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1-3 建速勇人(2)
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途中一度の休憩を挟み、軍勢は半日掛けて日が落ちる直前に城へと着いた。
具足で固めている兵達は平然とその行軍をこなしていたが、勇人は途中で疲れ果ててかなり歩くのが遅れた。急がされる事は無く、見張りの兵もそれに合わせて軍勢の最後尾から遅れて付いて来てくれた。
今まで体力が無い方だと思った事は無かったが、舗装もされていない傾斜の激しい山道を長時間歩いた経験はなく、それは相当に辛い物だった。休憩では見張り役の兵士から木の皮で包まれた焼いた握飯のような物とからからに乾いた漬物を差し出された。食べやすい物ではなかったが、それ以上に空腹で自然と喉に通った。
見張りの兵は勇人と話す事を禁じられているのか、何も語る事は無かったが、北畠顕家に引き合わされて以降は扱いは丁寧で、むしろ親切と言ってもいい態度だった。
顕家が率いている軍勢は整然とした物で、行軍中もほとんどざわめきも聞こえなかった。数は最後尾から付いて来た勇人には見当がつかないが、少なくとも百人や二百人ではない。
歩きながら自分が今置かれている状況について勇人は考え続けていた。夢と言う訳では無さそうだ。では本当にタイムスリップしてしまったのか。自分の記憶している知識が間違いでなければ、六百年以上も昔の南北朝時代に。
一体どうしてそんな事になったのか、真剣に考える気も最初から起きない程に理由も原因も皆目見当はつかなかった。自分はただのどこにでもいる大学生のはずだ。
結局、考えながらも軍勢に従って大人しく歩き続けるしかなかった。逃げ出した所でどうにかなる物でも無かった。元の時代に戻る方法どころか、この時代で行くあてもないのだ。
南北朝時代と言えば、鎌倉幕府が滅ぼされ、足利尊氏が開く室町幕府が三代掛かって天下を平定するまでの間の戦乱の時代のはずだった。その程度の事は思い出せる。
だが、日本史の授業でも大した分量を割く事は無いし、戦国時代や幕末と比べれば娯楽作品で扱われる事も少ない時代だ。
勇人は途中でタイムスリップの事に付いて考える事の無駄を悟り、次は必死に色々な本で得たわずかずつのこの時代の知識を思い出そうとしていた
城に着くと、宗広、と呼ばれていた年かさの武士が声を掛けて来た。
「疲れているようだな」
改めて近くで見てみると、温厚な顔立ちをした人好きのしそうな中年の男だった。
「わしは結城宗広と言う。顕家様の評定衆だ。ここは顕家様が居城にされている多賀城だ」
「建速勇人です」
「お主、先ほど言った言葉は、あれは本気か?」
「冗談であんな事は言いませんよ。命が掛かってますし」
ふむ、と宗広はまじまじと勇人の顔を見やった。
「今までは軍中だったが、軍を離れればお主は捕らわれの身と言う訳ではない。もちろん顕家様の客人として城の中に入れば自由に動き回る、と言う事は出来なくなるが」
「僕はこれからどうなるんですか?」
「お主が決める事だな、それは」
宗広は首を振った。その動作は何だか息子か娘の気まぐれに付き合っている父親のように見えた。
「わしにはお主が本当の事を言っているのか、それとも気の違った人間なのかは分からんが、とにかく顕家様はお主を気に入られたようだ。素直にしばらくここに留まってもそう悪い事にはならぬとは思う」
「北畠顕家様と言うのはどのような人なんですか?」
「英邁であられるな。歳はお主とそう変わらぬが、全てにおいて卓越されている。しかしそう気難しい方ではないよ」
そう言った後、宗広は少し真剣な顔をする。
