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2-5 建速勇人(2)
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ぽつり、と顔に水滴が当たった。
雨が降るのか、と思い勇人は顔を持ち上げた。朝から曇り空だったが、いつのまにか黒い雲に置き換わっている。
またぽつり、と顔に水滴が当たる。それを酷く冷たく感じた。冬も近い東北の空だった。雪になるのかも知れない。
雨が降れば、外での仕事は切り上げて、中で何かしらの作業をする事になる。勇人は木の実を一つ掴むと、背中の籠に放り込んだ。
一週間ほどが経っていた。
多賀国府から少し離れた農村で、何とか日々の糧を得ようとしていた。余裕の無い農家が多かったが、同時に若い男手はどこででも必要にされていた。体力の無さと要領の悪さに辟易される事が多かったが、それでも丸一日働けば、何とか飢え死にしない程度の食事には有り付けるようになった。
南の方から流れて来た者だ、と名乗っていた。信じているのか気にもしていないのか、詳しく訪ねてくる人間はいなかった。ただ、年貢の重さに耐えかねて余所から逃げ出してくる者は多いらしく、勇人以外にも余所から流れて食い扶持を求めている者がいた。
そう言った人間が余所から流れて来るのも、多少なりともそれを受け入れられるのも、陸奥守が赴任して年貢が安くなったからだ、と村の長が勇人に語った事がある。村の長は多少なりとも周囲の情勢を知っていて、北条執権時代やその後、陸奥守が赴任して実際に統治を始めるまでの間、どれだけ政が酷かったかを勇人に語ってくれた。
結局、多賀国府から離れても小夜の世話になっている訳か、と皮肉な気分で勇人はその話を聞いていた。
長が陸奥守について語る言葉には、それでも何の熱さも無かったのも妙に勇人の印象に残っていた。
「ああ、勇人兄ちゃん駄目だよ」
後ろから声を掛けられた。振り向くと、五郎がいた。村の長の子どもで、まだ十歳ほどの少年だが、勇人に付き、仕事についてあれこれ面倒を見てくれている。
「食べられない木の実とか茸がいっぱい入ってるじゃないか。そんなんじゃ俺が親父様に怒られるよ」
「そうかい?一応言われた通りに選んだつもりだったんだけど」
「分かってないなあ、兄ちゃん。何度も説明したのに」
そう言いながら五郎は勇人の籠に手を突っ込み、いくつも木の実や茸を放り出して行く。
「特に茸は危ないからなあ。ちゃんと食べられる奴だけ選ばないと、人が死んだ事もあるんだぜ」
「気を付けるよ」
そう答えたが、勇人には五郎が捨てている物と、残している物との区別は良くつかなかった。
「まあもう雨になりそうだから、今日は外はここまでだな」
「代わりに中で何をやるんだろう」
「また硯作りじゃないかなあ」
そう答えると五郎は勇人が背負っている物と変わらない大きさの、こちらは木の実や茸が一杯に積まれた籠を軽々と背負い直し、山を降りて行く。
「にしても何で親父様はこんなたくさん木の実や茸を集めるように言い出したんだろうな。今年は米も麦も収穫は良かったのに。魚もやたらたくさん取って干し魚にするよう皆に言ってるし」
近い内に大きな戦が始まる事を見越しているからだろう、と勇人は思っていた。小夜が西上軍を興せば、兵糧として米も麦も摘発される。その時に備えて少しでもそれ以外の食料を蓄えようとしている。
山を下り、村の入り口まで来た所で、五郎が足を止めた。
「どうしたんだ?」
「また何か妙な奴が村の周りにいるんだ」
「また?」
「うん、ここ何日か妙なのを村の周りにいるな。あんま目立たないけど」
そう言われて勇人も五郎の視線の先を追ってみたが、雨に合わせて村に帰ろうとする農民が何人か目に入るだけで、どれがおかしな人間なのかは分からなかった。
「またどこかから流れて来た人が村の様子を見てるんじゃないかい?」
「かも知れないけど、何か嫌な感じがするんだよな、あいつら」
五郎が首を捻りながら言った。
「あいつら、と言う事は大勢いるのかい?」
「そんなには。ただ、何人かが入れ代わり立ち代わりで村を見てる気がする」
