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3.知る者と知らぬ者
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喜助は茶のシミがついた羽織を修三から取り上げて、無造作に井戸の縁にかけた。
その手で今度は釣瓶を引き上げ、修三の腕を掴んで中の水に突っ込んだ。
赤くなった肌にひやりと冷たい井戸の底の寒さが触れる。
「おい! 羽織をどうにかしてくれ」
「着物より火傷ですよ」
「もう平気だ。それより羽織! シミが残ったらどうしてくれる」
「俺が洗いますから」
喜助に洗わせたら、むしろ汚れるのではなかろうか。
「もういい。俺がやる」
修三は腕を釣瓶から引き抜くと、羽織を取って広げてみる。
「ああ、もう。シミより土塊の方がひどくなってしまっただろう!」
広げた羽織を、修三はバタバタとはたく。
土塊を落とすつもりだったのだろうが、濡れた喜助の手では泥になり、よけいに切ない姿になった。
これはあとで悉皆屋に持っていくしかないかもしれない。無駄な出費が増えることに腹は立つが喜助に払わせる気にもなれなかった。
そんな修三の心を知ってか知らずか、喜助は今度は自分の着物で手を拭いてから泥を取ろうとしている。
「もういい」
「そんなこと言っても、これ一張羅じゃないですか。どこへ行ってたんですか」
「奉行所だ。清が作った酒饅頭の申請にな」
「奉行所! さすが頼まれる仕事が違いますね」
無邪気に喜ぶ喜助の欲のなさに修三は呆れた。欲がないというのは、向上心が欠けているのだ。もっと学びたい、もっと働けるようになりたい。そういった気持こそが向上心なのだから。
「お前は五年も手代勤めて、未だにこの仕事ぶりでいいと思ってるのか」
「そりゃ俺みたいな出来損ないに、修三さんと同じようにしろってのは無理がありますよ」
諦めるのが早い。これも喜助の悪いところだ。それでいて店では存在感を放つ。それが無性に修三の癇に障る。
「出世したいとか、店のために努力しようとか、そういったことは思わんのか」
「店のためには働いているつもりですがね。人間、足るを知るも大事でさあ」
「……努力せん奴の言い訳だな」
冷ややかに修三がそう喜助に言い放った頃、清が奥から水桶を抱えて出てきた。
「お二人さん、さっさと、どいてくれないかね」
厨房を預かる清は店の者たちの食事を一手に担っている。今もまた、昼飯の支度をしているのだろう。
「喧嘩はよそでやってくんな」
清は喜助を押しのけるようにして井戸の水を汲み始めた。
バシャリと水が散る音と同時に、修三と喜助は避けるように離れた。
「お、すまねえ」
「ほんとアンタがたは飽きないねえ」
別に好きで喜助と揉めているわけではない。修三は不本意だった。
「清、酒饅頭の届け出をしてきた。年明けには……」
「はあ、年明け……」
含みがある様子だった。
清は作った人間だからこそ商品となる道筋を知らせたというのに、清から出たのは修三への労いではなく、深いため息だった。
「何か問題あるか」
「いいえ? 仕方ないことですからね」
清のごまかしているような口ぶりは、歯の隙間に何かが挟まったように修三を不快にした。
「言いたいことがあったら、はっきり言え」
「修三さん、役人に賄賂なしで通したんですってね」
清は何を言い出すのだろうか。賄賂なんて出さないほうがいいに決まっている。
「何も問題なかろう」
「おおありですよ! 藪入り前に売り出したかったのに、年明けからですか!」
「致し方ないだろう。それならもっと早くから取りかかればよかったことではないか」
「わかってますよ!」
納得がいかなかった。なぜ手をかけているのにこんなに当たられなければならないのか。言いたいことがあれば言えばいいのに、口を閉ざしては不機嫌な風だけをぶつけてくる。それが修三には腹立たしくて仕方がない。言わないくせに気を回せとは無茶なことだとわかっているのだろうか。
修三が何か言おうと口を開きかけると、喜助が間に入った。
