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6.愚か者は何者か
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表向き、しばらくは店はいつも通りの日々が過ぎていた。
伊兵衛も特に変わった様子は見せず、相変わらず、奥の番台で帳簿を見ては眼鏡を動かしていた。
修三は奥から持ってきた湯呑を伊兵衛の傍らに出した。
「菊花茶です」
伊兵衛は少し驚いた顔をした。
修三は顔をそむけた。
「目が辛いかと。菊花茶は目疲れに良い薬湯ですから」
「……ありがたい」
「……媚びているのではありません」
「わかっておる」
この時期にこんな柄にもないことで誤解を受けるのは本意ではなかった。
だが、知ってしまえば、放っておく気にもなれない。伊兵衛はずっと修三を商売人として育ててくれた恩人なのだ。
それでいて自分の本意が届かないかもしれないことが、どうにも修三にはもどかしかった。
喜助のことも憎んでいるわけではない。ただ、自分にはどうしてもあのような生き方が受け入れられないし、それが商売人としての評価に繋がることに納得がいかないのだ。それは自分のこれまでの努力が間違っていないと信じたいとどこかで思っているのかもしれない。
伊兵衛は菊花茶を一口飲むと、読み終わった帳簿を修三に渡した。
「足腰も最近は辛くなってなあ。ほら、その上の棚に片付けてくれんか」
「はい」
とぼけた口調でいつも通りに用事を言いつける伊兵衛に、修三は少し気が楽になった。伊兵衛も平次郎も、自分がどう振る舞おうと、きっと正当に判断をしてくれるだろう。修三にはそんな安心感があった。
小さな梯子仕様の踏み台に登った修三は手探りで高い棚へ手を伸ばす。
隙間を見つけると、そこに帳面を片付けようと修三はつま先を伸ばした。
「ちょっと待ってな!」
静かな店内に喜助の声と足音が響き渡った。
誰かを連れて帰ったのか、暖簾の向こうに人影があった。
喜助は周りに目もくれず、薬棚へと走る。
そして喜助が修三の脇を走り抜け、力加減を崩した修三は床へと転げ落ちる。
「修三!」
伊兵衛が番台から身を乗り出した。
のろのろと体を起こした修三は伊兵衛には目もくれず、喜助を怒鳴りつけた。
「喜助! 店を走ってなんのつもりだ!」
「すまねえ。修三さん、ちょっと待っててくれ」
喜助は修三が体を起こしたのを見ると、修三ではなく薬棚を乱雑に開けた。
「あった。おい、あったから、これ持ってってくれ」
湿布薬を握り、暖簾の向こう側に目もくれず走っていく喜助に、修三は何か言わずにはいられなかった。体を起こせば、ひどく腰が痛かった。この大事な時期に、どうして自分をこんな目に合わせるのだろう。あれほど、日頃から注意しろと言っていたではないか。
「お前は一体、いつになったらまともな手代になるんだ!」
痛みから、つい、口から怒り任せの言葉が出てきてしまっていた。
店には他に客がいないのは幸いだった。清と初は修三の様子に顔を見合わせる。
「修三さん、落ち着きなよ。痛むかい?」
「構うな。なんとでもなる」
修三は清の手を払う。女の清には修三を支えるのは難しいだろう。そう思ってのことだったが、清は不愉快そうな顔になる。
「私の手が嫌なら、そこでずっと寝ておくがいいさね」
「別にそういうつもりで言ったのではない。
なぜだ。
どうしてこう、誰かを思いやっても違う形で相手には届くのか。
そしてどこかで喜助の真似事をしようとしている自分に、修三は寒気を覚えた。あれほど喜助に腹を立てながら、それでも喜助のように好かれようとしている。それが後ろ暗かった。
暖簾の向こうから喜助の声が聞こえた。
「これ持って早く行きな」
暖簾の向こうの足が駆けていった。
