日向に咲かぬ花

伊音翠

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4.良き者になれぬ賢き者

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 小さな灯りを頼りに、自分の経卓に座った修三が帳簿を確認していた。
 売上を確認し、商売の流れを把握する作業は、修三にとって勉強だった。

 何が売れ、何が必要か。
 薬草の仕入れの流れや天候の記録まで、修三は調べられる限り調べていた。いつか自分が番頭になれば、それがこの店を大きくすることに役立つはずだった。

 欄間から衣紋掛けで羽織が干されている。
 傍らに敷かれた二組の布団。ひとつはきっちりと、もうひとつは人が抜けたままの形になっている。喜助だ。
 厠に行くと言っていたが、戻ってくる気配がない。どこかに抜け出したようだった。

 修三が乱雑な布団を一瞥すると、帳面を閉じ、灯りを持って廊下に出る。

 修三が灯りを持って廊下をしばらく歩くと、月明かりの下、中庭の庭石に腰掛けてでそろばんを弾いている喜助がいた。
 
 そろばんの前にそっと灯りをかざすと、喜助は顔を上げた。

「お前の厠はそろばんを使うのか」
「あ、いや、月が明るいですからね」

 言い訳にもならない言い訳を喜助は口にした。

「部屋でやればよかろう」
「修三さんが勉強してるじゃないですか」
「俺が追い出したみたいで気に食わんのだ。いい人でいるのは楽しいか」
「いい人?」

 喜助は首をかしげた。喜助には全くいい人でいる気はないのだろう。粗忽であり、お人好しでもある。仕事ができずとも店の者たちに好かれるのはその点だった。
 わかってはいるが、仕事に真摯で融通のきかない修三にはそのお鉢が回ってきて、嫌われ役へと配役される。不条理である。

「誰にでもいい顔をして、仕事も対してできないくせに、誰も彼もがお前を許す。だからいつまでも何も上達せんのだ」

 喜助はそろばんをこっそり隠そうとする。

「今更隠してももう見えた。そういうのがあざとくさもしいと言っている」
「……どうやったって修三さんは嫌がるじゃないですか」
「俺が? いつ?」

 不服そうな顔の喜助に修三は戸惑った。

「いつもですよ。そりゃあ俺は何も修三さんにはかないませんが」
「だからと言って隠れてそろばんの練習なんぞ。だいたいそんなことは丁稚の頃に完全にしておくべきことだぞ」
「ほら、そう言うじゃないですか」

 喜助はそう言って口を尖らせた。
 修三はうんざりとして、座っていた喜助の横に灯りを置く。

「これを持って戻れ」
「修三さんは」
「俺は厠だ」

 ぶっきらぼうに言うと修三は厠に向かう。
 これ以上話しても気まずくなるだけだ。

 喜助はなにか言いたげだったが、それ以上何も話しはせずに灯りを持って部屋へと戻っていった。

 厠のツンとした匂いに顔をしかめながら、修三はぶるりと肩をふるわせる。

 修三は去り際の喜助の顔を思い出す。
 どうにも納得がいかない。なぜ喜助の方が不満そうな顔なのだ。喜助はどれほど自分の失敗の梅わせを周りにさせているのか、少しは感謝しているのだろうか。

 それでも、良き者として扱われるのは喜助だった。
 決して小言を言い、融通しない修三ではないのだ。

 厠を出てきた修三が手水で手を洗う。
 冷えた水が刺さるようだった。

 厄介だと思った。
 修三には可愛がられる喜助が羨ましくもある。だが自分には永遠に真似ができそうにない。

 喜助になりたいわけではない。なりたいと思うには、喜助は賢くはなかった。喜助にあるのは、努力でも仕事の能力でも知識でもなく、ただ、愛嬌だけ。そんな存在になりたいわけではなかった、
 失敗したあとにヘラヘラと笑える神経が既に理解ができない。

 では自分は一体どうなりたいのか、修三はわからなかった。

 そんなことを考えながら、修三は空を見上げた。月が確かに明るかった。月にすら、うっすらと薄鼠色の影があるのだ。

「おや?」

 母屋の二階に灯りがついていた。

「旦那さまがこんな時間まで起きているとは珍しいな」

 この店の主である平次郎は三十過ぎた男盛りだが、商売一筋の真面目な人間で、夜は早いうちに休み、朝は誰よりも早く起きるという真面目で健康的な生活を送っている。
 それでいて、豪気なこともあり、店の者たちからは慕われている。
 この店で修三が尊敬できる数少ない人間だった。

 部屋に戻りかけたが、修三は妙にその灯りが気になった。
 足を止め、もう一度二回の窓を見上げる。
 少し思案したが、修三は踵を返すと、母屋へと向かっていった。
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