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気高く咲く花のように ~モン トレゾー~ 7話
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「なんで、女装するんですか?」
「変装だよ。葵も時の人だし、僕も渦中の人だし、見つかったら追い回されるよ」
葵は頷いて、手渡せた下着とワンピースを受け取った。
「ウイックも忘れないでね。付け方は覚えてる?」
葵は頷く。
「葵、頷くのは禁止、発声の練習になるから唇を動かして」
「わかった」
「僕には言葉は伝わるからね」
「はい」
「葵、僕が付けれるウイックは持ってる?」
「サイズが合うか分からないけど」
ピアノが置いてある部屋に入っていった。
電気をつけるとクローゼットに向かう。左側のクローゼットを開けると、ウイックスタンドに載せられたウイックを篠原に見せた。
「どれがいいですか?」
カラフルなカラーのウイックや長さやヘアスタイルの違うウイックが数えきれないほど並んでいた。
「どれが似合う?」
「これはどうですか?」
取り出したのは、金髪のショートストレートのウイックだった。
「つけてくれるか?」
「座ってください。手が届かないので」
「ここでいいか?」
「ここでいいです」
篠原が床に座ると、葵は篠原の髪を櫛で梳かし、綺麗にしたところでウイックを被せて、手早く留めていく。
「うまいもんだな」
「僕の商売道具だから」
ウイックの髪を丁寧に梳かしてスタイリッシュに仕上げていく。
「できた。かっこいい、篠原さん」
葵はクスクスと笑って、篠原の手を引っ張るとリビングの鏡の前まで連れて行った。
「お、別人だな」
「眼鏡かけたら完璧に変装できますよ。僕も着替えてくる」
葵はベッドルームに入って行って、扉を閉めた。
数分で扉が開いた。薄化粧した葵が出てくる。
「葵も完璧だな」
「篠原さん」
「葵、すまないが素性がバレると、今は不味いんだ。純也って呼んでくれ」
「でも」
「言葉も恋人同士に見えるように、もっとフランクに」
「僕の名前も変える?」
「葵は絶対に顔バレしない」
完璧な変装だ。変装には自信がある。
褒められたようで、嬉しくなる。
「わかった」
「呼んでみて」
「純也さん」
「純也だ」
「篠原さん、年上だから・・・あ、あっ」
(8歳年上だから・・・)
これは記憶?
頭を抱えて、床に膝をつく。倒れかけた体を篠原が、腕に抱き留めた。
「葵、今、声が出たぞ。わかるか?」
葵は首を左右に振る。
「わかるか?唇を動かして答えて」
「わからなかった」
「いいぞ。声は戻る。出かけられるか?」
「出かけられる」
「立てるな?」
「はい」
自分の力で立ちあがると、篠原は葵の手を掴んだ。
「もう一度、純也って呼んで」
「篠原さんと僕は8歳も違うのに」
「思い出したのか?」
「思い出した」
「呼んでもいい」
「でも」
「葵、僕は事務所の社長と喧嘩して、クビになった俳優なんだ。顔バレしたら、カメラやマイクを向けられる」
「どうして喧嘩をしたのか教えて?他にも聞きたいことがある」
「買い物がすんで、休憩するときに話すよ。葵の体力はまだ戻ってない。早く買い物を済ませたい」
「わかった」
「純也、行こう」
「葵、ありがとう」
「いいよ」
手を繋いで部屋を出ていく。
「鍵は?」
「葵から合鍵をもらってる」
「僕たち付き合ってたの?」
「どうしてそう思うんだ?」
「史郎が言ってた」
「史郎君か、鈴村と恋人同士になったらしいな。時々ふたりの写真が送られてくるよ」
(はぐらかされた?)
エレベーターはすぐに開いて、地下駐車場まで真っ直ぐ降りていった。
「そういえば」
鞄の中から、史郎からもらったキーホルダーを取り出して、葵は篠原にそれを見せた。
「史郎にもらった。純也に買ってもらったものだからって」
「思い出せたか」
「思い出せなかった」
「最初のデートを再現してやるよ」
「今から?」
「今日は駄目だ。外出は3時間以内だ。葵の様子を見ながら時間は増やしていく」
「わかった」
車に乗せられて、大型スーパーに連れてこられた。
「こういうところ、初めて来た」
「最近は来てないな」
「買い物できるの?」
「するさ。葵の部屋は料理できる環境じゃない。あれは稽古場だ」
「僕には、それしかなかったから」
「そうだな。葵にはたくさん話さないといけないことがある。起きていられるかな?」
「起きたら話して」
「そうする」
篠原はキッチン用品を吟味している。
カートの中にフライパンやお鍋や包丁が入れられていく。
「食器洗浄機も欲しいな」
「純也の欲しいものなんでも置いていいよ」
「いいのか?」
「うん。いつも殺風景って史郎に言われる」
「そういえば、食器があったのか見てこなかったな」
「種類はたくさんないけど、仲間で集まったときの取り皿くらいならあるよ」
「ないと見た方がいいな。ふたりでお揃いのものにするか?恋人らしく」
葵は笑みが浮かんだ。
「いいよ」
篠原は食器売り場に葵の手を引いて連れて行った。
「どれがいい?」
「僕が決めるの?」
首を傾げていると、「何色が好き?」と聞かれた。
「白、ピンク、赤」
「その色のついている物にしよう」
値段はそんなに高くない。
(洋服買った時より安い・・・・)
そう思ったとたん、お店でのいろんな出来事を思い出していく。
洋服の値段。篠原が持ってきたドレスのような服。篠原が選んでくれた洋服たち。篠原が嬉しそうに選んだ下着のこと。
心の引き出しから、溢れだしてきた記憶が胸を圧迫する。
「・・・あ、あっ」
胸を押さえて屈みこむ。
「葵、声でてるぞ」
「・・・しい。・・・できない」
「呼吸ができないのか」
頷くとカートをそのままにして、葵を腕に抱きかかえて、人ごみから出ていく。
外のベンチに座らされ、葵は篠原に凭れかかるように座っていた。
「少し落ち着いたか?」
「はい」
顔色は蒼白だ。
「なにか思い出したな」
「うん。洋服を買ってくれた時のことを」
「そうか」
「疲れた」
「いったん家に戻るか?」
「でもまだ何も買えてない」
「明日また来ればいい」
葵は首を左右に振る。
「車で待ってる」
「駄目だ。葵を一人にしないと決めている」
「もう少し頑張れる」
「歩けるのか?」
「大丈夫」
立ち上がると、篠原に手を差し出す。
「葵は頑固だからな」
「うん」
ふわりと何かが浮かんで消えた。
「この白いお皿でいいか?」
「いいよ」
篠原がナイフとフォークとスプーンをカートに入れると、箸売り場で、「どれがいい?」と聞かれた。
「これ綺麗」
シェルのあしらわれた箸を選ぶと、篠原は、葵と色違いの箸を入れる。
「カップはどれにする?」
「白いの」
「ペアカップにしないか?」
篠原が指した方を見ると、色違いや模様違いのペアカップが集められていた。
周りを見ると、白いお皿以外にも他の色もあるし、いろんな柄のお皿やお茶碗も置いてある。
「視野が狭くなってる?」
「やっと気づいた?」
「うん。この白いお皿しか見えてなかった」
「選びなおしていいよ」
篠原がお皿を戻してくれる。
結局白いお皿にしたが、最初に選んだものより、形がシャープで少し高価なものにした。
料理はおいしく食べたいから、その器も料理を引き立てるものがいい。
ペアーのマグカップにお茶碗もペアーのものにした。
「なんだか恋人みたい」
「周りから見たら、同棲始めましたの恋人に見えるだろうな」
「同居なのに、同棲なの?」
「恋人に見られるのは嫌か?」
「嫌じゃないよ」
篠原が笑った。その笑顔を見て、葵も微笑む。
心がふわふわする。嬉しくて楽しくてふわふわする。
「会計に行くぞ」
葵の手を引き、カートを押していく。
「食料品も回れるか?」
「美味しいものが食べたい」
「任せろ」
そのまま食料品売り場に行って、篠原はカゴに商品を入れていく。
「おやつ買ってもいい?」
「いいよ。好きなもの持っておいで」
ラムネとキャンディーを持ってきた葵は、嬉しそうな顔をしていた。
「それだけでいいのか?」
「なくなったら、また連れてきて」
「いいよ」
数日の食事分を調達すると、レジで購入する。
「葵、平気か?」
「うん、大丈夫。ちょっと眠いだけ」
「車、もうすぐだから」
「うん」
車に先に葵を載せて、荷物を車に積み込んでいく。
すべてを済ませて、車に戻ると、葵はすっかり眠っていた。
いい香りがして目を覚ました。
見慣れた天井とベッドだ。
ゆっくり体を起こすと、ワンピースもウイックも身に着けたままだった。
葵は部屋を出た。キッチンに篠原がエプロンをつけて料理をしていた。篠原もウイックをしたまま別人のようだ。
「起きたのか」
「篠原さん」
「純也だろう」
「まだ演技するの?」
「昔は純也と呼んでたんだ。思い出すんじゃないかと思ってね」
「僕たちは・・・」
「僕たちは恋人だよ。お互いに愛し合っていた。だけど、僕が葵の心を傷つけてしまった。だから、葵は僕の記憶も言葉も失くしてしまった」
葵は対面キッチンの中に入っていって、篠原の横に立った。
「思い出したら、またフラれるかもしれないけど、葵には言葉を戻してあげたい」
史郎が作ってくれた記憶の空欄の紙を思い出した。
ぱたぱたと部屋に戻っていく。
「葵、怒ったのか?」
部屋に戻って、鞄の中から、たくさんのコピー用紙を取り出して、机に置いた。
その中から、記憶の空欄の紙を取り出す。ペンを持ってダイニングに戻っていった。
「純也、教えて」
「それはなんだ?」
「記憶の空欄。服を買ったのはいつ?」
篠原は指を指す。
「二回目のデートだったな。史郎君の身代わりで来てるって分かってても、僕は楽しくて、つい遅くまで連れまわしてたんだ。帰りにね、さっきみたいに車で眠ってしまったんだ。僕の部屋に運んで朝を迎えた。葵は僕と同じベッドで目覚めて動揺してしまったんだろうね。史郎君のことも話さなくちゃいけないって、焦ってたんだ。熱い紅茶を口にして、びっくりして落としてしまった。足の上にね」
「それで火傷をしたの?」
「そう。火傷は広範囲でけっこう酷かったんだ。ズボンだと傷に触れて痛そうだし、だからスカートを着るように勧めた。葵に似合う洋服を買ってあげたかったんだ」
「ありがとう」
空欄の中に文字を書き込んでいく。
「いつから恋人になったの?」
「僕は葵のことを昔から好きだったけど、好きだと告げたのは、火傷を負った時だ」
「昔から?」
頭が痛い。
手で額を押さえると、篠原が調理の手を止めて、葵をダイニングの椅子に連れて行く。
「倒れると危ないから、座っててくれるか?」
「わかった」
「あとは何が聞きたい?」
葵を椅子に座らせると、篠原はキッチンに戻って行く。
「どうして事務所を辞めたの?」
「それは、葵を傷つけた言葉と結びつくんだ。まだ今は教えられない」
「純也はこんなに優しいのに、僕は信じられなくなったの?」
「僕が無神経だった。今はとても後悔してるんだ」
葵は席を立つと、キッチンに走っていって、篠原の背後に抱きついた。
「今の僕は純也が好きだ」
背中に呟いた言葉は、篠原に聞こえない。
「葵、さすがに背中には目がないんだ。言葉は見える場所で言ってくれるか?」
葵は背中で首を左右に振った。
「純也、ウイック取ってあげる。慣れないと頭痛くなる時がある」
「外してくれるか、壊したらいけないかと思って触れなかったんだ」
「早く言ってくれればいいのに」
食事を終えた後、葵は篠原の背後に立って、ウイックを外す。
「僕も外してくる。お化粧も落としたい」
ぱたぱたとウイックのある部屋に入っていくと、すぐに自分の部屋の中に入っていった。
元気に動き回る姿を見ながら、篠原は食器を片づける。
今まで見たこともない素顔が、そこにあって見ていて飽きない。
篠原の家に持って行っていたものを片付けているようだ。
「純也、お風呂入ってくる」
