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1.上手くは回れぬこの世の理
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「またお前は帳面を間違えたのか」
修三はへらへらと笑い頭を掻いている喜助に、うんざりとした面差しを向けた。互いに手代とはいえ、同じ年に奉公に入り働いてきた身としては、なぜこの男が全く仕事ができるようにならないのか理解に苦しむ。しかも反省の色はなく、叱られるようなことを度々起こしては、この悪びれない笑顔だ。 もう二十も超えた男が、だらしなく法被を羽織り、髷からは後れ毛がこぼれている。客商売だというのに、身なりを整える気もない。店の者たちもかつては注意もしていたが、恐ろしいほどに身につかないので、最近ではすっかり諦めてしまっていた。それがまた、修三の癇に障る。仕事というものは少しは真摯に学びながらその手管を覚えていくものではないか。
「……反省しているのか」
喜助は屈託のない笑顔で両手を合わせた。
「そりゃ、もちろん。直してもらってありがたい限りだ」
「ではいつになれば俺が確認をせずとも良くなるんだ?」
憮然としている修三に、棚の薬を数えていた清が手を休めた。
「修三さん、諦めなって。喜助のおっちょこちょいはいつものことだろ」
清はそう笑い飛ばした。
「いつまでもこれでは給金泥棒だろう」
「払うのはアンタじゃないけどね」
清は修三より二つ下だが、全く遠慮がない。深い臙脂の着物にキリッとした切れ長の目つきは美しくはあったが、気の強さを過不足なく表していると常々修三は思っている。
「ところで修三さん。そろそろ時間じゃないのかい。そんな格好して」
そう、修三の格好は店先には似つかわしくない羽織姿である。
「そうだな。全く、お前が間違えねばこんなことに時間を取らずに済んだ」
「すまねえ。あとは俺がやり直しておくから」
「任せられるか!」
店に修三の叫び声が響き渡ると、奉公人たちの視線が一斉に修三に注がれた。
奥の番頭台から大番頭の伊兵衛まで細い目をいっぱいに見開いて様子を伺っているのを見つけると、修三はいたたまれずに立ち上がった。
「カリカリしなくても、私も手伝うからさ。修三さんはさっさと奉行所に行ってきなよ」
「頼む」
清の申し出が助け舟になり、修三は風呂敷包みを持って店を出た。
振り向くと暖簾の向こうから清の快活な笑い声と恐縮している喜助の声が聞こえてきた。
大きく『春日屋』と書かれた看板を見上げ、修三はふと店に初めて来た頃を思い出す。江戸でも知られた大店の薬種問屋の春日屋に奉公が決まり、緊張と期待で吐きそうになるほどだった。何しろまだ十三の子供の時分だ。何もかもが光輝いているようで、ここで身を立てると心に誓ったものだった。
それから十年経った今、よもやこのような感情を抱くようになろうとは。
ひたすらに努力を重ねてきた修三にとって、たいした努力もせずに愛想だけでその日その日を凌いでいるようにしか見えない喜助がどうにも受け入れ難かった。
通りすがりの天秤棒を担いだ魚の振売の掛け声で、修三は現実に引き戻された。
――馬鹿げている。
修三は陰鬱とした感情を払うように首を振り、道を急ぎ始めた。
*
奉行所を訪ねた修三は、小さな一室に通された。廊下の先に簡素な庭が見えるだけの部屋は、数多くの申し出を受け付ける一室なのだろう。板間がどこか寒々しかった。
修三の緊張を破るように、ぞんざいな足音が近づいてきた。
「待たせた。春日屋の者か」
小袖に羽織姿の役人は、答えも待たずに部屋に入り、乱雑に胡座をかいた。
「春日屋手代、修三にございます。本日はこちらを届け出に」
手早く修三は風呂敷包みを開いた。重箱の蓋を取ると、小さな茶色い饅頭が姿を現す。
「こちらの饅頭にございます」
差し出された重箱を役人は舐めるような目で箱を眺めた。
「どうぞ召し上がりください」