「あまり、気にしない方がいいと思う。放っておけば、そのうちどこかに行くか、長が何とかするさ」
忍びだろう。どこの忍びで何を見張っているのかまでは分からない。五郎が下手に気にして嗅ぎ回るような事をすれば、危険があるかも知れなかった。
五郎よりも小さい女の子が一人、村の入り口まで迎えに出て来ていた。さくらと言う村に住む娘だった。これぐらいの歳の娘でも仕事を憶えるために働かなくてはいけないのがこの時代の農村だが、五郎に良く懐いているらしく、仕事の合間を見付けてはこうして良く様子を見に来る。
さくらと軽く言葉をかわして別れ、そのまま五郎と一緒に長の家に戻り、集めて来た木の実や茸の仕分けをした。
「勇人さん、これぐらいの量じゃ困るよ。子どもだってこの倍は集める。馴れてもらわないと」
勇人の籠の中身を見た長が苦笑いしながら言った。
「はい、すみません」
長は穏やかな人物だったが、甘い所をあまり感じさせない人物だった。
そして、驚くほどのしたたかさが時に見える。
そのしたたかさは、勇人がこの時代に来るまでに抱いていて、そして来てからもさほど変わらなかった農民、百姓と言う物に対する印象を変えさせるほどの物だった。
この時代の農民達は貧しく非力で無知だ。それでも、政治がしっかりしていれば生きていく事は出来る。逆に政治が駄目になれば、生き延びるために下がしたたかになって行くのは当然かも知れなかった。
長は、幕府や、朝廷や、陸奥守と言った存在を恐れてはいない。敬ってもいなければ憎んでもいない。ただ、いつでも自分達の上にある、愚かで理不尽な物だと、醒めた心で思い定め、その愚かさや理不尽さを少しでもかわそうとしている。
陸奥の地を治める者が北条方の武士から小夜に代わり、善政が行われるようになった所で、それも一時の物だ、と冷淡に見切ってしまっているように思えた。たまたま、天候に恵まれた。たまたま、豊作の年が来た。農民にとっては小夜の善政も、そう言う事と変わらないのだろう。
多賀国府からは離れたはずだったが、農民達の生活を見ていても、やはりそんな風に事ある毎に小夜の事を考えてしまい、憂鬱な気分になる事があった。彼女は結局の所はこの農民達から少しでも苦しみを除き、豊かにするために戦っているのだ。
彼女はどこまでこの農民達の生活と向き合っていたのか、彼女のやり方は正しいのか、そして彼女の位置からこの農民達と向き合うと言う事にはどんな苦悩があるのか。
気が付けばそんな事を考えてしまい、勇人はその度に頭を振ってその思考を振り払おうとしていた。
その後、夕方まで五郎と一緒に硯の作り方を憶える事になった。
近くの山では硯石が取れるらしく、それを小刀で削って、磨く。相手が石なので、思った形に削ろうと思うと、とても力と根気がいる作業だった。
五郎も額に汗を浮かべて力を込めているが、上手く削れないようだ。
「まとまった数が作れれば、商人が来て買い取ってくれる。大した額にはならないけれど、それでもこんな村では貴重な収入だからね」
二人に彫り方の手本を見せながら長が言った。さほど力を込めているようにも見えないのに、長の小刀は綺麗に硯石を削って行く。
「どうやったら親父様みたいに綺麗に削れるんだろうなあ」
辟易したように五郎が手を止め呟いた。
「そこは馴れるしかないね、五郎。ずっと削って、石に振れていればその内に石の気持ちが分かってくる。そうすれば削れるようになるよ」
「石の気持ちなんて俺分かんないよ」
「愚痴を言う前に手を動かしなさい。怪我だけしないように気を付けて」
二人の会話を聞きながら勇人は硯石に黙って手と小刀を当てていた。一度目を閉じて、それから手を動かそうとする。じりじり、と刃は硯石に食い込んで行く。目は、小刀の先しか見えていなかった。二人の声も、直に聞こえなくなった。
石の気持ちなど、無論分からない。気が付けば代わりに自分の中の何かを石にぶつけようとしていた。何なのか、と思って自分に問い直せば、ぶつけていたのは苦々しい思いだった。
「勇人さん」
「はい」
長に名前を呼ばれ、勇人は顔を上げた。気が付かない内に、硯石は不恰好なりに削れてはいた。