「背中流してやろうか?お風呂は久しぶりだろう?」
「一人で入れるよ」
「前は一緒に入ってたんだよ」
「ほんとに?」
「本当だけど、嫌なら一人で入ってきていいよ。その代わり、倒れるといけないから、見張らせてもらうよ」
葵は少し考えて、「一緒に入ってもいいよ」と答えた。
「短時間で終わって、この後の舞台のDVDは一緒に観られるな」
そう言うと、葵は笑みを浮かべた。
篠原は持ってきたスーツケースを開けようとして、葵を見上げる。
「僕はどこに部屋を借りられる?」
「どこでもいいよ。こっちの部屋なら広いしお布団もあるよ」
葵は扉を開けて電気をつけた。
ピアノのある部屋だ。
「ここを借りるよ」
スーツケースを部屋に入れて、ロックを開ける。
「メイク落としてくる」
「行っておいで」
顔を覗きこんで話してくる葵の、仕草が可愛い。
一緒にお風呂に入ってもいいと、言ってくれるとは思わなかった。
「理性との戦いだな」
着替えと下着、歯ブラシを持つと、葵の後を追うようにお風呂に向かった。
お風呂には濁り湯の温泉の素と黄色いアヒル3匹が浮かんでいた。
先に洗ったのか篠原が入ったときには、湯船の中にいた。
プウプウと音がする。
「いつも遊んでるのか?」
こくんと頷いてから「はい」と唇が動いた。
「歌でも歌ったらどうだ?ハミングできるかな?」
風呂の中が静かになる。
声を出そうとして、何度か咳をする。
「無理はしなくていいぞ」
「大丈夫」
肩が揺れている声を出そうとしている姿が痛ましく見える。
「葵、僕も入っていいか?」
こくんと頷き、場所を開けてくれる。
「温めの湯に入っているんだな」
「熱いとのぼせちゃうから」
「そうだな。僕はいつもシャワーだ」
「疲れが取れないし、お風呂に入ってからだと体が柔らかくなる」
「体を柔らかくするのか?」
「ダンスの練習するときの怪我予防」
「ああ、なるほど。ちょっと待て、今から練習するつもりなのか?」
「する」
背後を向いて立ちあがると、葵はお風呂を出ていく。
洗面所で体を拭いている。
篠原も慌てて、お風呂をでると、葵は既に下着とTシャツを着ていた。
ふと右足を見て、篠原は葵の前に屈みこんでいた。
「火傷、綺麗に治ったな」
「ありがとう。たぶん、純也が手当してくれたんだよね」
「そうだな」
「触ってみてもいいよ。もう痛くないから」
篠原の手が太腿に触れると、ぎゅっと手を掴まれた。
「やっぱりだめ」
顔が赤くなっている。
葵の太腿が性感帯だったことを思い出して、篠原はフッと笑い自分の体を拭く。
「体は覚えてるってことか?」
急いで服を着る。
葵から目を離すわけにはいかない。
社長命令でなくても、篠原自身がもう後悔はしたくない。
DVDを見ながら柔軟体操をすると、葵はダンスシューズを履いて、部屋の中を歩く。
身に着けているのはTシャツとジャージだ。
篠原はダイニングのテーブルの前に座ってその様子を見ている。
立ち止まるとDVDを再生して、最初はステップを踏んでいく。
動きと位置の確認をしている。
少しずつ手の動きや顔の動きがついてくる。
まずはクライマックスのダンスの練習を始めている。
唇は歌を刻んでいるが、声は出ていない。
本来ボーカルの葵の歌だ。
一番の山場で見せ場でもある。
一本曲が終わって、葵はDVDを最初に戻して再生して、立ち位置に戻る。
今度は最初から振りが入った。
激しいダンスとスッテップをつけて、部屋中を使って体を動かす。
一曲踊って、葵は呼吸を整えながらテレビの前に座って、DVDを先に進めて見ていく。突然立ち上がると、自室に入ってすぐに出てきた。手には紙とペンが握られていた。
DVDを戻して、ゆっくり再生する。
素早く何かを書き込んでいく。
それを何度も繰り返した後、紙とペンをカメラの下に置いた。
息が完全に整ったところで、カメラを作動させ、DVDを再生させる。
葵は再びダンスを始めた。
今度は二度目より動きが激しい。
表情や視線も変わっている。
息を飲むようなダンスの後に、カメラを止めて、床に座る。
苦しそうに肩が揺れている。
「葵、一度に」
無理するなと言わせる前に、手を開いた片手が突き出された。
『勉強中は邪魔をしないで』
葵の声が聞こえたような気がした。
その勢いに、篠原は立ち上がりかけた体を椅子に戻す。
ゆっくり立ち上がるとチャンネルを操作して、今撮った映像をテレビに写す。
動きが激しいのに、うっとりするほど視線が色っぽい。
誘いかけるような視線と指の動き。
躍動と煌めきが、そこにはあったが、葵は気に入らなかったらしい。
鏡の前でゆっくりと体を動かす。
手や指の位置の角度の調整をしている。
視線と顎の高さ表情まで、納得いくまで手直ししていく。
今度はゆっくりと部屋の中を歩いている。目は閉じている。部屋の広さを体が覚えているのだろう。テレビの前まで行くと、カメラとDVDを操作した。ゆっくりと立ち位置に戻っていく。ダンスが始まった。ダンスと確認の繰り返しで二時間半たっぷり踊って、床に転がった。
「葵、大丈夫なのか?」
稽古を始めて、初めて葵が視線を合わせてきた。
「体力落ちた。もうバテてる」
「二時間半も踊ってれば、誰でもバテる」
葵は首を振って、勢い付けて体を起こすと、柔軟体操を始めた。一通り体をほぐすと、ダンスシューズを脱いでゆっくり立ち上がった。「お風呂入ってくる」と言い残して、篠原の前を通り過ぎていく。
「一緒に入るか?」
「大丈夫」
振り返った顔には清々しい笑顔があった。
お風呂の中からアヒルの音がする。
「僕とは次元の違う役者だ。こんなに芝居一筋の役者のプライドを僕は傷つけたんだ。どうしたら声を取り戻すんだ」
アヒルの音を聞きながら、篠原は思いつめた顔で頭を抱えていた。
できることなら時間を戻したい。
ふと目を覚ますと、葵が布団の中にいた。
昨夜はお風呂から上がると、そのまま部屋に行き倒れるように眠ったはずなのに、いつの間に来たのか、篠原の胸に頬を埋めている。
篠原は起きるのをやめて、甘えるように眠る葵を見つめていた。
唇が微かに動いている。言葉を読み取ろうと見ていると、瞼が震えた。
目を開けた葵が慌てて体を離そうとしたのを、篠原は抱きしめることで葵の体を拘束した。
「一緒に寝たかったのなら、最初に言ってほしかったな」
逃げるのをやめて葵は甘えるように、篠原の胸に頬を押し当てている。
「葵を傷つけて声まで奪ったのに、僕のこと好きなの?」
葵は篠原の腕の中で小さく頷いた。
「僕は葵に前みたいにキスをしたいし、抱きたいと思ってる。それでも好きだと言える?」
ごそごそと葵が腕の中で動いて顔を上げた。
「前はしてたの?」
「僕の愛が重いって思っていたかもしれないくらい、僕は葵を抱いていたよ」
「今の僕も抱きたい?」
「当然だろう。葵は葵だ。葵の中の記憶は消えたかもしれないが、僕の中の葵は消えたりしてない」
「僕は愛されてるんだね。だから純也の傍にいると幸せなんだ」
「幸せなのか?」
「純也は幸せじゃないの?」
「腕の中にいてくれるだけで、幸せだよ」
「よかった」
葵は頬を染めると、また篠原の胸に頬を埋める。
温かいぬくもりも、甘える仕草も伝わる鼓動も今は心地いい。
「もう少し、こうしていようか?」
葵が頷くと、その体を抱きしめるように腕で包む。体がもっと密着して、足も絡まる。
顔をあげた葵の唇が動いた。
「純也好き」
「僕も葵を好きだよ」
嬉しそうに微笑んだ後、葵はまた甘えるように顔を埋めた。
篠原は、葵の髪を撫でながら、葵を初めて抱いたときのことを思い出していた。
強姦するように抱いて、騙すように誘い込んで、嫌がる葵を手に入れた。
今はあの時とは違う。葵の気持ちが先に進んでいる。
今度は葵の気持ちを大切にしたいと思った。
目の前には食べづらそうなミルフィーユがお洒落なお皿に載っている。飲み物はアイスミルクティーだ。
一日目のデートの再現に、お店に連れてきてもらった。
お店は混んでいた。
人の目はあるが、二人で揃って変装しているので、誰も二人に気づかない。
今日も葵はロングヘアーにワンピースを着ている。篠原はウイックをしてシルバーフレームの眼鏡をかけている。髪の色が明るいから大学生に見える。
「これ食べたの?」
「そうだよ、とても上品に口にしてたよ」
「そうなんだ?ああ、なんか思い出せそう」
葵は額を押さえる。
「史郎はミルフィーユ、わしづかみで食べるんだ」
「その食べ方も豪快でいいね。食べてみたら、思い出すかもしれないよ」
「史郎の真似したんだよね?」
「僕にはわからないな」
「イチゴは先に食べる派か後で食べる派か?」
「イチゴは」
言いかけた言葉を、葵は止めた。
「ちょっと待って。史郎は好きなもの先に食べる派だから、先に食べた?」
「先に食べたね」
フォークでイチゴを食べようとして、迷って手を止めた。
(僕ならどうする?きちんとしないといけないけど、ちょっと面倒だったかもしれない)
フォークを置いて、イチゴのへたを持って口に運ぶ。
「あってるよ」
「やっぱり?」
葵は微笑む。
フォークを持つと、少しずつミルフィーユを攻略していく。
(史郎に手では食べないでって言われたような気がする)
『葵なら上品に食べられるよね』
食べている間に、史郎の言葉を思い出した。
ちらりと隣のボックス席を見た。
今日はカップルが座っていた。
(史郎はあの席に座って、アイスミルクティーを飲んでいた)
「和也さん」
「そうだね、そう呼んでいた」
篠原はホットコーヒーを飲んでいる。
「美味しいケーキ」
「下調べしたからね」
「お代わりしてもいいって言った?」
「言ったよ。今日はお代わりする?」
「お代わりはいらない。美味しいけど、食べづらい」
ふと唇に指先で触れる。
頬が熱くなる。
「触ったよね?」
篠原は笑って手を伸ばし、葵の唇の端を拭った。
それを口に運ぶ。
「こうしたよ」
再現されて、耳まで熱くなる。
「恥ずかしいよ」
「僕は楽しかったよ」
「からかったりして悪趣味」
「かわいかったからね」
ミルフィーユを食べ終わって、ミルクティーを飲むと、味が薄くなっていた。
「この味、覚えてる。薄くなかったら美味しいのにって思った」
「今日はいろいろ思い出せるね」
「今日は気持ちが楽なんだ」
「体調、よくなったのかな?」
「そうかもしれない」
ミルクティーを飲み終わると、「そろそろ行こうか?」と、篠原が声をかけてきた。
これから水族館に行く予定だ。
「ちょうどよくイルカショーが観られるといいですね」
篠原が笑った。
「同じ言葉だ。思い出せてる?」
「うん」
「合格だ。それじゃ、行こうか」
篠原が葵の手を引く。
「前は手を繋がなかったよね?」
「今日は繋いでもいいだろ?」
「いいよ」
会計を終えると、指と指が絡まる。ギュッと手を繋いで、篠原は葵の頬にキスをした。
「あ・・・」
「葵、声でたよ。『あ』って言った。もう一度キスしてみようか?」
葵は頬を染めて、首を振った。
「何度もされたことがあるような気がする」
「それは思い出したの?それとも想像?」
「想像」
「不合格だな」
葵の手を引っ張って、もう一度頬にキスをすると、そのまま葵が胸に抱きついてくる。
「どうした?」
「胸が痛い」
胸を押さえて、目にうっすら涙を浮かべていた。
「キスは嫌か?」
葵は首を左右に振る。
「それならいい。胸が痛いのは心が騒いでるんだよ。気持ちが出たがってるサインだ」
「わかった」
駐車場に着いて、葵を車に乗せる。
あの日と同じ青い空を見上げて、葵の声を早く聞きたいと思った。
目の前のプールにはイルカが5頭泳いでいる。
イルカショーの間、葵は篠原を見ていた。
静かにイルカを追う瞳が寂しそうに見えた。
唇が何かを呟いていた。
それがイルカの名前だと司会のアナウンスで気づいた。
篠原は目の間の5頭のイルカを識別して、それぞれの名前を覚えている。
(名前を覚えてしまうほど、ここに通っていたのかな?)