「お主は数百年の先の時代から来たと言ったが、顕家様やわしがこの先どのような事になるのか知っておるのか?」
そう言われ、勇人は言葉に詰まった。
ここに来るまでの間にどうにか思い出していたのだ。陸奥守北畠顕家。彼が歴史上どのような軌跡を辿ったのか。しかしここでそれをそのまま話せば、宗広の怒りを買うかも知れない。いや、そうでなくても自分が知っている事をこの世界の人間達にそのまま伝える事をしていいものかどうか、勇人には分からなかった。
「ま、良かろう」
勇人が返答に窮しているのを見て取ったのか、宗広はそう言った。
「わしにはお主の話の真偽の見極めなど出来そうもないし、顕家様はお主から直接詳しく話を聞きたいと思っておられるようだ。お主からその辺りの話を聞くのは顕家様に任せるとしよう」
「はい」
「ついて来い。取り敢えず空いている部屋に案内する」
そう言うと宗広は先に立って歩いて行く。勇人もそれに従った。
「そう言えば」
途中で勇人の方から口を開いた。
「何だ?」
「左近と、それと多分ちあめ、と言う名前の二人に助けられたのですが、ちゃんとお礼も言えていません。あの二人はどこにいるのでしょう?」
「その二人は顕家様が使われている忍びだな。山の中の行軍だったので道案内と斥候をしていたはずだ。今どこにいるのかはわしも知らん。忍び相手の場合、何をしているのか知ろうとするだけで足を引っ張る事もあるからな」
「なるほど」
通されたのは小さな部屋だった。まず井戸と厠の場所を教え、それからひとまず出歩いてもいい場所がどこかを伝えると宗広は出て行った。
部屋には行灯があり、宗広は出て行く前にそれを着けて行ったが、それでもほとんど真っ暗だった。
見張りらしい人間はいなかった。勇人は座り込むと足を延ばした。神経が張り詰めていてこれまであまり自覚は無かったが、もう一歩も歩けないと思うほどに疲れ果てていた。
自分が今置かれている状況について、あまり恐怖も焦りも感じていない自分を勇人は自覚していた。現実味が無いと言う訳ではない。ショックで感情が麻痺しているのか、あるいは開き直っているのか。多分、そのどちらでも無いだろう。
単純に、それだけ自分と言う人間は何者でも無かった、と言うだけの事だ。こうしていても、残して来た物に対する不安や、もう二度と会えないかもしれない人間に対する思いなどが、何も浮かんでこないのだ。自分が元いた時代で行方不明になっているとしても、それを本気で心配して探す人間も少し思い浮かばない。
家族は一人もおらず、友人と呼べる相手も表面だけの付き合いの者達だけだった。当然と言えば当然の事なのだろう。
もし仮に自分がこの時代に来た事が何かを為すためで、そして誰かが自分を選んだのだとしたら、少なくとも後腐れの無さと言う意味ではこの人選は正解だった訳だ、と勇人は皮肉な気分で思った。もっとも、何の意図も役目も無く、たまたまあちらから弾き出されただけだった、と言う方がより自分には相応しいだろうが。
「入るよ」
女性の声がして、襖が開いた。若い女性、いや、少女が顔を出す。恐らく、勇人より歳下だろう。淡い色の着物を着ている。行灯の明かりでもはっきり分かるほど美しい顔立ちの少女で、勇人は一瞬見惚れてしまった。
「着替え持って来たよ」
彼女はそう言って布包みを差し出す。
「着替え?」
「だいぶ埃まみれだよ。休む前に着替えた方がいいよ」
「あ、うん。ありがとう」
彼女はそれを差し出すと、出て行く事はせず、そのまま勇人と向き合うようにしゃがみ込んだ。
「私は小夜。この城で働いてるよ」
「建速勇人だよ」
「勇人は何百年も先から来たって聞いたけど」
そう言って彼女は勇人の服をまじまじと見つめる。
「変わった服だね。それに履物もさっき見たけど、深沓かな?丈夫そうで、でも足が痛くもならなさそうで便利そうな履物だったね」