「怨念を込めて硯を作ろうとしては行けないよ。売り物にならない物が出来てしまう」
「分かりますか」
「分かる人には、分かる。そう言った物が混ざると、次からは買い取ってくれなくなる人もいるからね」
五郎は怪訝そうな顔で二人の会話を聞いている。
「五郎、お前はもう少し余計な事を考えず練習していなさい。勇人さん、少し外で話そうか」
長はそう言うと勇人を外に促す。小刀と硯石を手放し、勇人はそれに従った。
雨がしたたり落ちる軒下で長と向き合う事になった。すでに日は半ば落ちかけており、薄暗い。
「何かありましたか?」
「一度話しておこうと思ってね」
長はちらりと村の入り口の方を見てから口を開いた。
「よそから来て勇人さんの事をあれこれ調べている人達が何人かいる。村の人間達に聞き込みをしているみたいだね」
「そうでしたか」
「心当たりが全く無い訳でもなさそうだね」
「ええ、まあ。予想はしていませんでしたが、言われてみれば得心は行きます」
以前に、親房に言われた事を思い出していた。
例え勇人自身が戦に関係の無い人間になろうとしても、もうなれない。
多賀国府の周りで小夜の事を探ろうと足利方の忍び達が動いているなら、突然、その小夜の周りに突然現れた素性の知れない人間にも目を付けるのも当然と言えば当然だった。
自分がどう言う人間なのか、調べようとする。しかし元々何も無いのだから、何も出て来ない。それで諦めるのか、あるいはそれだけ深い物があるのだと思って直接自分を捕えようとするのか。
わざわざこの村にまで何人も出向いているのだから、後者だろう。
「どうかしたかい?」
「いえ」
長に声を掛けられ、勇人は自分が笑っている事に気が付いた。たまらなくおかしな気分に襲われたのだ。忍びに、自分が何か陸奥守北畠顕家から密命を受けた人間だと勘違いされ、狙われている。勇人自身にはそんな意思は微塵もなく、そして違うと言っても、それを証明する手段も無い。
「勇人さんが何者なのか無理に探る気はないんだけどね」
長は困ったように肩を竦めた。
「もし村の中で斬り合いでも起きるような事になるのなら、今の内に村から出て行ってほしい。冷たいようだけど、村を武士同士の争いに巻き込みたくは無いからね」
「それは、分かってますよ」
さほど悩む事も無く、出て行くべきだ、と思った。どうせここにも流されるように居ついただけだった。このままどこかで足利方の忍び達に襲われ、殺されるならそれでもいい。
そろそろ、この時代で生きようとする事にも疲れて来ている気がする。いや、生きる事自体に多分ずっと前から疲れていた。
「ただ、これは少し汚い話になるけれど」
そう前置きし、長は眼を細くした。
「もし勇人さんが近くの有力な武士とつながりがある人なら、それを機に誼を通じておきたい、と言う思いがあるのも確かだね」
「期待に沿えなくて申し訳ないのですが、僕はそんな大層な人間ではありませんよ」
「そうか。まあ無理矢理追い出すような事はしたくないから、出て行くかどうかは勇人さんに委ねるよ。ただ、騒ぎが起きる前に出て行ってほしい、とは頼んでおこう」
「ええ」
話はそれで終わり、食事にしよう、と長が言い、勇人もそれに従った。
長の一家と共に簡素な食事が終わり、勇人は貸し出されている納屋へと向かった。農民は日が落ちれば、特に何も無い限り、眠る。夜、油に火を灯すのは、何か特別にしなくてはならない事がある時だけだ。
数日、何事も無くそのまま時が過ぎた。ただ天気は少しずつ冬に近付いて行っており、外で働ける時間は日に日に、短くなっていっている。雪も何度か振り、長からは新しく毛皮を一枚渡された。
一緒に働く事の多い五郎はまだ子どもだが、長の血を引いている事を感じさせる利発さが端々に見えた。その側に良く来るさくらは生き生きとしていて、忙しく苦しいはずの生活の中でも、笑顔が絶えなかった。
勇人の目から見れば、彼らはとても人が生きていけるとは思えない貧しさと不自由さの中にいる。それでも、自分などよりよほど人間らしく生きている、と勇人は思った。
村を見張っている人間達には何度か入れ替わりがあったが、大きな動きは無かった。
