ふたごの山のやまがら

文字の大きさ
上 下
1 / 1

青年は十数年ぶりにその土地を踏んだ。

しおりを挟む
斑に白に染まった山のすそ、白灰のあぜ道に、うっすらとのぞいた黒が点々と続いていた。
冷たい空気が張り詰めている。
青年は小さな寺にある登山口の前で立ち止まり、地面に視線を落としていた。
時おり顔を上げて奥をのぞき込んでは、山の沈黙に押し戻されるかのようにまた下を向いている。
足元の白色はすでに靴裏に吸い込まれ、その踵が湿った土をへこませていびつな穴を作っていた。吹きすさぶ風で地面の雪が舞い上がって景色に薄白いカバーをかけ、共に青年の髪も舞い上がる。

煩わしそうにその髪を青年が掻き上げた時、背中にふいに声が降った。

「山にのぼるの?」

振り向くと、少年がいた。マフラーで鼻までをしっかり覆い、ニット帽をかぶっている。かろうじて見える少年のあどけない目が、青年をじっと見つめていた。

「この山はふたごなんだよ。しってた?」

突然の少年の言葉に、青年は困惑しながら返答する。

「山頂が二つある、双耳峰だろ。知ってるよ。登ったことはあるからな。高い方が太郎、低い方が次郎だっけ」

「そう!」

少年は嬉しそうに手を叩く。

「じろうとたろう、りょうほうに行く?それならくらくなるし、もうのぼったほうがいいよ」

そう言うと同時に、少年はぱっと走り出した。その勢いに面食らい、青年は動きもせずにただ少年を見送った。
それからしばらく荷物を持ってしばらくぼんやりとしていたが、やがて登山道の奥に消えていった小さい背中に引き寄せられるように歩き出した。
静かな土の匂いの中へ、青年は進む。



山は音を抱え込んでいる。

踏み荒らされていない白い雪と、岩のように固い汚れた雪が光を伸ばす。
葉を落とした木々の群れは絡み合い、不規則にたわんで揺れた。
骨のようなその姿を明け透けにさらして錆色にひしめき合っている。
葉と雪と土が擦れて鈍く響き、全く別の方向から足音が聞こえてくるかのように錯覚させる。
幾重にも折り重なった死んだ枝と、層になって腐っている幾年の落葉は、踏まれると独特な音を出すのだ。
白と黒と褐色の光景に、段々と青年は支配されていった。


青年が仕事を辞めた時、幼少期を過ごしたこの地をふっと思い出した。
そうしてどうしようもない思いに駆られて、気付けばこの場所に足を踏み入れていた。ほとんど逃げてきたようなものだと思いながら、青年は足元の雪を蹴りつける。


昼過ぎにしては薄暗い冬の空の下、視界を遮る枝が煩わしく、衝動的に強く払いのけるとあっけなく折れて落ちる。
枝を拾ってじっくりと見て、青年は自嘲的な笑みを浮かべている。
目の前に、途方に暮れて立ち尽くす自分の姿が見え、たまらず枝を投げつける。心細い自分の姿を振り払うように、青年は山頂をめざして小刻みに足を運ぶ。


その道中に、陽気に不思議な動きをしている老人たちと青年は遭遇した。
周囲を見ると、かすかに鳥の姿がある。餌付けをしようとしているのであろうと思い至ったが、木々の前で延々と手を上げて発声している集団は、青年の目にはひどく滑稽に映って、どうしようもなく苛立ってしまう。
不思議なことに、自分でも何故そんな感情が起きるのかはてんで分からず、ただその違和感を背負いながら近づいていく。よく見ると、集団の一人が笑顔を浮かべながら、青年に軽く手を挙げていた。それに気づいた後も、集団を横目に見ながら、関わらないようにと苛立ちを隠し足早に通り過ぎた。


痩せた木立はいつまでも続いた。冬の重い風が吹いている。
ふと下を見ると、ピーナッツがある。それを拾い、気まぐれに手に乗せて立ち止まってみた。何も変化は無い。視界にいる数えるほどの鳥は、微動だにしなかった。
青年の唇が小さく動く。

「当たり前だ」

そのまましばらく青年は立っていた。勿論鳥は来なかった。



 一つ目の山頂、通称、次郎の頂に立った時、青年の心を満たしたのは失望であった。青年にはそこは彩度の低い貧相な色彩の風景に見えたのだ。そのまま下を眺めると、同じような印象の景色が広がっていた。