暖簾をくぐり喜助が店に戻ると、慌てて雪駄を脱いで修三のそばに駆け寄った。
「大丈夫かい。今湿布を貼ってやるから」
いい加減にしろ!」
大声に喜助はびくりと肩を震わせた。
少しおどおどとした目はそれでも真っ直ぐ修三を見ている。
「修三さんも、ちょっと落ち着きなよ」
「落ち着いているよ。今日こそ喜助には仕事というものをわかってもらう」
喜助に怒りを向ける修三に、清は呆れているようだった。
「さっきの大工の末吉。棟梁が屋根から落ちたって急いでたんだよ。アンタは私の手をいらないってくらいには元気だったじゃないのさ」
修三は喜助を見た。何一つ言い訳をしないで、修三の怒りを受けていた喜助は、申し訳なさそうに笑っていた。
「……初めからそう言えばいいだろう」
言われていれば、自分もこんなに腹を立てることもなかったろうに。
「言う暇がなかった。それに言わずともいいだろ。ほら、ここが嫌なら奥に運ぶから」
喜助が肩を貸そうと修三の腕を取った。
「いらん」
修三は喜助から顔を逸らした。
いっそこっちが怒鳴られればいい。そう思った。
喜助にとっては別に特別ではない。特別でないからこそ、いちいちいいことをしても口にしない。
自分にはできない。
修三はずっと感じていた喜助への感情が敗北感なのだとようやく悟った。どうあがいても、喜助のように人からは好かれない。人を大切にしようと振る舞っても、結局は何も見えていない。算術ができようが、薬草を覚えようが、そんなものは何一つ役には立たないのだ。
「お前のそういう所が、嫌いだ」
修三は立ち上がり、少しよろけて歩いた。
「ちょっと修三さん」
心配そうに初が声をかけたが、清は「ほっときな」と止めた。
喜助も拒絶を感じ、いつものように知らぬふりで追いかけることもできない。
痛みは腰だけではないことを修三は知っていた。
「喜助。話がある。ちょっと奥へ来なさい」
伊兵衛が喜助にかける声を、修三は背中で聞いた。
だが、振り向く気にもなれなかった。
伊兵衛も特に変わった様子は見せず、相変わらず、奥の番台で帳簿を見ては眼鏡を動かしていた。
修三は奥から持ってきた湯呑を伊兵衛の傍らに出した。
「菊花茶です」
伊兵衛は少し驚いた顔をした。
修三は顔をそむけた。
「目が辛いかと。菊花茶は目疲れに良い薬湯ですから」
「……ありがたい」
「……媚びているのではありません」
「わかっておる」
この時期にこんな柄にもないことで誤解を受けるのは本意ではなかった。
だが、知ってしまえば、放っておく気にもなれない。伊兵衛はずっと修三を商売人として育ててくれた恩人なのだ。
それでいて自分の本意が届かないかもしれないことが、どうにも修三にはもどかしかった。
喜助のことも憎んでいるわけではない。ただ、自分にはどうしてもあのような生き方が受け入れられないし、それが商売人としての評価に繋がることに納得がいかないのだ。それは自分のこれまでの努力が間違っていないと信じたいとどこかで思っているのかもしれない。
伊兵衛は菊花茶を一口飲むと、読み終わった帳簿を修三に渡した。
「足腰も最近は辛くなってなあ。ほら、その上の棚に片付けてくれんか」
「はい」
とぼけた口調でいつも通りに用事を言いつける伊兵衛に、修三は少し気が楽になった。伊兵衛も平次郎も、自分がどう振る舞おうと、きっと正当に判断をしてくれるだろう。修三にはそんな安心感があった。
小さな梯子仕様の踏み台に登った修三は手探りで高い棚へ手を伸ばす。
隙間を見つけると、そこに帳面を片付けようと修三はつま先を伸ばした。
「ちょっと待ってな!」
静かな店内に喜助の声と足音が響き渡った。
誰かを連れて帰ったのか、暖簾の向こうに人影があった。
喜助は周りに目もくれず、薬棚へと走る。
そして喜助が修三の脇を走り抜け、力加減を崩した修三は床へと転げ落ちる。