葵は篠原のことを本能で好きだと気付いて傍にいるが、篠原自身のことは何も思い出せていない。篠原のことを知りたいと思った。
「今日は史郎君のためではなくて、葵の好きなものを教えてくれるか?」
一緒にイルカショーを見て、人がいなくなった観覧席に座っていると篠原が言った。
「水族館は、小学校の遠足で来て、この間、史郎の代わりに来ただけで、他には来たことがない」
「好きなものはないの?」
「イルカとペンギン以外、何がいるのか知らない」
「それなら、好きなものを探しに行くか?」
立ち上がりかけた篠原の上着を掴んで、引き留めた。
「純也は何が好き?」
「僕はイルカが好きだ。今、ショーを見たな」
「それなら、ここにいよう」
「いいのか?」
「ここ涼しいし、純也と話がしたい」
「誰もいないし、ゆっくりするのもいいな」
篠原は、葵の横に座りなおす。
「純也のことが知りたいんだ」
「何が知りたい?」
「純也のすべて」
篠原の表情が少し強張って、視線がイルカを追った。
はめていた眼鏡を外して、上着のポケットに入れた。
その姿は、覚悟を決めた顔に見えた。
「純也は水族館によく来るの?」
「葵は知らないと思うけど、十五の頃から二十代の初めの僕には仕事がなかったんだ。だから、年間パスポート買って、ほぼ毎日来てた。一日中イルカを見ていたこともある。大学に通いだして、同居していた家族からも引退を勧められた。時々仕事があっても、ほとんどがセリフのない端役しかもらえないなら、大学を卒業してどこかの会社に就職した方がいいと言われていた。僕自身も仕事がなくなってから仕事を辞めようか迷ったけど、葵が『純也』って呼んで懐いてくるから辞めなかったんだ」
「僕がいるから?」
「葵と離れたくなかったんだ。葵とは葵が0歳の時に出会った。最初は生まれたばかりの赤ちゃんだった。真っ赤な顔で泣いていた。葵はママの次に『にいたん』って言葉を覚えて僕のことを呼んだんだ。すごく可愛かった。葵はすぐに僕の名前を覚えて、『純也』って呼んで、ずっと僕に懐いていたんだよ。何度も寝かしつけたし、ミルクも飲ませた。言葉も教えたし一緒に勉強もした。台本も一緒に読んだ」
「そんなに昔から。・・・覚えてなくてごめん」
「葵の記憶を奪ったのは僕だ。責められることはあっても責任を感じる必要はないよ」
「僕はずっと純也って呼んでた?」
「何故そう思う?」
「8歳も年齢が違うのに、僕ならまわりの目を気にして篠原さんって、呼んだような気がする」
「葵は賢いな。その通りだよ。僕の二十歳の誕生日に初めて『篠原さん』って呼ばれたよ。僕は絶望してしまった。葵に見放されたと思えたんだ。直接葵に会うのが怖くなって、距離を置いた。今から話すことは、葵の傷に触るけど、聞きたい?」
「教えてほしい」
泳いでいたイルカが高くジャンプをした。水しぶきが上がる。
「葵は僕に捨てられたと感じたと言っていた。僕が距離を取ったことでトラウマになるほど傷ついていた。それを知ったのは、葵と深い関係になってからだった。交際を始めてからも葵は悩んでいた。僕と別れたいと言い出すくらい。でも、僕は葵を手放したくはなかった。葵が二十歳になるまで待ったんだ。自分の意思で僕を選んでほしかった。強引な手を使って、葵を騙すように抱いたのに、葵は許して愛してくれた。前の仕事で共演した時、もうほとんど撮影も終わって、後は濡れ場の撮影だけになったとき、愛情を疑われてしまった。これは僕の仕事の仕方に問題があったんだ」
「仕事の仕方に問題?」
「話しても本当に平気?気分悪くない?」
「大丈夫」
「僕は十代の仕事がなかったときから、社長に命じられて枕営業をさせられていたんだ。それが何かわかる?」
葵は頷く。
枕営業は仕事を得るために体を売ることだ。
噂だけは聞いたことがあった。
「相手は名のある演出家だったり女性プロデューサーだったり、もう顔を覚えてないほどたくさんの人に抱かれたり、抱いたりした。僕の意思はなにも通らなかった。気に入られたら主役級の仕事がもらえた。そのことがとても恥ずかしかった。だんだん葵に合わせる顔がなくなっていった。『篠原さん』って呼ばれて距離を感じたショックもあって、純真な葵を避けるようになった。そんなとき、葵は月のシンフォニーの舞台のオーディションに受かったと聞いた。仲間は葵より年上で、僕と同じ年齢の奴もいると知った。葵のただ一人の兄の立場も失って、今度こそ仕事を辞めようかと本気で考えた。でも、その頃から仕事がたくさんもらえるようになった。知り合ったセレブのスポンサーが、僕の専属のお財布になってくれたんだ。主演の仕事が何本も入って、僕はあっという間に、抱かれたい男一位の座を取っていた。最優秀主演男優賞までもらって、これは、僕の実力ではなくて、セレブのスポンサーのお蔭だったんだよ。体を売って得た栄光だ。僕のことを目標の人だと言っていた葵は、そんな僕の汚いところを見破ってしまったんだ。軽蔑された」
篠原は苦しそうに手で目を覆ってしまった。
何も見たくない。思い出したくないと体中で訴ええているように見えた。
「見破られる前に、僕は葵の仕事に対する姿勢っていうかプライドをずたずたに傷つけてしまった。最高の演技も本当は褒めたかった。仕事に対する姿勢も素晴らしかった。なのに、先に否定するようなことを口にしてしまった。僕がそうだったから、いつの間にかそれが普通のことに思えていたんだ。葵に言われたことは、枕営業をするしかなかった僕には、眩しいほど正当な言葉だった。葵は正しい事しか言ってなかった。葵に謝ったけど、もう信頼関係は崩れてしまった。その夜葵は何度も演技の練習をしたんだろうね。朝、僕が見つけたときには、練習用のグラスが転がっていて、もう元の葵はいなくなっていた」
篠原は辛そうに両手で顔を覆っていた。
今にも泣き出しそうな篠原の手を掴んで、顔を上げさせた。
「今も枕営業してるの?」
「葵が二十歳になる前に、セレブのスポンサーには、好きな人がいるからと断りを入れた。これが最後の仕事になってもいいと思って、葵が出演するドラマに出たんだ。撮影が終わってから社長に呼び出されて『何故言うことを聞かない』って殴られた。枕営業のリストを渡され、行ってこいと言われたけど、僕はそれを破り捨てて断った」
「それで喧嘩になって辞めたの?」
「退職願を出したとき、仕事ができないようにしてやると脅されて、追い出された。その足で、葵の社長に会いに行った。葵の専属マネージャーにさせてほしいと頼んだ。葵に言葉を取り戻してほしくて。少しでも力になりたいと思ったんだ。社長には経緯はすべて話すことになってしまったけど。子役のうちに引き抜いておけばよかったと言われて、僕は救われた気がした。社長は僕のことも守ってくれると言ってくれた。葵のいるプロダクションは家庭的で優しい」
「何て言ったらいいのか言葉が見つからないけど、これ以上傷つかないで」
葵は篠原を抱きしめた。
「僕で癒すことはできる?」
「一緒にいてくれるだけで癒される」
体を離して、葵は篠原の顔を見上げた。手は繋いだままだ。
「記憶を失くした経緯は分かった。どんな喧嘩をしたのかも、想像できる」
「葵は怒ってないのか?」
「あの時の気持ちまでは分からないけど、今の僕は怒ってない」
「葵」
思いつめたままの顔の篠原に、葵はにこりと笑う。
「純也、少し水族館を案内してくれる?」
「まだ名前で呼んでくれるのか?」
「純也はそう呼ばれたいんじゃないかと思ったんだけど。篠原さんの方がいい?」
「葵の言うとおりだよ。僕は葵にずっと純也と呼んでいてほしかった」
「わかった」
葵は篠原の手を引っ張って立たせた。
「史郎のデートの再現じゃなくて、僕たちのデートをしてくれる?」
篠原の上着から眼鏡を取り出すと、それを篠原の手に握らせた。篠原は眼鏡をかける。
「葵が眠くなる前に、大水槽のトンネルにいかないか?マンタが空を飛ぶように見えるんだ」
「そこに連れて行って」
葵はそっと腕に腕を絡めて、甘えるように凭れかかった。
「演技してるのか?」
「こうしたいだけ」
葵の微笑みを見て、篠原もやっと微笑みを浮かべた。
大水槽を見た後、お昼を食べて車で帰った。
車に乗ると寝るのが、最近の葵のスタイルになっている。
まだ体力が戻っていないのか、眠りは深い。そっと抱き上げて、部屋まで運ぶ。
ベッドに寝かせて、篠原はキッチンに入っていく。
夕食の支度を始める。栄養のある食事を食べさせたい。
食事ができる少し前に、葵が眠そうに目を擦りながら部屋から出てきた。
「起きたのか?」
「いつも運ばせてごめん。起こしてくれてもいいのに」
「抱き上げても起きないくらい深く眠っているんだ。簡単には起きないだろう?それに、僕のことを信用してるから眠れるんじゃないのか?」
葵は微笑んで、篠原の傍に近づいてくる。
「ウイックはずしてあげる」
篠原が体を屈めてくれる。
「いつもありがとうな。変装のお蔭で家の外に出られる」
「コスプレって奥深いんだよ」
ニコニコ笑いながら、葵は自分のウイックも外してしまう。
「汗かいたから、ウイック洗ってくる」
「自分で洗えるのか?」
「もちろん」
ピアノのある部屋に入っていって洗浄液を持て出てきて、洗面所に向かっていく。
水の音が聞こえる。
篠原は、食事を並べながら葵が立てる音を聞いていた。
今度はドライヤーの音がする。
覗くと、葵は髪のセットまでしていた。
「美容師の資格もあるのか?」
「ないよ。見て覚えた」
綺麗にセットをされたウイックを持ってピアノのある部屋に戻っていく。
椅子の上にウイックホルダーを載せて、ウイックを並べて置いた。
「今日は仕舞わないのか?」
「完全に乾かしたいから」
納得するように篠原は頷いた。
「ご飯までまだ時間がある?」
「あと三十分くらいかな」
「三十分宿題やってくる」
「行っておいで」
ニコッと葵が笑う。
葵の笑顔が増えていくことが嬉しい。
いつもは閉める部屋の扉は開けたままだ。葵の姿が見える。
水族館で篠原の闇を知って、葵なりの気遣いなのかもしれない。
葵は勉強机に座って、山積みにされたコピー用紙をノートに写していた。葵の集中力は高い。うっかり物音を立てても振り向かない。
台本を読んでセリフを全部覚えてしまうほど、葵は一度目にしたものは、すぐに記憶してしまう。
幼いころから葵の記憶力は素晴らしかった。
静かに食事の支度をしていると、来客を知らせるチャイムが鳴った。
モニターには社長が映っていた。
「はい、今開けます」
「すまないね」
セキュリティーの行き届いたマンションの入り口を開けると、しばらくして玄関のチャイムが鳴った。
「こんばんは」
「葵は起きてるか?」
「先ほど起きて、勉強を始めました」
「葵は集中するとチャイムにも気づかないから、鍵は持ってきたんだけど、篠原君がいるなら開けてくれるかと思ってね」
「葵の集中力はすごいですね」
「昔から、何かを始めると時間を忘れて没頭してしまうんだよ。目を離すのが心配で、小池を見張りに付けたんだが、葵は小池に懐かなくてね。すぐに追い出してしまったんだが、篠原君のことは追い出さないな」
「ありがとうございます。葵の声を奪った僕を傍に置いてくださって」
