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第三話 朝食
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冷蔵庫から出した卵は、しばらくの間常温に晒す。
冷えたままだと、火の通りが悪くなるのだ。すると黄身と白身の堅さを調整するのが、難しくなってしまう。
目玉焼きを作るのに、難しい事は何も無かった。ただ基礎的な事を抑えて、少し準備の時間を掛ける手間を惜しまなければいい。
朝食はいつも洋食だった。毎朝、こんな手間を掛ける訳ではない。忙しい時はパンに何かを乗せるか塗るかするだけで、済ませてしまう。
他人に食べさせる食事だから、手間を掛けているのか。それとも王女の朝食だからだか。
フライパンにサラダ油を引き、中火で熱する。
浴室から聞こえて来るシャワーの水音と、フライパンの中で油のはねる音が混ざり始めた。
インターホンが鳴った。私がそちらを向くよりも早く、外から鍵を開けて来る気配がした。
警戒はしなかった。ピッキングするのにインターホンを鳴らす者はおらず、この事務所の鍵を持っているのは私以外に一人しかいない。
ドアチェーンのチェーンが延び切り、扉が止まる音がした。
「ちょっとキザキ。何珍しくチェーンなんて掛けてやがるんですか」
予想通りの聞き覚えある声だった。私はフライパンに放り込むベーコンの数を増やすと、火を弱火にして玄関に向かった。
ドアチェーンの隙間から、少女が顔を見せていた。身長は私より二十センチほど低い。ロングの黒髪だが、一目で西洋系の血が入っていると分かる容姿だ。
ひらひらした派手な服で、ブランドものの大きな肩掛け鞄を背負っている。
「お前みたいな無粋な客が乱入してこないようにだよ、イーリス」
そう言いながら私はドアチェーンを開けた。イーリスが中に入って来る。
その時、外を確認した。この部屋を見張りやすい場所は、以前から把握している。
「今の所ここを見張っている人間はいませんよ。尾行けられるような間抜けな真似もしていません」
イーリスは振り返りもせずそう言った。彼女の視線は玄関口に並んでいる、女物の靴の方に向いているようだ。
「朝食は?」
「朝一でお前の部屋に来るのに食べてくる訳ないでしょう。私は情報を売るついでに朝食をたかりにやって来たんですわよ」
自分も靴を脱ぎながら、イーリスは悪びれもせず答えた。
「だったら事前に連絡しろ」
私は肩をすくめながら顔だけをイーリスに向けた。今から三人分の目玉焼きを用意するには、常温に戻した卵が足りない。
鍵とドアチェーンを閉め直すと、我が家のように奥に入っていくイーリスを追った。
それなりに長い付き合いになる相手だった。今は一応の仕事の取引先と言う事になるが、それ以前に腐れ縁としか言いようがない関係である。
耳が早いのは、いつもの事だった。
「ある物で構いませんよ、ワタクシは」
火が掛かったままのフライパンを見てイーリスは言った。
「飲み物は?」
「コーヒーを頂きましょうか。お砂糖とミルクだけ入っていれば文句は言いませんわ」
「こだわって淹れてるんだがな、これでも」
イーリスのお嬢様言葉は、日本語をコミックやライトノベルで学んだかららしかった。ある意味で実際にお嬢様とも言える生まれだが、育ちがいい訳ではない。
浴室のドアが開いた。湯気が漏れ出し、髪を拭きながらソルヤが出て来る。
着ているのは、昨日出会ったのと同じ服だ。他に着替えは無いらしい。
「あれ、お客さん?」
ソルヤはイーリスの方を見てぱちりと瞬きをし、イーリスの方は驚きもせずにこりと笑うとお辞儀をした。
「はい、初めまして。キザキの友人のイーリス・ライゼガングと申します。N市の休日の朝、ご気分はいかがでしょうか、アン王女」
気取った挨拶で事情を知っていると暗に伝えたイーリスに対し、ソルヤはもう一度瞬きをし、それから微笑んだ。
「それじゃあ君の職業はカメラマンかな?」
「当たらずとも遠からずと言った所ですわね。本業は情報屋ですが」
「昨夜は良く眠れたか?」
私の質問にソルヤは苦笑して首を横に振った。
「寝床を借りといてなんだけど、正直あまり。変に気が昂っちゃったし、ソファーだったし」
「ちょっとキザキ、お前まさか王女殿下をソファーに寝かして自分がベッドに寝ていたんですか」
「何か悪いか?」
「悪いに決まっているでしょう、相手は王女殿下ですよ。少しでも心地よい寝床を譲るのが常識でしょう。国際問題になりますよ国際問題に」
イーリスの口調は完全に私をからかっている物だった。
「その辺の気遣いを俺に期待してもらっても困る」