修三が促すと、役人は饅頭を手に取った。
「当店の薬酒を使った滋養に効く饅頭にございます。こちらをぜひご公儀の認可いただければ」
役人は箱を覗き込み、不審げに饅頭を割った。
「何か気になる点でもございますか」
修三は手のひらにじっとりと汗を感じた。
「ただの饅頭だけか」
「ただのではありませぬ。薬草を加えて薬酒で蒸した滋養がつく饅頭にございます」
役人は割った饅頭に口もつけずに、箱に放るように戻す。
「これだけでお墨付きを貰うために、儂にわざわざ手間をかけさせたというのか?」
役人が言わんとすることはわかったが、修三はどうしても、応じる気にはなれない。
「一口でよいのです。食べて、ご検討いただけませぬか。さすれば賄賂などなくとも」
思わず前に出た修三の言葉に、役人は眉根を寄せた。
「賄賂だと? そなたは何か。儂が賄賂を要求したとでも言いたいのか」
「いえ! 決してそのようなことは。言葉の綾にございます」
要求していたではないか。そう心で毒づきながらも、修三は慌てて頭を下げた。役所のお墨付きを貰わねば、薬としての役目を謳って売るのは難しい。
これは春日屋の女たちが仕事の合間に知恵を絞って作り出したものだ。
春日屋の薬酒饅頭を食べれば寿命が延びる。
そう人づてに世に広がれば、薬を求める以外の者も春日屋の客になるだろう。病とはかかってからの治療も大切だが、何より病にかからぬことが大事だ。それを菓子で体を労れるなら、世のためにもなろうというものだ。
だが役人には何一つ伝わりはしなかった。
出直せ。そう短く言い放つと、止める間もなく、部屋を出ていった。
なぜ、この世は正しくあろうとすればするほど、物事は悪く転がっていくのだろうか。
修三は残された部屋で膝の上に堅い拳を作る。
それでも怒りは持続しない。
目の前には乱雑に放り出されたままの菓子箱があった。
蓋を閉じ、修三は菓子箱を傍らの文机に置いた。
あの役人も腹が減ったときに目に入れば、一口くらい食べる気になるやもしれない。
それが夢想だとは思いつつも、修三はそっと部屋を出ていった。
修三はへらへらと笑い頭を掻いている喜助に、うんざりとした面差しを向けた。互いに手代とはいえ、同じ年に奉公に入り働いてきた身としては、なぜこの男が全く仕事ができるようにならないのか理解に苦しむ。しかも反省の色はなく、叱られるようなことを度々起こしては、この悪びれない笑顔だ。 もう二十も超えた男が、だらしなく法被を羽織り、髷からは後れ毛がこぼれている。客商売だというのに、身なりを整える気もない。店の者たちもかつては注意もしていたが、恐ろしいほどに身につかないので、最近ではすっかり諦めてしまっていた。それがまた、修三の癇に障る。仕事というものは少しは真摯に学びながらその手管を覚えていくものではないか。
「……反省しているのか」
喜助は屈託のない笑顔で両手を合わせた。
「そりゃ、もちろん。直してもらってありがたい限りだ」
「ではいつになれば俺が確認をせずとも良くなるんだ?」
憮然としている修三に、棚の薬を数えていた清が手を休めた。
「修三さん、諦めなって。喜助のおっちょこちょいはいつものことだろ」
清はそう笑い飛ばした。
「いつまでもこれでは給金泥棒だろう」
「払うのはアンタじゃないけどね」
清は修三より二つ下だが、全く遠慮がない。深い臙脂の着物にキリッとした切れ長の目つきは美しくはあったが、気の強さを過不足なく表していると常々修三は思っている。
「ところで修三さん。そろそろ時間じゃないのかい。そんな格好して」
そう、修三の格好は店先には似つかわしくない羽織姿である。
「そうだな。全く、お前が間違えねばこんなことに時間を取らずに済んだ」
「すまねえ。あとは俺がやり直しておくから」
「任せられるか!」
店に修三の叫び声が響き渡ると、奉公人たちの視線が一斉に修三に注がれた。
奥の番頭台から大番頭の伊兵衛まで細い目をいっぱいに見開いて様子を伺っているのを見つけると、修三はいたたまれずに立ち上がった。