「声を奪うほどの影響力を持っているなら、戻すことも可能だろう。どうだい、様子は?」
「ふとした瞬間に「あ」と声を出しました。声は戻ると信じてます」
篠原はダイニングテーブルに緑茶を出す。
社長が座っているのは、葵の席だ。
「何分で勉強を終えると言って入って行ったかな?」
「三十分と言いましたから、あと五分ほどです」
「あの子の頭の中にはタイマーが仕掛けられているのか、時間に正確なんだよ。あと少し待たせてもらうよ。篠原君は葵の食事を仕上げてくれるか」
「すみません。では」
篠原はキッチンに入っていった。葵の為に、煮込みハンバーグを作っていた。
煮込みハンバーグの中には、貧血改善のためのレバーが隠されている。
葵はレバーが嫌いだ。だから、隠して入れている。
シーザーサラダを盛り付けて、ネーブルオレンジを切り分け、お皿に載せると、ゴールドキウイを切り分け、オレンジの横に綺麗に並べていく。
葵の偏食と貧血改善に考えたレシピだ。貧血の治療のための錠剤も出されているが、二週間の入院で治るものではない。貯蔵鉄を蓄えて、やっと完治と言える。最低でも三か月はかかる治療だ。
「社長も食べていかれますか?」
「私は葵に話をしたら、すぐにお暇するよ」
「そうですか」
「美味しそうなメニューだ。葵は胃袋を掴まれたのかな?」
「どうでしょうか?」
篠原が調理を終えて、手を洗っていると、葵が立ちあがった。
ちょうど三十分だ。
「純也、お腹空いた」
振り向いた唇が、そう動いたとき、葵はぱたぱたと部屋から出てきた。手にはホワイトボードが握られている。
「葵、宿題は終わったか?」
『まだ、たくさんあるんだ』
「そうか、ゆっくりやりなさい」
葵は頷く。
『何かあったんですか』
「舞台の稽古だが、葵がいないと全体を合わせることができないから、出てきてくれないかって言われたんだが、体調はどうだ」
「まだ退院して二日目です。二週間の安静ができるならと退院させてもらったんです」
篠原は社長の無理難題を反対した。けれど……。
「それは先方も承知の上での無理難題だ。少し顔だけでも出してくれないか?もちろん無理はしなくていい」
『わかりました。明日から出ます』
「まだすぐに疲れて眠ってしまうんです」
反論する篠原の腕を、葵は掴む。
「純也、大丈夫だから」
「篠原君は、葵が無茶をしないように見ていてくれ。適当に昼寝もさせてやってくれ。ああそうだ、お守りにこれを持ってきたんだ」
社長は紙袋を篠原に渡した。
『社長、なんですか?』
「お守りの酸素だよ。葵が無茶して倒れたときのね」
葵はムッとしたような顔したが、紙袋は篠原が受け取った。
「頼むよ」
「わかりました」
社長は篠原の淹れたお茶を飲むと、席を立った。
「じゃ、お邪魔したよ」
玄関まで見送って篠原は頭を下げる。
『おやすみなさい』
葵のホワイトボードを見て、社長は微笑むと葵の頭を撫でた後、頭を下げる篠原の肩を叩き玄関を出て行った。
「全体の流れを見たいから、最初からラストまで流すよ」
演出家の川島が葵に指示を出した。
いきなりの無理難題も篠原はただ見ていることしかできない。葵に「途中で止めないで」と言われている。
昨夜食事を終えて、お風呂に入った後、葵はDVDを集中して見ていた。全体の流れを頭に入れて、台本を読み。演技の練習を二時間して、二時間半みっちり踊った。お風呂に入った後、篠原に与えた部屋に入って布団を二つ敷いて、倒れるように眠ってしまった。
練習先がスタジオではなく休演日の舞台だったから、葵は予想をしていたのだろう。
服装も舞台衣装だ。頭には輝く緋色の蓮のウイックを被っている。目には透き通るような赤色のカラーコンタクト。
葵の面影は、まったく消えている。
月のシンフォニーの蓮になりきっている。
「はい」
声は出ないが唇は動かす。
最初に5人のダンスが始まった。
テンポのいい曲調で、動きも軽やかだ。
今まで練習に参加してなかったのに、四人の動きとシンクロしている。
舞台上の動きも頭に入っているのか、ぶつかったりしない。
表情は明るく、眩しい笑顔は溌剌として凛々しい。いつもの顔とはまるで別人だ。
ダンスが終わると、いったん舞台は暗くなる。
演劇が始まった。
暗闇の中に目映い光の渦が沸き起こる。
光と音響で葵の体から、涙のような雫型の光が葵の体に映り込み天使の羽が消えていく。
静寂が訪れると光の中には白い服を着た葵が立っていた。
天使だった葵は人の姿に変わり舞台の中央に立っていた。
二冊の台本、一冊目の台本は声のない演出で動きが大袈裟になっている。もう一冊はセリフの入った演出。
葵は声のない演出に唇を動かして、セリフを唇に載せている。
少し大げさな動きだ。
声がない分、表情や仕草で表現している。セリフのない葵の分は他の団員がセリフを回す。
仲間たちの掛け合いは面白い。
演劇の題材はゲームの中のメインストーリーを改変したものだ。
『哀愁の天使』
禁忌を破った天使が声を失くすストーリー。
葵にあて書きされたストーリーは、葵の声が出なくても演じられる。
切なくて悲しいストーリーに、他の役者たちが絡んでくる。
葵は演技力だけで、役者たちとも絡んでいく。
人を愛した天使は、天上から地上に降りてきて、声と羽を失った。
愛する人には許嫁がいて叶わない恋だとしても、そばで見守っていたい。
地上に降りた天使は、だんだん力を失っていく。
既に声と羽を失くしている蓮には、時間がない。
早く天上に戻らなければ、魂は消えてなくなってしまう。
仲間たちは、早く天上に戻るように蓮を説得するが、蓮は仲間の言葉に耳を貸さない。
ある日、愛した人の許嫁に恋人ができて、縁談は破談になってしまった。
愛する人を失ったショックで、蓮の愛する人は、不治の病にかかってしまう。
愛する人の天命が尽きようとしたとき、蓮は愛する人を助けるために自分の命の欠片をほとんど与えてしまう。愛する人は生き返るが、命の欠片をほとんど失くした蓮にはもう天界に戻る力は残っていない。
劇中には女性は出てこない。女性の姿はライトの演出で現れたり消えたりして見せている。
蓮は仲間たちに見守られ、幸せそうに死んでいく。
死んだ蓮にスッポライトが当たり、蓮の魂を吸い込むようにライトが消えて劇場が暗くなる。
今回のストーリーは、月のシンフォニーで演じられてきた明るいパワフルなストーリーとは違い、数少ない悲恋ストーリーだ。
葵の心は大丈夫なのか、篠原自身が心配になる。
あまりにも今回のストーリーは、赤い誘惑のストーリーにも似ているし自分たちにも似ている。
当てはめるなら、女性を捨てた男性が篠原で、不治の病にかかって命を落としかける女性が葵だ。
台本は葵が抱えていたので、篠原はストーリーを劇場で観て初めて知った。
心配しているのは篠原だけなのか、葵は演劇に集中している。
仕草も切なさももどかしさも悲しさも全身で演じている。
初めて演じたはずなのに、観客として見ている篠原には、既に完成しているように見えた。
劇場が暗くなると、葵たちはいったん舞台から降りて早着替えをして、眩しい光が周りを照らす中を走って出てくる。
ファンが一番好きな葵の歌が始まる。
部屋で練習していたダンスが始まった。
葵の唇が歌を載せて動いたとき、他のメンバーが順に歌っていく。
葵の動きが一瞬止まった。
「葵、踊りなさい」
監督に言われて、葵は踊り出す。
葵の持ち歌は、他の仲間たちが順に歌っていく。
葵のようにのびやかな歌声ではないが、無音よりはマシかもしれない。
すべてを踊り終えて、葵はその場に膝をついて倒れた。
息が苦しくて、うまく呼吸ができない。
「葵、大丈夫か?」
仲間たちが口々に声をかけてくる。
篠原は携帯用の酸素を持って、葵のもとに走った。
「葵、口に当てるぞ」
小さく頷く。
汗に濡れた顔を、タオルで拭ってやる。
「ゆっくり呼吸をしろ」
監督が近づいてきて、倒れている葵の前に膝をついた。
「自主練はでいているようだな。立ち位置も間違えてないし演劇も問題ない。最初のダンスも問題ない。動線も覚えてきているな。DVDだけで完璧に覚えてきた気合は素晴らしい。だが、ラストの葵の歌は、さすがに無音じゃ観客に申し訳ないから、他のメンバーに歌を歌わせた。歌は葵に比べて落ちるが、声が出なきゃ仕方ないだろう」
監督は立ち上がると、「帰っていい。診断書は二週間だったな。ゆっくり休め」と言って葵から離れて行った。
握った葵の手が震えている。
「葵、ごめん」
四人の中で一番年少の俊介が、葵に頭を下げた。
「俺が提案したんだ。葵が歌えないなら、歌いたかった」
「俺もだ。これが最後の舞台になるかもしれないなら、歌いたかったんだ」
弘明も葵に頭を下げた。
「俺や卓也はもうすぐ三十路だ。この舞台と少しの端役だけでは飯は食えない」
卓也が倒れてる葵の前に膝をついた。
「そろそろ引退も考えていた。どちらにしろ葵の声が出なきゃ月のシンフォニーは、空中分解だ」
「葵、体力が戻ってないのに、通し稽古させてすまなかった。葵は一度も練習に来なかったのに、俺たちが何週間もかけて練習してきた舞台を演じられていた。実力の差と言ったら失礼になるな。きっと退院してから稽古場のような部屋で自主練頑張ったんだな。体力早く回復させておいで」
裕久が最後に言って、四人は稽古場から出て行った。
葵は、口に当てられた酸素を手で除けた。
「もう大丈夫」
「もう少し横になっていた方がいい」
「手を貸してくれる。着替えて帰る」
「抱いて行くか?」
葵は首を振る。
「倒れてもみんなの前では絶対にしないで」
篠原が手を差し出すと、その手に捕まって、葵はゆっくり立ち上がった。
「僕のくだらないプライドなんだ」
「わかったよ」
まだ肩が苦しそうに上下して、体がふらついているのに、葵は歩いて行く。
更衣室に戻ると、ウイックとコンタクトを外し、タオルと着替えを持ってシャワー室に向かっていく。
「シャワーをあびるつもりなのか?」
「倒れたりしない。すぐ出てくるから。待ってて」
カーテンを少し開けて俯いたまま入って行く。
服を脱ぐ衣擦れの音の後に、シャワーの音が聞こえてくる。
しばらくすると苦しそうな声が聞こえてカーテンを少し開けると、葵はシャワーに打たれて泣いていた。漏れる嗚咽に、少しだけ呻くような声が混じっている。
篠原はカーテンを閉めると、葵が出てくるまでじっと待った。
葵の傷つけてはいけないプライドは、所々に隠れている。
今は、それを教えてくれる。
泣き顔を見せないのも、プライドなのだろう。
いつも眠ってしまう車の中で、葵は起きていた。
窓の外をぼんやり見ている。
「葵、昼食はどうする?」
信号で止まったところで、篠原は葵に声をかけた。
「いらない」
「僕の方を見てくれないと、言葉がわからない」
「いらない」
振り向いた目が少し充血していた。
「食べないと回復しないよ」
葵はしばらく考えてから頷いた。
「二回目のデートを再現して」
篠原は変装しているが、葵は変装してない。
「少し買い物をしてから行こうか」
車線を変えて、以前葵を連れて行ったブティックに連れて行った。
新しいワンピースにレースのショートブーツ。ウイックはふわりとウエーブのかかったショートボブだ。冷房に弱い体を冷やさないように、ワンピースの上に七分丈のボレロを着ている。
