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2.清き水には不魚住
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修三が奉行所から戻ると、にぎやかないつもの店内の奥で伊兵衛が手招きした。
伊兵衛は眼鏡を外すと番台に置く。
「戻ったか」
「はい。届け出はして参りました。ですが……」
「認可は難しいか」
修三は懐から紙に包んだ小判を出した。
伊兵衛は目を丸くする。
「お前、抜いたのか」
「私は反対です。新しいものを取り扱う届け出に賄賂など」
修三はまっすぐに伊兵衛を見た。
伊兵衛は目を伏せて、傍らの煙管に火をつけた。
一口、吸うと、大きな煙を吐いた。
「修三。それが今の世だ。田沼さまのおかげで商売は随分風通しがよくなった。しかしそれは同じ商売をする者も同じだ。贔屓筋として使っていただくには役人とはよい関係であらねばならぬ」
「大番頭。店では煙草を控えていただけますか。薬の匂いにまぎれて質の良いものがわからなくなります」
「……ああ、すまんな」
修三が咎めると伊兵衛は素直に煙草を消した。
伊兵衛はただ一口、ため息を誤魔化すように一服したかっただけなのだろう。それがわかっているからこそ、修三はつい咎めてしまう。言いたいことがあれば濁さずに言えばよかろうに。修三はそれが苛立たしかった。
伊兵衛が話すのは世の中の道理だろう。だがその道理が正しいとも修三には思えなかった。誰かが変わろうとせねば何も変わらない。現に皆、賄賂が当たり前のように行き交うようになってからは裏では愚痴ばかり言っているではないか。
そして何も変わらないのに愚痴ばかり言いながら、いざ一石を投じる者には、愚かだと蔑むか痛手を負うのを遠巻きに見ているだけだ。
伊兵衛はそんな修三の想いを知ってか知らずか、言葉を選んでいるようだった。
「……お前は少し融通ということを覚えたほうが良いと思うよ」
「融通とは?」
修三も頑なだった。
店の者たちが仕事をしながらも自分たちの様子を伺っているのを、修三は感じていた。
こういった伊兵衛とのぶつかり合いは初めてではない。そのたびにひりつくような気配が漂い、店の者たちが言葉少なになっていくのだ。
店には客がいる。大番頭とのこんなやりとりは客に聞かせるものではない。だからこそ静かに奥で話しているというのに、接客がおろそかになれば客の意識もこちらに向きかねない。修三はそんなことにもわからない店の者たちにも苛立っていた。
「おっと!」
「熱っ!」
静寂を破ったのは喜助だった。喜助は客に運ぶはずだった茶を運んでいる最中に、床の薬包紙に滑ってしまい、茶をひっくり返ったのだ。更に運悪くその熱い茶が修三にかかってしまう。
……あり得ない。
修三は頭が痛かった。一体この店はどうしてこんな男をいつまでも奉公させておくのだ。しかも手代にまでして。この働きや気構えなら、まだ丁稚の方が気が回るというものだ。
「修三さん! 大丈夫かい」
「大丈夫なわけあるか! 店に水物を持ち込むときは、気をつけろといつも言っているだろう!」
「そんなことより、早く井戸で冷やさねば」
駆け寄った喜助の手を払うと、修三は冷ややかな目を向けた。
「薬包紙を床に置きっぱなしにしていたのは誰だ!」
修三の剣幕に店は静まり返った。
その静寂の中、小さくなった喜助が、おずおずと手を挙げる。
「……またお前か! 少しは手代としての自覚を持て」
「面目ねえ」
喜助が頭を下げると、修三は店中の視線が自分に集まっていることに気がつく。
――これだ。これだから嫌なのだ。
修三は自分が頑固で融通が利かない人間だと知っていた。そういう人間は好かれない。だが仕事は好かれる好かれないは別物だ。多少やりにくかろうが、正しい生き方をしていれば、やがて受け入れられると思っていた。正しさとはそういうものではないのか。
だが実際は、こうしてどんなに正しいことを言っても、自分に向けられるのは正しさへの理解ではなく悪人を見るかのような、ぬめっとした視線だった。
重苦しい空気の中、伊兵衛が面倒くさそうに手で二人を払った。
「もうここはいいから。喜助。修三を井戸まで連れていってくれ」
「へえ!」
喜助は顔を上げるとドタドタと客に駆け寄った。
「すみません。薬湯、もうちょっとお待ちを」
「あ、ああ。構わんよ」
喜助の勢いに客は思わず後ろに下がる。
見かねて棚の薬を数えていた初が助け船を出す。
「お客さん、すみませんね。喜助さん、奥の清さんにそっちは頼むから。なんの薬湯?」
「天門冬茶。すまん!」
「いいから」
そう手で行けと促す初の顔は笑っていた。
自分ではああはならない。
修三は胸に何かつかえたような息苦しさを覚え、羽織を脱いで奥へと向おうとした。
「修三さん!」
詫びもそこそこに喜助は修三を追いかけてきた。
修三はとくに答えもしなかったが、喜助は全く意に介さないようだった。
――腹立たしい。