 青年は故郷と呼べるほどの時間をここで過ごした訳ではなかった。しかし、転勤族だった青年が一番長く過ごした場所がここであることは確かであった。
その町が、時間が、思い出が、何もかもが灰色の風景の中に閉じ込められているようで青年はぞっとした。
咄嗟に他の人間を探すが、遠くに人影が一つ二つあるだけで、付近に人は見当たらない。頭を二度振ってその光景を消し去り、ため息をつきながらベンチに座った。

ふと気づけば、登山口で出会った少年が青年の横にいた。少年は青年の驚いた顔を確認すると満足そうにしている。

「ねえ、つかれてるでしょ。分かるんだからね。ぼくはぜんぜんつかれてないけど。ころんだ?」

「流石に転んではいない。おい、そんな残念そうな顔をしないでくれ。良かったって喜んでくれたっていいだろう」

青年は少年が座るスペースを十分に作る為に少し横に移動する。

「つまんないの。そうだ、ヤマガラ見た?鳥だよ。」

「ヤマガラかは知らないが、鳥は見た。」

「ヤマガラ、おなかがオレンジできれいだよ。それに手にのってくれる。エサあげた?」

あの滑稽な集団が青年の頭をよぎった。思わず青年は目をそらす。

「来なかったけどなあ」

 少年は首をかしげている。

「しんじてないからこないんだよ。そんな人のとこなんて行きたくないもん。」

青年の動きが一瞬止まる。そしてばつの悪そうな顔で頭をかいた。

「そういうものか」

「しんけんにおねがいしたら手にきてくれるよ。たろうに行くときにもう一回やりなよ。ほら、あっちのみち」

少年は顎を少し上げて獣道のような道を指し示す。青年はそちらに顔を向けた。木々に隠れながらも、確かに小道がある。
家族に連れられてそこへ歩く子どもが青年の視界に入る。彼らの姿に惹きつけられ、青年はそれを食い入るように見つめていた。

「ピーナッツあげる」

不意に聞こえた声に思考を止め、青年は横を見る。少年を探すが、そこにはすでに少年の姿はなかった。小道にいた家族連れも、奥へ進んで見えなくなっていった。木々から鳥が飛び立ち、山のより高い方へ昇っていく。

ピーナッツが一粒、ベンチの上に置かれていた。

青年は小道へ向かっていった。茂みを掻き分けながら進む。
ポケットに入れたピーナッツを弄びながら、昔に思いをはせる。
何十年も前の記憶はあやふやで、今と同じような時期に家族で一度この山に登ったという事実だけしか青年は思い出せなかった。
澄んだ冷たい空気の中、掌が汗でじんわりとにじむ。ピーナッツを握りしめながらゆっくりと、落ち葉を踏みしめた。
静かな世界に音が響く。
顔を上げれば、遠くで鳥がこちらを覗いている。
立ち止まって手を開いて、青年はここで暮らしていた昔の無邪気な自分を思い浮かべる。あの少年の言葉が頭の中で繰り返される。信じて、お願いする― 

 

次の瞬間、それは目に飛び込んできた。

 オレンジ。

青年の視界が鮮やかな橙色に染まり、記憶の蓋を押し開ける。

随分と前、家族とこの山に来た時、お気に入りの青い手袋はつつかれて穴あきになった。挙句の果てにはそのままヤマガラが手袋をくわえて持って行ってしまったのだった。

何故忘れていたのだろう。あの時の自分の手には、ヤマガラが来ていたのだ。

青年の視界が拓けた先には、鳥たちが暮れだした空を走って、その羽音がささやかな音を奏でていた。
山頂から、誰もいない広い風景をぼんやり眺めると、様々な思いが青年の胸に去来してくる。
下に目を落とせば、白と黒の中に紛れて埋もれつつも顔を覗かせる小さな黄色、青灰や橙、様々な色彩がそこで生活をしていた。
瞼を閉じてしばらくその場所に佇んでいる。次に目を開けた時には、この場所はもう貧相な姿には見えなくなっていた。