ノーメイクでも葵は女性に見える。
葵はそれほど顔立ちが整っている。
「純也はこういう女性が好きなの?」
「ウイックはこれしかなかっただろう」
「そうだったけど。純也はこの髪型が可愛いって言った」
どうやら地雷を踏んでしまったようだ。
今までと雰囲気が違う髪型を褒めた途端、葵は不機嫌になった。
愛を疑われているようだ。
「色は葵が選んだんだぞ」
「そうだよ」
髪色は篠原の選んだ洋服に、一番似合うと思った淡いブラウンだ。
「髪の質が悪い」
「値段安かっただろう。そんなに気に入らないなら、専門店に行くか?」
「これでいい」
着ているワンピースと下着は白色だ。白色のレースのブーツとよく似合う。
今まで持っていない色にしようと篠原が選んだ。
センスは悪くない。
シフォンの白のワンピースはふわりとして着心地もいいし葵も可愛いと思った。
「僕が好きなのは葵だけだ。どんな姿に変装していても葵は葵だ」
ずっと苛々している葵の目をしっかり見て、篠原は口にした。
篠原を見ていた葵は、やっと頷いた。
目の前にはワイングラスが並んでいる。
一つは白ワインに見立てたブトウジュースで一つは赤ワインとは違う赤色をしている。
「前は乾杯したけど、今はそういう気分じゃなさそうだね」
「いい、乾杯しよう」
葵は気分を変えるために、ひとつ深呼吸をした。
「仲直りできたよね?」
「もう怒ってない」
篠原はホッとしたような顔をした。
八つ当たりをしていただけなのに、篠原は葵の顔色を気にかけている。
その優しさに、葵の苛立ちは癒されていた。
篠原の顔を見てから、葵はグラスに手を伸ばす。
よく磨かれたグラスは美しい。
「乾杯」
「かんぱい」
グラスを合わせる。
重なるグラスの音が、心地よい音色で響く。
ワインを口にして、葵の表情が明るくなる。
「おいしい。これ、イチゴ?」
「イチゴのワインだよ。気に入ったらお代わりしてもいいよ」
「うん」
運ばれてきた前菜を食べていると、お肉のプレートが運ばれてきた。
「おいしそう」
「前は、そんなに感動してくれなかったんだ。ただ黙って何かを考えて食べてた」
「なにを考えていたんだろう」
「僕には葵の心の中まで見えないからな」
「今日は何も思い出せない」
沈んだ重い溜息を漏らす葵を、篠原は以前にも見たことがあった。
赤い誘惑の主演に選ばれそうだったとき、葵は悩んでいた。
食事の後に、『僕たち別れよう』と言われた。
あんな悲しい言葉を聞くくらいなら、もう思い出してくれなくてもいい。
「急いで思い出す必要はないよ」
「でも、僕は早く思い出したい」
「今は食事を楽しもう。今日は、まだ一度も笑ってないよ」
葵はナイフとフォークを置くと、手で顔に触れた。
「朝は緊張してたし、練習後は辛くて、情けなかった」
「僕は通しの演劇を観て感動したよ。ダンスも演技も素晴らしかった。いつの間に、複雑な動きまで覚えたんだ?」
葵はワインに手を伸ばした。
「動きを紙に書きだして、ペンで何度も辿って完全に覚えた。それを舞台に置き換えて頭で何度も再生してたんだ」
「イメージトレーニングか」
「そう」
「歌・・・歌いたかったんだ」
喉を押さえてから、葵はワインを飲み干してしまった。
「お代わり飲むか?」
「もう一杯だけ。これおいしい」
篠原がすぐにオーダーしてくれる。
新しいグラスをテーブルに置かれて、葵はまたワイングラスを手に持った。
「みんなが歌いたかったって知って、今まで僕ばかり歌わせてもらっていたことが申し訳なかった。そのことに気づかなかった自分が情けなかったけど、情けなくてもやっぱり僕はあの場所を譲りたくはなかった。僕は我が儘すぎなんだな」
ワインを一口飲んで、また一つため息をついた。
「俊介さんと裕久さんが引退考えていたなんて知らなかった」
「芸能界の引退は、誰でも何度でも考えるものだよ」
篠原の言葉は説得力がある。
最優秀主演男優賞を取った篠原がプロダクションを追い出され、今は仕事がなくなって葵の世話を見ている。
「僕も考えてる。今回の舞台が最後」
「どうしてだ?葵の演技は素晴らしい」
葵は首を振る。
「声が出なきゃ、何も演じられない」
目を伏せて、じっとグラスを見ている。
「演じていたじゃないか、今日の演技は素晴らしかった。声は必ず戻るから」
俯いたまま葵は、首を左右に振る。
「あの時、葵は倒れてしまったから気づかなかったかもしれないが、いつもは流れない二番の曲が流れていた。もちろん歌はなかったが、曲だけが流れていた。もしかしたら、葵の声が出るようになったら歌えるように構成されているんじゃないか?」
俯いていた顔が上がる。
「二番の曲」
「あるだろう?」
「ある」
「今は思いつめるな。時間はまだある。笑っているときは、いろいろ思い出せただろう?」
「純也、ありがとう」
篠原が微笑むと、それに応えるように葵は微笑んだ。
「残さずに食べなさい。今は力を蓄える時だよ」
「わかった」
葵は頷いて、ワインを飲み干してしまうと、ナイフとフォークを持ってお肉を食べだす。
海に行くのは今度にしようと言われて車に乗ったことまでは覚えているが、それ以降の記憶がない。
暗い天井を見上げてから、自分の部屋を見渡した。
自室のベッドの上で眠っていたようだ。服は白のワンピースを着て、頭にウイックを被ったままだ。
体を起こしてウイックを外し、ワンピースの上に羽織っていたボレロを脱いでベッドを下りた。
隣に篠原がいないことが寂しかった。
部屋を出るとリビングの灯りも落とされていた。
隣の部屋の扉を開けると、灯りが消されて布団が一枚敷かれ、篠原は眠っていた。
静かに近づいて、篠原の横にそっと体を横たえた。甘えるように顔を近づけたとき、篠原の目が開いた。
「葵」
「一緒にいてもいい?」
暗くて唇の動きが見えないのか、一方的に話し出す。
「葵、部屋に戻りなさい。最初に話しただろう。僕たちは愛し合う関係だったんだ。一緒にいたら抱きたくなる」
「それでも一緒にいたい」
唇の動きが見えなくて、篠原は起き上がろうとした。
葵は篠原に立ち去られると思って、必死に抱きついた。
体が勝手に動いて、篠原の唇に唇を合わせていた。
だんだんキスを深めて、そっと唇を離す。
「レッスンのキス覚えているのか?」
葵は首を左右に振る。
「体が覚えているのか」
何を言われているのかわからず、首を左右に振る。
今度は篠原からキスをされた。軽く触れるだけのキスから、徐々に深いキスに変わっていく。
唇が離れていく。
「葵が今したキスを返した。分かるか?僕が教えたキスだ。覚えているんだな?」
首を振るしか伝わらない。
「電気をつけるから、待ってろ」
篠原は立ち上がると、部屋の灯りをつけた。
眩しくて目を塞ぐと、調光センサーで高度を下げた。
目を開けると、篠原が目の前に座った。
「起こしてごめん」
「いいよ」
「一緒にいたかったんだ」
「僕といると襲われるぞ」
悪戯っぽく篠原が笑った。
「それでも一緒にいたかった」
「キスは覚えているのか?」
「勝手にしてごめん」
「怒ってない。もう一度してくれるか?」
膝立ちになった葵が、篠原の肩に手を置いて、唇を重ねてくる。
篠原が教えて順序でキスを終えると、体も離そうとして来る。
「嫌じゃなかったら、もっといっぱいキスしてくれる?」
頷くと唇が重なってくる。
篠原は片手で葵の体を抱くと、もう片手でスカートの中に手を入れて、葵の太腿を撫でた。
フルっと震えてキスを辞めようとした葵の体を抱きしめて、キスを深めていく。
「ぁぁぁん」
キスの合間に声が漏れる。
葵の中心に触れると、勃起していた。
「気持ちよかったのか?」
顔を隠すように篠原の肩に顔を埋めて、首を振る。
「だって葵、勃起してるよ」
肩の上で頷く。
「葵はここに触られると、声を出して悶えていた。今も声、出てたよ」
「ほんとに?」
葵が顔を上げて、篠原をじっと見た。
「可愛い声だった」
篠原はワンピースのファスナーを降ろして、ブラジャーのホックも外してしまう。
「抱いてもいい?」
「覚えてないのにいいの?」
「僕は葵を抱きたい。僕の中の葵は一度も消えてない。以前よりもっと愛しいんだ。葵が嫌だったら止める。いいならキスして」
葵は篠原に抱きつくように体を寄せると、触れるだけのキスをした。
「優しくするから」
ワンピースを脱がされて、ブラジャーが床に落ちる。
体を引き寄せられて、布団の上に横にされた。
「本当に、葵は綺麗だね」
篠原の手が体のラインをなぞり、窮屈そうな下着を脱がしてしまう。
「あ」
「ほら声が出た」
勃起したその場所を葵の手が覆う。
「声が出たのわかった?」
「わかった」
「あって言ってみて」
葵は声を出そうとしてできなくて首を振る。
「慌てなくていい。出てるってわかれば、声は自然に出る」
篠原もパジャマを脱いで、裸になった。
葵がじっと見つめてくる。
「僕に見とれてるの?」
「好き」
「僕も葵を好きだ」
唇が重なり体が重なる。
「僕も勃起してる。葵と同じだ」
「うん」
キスをしながら掌が肌を撫でる。キスが徐々に下へと降りて行く。
葵の大切な場所に触れると、今にも弾けそうなほど張り詰めていた。
「僕もずっとしてないから、そんなに持たない。先に一度抱いてもいい?」
こくんと葵は頷いた。
「その前に葵を楽にしてあげる」
敏感な先端を舐められて、体がひくっと跳ねた。
「声出していいから」
先端を口に含み鈴口を突くと葵は体を捩って、「ぁぁぁぁっ」と吐息の声を上げる。
口をすぼめて葵の欲望に刺激を与えていく。
「純也、だめ」
掠れていたが声になっていた。
葵を追い上げると、高い声を上げて、篠原の口の中に吐精した。
肩が大きく揺れている。
「葵、今、僕の名前呼んでくれた」
「ほんとに?」
「純也って。もう一度言える?」
「純也、純也・・・・」
「嬉しいよ、葵」
「でも、まだ言えない」
「言えたよ。僕は聞いた」
「うん」
ぎゅっと抱きしめられると、お腹に篠原の熱く滾ったものが触れて、葵は篠原の腕から離れて起き上がった。
「僕もする」
篠原の欲望に触れようとした手を、篠原は両手で掴んだ。
「僕は葵の中に入りたい」
葵は首を傾ける。
出会った時の葵は、セックスの知識はまるでなかった。
結ばれる場所に手で触れて、そっと指を押し当てる。
「男同士は、ここでするんだ」
「は?」
驚いた顔が可愛い。
「前の僕もしてたの?」
「ここが柔らかくなるほど」
「痛くないの?」
「痛くないようにするから、体を委ねてくれるか?」
「あ」
史郎の言葉を思い出した。
『和也さんに委ねてみたんだ。幸せだった』
「うん」
チュッと唇に触れるだけのキスをすると、篠原はもう一度、葵の欲望を握って扱きながら先端を口に咥えた。
「あ、あああっ」
身をくねらせて、葵は篠原の背中にしがみつく。
「純也、ダメ、あああっ」
葵を口と喉で締め上げて追い上げていく。
「純也、純也、それ以上は駄目」
快感で足先が震えている。
時折、掠れた声が聞こえる。
射精を迎える瞬間、葵の先端を吸って、精液をすべて口に含むと、そのまま会陰を舐めながら結ばれる場所まで体をずらしていく。