修三はそう、胸の奥で呟いた。
伊兵衛は眼鏡を外すと番台に置く。
「戻ったか」
「はい。届け出はして参りました。ですが……」
「認可は難しいか」
修三は懐から紙に包んだ小判を出した。
伊兵衛は目を丸くする。
「お前、抜いたのか」
「私は反対です。新しいものを取り扱う届け出に賄賂など」
修三はまっすぐに伊兵衛を見た。
伊兵衛は目を伏せて、傍らの煙管に火をつけた。
一口、吸うと、大きな煙を吐いた。
「修三。それが今の世だ。田沼さまのおかげで商売は随分風通しがよくなった。しかしそれは同じ商売をする者も同じだ。贔屓筋として使っていただくには役人とはよい関係であらねばならぬ」
「大番頭。店では煙草を控えていただけますか。薬の匂いにまぎれて質の良いものがわからなくなります」
「……ああ、すまんな」
修三が咎めると伊兵衛は素直に煙草を消した。
伊兵衛はただ一口、ため息を誤魔化すように一服したかっただけなのだろう。それがわかっているからこそ、修三はつい咎めてしまう。言いたいことがあれば濁さずに言えばよかろうに。修三はそれが苛立たしかった。
伊兵衛が話すのは世の中の道理だろう。だがその道理が正しいとも修三には思えなかった。誰かが変わろうとせねば何も変わらない。現に皆、賄賂が当たり前のように行き交うようになってからは裏では愚痴ばかり言っているではないか。
そして何も変わらないのに愚痴ばかり言いながら、いざ一石を投じる者には、愚かだと蔑むか痛手を負うのを遠巻きに見ているだけだ。
伊兵衛はそんな修三の想いを知ってか知らずか、言葉を選んでいるようだった。
「……お前は少し融通ということを覚えたほうが良いと思うよ」
「融通とは?」
修三も頑なだった。
店の者たちが仕事をしながらも自分たちの様子を伺っているのを、修三は感じていた。
こういった伊兵衛とのぶつかり合いは初めてではない。そのたびにひりつくような気配が漂い、店の者たちが言葉少なになっていくのだ。
店には客がいる。大番頭とのこんなやりとりは客に聞かせるものではない。だからこそ静かに奥で話しているというのに、接客がおろそかになれば客の意識もこちらに向きかねない。修三はそんなことにもわからない店の者たちにも苛立っていた。
「おっと!」
「熱っ!」
静寂を破ったのは喜助だった。喜助は客に運ぶはずだった茶を運んでいる最中に、床の薬包紙に滑ってしまい、茶をひっくり返ったのだ。更に運悪くその熱い茶が修三にかかってしまう。
……あり得ない。
修三は頭が痛かった。一体この店はどうしてこんな男をいつまでも奉公させておくのだ。しかも手代にまでして。この働きや気構えなら、まだ丁稚の方が気が回るというものだ。
「修三さん! 大丈夫かい」
「大丈夫なわけあるか! 店に水物を持ち込むときは、気をつけろといつも言っているだろう!」
「そんなことより、早く井戸で冷やさねば」
駆け寄った喜助の手を払うと、修三は冷ややかな目を向けた。
「薬包紙を床に置きっぱなしにしていたのは誰だ!」
修三の剣幕に店は静まり返った。
その静寂の中、小さくなった喜助が、おずおずと手を挙げる。
「……またお前か! 少しは手代としての自覚を持て」
「面目ねえ」
喜助が頭を下げると、修三は店中の視線が自分に集まっていることに気がつく。
――これだ。これだから嫌なのだ。
修三は自分が頑固で融通が利かない人間だと知っていた。そういう人間は好かれない。だが仕事は好かれる好かれないは別物だ。多少やりにくかろうが、正しい生き方をしていれば、やがて受け入れられると思っていた。正しさとはそういうものではないのか。
だが実際は、こうしてどんなに正しいことを言っても、自分に向けられるのは正しさへの理解ではなく悪人を見るかのような、ぬめっとした視線だった。
重苦しい空気の中、伊兵衛が面倒くさそうに手で二人を払った。
「もうここはいいから。喜助。修三を井戸まで連れていってくれ」
「へえ!」
喜助は顔を上げるとドタドタと客に駆け寄った。
「すみません。薬湯、もうちょっとお待ちを」
「あ、ああ。構わんよ」
喜助の勢いに客は思わず後ろに下がる。
見かねて棚の薬を数えていた初が助け船を出す。
「お客さん、すみませんね。喜助さん、奥の清さんにそっちは頼むから。なんの薬湯?」
「天門冬茶。すまん!」
「いいから」
そう手で行けと促す初の顔は笑っていた。
自分ではああはならない。
修三は胸に何かつかえたような息苦しさを覚え、羽織を脱いで奥へと向おうとした。
「修三さん!」
詫びもそこそこに喜助は修三を追いかけてきた。
修三はとくに答えもしなかったが、喜助は全く意に介さないようだった。
――腹立たしい。
修三はそう、胸の奥で呟いた。
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第一章・修三公開中で完結です。次回は喜助の章の予定です。
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