「カリカリしなくても、私も手伝うからさ。修三さんはさっさと奉行所に行ってきなよ」
「頼む」
清の申し出が助け舟になり、修三は風呂敷包みを持って店を出た。
振り向くと暖簾の向こうから清の快活な笑い声と恐縮している喜助の声が聞こえてきた。
大きく『春日屋』と書かれた看板を見上げ、修三はふと店に初めて来た頃を思い出す。江戸でも知られた大店の薬種問屋の春日屋に奉公が決まり、緊張と期待で吐きそうになるほどだった。何しろまだ十三の子供の時分だ。何もかもが光輝いているようで、ここで身を立てると心に誓ったものだった。
それから十年経った今、よもやこのような感情を抱くようになろうとは。
ひたすらに努力を重ねてきた修三にとって、たいした努力もせずに愛想だけでその日その日を凌いでいるようにしか見えない喜助がどうにも受け入れ難かった。
通りすがりの天秤棒を担いだ魚の振売の掛け声で、修三は現実に引き戻された。
――馬鹿げている。
修三は陰鬱とした感情を払うように首を振り、道を急ぎ始めた。
*
奉行所を訪ねた修三は、小さな一室に通された。廊下の先に簡素な庭が見えるだけの部屋は、数多くの申し出を受け付ける一室なのだろう。板間がどこか寒々しかった。
修三の緊張を破るように、ぞんざいな足音が近づいてきた。
「待たせた。春日屋の者か」
小袖に羽織姿の役人は、答えも待たずに部屋に入り、乱雑に胡座をかいた。
「春日屋手代、修三にございます。本日はこちらを届け出に」
手早く修三は風呂敷包みを開いた。重箱の蓋を取ると、小さな茶色い饅頭が姿を現す。
「こちらの饅頭にございます」
差し出された重箱を役人は舐めるような目で箱を眺めた。
「どうぞ召し上がりください」
修三が促すと、役人は饅頭を手に取った。
「当店の薬酒を使った滋養に効く饅頭にございます。こちらをぜひご公儀の認可いただければ」
役人は箱を覗き込み、不審げに饅頭を割った。
「何か気になる点でもございますか」
修三は手のひらにじっとりと汗を感じた。
「ただの饅頭だけか」
「ただのではありませぬ。薬草を加えて薬酒で蒸した滋養がつく饅頭にございます」
役人は割った饅頭に口もつけずに、箱に放るように戻す。
「これだけでお墨付きを貰うために、儂にわざわざ手間をかけさせたというのか?」
役人が言わんとすることはわかったが、修三はどうしても、応じる気にはなれない。
「一口でよいのです。食べて、ご検討いただけませぬか。さすれば賄賂などなくとも」
思わず前に出た修三の言葉に、役人は眉根を寄せた。
「賄賂だと? そなたは何か。儂が賄賂を要求したとでも言いたいのか」
「いえ! 決してそのようなことは。言葉の綾にございます」
要求していたではないか。そう心で毒づきながらも、修三は慌てて頭を下げた。役所のお墨付きを貰わねば、薬としての役目を謳って売るのは難しい。
これは春日屋の女たちが仕事の合間に知恵を絞って作り出したものだ。
春日屋の薬酒饅頭を食べれば寿命が延びる。
そう人づてに世に広がれば、薬を求める以外の者も春日屋の客になるだろう。病とはかかってからの治療も大切だが、何より病にかからぬことが大事だ。それを菓子で体を労れるなら、世のためにもなろうというものだ。
だが役人には何一つ伝わりはしなかった。
出直せ。そう短く言い放つと、止める間もなく、部屋を出ていった。
なぜ、この世は正しくあろうとすればするほど、物事は悪く転がっていくのだろうか。
修三は残された部屋で膝の上に堅い拳を作る。
それでも怒りは持続しない。
目の前には乱雑に放り出されたままの菓子箱があった。
蓋を閉じ、修三は菓子箱を傍らの文机に置いた。
あの役人も腹が減ったときに目に入れば、一口くらい食べる気になるやもしれない。
それが夢想だとは思いつつも、修三はそっと部屋を出ていった。
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