射精の快感で、葵は呆然と体を投げ出している。その隙に、足を開いた。花芯にキスをして舌先でつつき、指を添えて少しずつ濡らしていく。
「純也、そこ駄目。純也、ああっ」
指が二本入って、噛みつくような激しいキスをされると、葵は全身でもがき、吐息で悲鳴を上げた。
葵の両手が篠原の髪を掴む。
葵が出した精液をすべて入れると、二本の指で葵の感じる場所に、優しく触れると、葵の性器が徐々に起ち上がってく。
「純也、純也・・・」
葵は、ずっと篠原の名前をすすり泣きしながら呼び続けている。
快感が強すぎたかもしれないと思っても、掠れた声で名前を呼ばれて、篠原は嬉しかった。
「葵、入れるぞ」
すすり泣きながら頷く、葵の体を抱きしめて、ゆっくり挿入する。
最初の時と同じように、先端だけ入れると、少しだけ体を揺すり、篠原は射精した。
葵は体の中に温かなものが広がって、ぎゅっと閉じていた目をやっと開けた。
「怖いか?葵」
「怖い」
「まだ先端を入れただけだ。怖いならやめるか?」
「やめない」
濡れた頬を掌で拭ってやる。
「葵、僕の名前、ずっと呼んでたよ。気づいた?」
葵は首を左右に振る。
「声でてるよ」
「声出るの?」
「出てる」
喉を押さえて、声を出そうとする。
咳が出て、うまく出ないようだ。
すっと吐息を吐いたとき、葵の瞳がきらりと光ったように見えた。
葵の手が背中に廻されて、篠原を抱きしめる。
「純也、抱いて」
体と体が密着すると、吐息が囁いて、篠原は葵の顔をじっと見た。
「葵、今のは?」
「声、聞こえた?」
「聞こえた」
葵が嬉しそうに微笑んだ。
頭を撫でてやると、葵は照れくさそうに頬を染めた。
「続けるぞ」
「うん」
「深呼吸してくれるか?」
葵が頷いて、何度も深呼吸をする。
ゆっくりと葵の中に欲望を入れていくと、葵の手が何度も篠原の肩を掴む。
「痛いか?」
「痛い」
葵の欲望に手を伸ばし、刺激を与える。
括れをなぞり、扱いて行くと、葵は体を捩じらせ吐息の悲鳴を上げる。ところどころ、掠れた声が混じる。
「純也、ああっ、だめ」
前の刺激で悶えている間に、一気に奥まで入れてしまう。
「葵、全部入ったよ」
葵の手を握って結合部に導く。
開いた肛門に突き刺さる篠原のものを指でなぞって、葵は抱きついてきた。
「嬉しい」
吐息が囁く声を聞いて、篠原は今まで以上に葵を愛しく感じていた。
「僕も嬉しい」
「僕は愛されてる?」
「愛してるよ」
葵は頷いて、抱きしめる腕を弛めた。
「抱いて」
離れてしまうと、葵の声は聞こえない。
葵の感じる場所を重点的に突き、抱えた足の太腿に唇を寄せる。
「葵、自分の声わかるな?」
何度も頷きながら、葵は悶え泣きながら、悲鳴のような声を上げる。
「純也、そこだめ」
「葵は、ここが感じるんだよ」
「あああっ」
葵がイクと篠原のものを搾り取るように中が締め付けられて、葵に持って行かれる。
「葵の中、すごいぞ。絡みついて離さない」
篠原の精液で濡らされて、葵の中は柔らかくなっていく。
葵の感じるポイントを激しく突くと高い声が上がった。その声があまりに綺麗で、何度もつくと、葵は吐精しそのまま意識を手放してしまった。
「可愛い、葵」
意識を手放した葵を腕に抱くと、すぐに目を覚ました葵が、篠原の胸を叩く。
「どうした葵」
「僕の中からもう出てって」
篠原はクスクスと笑った。
「前にも同じようなこと言われたな」
葵の体を押さえつけて、キスをすると今度は葵の奥を突く。
「純也っ、もうやめて」
「抱かれてたら、発声練習になりそうだよ」
葵の体をなぞりながら、葵の体を貪った。
感じる場所を知り尽くした篠原には、葵に快感を与えることは容易かった。
快感を与えると吐息が喘ぎ声になる。
喘ぎ声が声に、声から言葉になるときがある。
いっぱい声を出させて、葵は抱かれ疲れて失神してしまった。
気を失った体を抱き上げてシャワーで洗い、葵の寝室に運んだ。
床に薄い布団は、正直背中が痛くなる。
一泊二日程度なら我慢できるが、体を休めるためには適さない。
ベッドに横たわった葵に布団をかけて、力の抜けた手をそっと握った。
起こさないように唇に寄せて、キスをする。
『純也』と呼んでくれた声を思い出し、今は何も考えずゆっくり眠ってほしいと願った。
寝顔は久しぶりに満たされた顔をしていた。
オーブンでパンを焼いて、貧血改善のビーフシチューを作り終えたとき、葵の部屋の扉が開いた。
「おはよう、葵」
葵は頬を膨らませていた。
「怒ってるのか?」
パタパタ走ってきた。篠原の首に両腕を回して引き寄せると、耳元で吐息が囁いた。
「初めてだったのに」
「よくなかったのか?」
「もっと手加減してよ」
篠原が声を上げて笑うと、葵は手を離して、篠原の腹にむけて拳を振り下ろした。それを受け止めると、また頬を膨らませて、パタパタ走るとダイニングの椅子に座った。
本気の拳ではなかった。受け止められることを前提に出した拳だった。
葵なりの甘え方なのか、一緒にいると見たことのない葵の一面が増えていく。
「お腹が空いた」
唇が動くのを見て、篠原は焼きたてのテーブルロールを大皿に載せてテーブルに置いた。
「シチュー持っていくから、少し待ってて」
「わかった」
ビーフシチューとスプーンを持っていくと、葵はすぐに食べだした。
「純也も食べよう」
「食べるよ。美味しい?」
「美味しい」
焼き立てパンを半分に割ると、まだ湯気がのぼる。
そのまま口に入れると、「ふかふかでおいしい」と吐息で囁いている。
耳元でなくても、近くにいれば声が聞こえる。
「葵、声出るようになったな」
「声のうちにはいるのかわかんないけど」
「すごい進歩だ」
「純也が強引だったんだ」
昨夜のことを思い出したのか、頬が赤い。
「今夜も忍び込んでくるのか?」
「だめ?」
「それなら布団新しいのを買うか?」
「お布団薄から、痛いよね。みんな言ってた」
「苦情があった布団だったのか。どおりで寝心地が悪いと思った」
「ベッドを買ってもいいよ。あの部屋ピアノ以外なにもないし」
「それなら今日は寝具売り場を見に行くか?」
「行く」
「食べたら行こうか」
「わかった」
「お代わりもあるから、いっぱい食べろよ」
「うん」
二人でお代わりをして、ビーフシチューもパンも全部食べてしまった。
薄いピンクのワンピースにボレロを着た葵は、自室の鏡台の前で両手にウイックを持って悩んでいた。
「葵、準備はまだか?」
「純也はどっちがいい?」
一つは葵がずっと被っていたロングヘアーで、もう一つは篠原が可愛いと言ったゆるふわボブだ。
「どっちでもいいぞ」
「だって、純也、短い方可愛いって言った」
「ロングも可愛い」
「ずるい」
「髪質のいいものにしたらどうだ?肌触り悪いだろう?」
「うん」
やっと決めて、いつものロングヘアーのウイックをつける。
「今では、その髪型のほうが葵らしい」
「もう迷わない」
葵は篠原を見上げて、にこりと笑う。
薄化粧を施した葵の唇は、いつもナチュラルな色のルージュが引かれている。
引き寄せられるように、唇を重ねていた。
「純也、お出かけ」
「もう少しだけ」
自分でウイックを着けられるようになった篠原は、金髪のウイックにシルバーフレームの眼鏡をかけている。
鏡に映った自分の顔を見て、葵は自分が微笑んでいることに気づいた。
(恋してる顔。幸せそうな顔だ)
唇が離れると、篠原の腕が優しく抱きしめてくる。
「口紅とれちゃったかな」
「僕のこと好き?」
「好き過ぎて、困ってるくらいだ。いつでも抱いていたい」
「女の子に生まれてたらよかったのにね」
「どうして?」
「結婚もできたし、純也の子供が産めたよね」
「僕は葵だから好きなんだ。いい?ちゃんと覚えてて」
「うん」
鏡台の上からリップを取ると、篠原は葵の唇にルージュ―を引いた。
「遅くなるから行こうか?」
「うん」
リップを鏡台に戻すと、葵の手を握って歩いて行く。
「なんで、女装するんですか?」
「変装だよ。葵も時の人だし、僕も渦中の人だし、見つかったら追い回されるよ」
葵は頷いて、手渡せた下着とワンピースを受け取った。
「ウイックも忘れないでね。付け方は覚えてる?」
葵は頷く。
「葵、頷くのは禁止、発声の練習になるから唇を動かして」
「わかった」
「僕には言葉は伝わるからね」
「はい」
「葵、僕が付けれるウイックは持ってる?」
「サイズが合うか分からないけど」
ピアノが置いてある部屋に入っていった。
電気をつけるとクローゼットに向かう。左側のクローゼットを開けると、ウイックスタンドに載せられたウイックを篠原に見せた。
「どれがいいですか?」
カラフルなカラーのウイックや長さやヘアスタイルの違うウイックが数えきれないほど並んでいた。
「どれが似合う?」
「これはどうですか?」
取り出したのは、金髪のショートストレートのウイックだった。
「つけてくれるか?」
「座ってください。手が届かないので」
「ここでいいか?」
「ここでいいです」
篠原が床に座ると、葵は篠原の髪を櫛で梳かし、綺麗にしたところでウイックを被せて、手早く留めていく。
「うまいもんだな」
「僕の商売道具だから」
ウイックの髪を丁寧に梳かしてスタイリッシュに仕上げていく。
「できた。かっこいい、篠原さん」
葵はクスクスと笑って、篠原の手を引っ張るとリビングの鏡の前まで連れて行った。
「お、別人だな」
「眼鏡かけたら完璧に変装できますよ。僕も着替えてくる」
葵はベッドルームに入って行って、扉を閉めた。
数分で扉が開いた。薄化粧した葵が出てくる。
「葵も完璧だな」
「篠原さん」
「葵、すまないが素性がバレると、今は不味いんだ。純也って呼んでくれ」
「でも」
「言葉も恋人同士に見えるように、もっとフランクに」
「僕の名前も変える?」
「葵は絶対に顔バレしない」
完璧な変装だ。変装には自信がある。
褒められたようで、嬉しくなる。
「わかった」
「呼んでみて」
「純也さん」
「純也だ」
「篠原さん、年上だから・・・あ、あっ」
(8歳年上だから・・・)
これは記憶?
頭を抱えて、床に膝をつく。倒れかけた体を篠原が、腕に抱き留めた。
「葵、今、声が出たぞ。わかるか?」
葵は首を左右に振る。
「わかるか?唇を動かして答えて」
「わからなかった」
「いいぞ。声は戻る。出かけられるか?」
「出かけられる」
「立てるな?」
「はい」
自分の力で立ちあがると、篠原は葵の手を掴んだ。
「もう一度、純也って呼んで」
「篠原さんと僕は8歳も違うのに」
「思い出したのか?」
「思い出した」
「呼んでもいい」
「でも」
「葵、僕は事務所の社長と喧嘩して、クビになった俳優なんだ。顔バレしたら、カメラやマイクを向けられる」
「どうして喧嘩をしたのか教えて?他にも聞きたいことがある」
「買い物がすんで、休憩するときに話すよ。葵の体力はまだ戻ってない。早く買い物を済ませたい」
「わかった」
「純也、行こう」
「葵、ありがとう」
「いいよ」
手を繋いで部屋を出ていく。
「鍵は?」
「葵から合鍵をもらってる」
「僕たち付き合ってたの?」
「どうしてそう思うんだ?」
「史郎が言ってた」
「史郎君か、鈴村と恋人同士になったらしいな。時々ふたりの写真が送られてくるよ」
(はぐらかされた?)
