日向に咲かぬ花

伊音翠

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7.良き者とは何者か

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 腰を痛めた修三は、暫くは奥で帳簿仕事だけをすることになった。
 無理をすればいいと修三は抵抗したが、平次郎が止めた。もともと奉公人に無理をさせるような主ではなかった。

 修三が腰を丸めて帳簿を計算していると、中庭に雀が時折遊んで、チチチという声が聞こえていた。

 のどかな時間は嫌いではなかった。だが手代としての働きを見て欲しい今でなくてもよかっただろうとも思っていた。

 浮かない顔で喜助が戻ってきた。
 修三は暫しの穏やかさがすぐに消えるものだと悟った。
「店にいなくていいのか」
「遣いを頼まれました」
「どこに」
「……吉原です」
「山帰来か」

 山帰来は吉原にはかかせない大陸の薬だった。ほとんどが借金のかたとして売られた人の扱いを受けない遊女たちが集まる吉原にも、大店ともなると良心的な店もあり、商品は大事にすべしと病にかかった遊女たちに山帰来を用意していた。そういう店に買われた遊女は不幸の中でも恵まれた部類に入る。

「ついてきてもらえませんか」
「遣いもひとりでいけないのか」

 吉原に行くのにひとりでは心許ないのか、喜助は修三に頭を下げた。

「お願いします」
「あいにく、誰かのせいで、腰の調子が悪い」

 すぐに応じる気はなかった。喜助に付き合ってやる義理もない。
 喜助は思いもよらないことを口にした。

「籠代は出します」
 ただの遣いの付添にわざわざ籠を出すとは。修三は呆れると同時に、いつもと違う喜助の暗さが引っかかった。

「吉原にひとりで行けぬ訳でもあるのか」
 喜助がうつむいて無言になる。
 何も答える気はないようだった。

「……大番頭か旦那様から何か聞いていないか?」
「伊兵衛さんが辞める話ですか」
「知っているなら手を貸す気はない。お前が小番頭だと? なれるものならなってみろ」

 どうして今の時期、喜助を助けねばならないのか。ただでさえ、水を空けられるかもしれないというのに。そんな考えが一瞬修三によぎったが、よく考えてみれば、喜助は仕事では水をあけようがない。
 修三の考えを知ってか知らずか、柄にもなく喜助が食い下がった。

「そんなつもりで頼んでるんじゃない! ただ、吉原だけは失敗するわけにいかないんです」

 呆れた言い分である。

「どこでだって失敗するわけにはいかないだろう! 俺たちが扱っているのは薬だぞ! 間違いひとつで人の命や人生が変わっちまう。本当ならお前のような人間、この春日屋にいてはならんのだ!」

 修三はほとほと情けなくなった。何が悲しくてこの男と小番頭の座を争わねばならんのか。

 呆然とした表情の喜助に、修三言い過ぎたと口を閉ざした。そして短く言い訳をする。
「……間違ったことは言っていない」

 喜助は座り直し、修三を見上げた。
「……俺は、自分が番頭になるより、伊兵衛さんにいてほしいです」

 まただ。自分の出世が関わるところでも涼しい顔をして望んでいないふりをする。本当にそれは喜助の本心なのだろうか。修三の心に疑いが首をもたげた。

「お前のそういうところがな。俺はうんざりなんだよ。計算は間違える。掃除も遣いも満足にできない。愛想振りまいて、それこそ女郎みたいに媚売ってるだけじゃないか!」

 突如、喜助が豹変した。先程までの腰の低さはどこかへ消え去り、獣のような目つきで、修三に殴りかかる。
 初めてみる喜助の表情に、修三はいっそ愉快だった。
 喜助にも醜さがあるのだと、ようやくしっぽを掴んだ気になっていた。

「ほらみろ。お前はいいやつなんかじゃない。いいやつぶってるだけなんだよ。人にいい顔して、実力以上の評価をされて、うまいこと世渡りしてるだけだ」

 修三はさらに煽った。殴られる痛みより、喜助の本性に気づいたことが大きく心を揺らした。
 喜助は我を忘れて修三に飛びかかった。よろけた修三の上に泣き叫びながら馬乗りになり、拳を振り上げている。

「取り消せ。女郎のように媚を売るだと? 取り消せ! 取り消せええええ!」

 喜助の変貌に修三は圧倒された。

 口の中に鉄の味がしていた。それでも修三は薄ら笑いを浮かべている。

 騒ぎを聞きつけて、清が部屋に入ってきた。
「何やってんですか! ちょっと! 誰かきとくれ」
 清はすぐに人を呼び、喜助を修三から引き離した。

 喜助は騒いだまま、丁稚たちに連れ出されていた。
 清はそれを見送ると、持っていた手ぬぐいで修三の頬をぬぐった。
「いい」
 修三は体を起こし、口を拭う。手にべっとりと血がついていた。
「一体、何を言ったんですか」
「別に」
「喜助さんが何もなくて、あんな風に殴るわけないでしょう」
「……結局、俺が悪いんだな」

 喜助がいなくなると、修三の中で急に熱が冷めていた。
 喜助がどんなことをしようとも、自分の評価が印象が変わるわけではなかった。

「誰もそんなこと、言ってやしないでしょう」
 卑屈な修三は口が立つ清にも持て余し気味だった。
 修三にはすべてが責められているように聞こえた。

「俺が殴っていたら、俺が悪い。俺が殴られていたら俺が悪い。じゃあ、俺が悪くないのはどんなときだ?」

 修三はぽつりと呟いた。
 本心だった。何をしたかで裁かれるのは致し方ない。だが実際に判断されるのは人柄だ。自分は恵まれていないのだとこういうときに思い知らされる。

「いい加減にしてくださいよ。喜助さんの何が気に入らないんですか。そりゃあ仕事はできませんけど」
「清にはわからん」
「ああそうですか! いつまでもそうやってすねていればいいですよ!」

 ついに清は怒って出ていいた。
 修三はひどく疲れていた。それでものろのろと体を動かすと、何事もなかったかのように、再び帳簿に目を落とした。
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