「清ちゃん。親父さんの具合、悪いのか?」
全く饅頭とは別の話、修三は面食い、口から零れそうな言葉を飲み込んだ。
「……旦那様が薬は持たせてくれるって言ってるんだけど」
「春日屋の商品を作れるようになったって知ったら喜ぶだろうね」
「まだ売れないけどね」
――ああ、そういう事情か。
清は藪入りに自分の仕事ぶりを伝えて父親を安心させたいのだろう。
「清、事情があるなら」
「私の我儘ですから」
修三が申し出を全部言う前に、清は遮った。自分の都合だとはわかっていたのだ。わかっているから言えずに、それでも願うから口にする。
修三はやはり腹が立った。今度は清にではなく、自分にだが。
「清ちゃんみたいに、滋養がつくものを薮入りに持ち帰りたい人ってのはいるかもしれねえな。修三さん、なんとかならないか」
喜助は無邪気に修三に聞いた。
なにかできるなら、それは届け出前だ。だから先に言いたいことは言っておくべきなのだ。
「いいよ、喜助さん。この人に言うだけ無駄。あ、そうだ。早く店に戻らなくていいのかい? 大番頭さんがアンタの客の相手してるってよ」
「うわっ! いけねえ。修三さん、じゃあ店に戻るわ」
喜助は慌てて店に戻っていった。途中、縁側から上がろうとして躓く。
その様子をみて、清が少し笑った。
「相変わらずそそっかしいね」
「少しは歳相応に落ち着けばよいものを」
清は修三を振り返った。
「修三さん。アンタも変わんない人だねえ」
その清の目に哀れみの色が見えた。
「……何が言いたい」
「別に。さて、私は仕事に戻りますよ」
「おい」
清が去ると、修三はひとり、井戸の脇に残された。
腹立たしい。
家の事情を知っていたら、自分だって少しは目をつむったかもしれない。
寄り添うのはいつも知っているものだけだ。そして自分はそういう相手としては選ばれない。清に限ったことではない。この世のすべての人間がそうなのだ。
修三はイラつきながら、羽織のシミを洗う。
「くそ。なんで落ちないんだ」
不満をぶつけるように、修三は激しく羽織の汚れをこする。よけいに傷む。そう思っても止めることはなかった。
その手で今度は釣瓶を引き上げ、修三の腕を掴んで中の水に突っ込んだ。
赤くなった肌にひやりと冷たい井戸の底の寒さが触れる。
「おい! 羽織をどうにかしてくれ」
「着物より火傷ですよ」
「もう平気だ。それより羽織! シミが残ったらどうしてくれる」
「俺が洗いますから」
喜助に洗わせたら、むしろ汚れるのではなかろうか。
「もういい。俺がやる」
修三は腕を釣瓶から引き抜くと、羽織を取って広げてみる。
「ああ、もう。シミより土塊の方がひどくなってしまっただろう!」
広げた羽織を、修三はバタバタとはたく。
土塊を落とすつもりだったのだろうが、濡れた喜助の手では泥になり、よけいに切ない姿になった。
これはあとで悉皆屋に持っていくしかないかもしれない。無駄な出費が増えることに腹は立つが喜助に払わせる気にもなれなかった。
そんな修三の心を知ってか知らずか、喜助は今度は自分の着物で手を拭いてから泥を取ろうとしている。
「もういい」
「そんなこと言っても、これ一張羅じゃないですか。どこへ行ってたんですか」
「奉行所だ。清が作った酒饅頭の申請にな」
「奉行所! さすが頼まれる仕事が違いますね」
無邪気に喜ぶ喜助の欲のなさに修三は呆れた。欲がないというのは、向上心が欠けているのだ。もっと学びたい、もっと働けるようになりたい。そういった気持こそが向上心なのだから。
「お前は五年も手代勤めて、未だにこの仕事ぶりでいいと思ってるのか」
「そりゃ俺みたいな出来損ないに、修三さんと同じようにしろってのは無理がありますよ」
諦めるのが早い。これも喜助の悪いところだ。それでいて店では存在感を放つ。それが無性に修三の癇に障る。
「出世したいとか、店のために努力しようとか、そういったことは思わんのか」
「店のためには働いているつもりですがね。人間、足るを知るも大事でさあ」
「……努力せん奴の言い訳だな」