「僕が住んでた時代じゃ、これが普通さ」
「ふうん」
こちらを見る小夜の眼差しが変わった。深い光を放って勇人の眼を正面から覗き込んでくる。一つの予感がした。
「具体的には何年先から来たか、言える?今は建武元年だけど」
「六八三年後だね」
建武元年は一三三四年だった。この二年後が有名な湊川の戦いなため、辛うじて年号を憶えていた。
「途方もない話だね。六八三年後の世の中がどうなってるのか、教えてもらってもいい?」
「いいよ。と言っても僕もそんなに勉強してる訳じゃないから正しい話かどうかは分からないけどね」
好奇心旺盛な風に見えるが、同時に彼女は話を聞く事で自分を測ろうともしている。勇人はそう思った。
それから勇人は、自分が来た時代とこの時代の差を、歴史や政治に関する知識を交えながら出来る限り丁寧に語りだした。
もっとも、この時代の事は勿論、自分が住んでいた現代の事も隅々まで具体的に知っている訳ではない。なので語る内容は勇人の抱いている印象に依存する物になったが、それでも小夜はとても興味深そうに目を輝かせながら話を聞いていて、途中で何度も質問を挟んできた。
理解力は現代人である勇人の眼から見ても優れていた。現代の社会の話など十四世紀の人間に語ってどうなるのか、と言う思いがあったが、小夜はすんなりと勇人の話を受け入れ、正しいかどうかはさておき、勇人が語る現代、と言う物を自分の頭の中に思い浮かべたらしかった。
最後に証拠として勇人が持っているスマートフォンの使える機能の内いくつかを見せ、小夜に感嘆の声を上げさせ、勇人はひとまず話を終えた。
「疑えないね、勇人が未来から来たって言う話も、その未来がそれだけ今より進歩してるって言う話も」
首を振りながらそう言うと、小夜は我に返ったような顔をした。
「ごめん、色々あって疲れてるでしょうに、長話させちゃったね」
「いや、いいよ。それに本当に聞きたい事はまだ聞けてないんじゃないかな」
小夜が、首を捻る。
「僕が嘘を吐いていたり、あるいは気が違った人間じゃないと言うのが確かめられたのなら、次はこの時代がこの先どうなるか、知りたいんじゃないかな」
勇人がそう言うと、小夜は素直に頷いた。
「そうだね。勇人が疲れてるんなら明日改めて聞こうと思ったけど、話してくれるって言うんなら、おおまかにでもどうなるか聞きたいかな」
「その前に僕から一つ聞きたいんだけど」
「何?」
「本当に君が北畠顕家なのかな?それとも、何か理由があってあの時は影武者でも務めてたのかな?」
そう口に出すのに、特別に勇気や気負いはいらなかった。
その言葉に、小夜は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑って、また頷いた。
「私が、北畠顕家だよ」
「そっか」
「どうして分かったの?ひょっとして未来では私の正体もばれてた?」
「いや、僕が知る限りばれてないよ。どうして、と言われると何となくとしか。ただ、君は単に城で働く女の子の目をしていないよ。それに体格も同じだし、僕があった北畠顕家は変に声を作ってた気がしたしね」
「なるほどなー」
勇人がそう言うと小夜は肩を落とした。
「結構演じ分けてる自信はあったんだけど、出会って早々の勇人に見破られるようじゃ、迂闊にこっちの格好でも人前には出られないかなあ」
「秘密を守るために斬られるかな」
半ば本気だったが、小夜は心外そうな顔をした。
「そんな事しないよ」
「そっか。けど、どうして女の子だってことを隠して役目に付いてるの?」
「私が自分で自分を英傑だと思って、お父さんがそれを認めたから、かな」
少し考え込み、言葉を選ぶように小夜はそう言った。
「女だと兵を率いて戦うのは難しいからね」
「英傑、ね」
