば、金でどうにかしようとする者が多くてな。辟易していたところだ」
「さようでございますか。ご入用なら、まだ売ってはおりませんが、後でお屋敷にお届けいたしましょう」

 事業に口を出せるということは、かなりの大物だ。
 修三は伊兵衛と老侍の対話を、一言も漏らすまいと耳を傾けた。

「よいのか?」
「既に食されていると伺いましたので。審議のためとあらば」
「なるほどな。では田沼の屋敷まで、二十ほど届けてくれるか」

――田沼だと?
 大物にも程がある。おそらく老中の田沼意次、または縁のものだ。

「田沼!?」
 叫びかけた喜助の頭を修三が抑え込む。
「痛えっ! え、修三さん!?」
 いつもなら喜助を叱り飛ばして、奥へと連れていくのが修三だ。だが、このときは、喜助を戒めた後は、立ち上がり前に出た。
 修三が田沼の前まで出ると頭を下げる。
「お願いいたします。認可を年内にしていただけませぬでしょうか!」

 頭を下げる修三のつむじは、田沼に見られていると思うとヒリヒリと焼けるかのようだった。それでも修三は頭を下げ続けた。

 修三は自分でも、驚いていた。
 武士に逆らえば、斬られても文句は言えない。町民とはその程度の存在だ。
 それを天下の老中相手に、こんな無謀なことをしている自分が信じられなかった。

「小判の賄賂ではなく、饅頭の賄賂か?」
 田沼の太く力強い声が、修三の耳を打った。

「違います。饅頭はお届けいたします。あの饅頭に価値があると仰るなら、年内に売り出し、藪入りに持たせたい者がいるのです」
「己が都合でお上に物申すか!」

 田沼の一喝は店の時を止めた。
 水を打ったように静まり返った中、伊兵衛が庇い出る。
「申し訳ございませぬ。若い者は血気盛んで……」

 修三は腹を括り、顔を上げた。今止めてはならない。どこからかそんな声が聞こえた。

「いえ、これは、願いにございます。藪入りで久方に親家族に会う奉公人ばかりです。仕事ぶりの証を持ち帰らせてやりたいのです」

 伊兵衛は驚いた顔で修三を見た。
 なぜ修三がこんな無茶をしているのか、伊兵衛は察したようだった。

 もう一度頭を下げる修三の横で伊兵衛も頭を下げる。
 修三は、今、自分のためではなく店の奉公人の願いのために、自身を賭けたのだ。
 伊兵衛にはその修三の変化が心強く写ったのかもしれない。

「大変、不躾ではございますが、私からもお願いいたします」

 深々と頭を下げる伊兵衛につられるように、店の者が一斉に田沼に向かって頭を下げた。

 田沼はギロリと店の中を見渡していた。
 店の中はただ静かに、田沼の動向を待っていた。

「……わかった。奉行所には伝えておく」
「では」

 田沼の顔が綻んだ。

「明日から売り出すがいい」
「ありがとうございます!」

 修三は深々と頭を下げた。

 ただ、誠実に。
 真っ直ぐに自分の声を覚悟を持って伝えることで物事が動くことが、こんなにも清々しいことなのか。
 修三は初めて、満たされていくのを感じた。
 伊兵衛が添ってくれたとはいえ、店の者たちに自分の心が通じた。ごく一部としても。
 それが自分の息苦しさに少しばかり風を通したのだ。

「なに。儂も藪入りに持たせたくて寄ったのでな。礼には及ばん」

 初が薬湯を持って戻ってきた。
「疲れが取れる薬湯にございます。もし宜しければ」
 店の様子に少し戸惑いながら、初は薬湯を田沼に差し出す。
「いただこう」
 田沼はその薬湯をグイッと飲み干した。

「では饅頭、五十、頼んだぞ」
「増えておりますが」
 伊兵衛は苦笑いした。
「そのくらいは聞いてくれ」
 ニヤリと笑うと、田沼は訪れた時と同じように、供を連れて颯爽と出ていった。
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