冷ややかに修三がそう喜助に言い放った頃、清が奥から水桶を抱えて出てきた。
「お二人さん、さっさと、どいてくれないかね」
厨房を預かる清は店の者たちの食事を一手に担っている。今もまた、昼飯の支度をしているのだろう。
「喧嘩はよそでやってくんな」
清は喜助を押しのけるようにして井戸の水を汲み始めた。
バシャリと水が散る音と同時に、修三と喜助は避けるように離れた。
「お、すまねえ」
「ほんとアンタがたは飽きないねえ」
別に好きで喜助と揉めているわけではない。修三は不本意だった。
「清、酒饅頭の届け出をしてきた。年明けには……」
「はあ、年明け……」
含みがある様子だった。
清は作った人間だからこそ商品となる道筋を知らせたというのに、清から出たのは修三への労いではなく、深いため息だった。
「何か問題あるか」
「いいえ? 仕方ないことですからね」
清のごまかしているような口ぶりは、歯の隙間に何かが挟まったように修三を不快にした。
「言いたいことがあったら、はっきり言え」
「修三さん、役人に賄賂なしで通したんですってね」
清は何を言い出すのだろうか。賄賂なんて出さないほうがいいに決まっている。
「何も問題なかろう」
「おおありですよ! 藪入り前に売り出したかったのに、年明けからですか!」
「致し方ないだろう。それならもっと早くから取りかかればよかったことではないか」
「わかってますよ!」
納得がいかなかった。なぜ手をかけているのにこんなに当たられなければならないのか。言いたいことがあれば言えばいいのに、口を閉ざしては不機嫌な風だけをぶつけてくる。それが修三には腹立たしくて仕方がない。言わないくせに気を回せとは無茶なことだとわかっているのだろうか。
修三が何か言おうと口を開きかけると、喜助が間に入った。
「清ちゃん。親父さんの具合、悪いのか?」
全く饅頭とは別の話、修三は面食い、口から零れそうな言葉を飲み込んだ。
「……旦那様が薬は持たせてくれるって言ってるんだけど」
「春日屋の商品を作れるようになったって知ったら喜ぶだろうね」
「まだ売れないけどね」
――ああ、そういう事情か。
清は藪入りに自分の仕事ぶりを伝えて父親を安心させたいのだろう。
「清、事情があるなら」
「私の我儘ですから」
修三が申し出を全部言う前に、清は遮った。自分の都合だとはわかっていたのだ。わかっているから言えずに、それでも願うから口にする。
修三はやはり腹が立った。今度は清にではなく、自分にだが。
「清ちゃんみたいに、滋養がつくものを薮入りに持ち帰りたい人ってのはいるかもしれねえな。修三さん、なんとかならないか」
喜助は無邪気に修三に聞いた。
なにかできるなら、それは届け出前だ。だから先に言いたいことは言っておくべきなのだ。
「いいよ、喜助さん。この人に言うだけ無駄。あ、そうだ。早く店に戻らなくていいのかい? 大番頭さんがアンタの客の相手してるってよ」
「うわっ! いけねえ。修三さん、じゃあ店に戻るわ」
喜助は慌てて店に戻っていった。途中、縁側から上がろうとして躓く。
その様子をみて、清が少し笑った。
「相変わらずそそっかしいね」
「少しは歳相応に落ち着けばよいものを」
清は修三を振り返った。
「修三さん。アンタも変わんない人だねえ」
その清の目に哀れみの色が見えた。
「……何が言いたい」
「別に。さて、私は仕事に戻りますよ」
「おい」
清が去ると、修三はひとり、井戸の脇に残された。
腹立たしい。
家の事情を知っていたら、自分だって少しは目をつむったかもしれない。
寄り添うのはいつも知っているものだけだ。そして自分はそういう相手としては選ばれない。清に限ったことではない。この世のすべての人間がそうなのだ。
修三はイラつきながら、羽織のシミを洗う。
「くそ。なんで落ちないんだ」
不満をぶつけるように、修三は激しく羽織の汚れをこする。よけいに傷む。そう思っても止めることはなかった。
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