「笑われるかもしれないけど、私は子どもの頃に自分で自分を天下万民のために何か出来る人間だって思ったのよ。だから顕家と言う男として生きる事にした」
「剛毅な事だね」
相槌を打ちはしたが、声は乾いていた。
「私がこの先どうなるか、教えてくれる?」
小夜は勇人の目を正面から覗き込むようにして、尋ねてきた。その目は山中で顔を合わせた時と同じで、曖昧な事を言って誤魔化そう、などと言う事を許させないように思えた。
「君は死ぬよ。今から四年後に、足利との合戦に負けて」
自分が何か言う事で歴史を変えてしまうのではないかとか、あるいは目の前の少女にほんの数年先に迫った死の運命を伝えるのは酷な事なのではないか、とか、そんな理由から来る躊躇いもほとんど無かった。
「そう」
小夜の表情は変わらなかった。
「詳しく歴史を勉強した訳じゃないから、細かい事は僕も知らない」
「分かった。ありがとう。疲れてる所、遅くまでごめんね」
小夜が頷くと立ち上がる。
「それだけ?」
「それだけ、って?」
「怖くないのかい、たった四年後に死ぬのが」
そう言うと小夜は少し笑って首を振った。
「私はもう一年近くこの奥羽で兵を指揮して戦ってるんだよ。兵を指揮するって事は、その兵達に何かのために死ね、って言う事。その私が自分が死ぬ事を怖がってちゃ行けないと思う」
「そっか」
目の前の少女の言う事に何の実感も湧かなかった。時代の差など関係無い所で、自分とは生きている世界が違い過ぎる。山の中で出会った時に感じた大きさと深さが、こうして直接素顔を見て向かい合ってみると、余計に人ではない物が持つような異質さとして際立ち、違和感を感じてしまうのかも知れない。
「じゃ、また明日。朝餉の時間の前には起こしに来るよ。勇人がどうするかは、また決めよう」
これ以上彼女と話していたくない。自分がそう思っているのに気が付く前に、小夜は会話をやめ、出て行った。
ごろり、と一人残された勇人は寝転がった。ひどく居心地の悪い感じが、胸の奥に残っていた。
具足で固めている兵達は平然とその行軍をこなしていたが、勇人は途中で疲れ果ててかなり歩くのが遅れた。急がされる事は無く、見張りの兵もそれに合わせて軍勢の最後尾から遅れて付いて来てくれた。
今まで体力が無い方だと思った事は無かったが、舗装もされていない傾斜の激しい山道を長時間歩いた経験はなく、それは相当に辛い物だった。休憩では見張り役の兵士から木の皮で包まれた焼いた握飯のような物とからからに乾いた漬物を差し出された。食べやすい物ではなかったが、それ以上に空腹で自然と喉に通った。
見張りの兵は勇人と話す事を禁じられているのか、何も語る事は無かったが、北畠顕家に引き合わされて以降は扱いは丁寧で、むしろ親切と言ってもいい態度だった。
顕家が率いている軍勢は整然とした物で、行軍中もほとんどざわめきも聞こえなかった。数は最後尾から付いて来た勇人には見当がつかないが、少なくとも百人や二百人ではない。
歩きながら自分が今置かれている状況について勇人は考え続けていた。夢と言う訳では無さそうだ。では本当にタイムスリップしてしまったのか。自分の記憶している知識が間違いでなければ、六百年以上も昔の南北朝時代に。
一体どうしてそんな事になったのか、真剣に考える気も最初から起きない程に理由も原因も皆目見当はつかなかった。自分はただのどこにでもいる大学生のはずだ。
結局、考えながらも軍勢に従って大人しく歩き続けるしかなかった。逃げ出した所でどうにかなる物でも無かった。元の時代に戻る方法どころか、この時代で行くあてもないのだ。
南北朝時代と言えば、鎌倉幕府が滅ぼされ、足利尊氏が開く室町幕府が三代掛かって天下を平定するまでの間の戦乱の時代のはずだった。その程度の事は思い出せる。