エレベーターはすぐに開いて、地下駐車場まで真っ直ぐ降りていった。
「そういえば」
鞄の中から、史郎からもらったキーホルダーを取り出して、葵は篠原にそれを見せた。
「史郎にもらった。純也に買ってもらったものだからって」
「思い出せたか」
「思い出せなかった」
「最初のデートを再現してやるよ」
「今から?」
「今日は駄目だ。外出は3時間以内だ。葵の様子を見ながら時間は増やしていく」
「わかった」
車に乗せられて、大型スーパーに連れてこられた。
「こういうところ、初めて来た」
「最近は来てないな」
「買い物できるの?」
「するさ。葵の部屋は料理できる環境じゃない。あれは稽古場だ」
「僕には、それしかなかったから」
「そうだな。葵にはたくさん話さないといけないことがある。起きていられるかな?」
「起きたら話して」
「そうする」
篠原はキッチン用品を吟味している。
カートの中にフライパンやお鍋や包丁が入れられていく。
「食器洗浄機も欲しいな」
「純也の欲しいものなんでも置いていいよ」
「いいのか?」
「うん。いつも殺風景って史郎に言われる」
「そういえば、食器があったのか見てこなかったな」
「種類はたくさんないけど、仲間で集まったときの取り皿くらいならあるよ」
「ないと見た方がいいな。ふたりでお揃いのものにするか?恋人らしく」
葵は笑みが浮かんだ。
「いいよ」
篠原は食器売り場に葵の手を引いて連れて行った。
「どれがいい?」
「僕が決めるの?」
首を傾げていると、「何色が好き?」と聞かれた。
「白、ピンク、赤」
「その色のついている物にしよう」
値段はそんなに高くない。
(洋服買った時より安い・・・・)
そう思ったとたん、お店でのいろんな出来事を思い出していく。
洋服の値段。篠原が持ってきたドレスのような服。篠原が選んでくれた洋服たち。篠原が嬉しそうに選んだ下着のこと。
心の引き出しから、溢れだしてきた記憶が胸を圧迫する。
「・・・あ、あっ」
胸を押さえて屈みこむ。
「葵、声でてるぞ」
「・・・しい。・・・できない」
「呼吸ができないのか」
頷くとカートをそのままにして、葵を腕に抱きかかえて、人ごみから出ていく。
外のベンチに座らされ、葵は篠原に凭れかかるように座っていた。
「少し落ち着いたか?」
「はい」
顔色は蒼白だ。
「なにか思い出したな」
「うん。洋服を買ってくれた時のことを」
「そうか」
「疲れた」
「いったん家に戻るか?」
「でもまだ何も買えてない」
「明日また来ればいい」
葵は首を左右に振る。
「車で待ってる」
「駄目だ。葵を一人にしないと決めている」
「もう少し頑張れる」
「歩けるのか?」
「大丈夫」
立ち上がると、篠原に手を差し出す。
「葵は頑固だからな」
「うん」
ふわりと何かが浮かんで消えた。
「この白いお皿でいいか?」
「いいよ」
篠原がナイフとフォークとスプーンをカートに入れると、箸売り場で、「どれがいい?」と聞かれた。
「これ綺麗」
シェルのあしらわれた箸を選ぶと、篠原は、葵と色違いの箸を入れる。
「カップはどれにする?」
「白いの」
「ペアカップにしないか?」
篠原が指した方を見ると、色違いや模様違いのペアカップが集められていた。
周りを見ると、白いお皿以外にも他の色もあるし、いろんな柄のお皿やお茶碗も置いてある。
「視野が狭くなってる?」
「やっと気づいた?」
「うん。この白いお皿しか見えてなかった」
「選びなおしていいよ」
篠原がお皿を戻してくれる。
結局白いお皿にしたが、最初に選んだものより、形がシャープで少し高価なものにした。
料理はおいしく食べたいから、その器も料理を引き立てるものがいい。
ペアーのマグカップにお茶碗もペアーのものにした。
「なんだか恋人みたい」
「周りから見たら、同棲始めましたの恋人に見えるだろうな」
「同居なのに、同棲なの?」
「恋人に見られるのは嫌か?」
「嫌じゃないよ」
篠原が笑った。その笑顔を見て、葵も微笑む。
心がふわふわする。嬉しくて楽しくてふわふわする。
「会計に行くぞ」
葵の手を引き、カートを押していく。
「食料品も回れるか?」
「美味しいものが食べたい」
「任せろ」
そのまま食料品売り場に行って、篠原はカゴに商品を入れていく。
「おやつ買ってもいい?」
「いいよ。好きなもの持っておいで」
ラムネとキャンディーを持ってきた葵は、嬉しそうな顔をしていた。
「それだけでいいのか?」
「なくなったら、また連れてきて」
「いいよ」
数日の食事分を調達すると、レジで購入する。
「葵、平気か?」
「うん、大丈夫。ちょっと眠いだけ」
「車、もうすぐだから」
「うん」
車に先に葵を載せて、荷物を車に積み込んでいく。
すべてを済ませて、車に戻ると、葵はすっかり眠っていた。
いい香りがして目を覚ました。
見慣れた天井とベッドだ。
ゆっくり体を起こすと、ワンピースもウイックも身に着けたままだった。
葵は部屋を出た。キッチンに篠原がエプロンをつけて料理をしていた。篠原もウイックをしたまま別人のようだ。
「起きたのか」
「篠原さん」
「純也だろう」
「まだ演技するの?」
「昔は純也と呼んでたんだ。思い出すんじゃないかと思ってね」
「僕たちは・・・」
「僕たちは恋人だよ。お互いに愛し合っていた。だけど、僕が葵の心を傷つけてしまった。だから、葵は僕の記憶も言葉も失くしてしまった」
葵は対面キッチンの中に入っていって、篠原の横に立った。
「思い出したら、またフラれるかもしれないけど、葵には言葉を戻してあげたい」
史郎が作ってくれた記憶の空欄の紙を思い出した。
ぱたぱたと部屋に戻っていく。
「葵、怒ったのか?」
部屋に戻って、鞄の中から、たくさんのコピー用紙を取り出して、机に置いた。
その中から、記憶の空欄の紙を取り出す。ペンを持ってダイニングに戻っていった。
「純也、教えて」
「それはなんだ?」
「記憶の空欄。服を買ったのはいつ?」
篠原は指を指す。
「二回目のデートだったな。史郎君の身代わりで来てるって分かってても、僕は楽しくて、つい遅くまで連れまわしてたんだ。帰りにね、さっきみたいに車で眠ってしまったんだ。僕の部屋に運んで朝を迎えた。葵は僕と同じベッドで目覚めて動揺してしまったんだろうね。史郎君のことも話さなくちゃいけないって、焦ってたんだ。熱い紅茶を口にして、びっくりして落としてしまった。足の上にね」
「それで火傷をしたの?」
「そう。火傷は広範囲でけっこう酷かったんだ。ズボンだと傷に触れて痛そうだし、だからスカートを着るように勧めた。葵に似合う洋服を買ってあげたかったんだ」
「ありがとう」
空欄の中に文字を書き込んでいく。
「いつから恋人になったの?」
「僕は葵のことを昔から好きだったけど、好きだと告げたのは、火傷を負った時だ」
「昔から?」
頭が痛い。
手で額を押さえると、篠原が調理の手を止めて、葵をダイニングの椅子に連れて行く。
「倒れると危ないから、座っててくれるか?」
「わかった」
「あとは何が聞きたい?」
葵を椅子に座らせると、篠原はキッチンに戻って行く。
「どうして事務所を辞めたの?」
「それは、葵を傷つけた言葉と結びつくんだ。まだ今は教えられない」
「純也はこんなに優しいのに、僕は信じられなくなったの?」
「僕が無神経だった。今はとても後悔してるんだ」
葵は席を立つと、キッチンに走っていって、篠原の背後に抱きついた。
「今の僕は純也が好きだ」
背中に呟いた言葉は、篠原に聞こえない。
「葵、さすがに背中には目がないんだ。言葉は見える場所で言ってくれるか?」
葵は背中で首を左右に振った。
「純也、ウイック取ってあげる。慣れないと頭痛くなる時がある」
「外してくれるか、壊したらいけないかと思って触れなかったんだ」
「早く言ってくれればいいのに」
食事を終えた後、葵は篠原の背後に立って、ウイックを外す。
「僕も外してくる。お化粧も落としたい」
ぱたぱたとウイックのある部屋に入っていくと、すぐに自分の部屋の中に入っていった。
元気に動き回る姿を見ながら、篠原は食器を片づける。
今まで見たこともない素顔が、そこにあって見ていて飽きない。
篠原の家に持って行っていたものを片付けているようだ。
「純也、お風呂入ってくる」
「背中流してやろうか?お風呂は久しぶりだろう?」
「一人で入れるよ」
「前は一緒に入ってたんだよ」
「ほんとに?」
「本当だけど、嫌なら一人で入ってきていいよ。その代わり、倒れるといけないから、見張らせてもらうよ」
葵は少し考えて、「一緒に入ってもいいよ」と答えた。
「短時間で終わって、この後の舞台のDVDは一緒に観られるな」
そう言うと、葵は笑みを浮かべた。
篠原は持ってきたスーツケースを開けようとして、葵を見上げる。
「僕はどこに部屋を借りられる?」
「どこでもいいよ。こっちの部屋なら広いしお布団もあるよ」
葵は扉を開けて電気をつけた。
ピアノのある部屋だ。
「ここを借りるよ」
スーツケースを部屋に入れて、ロックを開ける。
「メイク落としてくる」
「行っておいで」
顔を覗きこんで話してくる葵の、仕草が可愛い。
一緒にお風呂に入ってもいいと、言ってくれるとは思わなかった。
「理性との戦いだな」
着替えと下着、歯ブラシを持つと、葵の後を追うようにお風呂に向かった。
お風呂には濁り湯の温泉の素と黄色いアヒル3匹が浮かんでいた。
先に洗ったのか篠原が入ったときには、湯船の中にいた。
プウプウと音がする。
「いつも遊んでるのか?」
こくんと頷いてから「はい」と唇が動いた。
「歌でも歌ったらどうだ?ハミングできるかな?」
風呂の中が静かになる。
声を出そうとして、何度か咳をする。
「無理はしなくていいぞ」
「大丈夫」
肩が揺れている声を出そうとしている姿が痛ましく見える。
「葵、僕も入っていいか?」
こくんと頷き、場所を開けてくれる。
「温めの湯に入っているんだな」
「熱いとのぼせちゃうから」
「そうだな。僕はいつもシャワーだ」
「疲れが取れないし、お風呂に入ってからだと体が柔らかくなる」
「体を柔らかくするのか?」
「ダンスの練習するときの怪我予防」
「ああ、なるほど。ちょっと待て、今から練習するつもりなのか?」
「する」
背後を向いて立ちあがると、葵はお風呂を出ていく。
洗面所で体を拭いている。
篠原も慌てて、お風呂をでると、葵は既に下着とTシャツを着ていた。
ふと右足を見て、篠原は葵の前に屈みこんでいた。
「火傷、綺麗に治ったな」
「ありがとう。たぶん、純也が手当してくれたんだよね」
「そうだな」
「触ってみてもいいよ。もう痛くないから」
篠原の手が太腿に触れると、ぎゅっと手を掴まれた。
「やっぱりだめ」
顔が赤くなっている。
葵の太腿が性感帯だったことを思い出して、篠原はフッと笑い自分の体を拭く。
「体は覚えてるってことか?」
急いで服を着る。
葵から目を離すわけにはいかない。
社長命令でなくても、篠原自身がもう後悔はしたくない。
DVDを見ながら柔軟体操をすると、葵はダンスシューズを履いて、部屋の中を歩く。
身に着けているのはTシャツとジャージだ。