双子の山が、夕日に染まって柔らかく光る。青年が振り返った時、遠目に小さなあの後ろ姿が見えた。少年だ。
青年は大きく息を吸って、その背中に声を投げる。

「ヤマガラ、手に来てくれたぞ!」

 少年の後ろ姿に茜色の光がかかっていく。

「あたりまえじゃん」

澄んだ冷たい風が吹いた。
山頂に広がる風とともに、少年のマフラーは寒空へ消えていった。
花が咲いたかのような朗らかな笑顔で青年に手を振っているその小さめの手には、穴の開いている、少しくすんだ青い手袋。



ほのかに赤く光る、飴細工のような雪が次々と舞い落ちてきた。
その光に端から染まってゆく目の前の少年は、まばたきの間に薄闇にとけてしまった。

次第に夜が降りていく。
ゆっくりと星が降る山頂には、青年の足跡だけが残っていた。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

クソザコ乳首アクメの一日

BL
チクニー好きでむっつりなヤンキー系ツン男子くんが、家電を買いに訪れた駅ビルでマッサージ店員や子供や家電相手にとことんクソザコ乳首をクソザコアクメさせられる話。最後のページのみ挿入・ちんぽハメあり。無様エロ枠ですが周りの皆さんは至って和やかで特に尊厳破壊などはありません。フィクションとしてお楽しみください。 pixiv/ムーンライトノベルズにも同作品を投稿しています。 なにかありましたら(web拍手)  http://bit.ly/38kXFb0 Twitter垢・拍手返信はこちらから https://twitter.com/show1write

『200字に満たない希望』

凛七星
現代文学
200字にも満たない短い文章に詰めこまれた、さまざまな人々の希望と願い。

★【完結】柊坂のマリア(作品230428)

菊池昭仁
現代文学
守銭奴と呼ばれた老人と 貧民窟で生きる人々の挑戦

想い出写真館

結 励琉
現代文学
<第32回岐阜県文芸祭佳作受賞作品>  そのさほど大きくない私鉄の駅を降りて駅前の商店街を歩くこと数分、そろそろ商店街も尽きようかという少し寂しい場所に、その写真館は建っている。正面入口の上には福野写真館という看板がかかり、看板の下には昔は誰でもお世話になったカラーフィルムのロゴが今も残っている。  入口の左右のウインドウに所狭しと飾られているのは、七五三や入学記念、成人式といった家族の記念写真。もう使われなくなったのか、二眼レフのカメラも置かれている。   どこにでもある写真館、いや、どこにでもあった写真館と言った方が正しいか。  デジタルカメラ、そしてスマートフォンの普及により、写真は誰でも、いつでも、いくらでも撮れる、誰にとってもごくごく身近なものとなった。一方、フィルムで写真を撮り、写真館に現像や引き延ばしを頼むことは、趣味的なものとしては残ってはいるが、当たり前のものではなくなっている。  人生の節目節目に写真館で記念写真を撮って、引き延ばした写真を自宅に飾るということは根強く残っているものの、写真館として厳しい時代となったことは否めない。  それでも、この福野写真館はひっそりではあるが、三十年以上変わらず営業を続けている。店主は白髪交じりの小柄な男性。常に穏やかな笑顔を浮かべており、その確かな撮影技術とともに、客の評判はよい。ただ、この写真館に客が来るのはそれだけ故ではない。  この写真館は客の間で密かにこう呼ばれている。「想い出写真館」と。

青空

転生新語
現代文学
 昨日は娘の、十五才の誕生日だった。そして午前一時過ぎ、寝室で、私は娘から銃を突きつけられていた。  この物語はフィクションです。  カクヨム、小説家になろうに投稿しています。  カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330659970259187  小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n6851ih/

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

★【完結】純喫茶『晴れのち晴れ』(作品230809)

菊池昭仁
現代文学
ネットの中で開店した純喫茶『晴れのち晴れ』 マスターは私です

リポグラム短編集~『あい』を失った女~

石河 翠
現代文学
一話完結型の短編集です。 特定の文字や語句を入れないなど、制限付きの作品(掌編)を書く予定です。 第一話からの現行ルール。 タイトルでカギカッコに入った文字を抜くこと。 濁音、半濁音、促音がある場合にはそれも使用不可。 例えば、第八話の場合には「つ」「て」「づ」「で」「っ」が使用不可。 こちらは小説家になろうにも投稿しております。 表紙は、秋の桜子様に描いて頂きました。

処理中です...