五郎達が生きていく事の邪魔にはなりたくない。勇人はそう思い始めてもいた。
雨が降るのか、と思い勇人は顔を持ち上げた。朝から曇り空だったが、いつのまにか黒い雲に置き換わっている。
またぽつり、と顔に水滴が当たる。それを酷く冷たく感じた。冬も近い東北の空だった。雪になるのかも知れない。
雨が降れば、外での仕事は切り上げて、中で何かしらの作業をする事になる。勇人は木の実を一つ掴むと、背中の籠に放り込んだ。
一週間ほどが経っていた。
多賀国府から少し離れた農村で、何とか日々の糧を得ようとしていた。余裕の無い農家が多かったが、同時に若い男手はどこででも必要にされていた。体力の無さと要領の悪さに辟易される事が多かったが、それでも丸一日働けば、何とか飢え死にしない程度の食事には有り付けるようになった。
南の方から流れて来た者だ、と名乗っていた。信じているのか気にもしていないのか、詳しく訪ねてくる人間はいなかった。ただ、年貢の重さに耐えかねて余所から逃げ出してくる者は多いらしく、勇人以外にも余所から流れて食い扶持を求めている者がいた。
そう言った人間が余所から流れて来るのも、多少なりともそれを受け入れられるのも、陸奥守が赴任して年貢が安くなったからだ、と村の長が勇人に語った事がある。村の長は多少なりとも周囲の情勢を知っていて、北条執権時代やその後、陸奥守が赴任して実際に統治を始めるまでの間、どれだけ政が酷かったかを勇人に語ってくれた。
結局、多賀国府から離れても小夜の世話になっている訳か、と皮肉な気分で勇人はその話を聞いていた。
長が陸奥守について語る言葉には、それでも何の熱さも無かったのも妙に勇人の印象に残っていた。
「ああ、勇人兄ちゃん駄目だよ」
後ろから声を掛けられた。振り向くと、五郎がいた。村の長の子どもで、まだ十歳ほどの少年だが、勇人に付き、仕事についてあれこれ面倒を見てくれている。
「食べられない木の実とか茸がいっぱい入ってるじゃないか。そんなんじゃ俺が親父様に怒られるよ」
「そうかい?一応言われた通りに選んだつもりだったんだけど」
「分かってないなあ、兄ちゃん。何度も説明したのに」
そう言いながら五郎は勇人の籠に手を突っ込み、いくつも木の実や茸を放り出して行く。
「特に茸は危ないからなあ。ちゃんと食べられる奴だけ選ばないと、人が死んだ事もあるんだぜ」
「気を付けるよ」
そう答えたが、勇人には五郎が捨てている物と、残している物との区別は良くつかなかった。
「まあもう雨になりそうだから、今日は外はここまでだな」
「代わりに中で何をやるんだろう」
「また硯作りじゃないかなあ」
そう答えると五郎は勇人が背負っている物と変わらない大きさの、こちらは木の実や茸が一杯に積まれた籠を軽々と背負い直し、山を降りて行く。
「にしても何で親父様はこんなたくさん木の実や茸を集めるように言い出したんだろうな。今年は米も麦も収穫は良かったのに。魚もやたらたくさん取って干し魚にするよう皆に言ってるし」
近い内に大きな戦が始まる事を見越しているからだろう、と勇人は思っていた。小夜が西上軍を興せば、兵糧として米も麦も摘発される。その時に備えて少しでもそれ以外の食料を蓄えようとしている。
山を下り、村の入り口まで来た所で、五郎が足を止めた。
「どうしたんだ?」
「また何か妙な奴が村の周りにいるんだ」
「また?」
「うん、ここ何日か妙なのを村の周りにいるな。あんま目立たないけど」
そう言われて勇人も五郎の視線の先を追ってみたが、雨に合わせて村に帰ろうとする農民が何人か目に入るだけで、どれがおかしな人間なのかは分からなかった。
「またどこかから流れて来た人が村の様子を見てるんじゃないかい?」
「かも知れないけど、何か嫌な感じがするんだよな、あいつら」
五郎が首を捻りながら言った。
「あいつら、と言う事は大勢いるのかい?」
「そんなには。ただ、何人かが入れ代わり立ち代わりで村を見てる気がする」
「あまり、気にしない方がいいと思う。放っておけば、そのうちどこかに行くか、長が何とかするさ」