「修三!」
伊兵衛が番台から身を乗り出した。
のろのろと体を起こした修三は伊兵衛には目もくれず、喜助を怒鳴りつけた。
「喜助! 店を走ってなんのつもりだ!」
「すまねえ。修三さん、ちょっと待っててくれ」
喜助は修三が体を起こしたのを見ると、修三ではなく薬棚を乱雑に開けた。
「あった。おい、あったから、これ持ってってくれ」
湿布薬を握り、暖簾の向こう側に目もくれず走っていく喜助に、修三は何か言わずにはいられなかった。体を起こせば、ひどく腰が痛かった。この大事な時期に、どうして自分をこんな目に合わせるのだろう。あれほど、日頃から注意しろと言っていたではないか。
「お前は一体、いつになったらまともな手代になるんだ!」
痛みから、つい、口から怒り任せの言葉が出てきてしまっていた。
店には他に客がいないのは幸いだった。清と初は修三の様子に顔を見合わせる。
「修三さん、落ち着きなよ。痛むかい?」
「構うな。なんとでもなる」
修三は清の手を払う。女の清には修三を支えるのは難しいだろう。そう思ってのことだったが、清は不愉快そうな顔になる。
「私の手が嫌なら、そこでずっと寝ておくがいいさね」
「別にそういうつもりで言ったのではない。
なぜだ。
どうしてこう、誰かを思いやっても違う形で相手には届くのか。
そしてどこかで喜助の真似事をしようとしている自分に、修三は寒気を覚えた。あれほど喜助に腹を立てながら、それでも喜助のように好かれようとしている。それが後ろ暗かった。
暖簾の向こうから喜助の声が聞こえた。
「これ持って早く行きな」
暖簾の向こうの足が駆けていった。
暖簾をくぐり喜助が店に戻ると、慌てて雪駄を脱いで修三のそばに駆け寄った。
「大丈夫かい。今湿布を貼ってやるから」
いい加減にしろ!」
大声に喜助はびくりと肩を震わせた。
少しおどおどとした目はそれでも真っ直ぐ修三を見ている。
「修三さんも、ちょっと落ち着きなよ」
「落ち着いているよ。今日こそ喜助には仕事というものをわかってもらう」
喜助に怒りを向ける修三に、清は呆れているようだった。
「さっきの大工の末吉。棟梁が屋根から落ちたって急いでたんだよ。アンタは私の手をいらないってくらいには元気だったじゃないのさ」
修三は喜助を見た。何一つ言い訳をしないで、修三の怒りを受けていた喜助は、申し訳なさそうに笑っていた。
「……初めからそう言えばいいだろう」
言われていれば、自分もこんなに腹を立てることもなかったろうに。
「言う暇がなかった。それに言わずともいいだろ。ほら、ここが嫌なら奥に運ぶから」
喜助が肩を貸そうと修三の腕を取った。
「いらん」
修三は喜助から顔を逸らした。
いっそこっちが怒鳴られればいい。そう思った。
喜助にとっては別に特別ではない。特別でないからこそ、いちいちいいことをしても口にしない。
自分にはできない。
修三はずっと感じていた喜助への感情が敗北感なのだとようやく悟った。どうあがいても、喜助のように人からは好かれない。人を大切にしようと振る舞っても、結局は何も見えていない。算術ができようが、薬草を覚えようが、そんなものは何一つ役には立たないのだ。
「お前のそういう所が、嫌いだ」
修三は立ち上がり、少しよろけて歩いた。
「ちょっと修三さん」
心配そうに初が声をかけたが、清は「ほっときな」と止めた。
喜助も拒絶を感じ、いつものように知らぬふりで追いかけることもできない。
痛みは腰だけではないことを修三は知っていた。
「喜助。話がある。ちょっと奥へ来なさい」
伊兵衛が喜助にかける声を、修三は背中で聞いた。
だが、振り向く気にもなれなかった。
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