実際は自分がどこで寝るかなどどうでも良かった。ただ単に、ソルヤを私に部屋に上げる気にはならなかったのだ。色々と仕事道具も置いてある。
イーリスはそこまで分かっていて私に絡んでいるだろう。
「あの、私は全然気にしないから。突然、泊めてもらった立場だし」
ソルヤが戸惑ったように口を挟んだ。
「見ろ、お前のせいで当の殿下まで戸惑わせているぞ」
「じゃ、冗談はそろそろ終わりにして朝食にしましょうか」
イーリスがしれっとした表情で言う。ソルヤはきょとんとした顔をし、それから吹き出した。自分がからかわれていた、と思ったのかもしれない。
話している間に出来上がった朝食を並べて行った。食パン、目玉焼き、ベーコン、サラダ、バター、マーマレード。
「ソルヤは飲み物は?」
「紅茶があるならもらえるかな?」
コーヒーと紅茶を注いでいく。イーリスは誰よりも早くテーブルに着くと、私の分の目玉焼きを当然のように半分に割り、自分の皿へと移した。
「しかし耳が早いな、イーリス」
私は諦めて席に着き、自分の分のコーヒーを注いだ。ブラックだ。
「裏の情報屋界隈では昨夜の内から話題になっていますよ。ソルヤ殿下の顔写真はすでに出回っています。キザキの背格好と乗っている車のナンバーもね」
「ほう。他所の力を借りて探し始めたか」
悪い事ではなかった。直接の足取りを敵は一旦完全に見失なったと言う事だからだ。
「仕事用の偽造ナンバーで良かったですね。そうでなければ今頃ここにはワタクシじゃなくて敵が訊ねて来ていましたよ。ま、ワタクシは背格好と偽造ナンバーから当たりを付けただけですし、欺瞞情報も適当に流しておきましたから、ここが特定されるのはもう少し掛かるでしょう」
「どこまで調べた?」
「ざっとは」
そう言ってイーリスは数枚の紙のプリントを渡してきた。
「エルヴァリ王国に関する一般的な情報やクーデターに至る経緯などは簡単に纏めてきましたのでキザキはこれをどうぞ。どうせ国際情勢など普段は無関心でしょう」
「助かる」
「今の所直接動いているのは大使館職員名義のエルヴァリ対外諜報局の人間だけのようですわね。向こうもクーデター後の混乱であまり割ける人員がいないようです。エルヴァリのクーデター政権から日本政府へ公的な働きかけなどもまだ無いようですが、地元警察にはすでに非公式の情報提供が求められているみたいです。お前が王女誘拐犯として指名手配されるのもそう遠くないかもしれませんね、キザキ」
喋りながらイーリスはパンに念入りにバターを塗っている。
冷えたままだと、火の通りが悪くなるのだ。すると黄身と白身の堅さを調整するのが、難しくなってしまう。
目玉焼きを作るのに、難しい事は何も無かった。ただ基礎的な事を抑えて、少し準備の時間を掛ける手間を惜しまなければいい。
朝食はいつも洋食だった。毎朝、こんな手間を掛ける訳ではない。忙しい時はパンに何かを乗せるか塗るかするだけで、済ませてしまう。
他人に食べさせる食事だから、手間を掛けているのか。それとも王女の朝食だからだか。
フライパンにサラダ油を引き、中火で熱する。
浴室から聞こえて来るシャワーの水音と、フライパンの中で油のはねる音が混ざり始めた。
インターホンが鳴った。私がそちらを向くよりも早く、外から鍵を開けて来る気配がした。
警戒はしなかった。ピッキングするのにインターホンを鳴らす者はおらず、この事務所の鍵を持っているのは私以外に一人しかいない。
ドアチェーンのチェーンが延び切り、扉が止まる音がした。
「ちょっとキザキ。何珍しくチェーンなんて掛けてやがるんですか」
予想通りの聞き覚えある声だった。私はフライパンに放り込むベーコンの数を増やすと、火を弱火にして玄関に向かった。
ドアチェーンの隙間から、少女が顔を見せていた。身長は私より二十センチほど低い。ロングの黒髪だが、一目で西洋系の血が入っていると分かる容姿だ。
ひらひらした派手な服で、ブランドものの大きな肩掛け鞄を背負っている。
「お前みたいな無粋な客が乱入してこないようにだよ、イーリス」
そう言いながら私はドアチェーンを開けた。イーリスが中に入って来る。
その時、外を確認した。この部屋を見張りやすい場所は、以前から把握している。
「今の所ここを見張っている人間はいませんよ。尾行けられるような間抜けな真似もしていません」
イーリスは振り返りもせずそう言った。彼女の視線は玄関口に並んでいる、女物の靴の方に向いているようだ。
「朝食は?」
「朝一でお前の部屋に来るのに食べてくる訳ないでしょう。私は情報を売るついでに朝食をたかりにやって来たんですわよ」
自分も靴を脱ぎながら、イーリスは悪びれもせず答えた。
「だったら事前に連絡しろ」