だが、日本史の授業でも大した分量を割く事は無いし、戦国時代や幕末と比べれば娯楽作品で扱われる事も少ない時代だ。
勇人は途中でタイムスリップの事に付いて考える事の無駄を悟り、次は必死に色々な本で得たわずかずつのこの時代の知識を思い出そうとしていた
城に着くと、宗広、と呼ばれていた年かさの武士が声を掛けて来た。
「疲れているようだな」
改めて近くで見てみると、温厚な顔立ちをした人好きのしそうな中年の男だった。
「わしは結城宗広と言う。顕家様の評定衆だ。ここは顕家様が居城にされている多賀城だ」
「建速勇人です」
「お主、先ほど言った言葉は、あれは本気か?」
「冗談であんな事は言いませんよ。命が掛かってますし」
ふむ、と宗広はまじまじと勇人の顔を見やった。
「今までは軍中だったが、軍を離れればお主は捕らわれの身と言う訳ではない。もちろん顕家様の客人として城の中に入れば自由に動き回る、と言う事は出来なくなるが」
「僕はこれからどうなるんですか?」
「お主が決める事だな、それは」
宗広は首を振った。その動作は何だか息子か娘の気まぐれに付き合っている父親のように見えた。
「わしにはお主が本当の事を言っているのか、それとも気の違った人間なのかは分からんが、とにかく顕家様はお主を気に入られたようだ。素直にしばらくここに留まってもそう悪い事にはならぬとは思う」
「北畠顕家様と言うのはどのような人なんですか?」
「英邁であられるな。歳はお主とそう変わらぬが、全てにおいて卓越されている。しかしそう気難しい方ではないよ」
そう言った後、宗広は少し真剣な顔をする。
「お主は数百年の先の時代から来たと言ったが、顕家様やわしがこの先どのような事になるのか知っておるのか?」
そう言われ、勇人は言葉に詰まった。
ここに来るまでの間にどうにか思い出していたのだ。陸奥守北畠顕家。彼が歴史上どのような軌跡を辿ったのか。しかしここでそれをそのまま話せば、宗広の怒りを買うかも知れない。いや、そうでなくても自分が知っている事をこの世界の人間達にそのまま伝える事をしていいものかどうか、勇人には分からなかった。
「ま、良かろう」
勇人が返答に窮しているのを見て取ったのか、宗広はそう言った。
「わしにはお主の話の真偽の見極めなど出来そうもないし、顕家様はお主から直接詳しく話を聞きたいと思っておられるようだ。お主からその辺りの話を聞くのは顕家様に任せるとしよう」
「はい」
「ついて来い。取り敢えず空いている部屋に案内する」
そう言うと宗広は先に立って歩いて行く。勇人もそれに従った。
「そう言えば」
途中で勇人の方から口を開いた。
「何だ?」
「左近と、それと多分ちあめ、と言う名前の二人に助けられたのですが、ちゃんとお礼も言えていません。あの二人はどこにいるのでしょう?」
「その二人は顕家様が使われている忍びだな。山の中の行軍だったので道案内と斥候をしていたはずだ。今どこにいるのかはわしも知らん。忍び相手の場合、何をしているのか知ろうとするだけで足を引っ張る事もあるからな」
「なるほど」
通されたのは小さな部屋だった。まず井戸と厠の場所を教え、それからひとまず出歩いてもいい場所がどこかを伝えると宗広は出て行った。
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見張りらしい人間はいなかった。勇人は座り込むと足を延ばした。神経が張り詰めていてこれまであまり自覚は無かったが、もう一歩も歩けないと思うほどに疲れ果てていた。
自分が今置かれている状況について、あまり恐怖も焦りも感じていない自分を勇人は自覚していた。現実味が無いと言う訳ではない。ショックで感情が麻痺しているのか、あるいは開き直っているのか。多分、そのどちらでも無いだろう。
