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2-2 建速勇人

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 一月ほどが、経っていた。
 その間にも、多賀国府と奥州の情勢は動き続けていたようだったが、勇人は自分がほとんど無為に過ごしていているように思っていた。
 小夜や宗広と話す他、外を出歩いてみて回る事もここ一週間ほどはしていた。小夜が二度、宗広も二度、親房も一度は付いて来て、城下の事を話してくれた。
 小夜は定期的に姿を忍んで領内を見回っているらしかった。
 秋の収穫の時期は終わり、農民達は冬に備えて色々な準備をしている。市も定期的に立っているほどに、多賀国府周辺は活気があった。多賀国府からの統治は上手く行っている、と言う事だろう。
 ただそれでも、城下に住む人々は、武士の事も陸奥守北畠顕家の事も恐れていたように勇人には見えた。
 陸奥で集められた年貢の中には、京にまで納めなくてはいけない物もある。他に、大内裏新築のための新たな税も掛けられていて、それらが小夜の意思とは関係無い所で彼女の統治下にある民の生活を圧迫している。
そして一度戦が起きれば、兵糧のためにあらゆる食料をかき集めなくては行けない。そうしなければ、戦は出来ない。
 城下を見回った時、言い訳の様にそんな事を説明した後で、自分が西上の軍を出す時にはそのせいで飢えて死ぬ人間も出るだろう、と小夜は最後に言った。
 飢えて死ぬ。勇人がいた時代の日本ではそうそう起きる事ではなかった事が、この時代、この土地では普通の事だった。そして為政者の立場である小夜達は、その重さと向き合わなくてはいけないのだろう。
 それが実際にはどれほどに重い事なのか、勇人には想像もつかない。
 そろそろ、ここを離れるべきかも知れない、と勇人は思い始めていた。
 居心地が悪い、と言う訳ではなかった。逆にこれ以上多賀国府にいると、そこにいる人間の事を好きになってしまいそうだった。
 小夜や宗広や親房が生身の人間として何を考え、どんな事で思い悩んでいるか。長く接していると、どうしてもそんな事が見えて来てしまい、感情移入してしまう。小夜はまだ何を考えているか良く分からない遠い人間のままだったが、宗広や親房の事はすでにそうでなくなって来ていた。
 その日の夜、勇人は小夜の元をこちらから訪れた。

「珍しいね、どうかした?」

 小夜は蝋燭の明かりで熱心に書状を読んでいるようだった。その表情は明るくはなかったが、勇人の顔を見ると相貌を崩した。

「そろそろ、ここを出ようと思って」

 はっきりと言った。一瞬、小夜の表情が固まり、それからまた柔らかい顔を彼女は作った。

「そう。急ぐ事も無いと思うけど、仕方ないね。でも、暮らしのあてはあるの?」

「まだ何も決めていないよ。ただ、出て行かないといつまでも甘えちゃう気がしてね」

「ここで働いても別にいいんだけどね」

「ここで僕が役に立つ事は無いよ、多分」

「そっか」

 小夜は小さく頷く。

「勇人が出て行くって決めたんなら無理に止めはしないけど、でも最後に一つお願いしていい?」

「何だい?」

「勇人の事、聞かせて欲しいと思って。先の時代の事とか国の有り様とかじゃなくて、勇人の事」

「僕に他人に聞かせるような話なんて、何も無いよ」

 そう答える自分の顔が強張っているのが分かった。

「そっか、ごめん」

 小夜はすぐに引き下がった。その顔を見て、勇人は軽い罪悪感に駆られた。どうせもう二度と会う事はしまい、と決めた相手だ。些細な事で変に意地を張っても仕方ない、と思い直した。それに自分は相当に恩知らずな事をしようとしている、と言う負い目もあった。

「親の顔はどっちも憶えてないんだ。気付いたらお祖父ちゃんお祖母ちゃんと伯父さんに育てられてた」

 勇人はぽつり、と話し始めた。

「三人は母さんの話はたまにしてくれたけど、父さんの話は全然してくれなかった。だから多分、結婚せず子どもが出来て、何か理由があって父さんがいなくなって、それから母さんが死んだんだと思う」

 小夜は、きょとんとした顔をした後、黙って話を聞き始めた。

「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは小さな店をやっていて、伯父さんもその手伝いをしてた。僕も物心ついたら、その手伝いをしてたよ」

 祖父は自分に厳しく、祖母は優しかった。伯父はどちらでもなかったが、それは勇人に無関心と言うよりは接し方に戸惑っているようで、父親代わりと言うよりも歳の離れた兄のように勇人は思っていた。
 母親は写真が飾ってあったし、勇人の家族も時折話に出していた。勇人の父の気配と言う物は家には一切なかったし、勇人自身も父親と言う存在をいつ頃から自分の頭の中から締め出すようにしていた。

「最初に僕が十歳の頃に祖父母が立て続けに病気で亡くなって、それから伯父さんが僕が十五の頃に亡くなった。店はその時に、売りに出す事になった」

「他に、家族は?」

「伯父さんにも娘がいてね。僕と違ってちゃんと結婚して生まれた子どもだったけど、やっぱり母親は僕やその子の物心が付く前に亡くなったらしかった。妹みたいなものだったけど、十八になった時にその子と結婚した」