私は肩をすくめながら顔だけをイーリスに向けた。今から三人分の目玉焼きを用意するには、常温に戻した卵が足りない。
鍵とドアチェーンを閉め直すと、我が家のように奥に入っていくイーリスを追った。
それなりに長い付き合いになる相手だった。今は一応の仕事の取引先と言う事になるが、それ以前に腐れ縁としか言いようがない関係である。
耳が早いのは、いつもの事だった。
「ある物で構いませんよ、ワタクシは」
火が掛かったままのフライパンを見てイーリスは言った。
「飲み物は?」
「コーヒーを頂きましょうか。お砂糖とミルクだけ入っていれば文句は言いませんわ」
「こだわって淹れてるんだがな、これでも」
イーリスのお嬢様言葉は、日本語をコミックやライトノベルで学んだかららしかった。ある意味で実際にお嬢様とも言える生まれだが、育ちがいい訳ではない。
浴室のドアが開いた。湯気が漏れ出し、髪を拭きながらソルヤが出て来る。
着ているのは、昨日出会ったのと同じ服だ。他に着替えは無いらしい。
「あれ、お客さん?」
ソルヤはイーリスの方を見てぱちりと瞬きをし、イーリスの方は驚きもせずにこりと笑うとお辞儀をした。
「はい、初めまして。キザキの友人のイーリス・ライゼガングと申します。N市の休日の朝、ご気分はいかがでしょうか、アン王女」
気取った挨拶で事情を知っていると暗に伝えたイーリスに対し、ソルヤはもう一度瞬きをし、それから微笑んだ。
「それじゃあ君の職業はカメラマンかな?」
「当たらずとも遠からずと言った所ですわね。本業は情報屋ですが」
「昨夜は良く眠れたか?」
私の質問にソルヤは苦笑して首を横に振った。
「寝床を借りといてなんだけど、正直あまり。変に気が昂っちゃったし、ソファーだったし」
「ちょっとキザキ、お前まさか王女殿下をソファーに寝かして自分がベッドに寝ていたんですか」
「何か悪いか?」
「悪いに決まっているでしょう、相手は王女殿下ですよ。少しでも心地よい寝床を譲るのが常識でしょう。国際問題になりますよ国際問題に」
イーリスの口調は完全に私をからかっている物だった。
「その辺の気遣いを俺に期待してもらっても困る」
実際は自分がどこで寝るかなどどうでも良かった。ただ単に、ソルヤを私に部屋に上げる気にはならなかったのだ。色々と仕事道具も置いてある。
イーリスはそこまで分かっていて私に絡んでいるだろう。
「あの、私は全然気にしないから。突然、泊めてもらった立場だし」
ソルヤが戸惑ったように口を挟んだ。
「見ろ、お前のせいで当の殿下まで戸惑わせているぞ」
「じゃ、冗談はそろそろ終わりにして朝食にしましょうか」
イーリスがしれっとした表情で言う。ソルヤはきょとんとした顔をし、それから吹き出した。自分がからかわれていた、と思ったのかもしれない。
話している間に出来上がった朝食を並べて行った。食パン、目玉焼き、ベーコン、サラダ、バター、マーマレード。
「ソルヤは飲み物は?」
「紅茶があるならもらえるかな?」
コーヒーと紅茶を注いでいく。イーリスは誰よりも早くテーブルに着くと、私の分の目玉焼きを当然のように半分に割り、自分の皿へと移した。
「しかし耳が早いな、イーリス」
私は諦めて席に着き、自分の分のコーヒーを注いだ。ブラックだ。
「裏の情報屋界隈では昨夜の内から話題になっていますよ。ソルヤ殿下の顔写真はすでに出回っています。キザキの背格好と乗っている車のナンバーもね」
「ほう。他所の力を借りて探し始めたか」
悪い事ではなかった。直接の足取りを敵は一旦完全に見失なったと言う事だからだ。
「仕事用の偽造ナンバーで良かったですね。そうでなければ今頃ここにはワタクシじゃなくて敵が訊ねて来ていましたよ。ま、ワタクシは背格好と偽造ナンバーから当たりを付けただけですし、欺瞞情報も適当に流しておきましたから、ここが特定されるのはもう少し掛かるでしょう」
「どこまで調べた?」
「ざっとは」
そう言ってイーリスは数枚の紙のプリントを渡してきた。
「エルヴァリ王国に関する一般的な情報やクーデターに至る経緯などは簡単に纏めてきましたのでキザキはこれをどうぞ。どうせ国際情勢など普段は無関心でしょう」
「助かる」
「今の所直接動いているのは大使館職員名義のエルヴァリ対外諜報局の人間だけのようですわね。向こうもクーデター後の混乱であまり割ける人員がいないようです。エルヴァリのクーデター政権から日本政府へ公的な働きかけなどもまだ無いようですが、地元警察にはすでに非公式の情報提供が求められているみたいです。お前が王女誘拐犯として指名手配されるのもそう遠くないかもしれませんね、キザキ」
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