単純に、それだけ自分と言う人間は何者でも無かった、と言うだけの事だ。こうしていても、残して来た物に対する不安や、もう二度と会えないかもしれない人間に対する思いなどが、何も浮かんでこないのだ。自分が元いた時代で行方不明になっているとしても、それを本気で心配して探す人間も少し思い浮かばない。
家族は一人もおらず、友人と呼べる相手も表面だけの付き合いの者達だけだった。当然と言えば当然の事なのだろう。
もし仮に自分がこの時代に来た事が何かを為すためで、そして誰かが自分を選んだのだとしたら、少なくとも後腐れの無さと言う意味ではこの人選は正解だった訳だ、と勇人は皮肉な気分で思った。もっとも、何の意図も役目も無く、たまたまあちらから弾き出されただけだった、と言う方がより自分には相応しいだろうが。
「入るよ」
女性の声がして、襖が開いた。若い女性、いや、少女が顔を出す。恐らく、勇人より歳下だろう。淡い色の着物を着ている。行灯の明かりでもはっきり分かるほど美しい顔立ちの少女で、勇人は一瞬見惚れてしまった。
「着替え持って来たよ」
彼女はそう言って布包みを差し出す。
「着替え?」
「だいぶ埃まみれだよ。休む前に着替えた方がいいよ」
「あ、うん。ありがとう」
彼女はそれを差し出すと、出て行く事はせず、そのまま勇人と向き合うようにしゃがみ込んだ。
「私は小夜。この城で働いてるよ」
「建速勇人だよ」
「勇人は何百年も先から来たって聞いたけど」
そう言って彼女は勇人の服をまじまじと見つめる。
「変わった服だね。それに履物もさっき見たけど、深沓かな?丈夫そうで、でも足が痛くもならなさそうで便利そうな履物だったね」
「僕が住んでた時代じゃ、これが普通さ」
「ふうん」
こちらを見る小夜の眼差しが変わった。深い光を放って勇人の眼を正面から覗き込んでくる。一つの予感がした。
「具体的には何年先から来たか、言える?今は建武元年だけど」
「六八三年後だね」
建武元年は一三三四年だった。この二年後が有名な湊川の戦いなため、辛うじて年号を憶えていた。
「途方もない話だね。六八三年後の世の中がどうなってるのか、教えてもらってもいい?」
「いいよ。と言っても僕もそんなに勉強してる訳じゃないから正しい話かどうかは分からないけどね」
好奇心旺盛な風に見えるが、同時に彼女は話を聞く事で自分を測ろうともしている。勇人はそう思った。
それから勇人は、自分が来た時代とこの時代の差を、歴史や政治に関する知識を交えながら出来る限り丁寧に語りだした。
もっとも、この時代の事は勿論、自分が住んでいた現代の事も隅々まで具体的に知っている訳ではない。なので語る内容は勇人の抱いている印象に依存する物になったが、それでも小夜はとても興味深そうに目を輝かせながら話を聞いていて、途中で何度も質問を挟んできた。
理解力は現代人である勇人の眼から見ても優れていた。現代の社会の話など十四世紀の人間に語ってどうなるのか、と言う思いがあったが、小夜はすんなりと勇人の話を受け入れ、正しいかどうかはさておき、勇人が語る現代、と言う物を自分の頭の中に思い浮かべたらしかった。
最後に証拠として勇人が持っているスマートフォンの使える機能の内いくつかを見せ、小夜に感嘆の声を上げさせ、勇人はひとまず話を終えた。
「疑えないね、勇人が未来から来たって言う話も、その未来がそれだけ今より進歩してるって言う話も」
首を振りながらそう言うと、小夜は我に返ったような顔をした。
「ごめん、色々あって疲れてるでしょうに、長話させちゃったね」
「いや、いいよ。それに本当に聞きたい事はまだ聞けてないんじゃないかな」
小夜が、首を捻る。
「僕が嘘を吐いていたり、あるいは気が違った人間じゃないと言うのが確かめられたのなら、次はこの時代がこの先どうなるか、知りたいんじゃないかな」