忍びだろう。どこの忍びで何を見張っているのかまでは分からない。五郎が下手に気にして嗅ぎ回るような事をすれば、危険があるかも知れなかった。
五郎よりも小さい女の子が一人、村の入り口まで迎えに出て来ていた。さくらと言う村に住む娘だった。これぐらいの歳の娘でも仕事を憶えるために働かなくてはいけないのがこの時代の農村だが、五郎に良く懐いているらしく、仕事の合間を見付けてはこうして良く様子を見に来る。
さくらと軽く言葉をかわして別れ、そのまま五郎と一緒に長の家に戻り、集めて来た木の実や茸の仕分けをした。
「勇人さん、これぐらいの量じゃ困るよ。子どもだってこの倍は集める。馴れてもらわないと」
勇人の籠の中身を見た長が苦笑いしながら言った。
「はい、すみません」
長は穏やかな人物だったが、甘い所をあまり感じさせない人物だった。
そして、驚くほどのしたたかさが時に見える。
そのしたたかさは、勇人がこの時代に来るまでに抱いていて、そして来てからもさほど変わらなかった農民、百姓と言う物に対する印象を変えさせるほどの物だった。
この時代の農民達は貧しく非力で無知だ。それでも、政治がしっかりしていれば生きていく事は出来る。逆に政治が駄目になれば、生き延びるために下がしたたかになって行くのは当然かも知れなかった。
長は、幕府や、朝廷や、陸奥守と言った存在を恐れてはいない。敬ってもいなければ憎んでもいない。ただ、いつでも自分達の上にある、愚かで理不尽な物だと、醒めた心で思い定め、その愚かさや理不尽さを少しでもかわそうとしている。
陸奥の地を治める者が北条方の武士から小夜に代わり、善政が行われるようになった所で、それも一時の物だ、と冷淡に見切ってしまっているように思えた。たまたま、天候に恵まれた。たまたま、豊作の年が来た。農民にとっては小夜の善政も、そう言う事と変わらないのだろう。
多賀国府からは離れたはずだったが、農民達の生活を見ていても、やはりそんな風に事ある毎に小夜の事を考えてしまい、憂鬱な気分になる事があった。彼女は結局の所はこの農民達から少しでも苦しみを除き、豊かにするために戦っているのだ。
彼女はどこまでこの農民達の生活と向き合っていたのか、彼女のやり方は正しいのか、そして彼女の位置からこの農民達と向き合うと言う事にはどんな苦悩があるのか。
気が付けばそんな事を考えてしまい、勇人はその度に頭を振ってその思考を振り払おうとしていた。
その後、夕方まで五郎と一緒に硯の作り方を憶える事になった。
近くの山では硯石が取れるらしく、それを小刀で削って、磨く。相手が石なので、思った形に削ろうと思うと、とても力と根気がいる作業だった。
五郎も額に汗を浮かべて力を込めているが、上手く削れないようだ。
「まとまった数が作れれば、商人が来て買い取ってくれる。大した額にはならないけれど、それでもこんな村では貴重な収入だからね」
二人に彫り方の手本を見せながら長が言った。さほど力を込めているようにも見えないのに、長の小刀は綺麗に硯石を削って行く。
「どうやったら親父様みたいに綺麗に削れるんだろうなあ」
辟易したように五郎が手を止め呟いた。
「そこは馴れるしかないね、五郎。ずっと削って、石に振れていればその内に石の気持ちが分かってくる。そうすれば削れるようになるよ」
「石の気持ちなんて俺分かんないよ」
「愚痴を言う前に手を動かしなさい。怪我だけしないように気を付けて」
二人の会話を聞きながら勇人は硯石に黙って手と小刀を当てていた。一度目を閉じて、それから手を動かそうとする。じりじり、と刃は硯石に食い込んで行く。目は、小刀の先しか見えていなかった。二人の声も、直に聞こえなくなった。
石の気持ちなど、無論分からない。気が付けば代わりに自分の中の何かを石にぶつけようとしていた。何なのか、と思って自分に問い直せば、ぶつけていたのは苦々しい思いだった。
「勇人さん」
「はい」
長に名前を呼ばれ、勇人は顔を上げた。気が付かない内に、硯石は不恰好なりに削れてはいた。
「怨念を込めて硯を作ろうとしては行けないよ。売り物にならない物が出来てしまう」
「分かりますか」
「分かる人には、分かる。そう言った物が混ざると、次からは買い取ってくれなくなる人もいるからね」