 ぽつぽつと語っていたつもりだったが、いつのまにかまくしたてるような勢いで言葉を吐き出していた。
 本当に妹のような物だとある時まではずっと勇人自身思っていた。そうでなくなったのは、他に家族と呼べる存在がいなくなり、そしていつか彼女も自分の元から離れて行く、と言う想像をした時、耐えられなくなったからだろう。

「じゃあ、奥さんがいるんだ」

 驚いたような小夜の声に、勇人は首を横に振った。

「その子も、死んだ。結婚して半年ぐらいの時に、自殺した」

 小夜が、絶句した。こうして言葉にしてみても、呆れるほどに皆早く、あっけなく死ぬ家族だった。それが何かの呪いであるなら、早く自分も死にたい。以前は何度もそう思った。

「ごめん」

 小夜が俯いた。

「どうして、自分の事は何も話さないんだろう、ってずっと思ってた。けど、興味本位で聞いちゃ行けないような事だったね」

「いや、いいよ」

 一人いなくなる毎に、自分の心からも何かが欠けていった。その感覚は回数を重ねる毎に大きくなっていき、最後の一人もいなくなった時には、身が切られるような痛みが連日、心に走り続けた。そしてそれが収まった時には、何も感じなくなっていた。
 多分自分ももう、死んでいるのだ。自分も死んでいるから、それで呪いは終わったのだ、と勇人は今は思っていた。
 小夜はうつむき、何も言わなかった。
「僕が自分の話として話せるのは、これぐらいだよ。聞いて、面白い話でもなかっただろ」
沈黙に耐えられなくなり、勇人の方から口を開いた。皮肉に聞こえないように注意したつもりだったが、それでもどうしても声が上ずり、自分の耳には皮肉を言っているように聞こえた。小夜は顔を上げ、立ち上がると棚から小さな袋と脇差を出した。

「身の回りに使う物として渡した物は、好きに持って行っていいよ。それと、少ないけど困ったら当座はこのお金を使って」

「ここまで世話になって何もせず出て行くのに、こんな物まで受け取れないよ。それに、刀は僕は使えない」

「色んな話を聞かせてもらった分の代金だと思って。それで納得が行かなかったら、いつか余裕が出来た時にまた返しに来てくれればいい。刀は、念のためだよ。必要なかったらこれも売ればいいと思う」

「ありがとう」

 しばらく考えて、受け取る事にした。どの道、もうこれまでに散々に彼女の好意に甘えているのだ。

「明日の朝には出て行くよ。一応言っておくけど、見送りはいらないから」

「分かった。じゃあ、これでさよならだね」

「ここに来た時君に拾ってもらえて、本当に助かったよ。多分そうでなかったら大して生きられなかったと思う」

「短い間だったけど、私も勇人からいろんな話を聞けて良かったよ」

 社交辞令のような中身の無い事を喋っている、と勇人は思った。結局自分は、最後までこの少女とは本音で話さなかった、と言う気がした。

「勇人」

 部屋から出て行こうとした時、小夜に呼び止められた。

「何だい?」

 振り向き、小夜の表情を見て勇人は戸惑った。普段のやわらかい笑顔でも、毅然とした表情でも無く、心細げな、泣き出しそうにすら見える顔をしている。

「ううん、何でもないや。元気で」

 少しだけ間を開けて小夜は言った。勇人は無言で頷き、そのままもう一度振り向くと出ていった。
何でだよ、と勇人は口の中で呟いていた。自分でも良く分からない感情が渦巻いている。苛立ちなのか、もどかしさなのか、それが小夜に対して向けた物なのか、自分に対してなのかも判然としなかった。
暗い廊下を進もうとし、しかし足が先へと進まなかった。

「消えるのかい、お兄さん」

 不意に、闇の中からそんな声がした。声のした方向を見たつもりだったが、声の主は勇人の背後に現れた。
ゆっくりと振り向く。若い少女だった。自分よりも歳下だろう。表情は明るく、しかし不敵でどこかこちらを小馬鹿にしたような印象の笑顔だった。

「誰だい?」

「楓。小夜の下で働いてる忍び、って言えば通じるかな?」

「なるほど」

 小夜が何人もの忍者を使っている、と言う話は聞いていた。しかし実際にそう名乗る人間と顔を合すのは初めてだった。

「僕に何か用かな?」

「この機にお兄さんを殺しておくべきかどうかの見極めにね」

 楓と名乗った少女は笑いながらそう言った。

「殺してしまった方がいいと思うんなら遠慮無くやればいいさ。多分僕が生きててもあの子の害になる事はあっても益になる事は無いよ」

 苛立ちと共に言葉を吐き出していた。同時にそんな風な投げやりさに、さらに苛立つ自分がどこかにいた。

「さて、ところがそう簡単にも行かないのよねえ、これが」

「どうしてだよ」

「小夜の方はお兄さんに出来れば長生きしてほしいと思ってるから、かな」

「その気になれば数万人からの人間の命を左右できる身分の人間が、何で僕一人の生き死にを気にするんだよ」

 勇人がその言葉を言い終えるか否かの間に、楓は何の前振りも無く距離を詰めていた。そしてそれに反応するよりも早く鳩尾に衝撃が走り、気が付いた時には息も吐けずに勇人は廊下に膝を突いていた。