勇人がそう言うと、小夜は素直に頷いた。
「そうだね。勇人が疲れてるんなら明日改めて聞こうと思ったけど、話してくれるって言うんなら、おおまかにでもどうなるか聞きたいかな」
「その前に僕から一つ聞きたいんだけど」
「何?」
「本当に君が北畠顕家なのかな?それとも、何か理由があってあの時は影武者でも務めてたのかな?」
そう口に出すのに、特別に勇気や気負いはいらなかった。
その言葉に、小夜は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑って、また頷いた。
「私が、北畠顕家だよ」
「そっか」
「どうして分かったの?ひょっとして未来では私の正体もばれてた?」
「いや、僕が知る限りばれてないよ。どうして、と言われると何となくとしか。ただ、君は単に城で働く女の子の目をしていないよ。それに体格も同じだし、僕があった北畠顕家は変に声を作ってた気がしたしね」
「なるほどなー」
勇人がそう言うと小夜は肩を落とした。
「結構演じ分けてる自信はあったんだけど、出会って早々の勇人に見破られるようじゃ、迂闊にこっちの格好でも人前には出られないかなあ」
「秘密を守るために斬られるかな」
半ば本気だったが、小夜は心外そうな顔をした。
「そんな事しないよ」
「そっか。けど、どうして女の子だってことを隠して役目に付いてるの?」
「私が自分で自分を英傑だと思って、お父さんがそれを認めたから、かな」
少し考え込み、言葉を選ぶように小夜はそう言った。
「女だと兵を率いて戦うのは難しいからね」
「英傑、ね」
「笑われるかもしれないけど、私は子どもの頃に自分で自分を天下万民のために何か出来る人間だって思ったのよ。だから顕家と言う男として生きる事にした」
「剛毅な事だね」
相槌を打ちはしたが、声は乾いていた。
「私がこの先どうなるか、教えてくれる?」
小夜は勇人の目を正面から覗き込むようにして、尋ねてきた。その目は山中で顔を合わせた時と同じで、曖昧な事を言って誤魔化そう、などと言う事を許させないように思えた。
「君は死ぬよ。今から四年後に、足利との合戦に負けて」
自分が何か言う事で歴史を変えてしまうのではないかとか、あるいは目の前の少女にほんの数年先に迫った死の運命を伝えるのは酷な事なのではないか、とか、そんな理由から来る躊躇いもほとんど無かった。
「そう」
小夜の表情は変わらなかった。
「詳しく歴史を勉強した訳じゃないから、細かい事は僕も知らない」
「分かった。ありがとう。疲れてる所、遅くまでごめんね」
小夜が頷くと立ち上がる。
「それだけ?」
「それだけ、って?」
「怖くないのかい、たった四年後に死ぬのが」
そう言うと小夜は少し笑って首を振った。
「私はもう一年近くこの奥羽で兵を指揮して戦ってるんだよ。兵を指揮するって事は、その兵達に何かのために死ね、って言う事。その私が自分が死ぬ事を怖がってちゃ行けないと思う」
「そっか」
目の前の少女の言う事に何の実感も湧かなかった。時代の差など関係無い所で、自分とは生きている世界が違い過ぎる。山の中で出会った時に感じた大きさと深さが、こうして直接素顔を見て向かい合ってみると、余計に人ではない物が持つような異質さとして際立ち、違和感を感じてしまうのかも知れない。
「じゃ、また明日。朝餉の時間の前には起こしに来るよ。勇人がどうするかは、また決めよう」
これ以上彼女と話していたくない。自分がそう思っているのに気が付く前に、小夜は会話をやめ、出て行った。
ごろり、と一人残された勇人は寝転がった。ひどく居心地の悪い感じが、胸の奥に残っていた。
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