五郎は怪訝そうな顔で二人の会話を聞いている。
「五郎、お前はもう少し余計な事を考えず練習していなさい。勇人さん、少し外で話そうか」
長はそう言うと勇人を外に促す。小刀と硯石を手放し、勇人はそれに従った。
雨がしたたり落ちる軒下で長と向き合う事になった。すでに日は半ば落ちかけており、薄暗い。
「何かありましたか?」
「一度話しておこうと思ってね」
長はちらりと村の入り口の方を見てから口を開いた。
「よそから来て勇人さんの事をあれこれ調べている人達が何人かいる。村の人間達に聞き込みをしているみたいだね」
「そうでしたか」
「心当たりが全く無い訳でもなさそうだね」
「ええ、まあ。予想はしていませんでしたが、言われてみれば得心は行きます」
以前に、親房に言われた事を思い出していた。
例え勇人自身が戦に関係の無い人間になろうとしても、もうなれない。
多賀国府の周りで小夜の事を探ろうと足利方の忍び達が動いているなら、突然、その小夜の周りに突然現れた素性の知れない人間にも目を付けるのも当然と言えば当然だった。
自分がどう言う人間なのか、調べようとする。しかし元々何も無いのだから、何も出て来ない。それで諦めるのか、あるいはそれだけ深い物があるのだと思って直接自分を捕えようとするのか。
わざわざこの村にまで何人も出向いているのだから、後者だろう。
「どうかしたかい?」
「いえ」
長に声を掛けられ、勇人は自分が笑っている事に気が付いた。たまらなくおかしな気分に襲われたのだ。忍びに、自分が何か陸奥守北畠顕家から密命を受けた人間だと勘違いされ、狙われている。勇人自身にはそんな意思は微塵もなく、そして違うと言っても、それを証明する手段も無い。
「勇人さんが何者なのか無理に探る気はないんだけどね」
長は困ったように肩を竦めた。
「もし村の中で斬り合いでも起きるような事になるのなら、今の内に村から出て行ってほしい。冷たいようだけど、村を武士同士の争いに巻き込みたくは無いからね」
「それは、分かってますよ」
さほど悩む事も無く、出て行くべきだ、と思った。どうせここにも流されるように居ついただけだった。このままどこかで足利方の忍び達に襲われ、殺されるならそれでもいい。
そろそろ、この時代で生きようとする事にも疲れて来ている気がする。いや、生きる事自体に多分ずっと前から疲れていた。
「ただ、これは少し汚い話になるけれど」
そう前置きし、長は眼を細くした。
「もし勇人さんが近くの有力な武士とつながりがある人なら、それを機に誼を通じておきたい、と言う思いがあるのも確かだね」
「期待に沿えなくて申し訳ないのですが、僕はそんな大層な人間ではありませんよ」
「そうか。まあ無理矢理追い出すような事はしたくないから、出て行くかどうかは勇人さんに委ねるよ。ただ、騒ぎが起きる前に出て行ってほしい、とは頼んでおこう」
「ええ」
話はそれで終わり、食事にしよう、と長が言い、勇人もそれに従った。
長の一家と共に簡素な食事が終わり、勇人は貸し出されている納屋へと向かった。農民は日が落ちれば、特に何も無い限り、眠る。夜、油に火を灯すのは、何か特別にしなくてはならない事がある時だけだ。
数日、何事も無くそのまま時が過ぎた。ただ天気は少しずつ冬に近付いて行っており、外で働ける時間は日に日に、短くなっていっている。雪も何度か振り、長からは新しく毛皮を一枚渡された。
一緒に働く事の多い五郎はまだ子どもだが、長の血を引いている事を感じさせる利発さが端々に見えた。その側に良く来るさくらは生き生きとしていて、忙しく苦しいはずの生活の中でも、笑顔が絶えなかった。
勇人の目から見れば、彼らはとても人が生きていけるとは思えない貧しさと不自由さの中にいる。それでも、自分などよりよほど人間らしく生きている、と勇人は思った。
村を見張っている人間達には何度か入れ替わりがあったが、大きな動きは無かった。
五郎達が生きていく事の邪魔にはなりたくない。勇人はそう思い始めてもいた。
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