「本気でそう思ってるんならお兄さんは最低だねえ。それとも六百年先の人間って言うのは皆そう言う考えをするの?」

 勇人を見下ろしながら、楓はけらけらと笑う。

「いきなり、何をっ」

 ろくに言葉にならなかった。立ち上がれない。

「あはは、ごめんごめん。お兄さんがあんまり酷い事を言うもんだからつい手が出ちゃった」

 そう言うと楓はしゃがみ、勇人と同じ高さにまで視線を落とす。

「小夜は化け物じゃあないんだよ。人間はそんな簡単に、人間以外の物にはなれない。ましてや、たった十七歳の優しい女の子が、他人の生き死にに何も感じないようになるなんて、そうそう出来る訳ないでしょう」

「それが、何だって言うんだ。例えあの子がどんな人間だろうが、それは僕には関係無い事のはずだ」

「違うね、関係無いんじゃない。お兄さんは自分には関係の無い事だと思い込むためにあの子を心の中で勝手に化け物にしてるんだよ」

 楓の言葉は、肺腑を突いて来た。

「小夜は自分とはまるで違う人間だから、何を考えているか分からないから、遠い世界にいるから、普通の人間と同じ心を持ってないから。だから自分があの子に出来る事は何も無いし、何もする必要もない。あの子には自分の助けは必要ない、あの子は自分には関係無い」

「僕は」

「小夜がどれだけお兄さんの事を気に掛けて心配して助けてくれてもそれを気にする事なんて無い。都合のいい理屈だね」

「そうだとしても、それの何が悪いんだ」

 絞り出すような声で勇人は答えた。

「あの子には確かに世話になったさ。好意も受けた。でも、それに僕がどう応えるかなんて僕の自由のはずだ」

「それでいいのなら、それでいいんじゃない」

「なら、何で」

「私はただ、言わずにいられなかっただけだよ」

 嘲弄かとすら思えた笑顔も不敵さも、突然に手を出してくる危険な雰囲気も一瞬で不思議なほど鳴りを潜めた。まるで全く別の人間かのような真摯さで楓は勇人の目をじっと見つめて来る。

「最初にお兄さんを見た時、どこか歪んでるなあ、と思った。しばらく見てて、今はそれが何だったのか分かった気がする」

「へえ」

「もう誰かを好きになって、その人が自分の側からいなくなることに怯えたくはない。大切な誰かの死を嘆くのはもう嫌だ。だから、ここではもう誰とも関わり合いになりたくない」

「僕は、そんなに分かりやすいかな。それとも、君は人の心が読めるのかい?」

 自分の顔が引きつっている事を感じつつ、それでも勇人は、慎重に自分の中から憤りや苛立ちを追い出して楓と向き合おうとした。感情的になっては、そのまま彼女に飲まれる気がした。

「さあ?お兄さんの中の哀しい部分が強過ぎて、滲み出てるだけじゃない?多分、小夜はそこまでは気付いてないと思う。私は、これでも結構鋭いからねえ」

「鋭すぎるよ。人の心の中を覗かないでくれ」

「仕事柄、どうしても人の心の中を見ちゃうくせが着いちゃってねえ。大抵は見たくも無いような汚い物が見えるだけだけど、たまに、そうでない物も見える」

「僕はどっちなのやら」

「汚くは無いかもしれないね。ただ、歪んでる。見てて辛くなるほどに、哀しみで歪んでる。だから、それでいいのって、言わずにはいられなかった。小夜が言いたくても言えなかった事を、代わりに言ってる部分もあるけどね。自分のために、なんて言える子じゃないからさ」

 勇人は一瞬目を閉じた。自分は、また何の前触れもなく元の時代に戻れるかも知れない人間だった。そうなれば、この時代で起きた事、出会った人間は全て現実離れした夢か幻として忘れられるはずだった。
 このまま歴史通りに物事が進めば、四年後に小夜が死ぬと言う事と、それに対して自分に何か出来る可能性があるのかと言う事は、必死に考えないようにした。

「お節介だな、君も。だけど僕は、このままでいいよ」

「そう」

 楓は、特に失望したような様子も無く頷いた。同時に、自分と向き合っていた真摯さも消えていた。

「引き留めて悪かったね、お兄さん」

「殺さないのかい?」

「今は、やめとく」

 そう言うと楓は勇人に背を向け、闇の中に消えた。
 初めて顔を合わせた人間に、言いたい放題に言われた物だった。だが、結局反論の言葉も否定の言葉もほとんど出ては来なかった。彼女が勇人について語った言葉で間違っていた部分は無かった気がした。
 勇人はそのまま自分にあてがわれた部屋に向かって歩き出した。ここを出ていく準備をしなくてはならない。
 情けない、と言う呟き声がした。
 自分の、呟きだった。
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