篠原はダイニングのテーブルの前に座ってその様子を見ている。
立ち止まるとDVDを再生して、最初はステップを踏んでいく。
動きと位置の確認をしている。
少しずつ手の動きや顔の動きがついてくる。
まずはクライマックスのダンスの練習を始めている。
唇は歌を刻んでいるが、声は出ていない。
本来ボーカルの葵の歌だ。
一番の山場で見せ場でもある。
一本曲が終わって、葵はDVDを最初に戻して再生して、立ち位置に戻る。
今度は最初から振りが入った。
激しいダンスとスッテップをつけて、部屋中を使って体を動かす。
一曲踊って、葵は呼吸を整えながらテレビの前に座って、DVDを先に進めて見ていく。突然立ち上がると、自室に入ってすぐに出てきた。手には紙とペンが握られていた。
DVDを戻して、ゆっくり再生する。
素早く何かを書き込んでいく。
それを何度も繰り返した後、紙とペンをカメラの下に置いた。
息が完全に整ったところで、カメラを作動させ、DVDを再生させる。
葵は再びダンスを始めた。
今度は二度目より動きが激しい。
表情や視線も変わっている。
息を飲むようなダンスの後に、カメラを止めて、床に座る。
苦しそうに肩が揺れている。
「葵、一度に」
無理するなと言わせる前に、手を開いた片手が突き出された。
『勉強中は邪魔をしないで』
葵の声が聞こえたような気がした。
その勢いに、篠原は立ち上がりかけた体を椅子に戻す。
ゆっくり立ち上がるとチャンネルを操作して、今撮った映像をテレビに写す。
動きが激しいのに、うっとりするほど視線が色っぽい。
誘いかけるような視線と指の動き。
躍動と煌めきが、そこにはあったが、葵は気に入らなかったらしい。
鏡の前でゆっくりと体を動かす。
手や指の位置の角度の調整をしている。
視線と顎の高さ表情まで、納得いくまで手直ししていく。
今度はゆっくりと部屋の中を歩いている。目は閉じている。部屋の広さを体が覚えているのだろう。テレビの前まで行くと、カメラとDVDを操作した。ゆっくりと立ち位置に戻っていく。ダンスが始まった。ダンスと確認の繰り返しで二時間半たっぷり踊って、床に転がった。
「葵、大丈夫なのか?」
稽古を始めて、初めて葵が視線を合わせてきた。
「体力落ちた。もうバテてる」
「二時間半も踊ってれば、誰でもバテる」
葵は首を振って、勢い付けて体を起こすと、柔軟体操を始めた。一通り体をほぐすと、ダンスシューズを脱いでゆっくり立ち上がった。「お風呂入ってくる」と言い残して、篠原の前を通り過ぎていく。
「一緒に入るか?」
「大丈夫」
振り返った顔には清々しい笑顔があった。
お風呂の中からアヒルの音がする。
「僕とは次元の違う役者だ。こんなに芝居一筋の役者のプライドを僕は傷つけたんだ。どうしたら声を取り戻すんだ」
アヒルの音を聞きながら、篠原は思いつめた顔で頭を抱えていた。
できることなら時間を戻したい。
ふと目を覚ますと、葵が布団の中にいた。
昨夜はお風呂から上がると、そのまま部屋に行き倒れるように眠ったはずなのに、いつの間に来たのか、篠原の胸に頬を埋めている。
篠原は起きるのをやめて、甘えるように眠る葵を見つめていた。
唇が微かに動いている。言葉を読み取ろうと見ていると、瞼が震えた。
目を開けた葵が慌てて体を離そうとしたのを、篠原は抱きしめることで葵の体を拘束した。
「一緒に寝たかったのなら、最初に言ってほしかったな」
逃げるのをやめて葵は甘えるように、篠原の胸に頬を押し当てている。
「葵を傷つけて声まで奪ったのに、僕のこと好きなの?」
葵は篠原の腕の中で小さく頷いた。
「僕は葵に前みたいにキスをしたいし、抱きたいと思ってる。それでも好きだと言える?」
ごそごそと葵が腕の中で動いて顔を上げた。
「前はしてたの?」
「僕の愛が重いって思っていたかもしれないくらい、僕は葵を抱いていたよ」
「今の僕も抱きたい?」
「当然だろう。葵は葵だ。葵の中の記憶は消えたかもしれないが、僕の中の葵は消えたりしてない」
「僕は愛されてるんだね。だから純也の傍にいると幸せなんだ」
「幸せなのか?」
「純也は幸せじゃないの?」
「腕の中にいてくれるだけで、幸せだよ」
「よかった」
葵は頬を染めると、また篠原の胸に頬を埋める。
温かいぬくもりも、甘える仕草も伝わる鼓動も今は心地いい。
「もう少し、こうしていようか?」
葵が頷くと、その体を抱きしめるように腕で包む。体がもっと密着して、足も絡まる。
顔をあげた葵の唇が動いた。
「純也好き」
「僕も葵を好きだよ」
嬉しそうに微笑んだ後、葵はまた甘えるように顔を埋めた。
篠原は、葵の髪を撫でながら、葵を初めて抱いたときのことを思い出していた。
強姦するように抱いて、騙すように誘い込んで、嫌がる葵を手に入れた。
今はあの時とは違う。葵の気持ちが先に進んでいる。
今度は葵の気持ちを大切にしたいと思った。
目の前には食べづらそうなミルフィーユがお洒落なお皿に載っている。飲み物はアイスミルクティーだ。
一日目のデートの再現に、お店に連れてきてもらった。
お店は混んでいた。
人の目はあるが、二人で揃って変装しているので、誰も二人に気づかない。
今日も葵はロングヘアーにワンピースを着ている。篠原はウイックをしてシルバーフレームの眼鏡をかけている。髪の色が明るいから大学生に見える。
「これ食べたの?」
「そうだよ、とても上品に口にしてたよ」
「そうなんだ?ああ、なんか思い出せそう」
葵は額を押さえる。
「史郎はミルフィーユ、わしづかみで食べるんだ」
「その食べ方も豪快でいいね。食べてみたら、思い出すかもしれないよ」
「史郎の真似したんだよね?」
「僕にはわからないな」
「イチゴは先に食べる派か後で食べる派か?」
「イチゴは」
言いかけた言葉を、葵は止めた。
「ちょっと待って。史郎は好きなもの先に食べる派だから、先に食べた?」
「先に食べたね」
フォークでイチゴを食べようとして、迷って手を止めた。
(僕ならどうする?きちんとしないといけないけど、ちょっと面倒だったかもしれない)
フォークを置いて、イチゴのへたを持って口に運ぶ。
「あってるよ」
「やっぱり?」
葵は微笑む。
フォークを持つと、少しずつミルフィーユを攻略していく。
(史郎に手では食べないでって言われたような気がする)
『葵なら上品に食べられるよね』
食べている間に、史郎の言葉を思い出した。
ちらりと隣のボックス席を見た。
今日はカップルが座っていた。
(史郎はあの席に座って、アイスミルクティーを飲んでいた)
「和也さん」
「そうだね、そう呼んでいた」
篠原はホットコーヒーを飲んでいる。
「美味しいケーキ」
「下調べしたからね」
「お代わりしてもいいって言った?」
「言ったよ。今日はお代わりする?」
「お代わりはいらない。美味しいけど、食べづらい」
ふと唇に指先で触れる。
頬が熱くなる。
「触ったよね?」
篠原は笑って手を伸ばし、葵の唇の端を拭った。
それを口に運ぶ。
「こうしたよ」
再現されて、耳まで熱くなる。
「恥ずかしいよ」
「僕は楽しかったよ」
「からかったりして悪趣味」
「かわいかったからね」
ミルフィーユを食べ終わって、ミルクティーを飲むと、味が薄くなっていた。
「この味、覚えてる。薄くなかったら美味しいのにって思った」
「今日はいろいろ思い出せるね」
「今日は気持ちが楽なんだ」
「体調、よくなったのかな?」
「そうかもしれない」
ミルクティーを飲み終わると、「そろそろ行こうか?」と、篠原が声をかけてきた。
これから水族館に行く予定だ。
「ちょうどよくイルカショーが観られるといいですね」
篠原が笑った。
「同じ言葉だ。思い出せてる?」
「うん」
「合格だ。それじゃ、行こうか」
篠原が葵の手を引く。
「前は手を繋がなかったよね?」
「今日は繋いでもいいだろ?」
「いいよ」
会計を終えると、指と指が絡まる。ギュッと手を繋いで、篠原は葵の頬にキスをした。
「あ・・・」
「葵、声でたよ。『あ』って言った。もう一度キスしてみようか?」
葵は頬を染めて、首を振った。
「何度もされたことがあるような気がする」
「それは思い出したの?それとも想像?」
「想像」
「不合格だな」
葵の手を引っ張って、もう一度頬にキスをすると、そのまま葵が胸に抱きついてくる。
「どうした?」
「胸が痛い」
胸を押さえて、目にうっすら涙を浮かべていた。
「キスは嫌か?」
葵は首を左右に振る。
「それならいい。胸が痛いのは心が騒いでるんだよ。気持ちが出たがってるサインだ」
「わかった」
駐車場に着いて、葵を車に乗せる。
あの日と同じ青い空を見上げて、葵の声を早く聞きたいと思った。
目の前のプールにはイルカが5頭泳いでいる。
イルカショーの間、葵は篠原を見ていた。
静かにイルカを追う瞳が寂しそうに見えた。
唇が何かを呟いていた。
それがイルカの名前だと司会のアナウンスで気づいた。
篠原は目の間の5頭のイルカを識別して、それぞれの名前を覚えている。
(名前を覚えてしまうほど、ここに通っていたのかな?)
葵は篠原のことを本能で好きだと気付いて傍にいるが、篠原自身のことは何も思い出せていない。篠原のことを知りたいと思った。
「今日は史郎君のためではなくて、葵の好きなものを教えてくれるか?」
一緒にイルカショーを見て、人がいなくなった観覧席に座っていると篠原が言った。
「水族館は、小学校の遠足で来て、この間、史郎の代わりに来ただけで、他には来たことがない」
「好きなものはないの?」
「イルカとペンギン以外、何がいるのか知らない」
「それなら、好きなものを探しに行くか?」
立ち上がりかけた篠原の上着を掴んで、引き留めた。
「純也は何が好き?」
「僕はイルカが好きだ。今、ショーを見たな」
「それなら、ここにいよう」
「いいのか?」
「ここ涼しいし、純也と話がしたい」
「誰もいないし、ゆっくりするのもいいな」
篠原は、葵の横に座りなおす。
「純也のことが知りたいんだ」
「何が知りたい?」
「純也のすべて」
篠原の表情が少し強張って、視線がイルカを追った。
はめていた眼鏡を外して、上着のポケットに入れた。
その姿は、覚悟を決めた顔に見えた。
「純也は水族館によく来るの?」
「葵は知らないと思うけど、十五の頃から二十代の初めの僕には仕事がなかったんだ。だから、年間パスポート買って、ほぼ毎日来てた。一日中イルカを見ていたこともある。大学に通いだして、同居していた家族からも引退を勧められた。時々仕事があっても、ほとんどがセリフのない端役しかもらえないなら、大学を卒業してどこかの会社に就職した方がいいと言われていた。僕自身も仕事がなくなってから仕事を辞めようか迷ったけど、葵が『純也』って呼んで懐いてくるから辞めなかったんだ」
「僕がいるから?」
「葵と離れたくなかったんだ。葵とは葵が0歳の時に出会った。最初は生まれたばかりの赤ちゃんだった。真っ赤な顔で泣いていた。葵はママの次に『にいたん』って言葉を覚えて僕のことを呼んだんだ。すごく可愛かった。葵はすぐに僕の名前を覚えて、『純也』って呼んで、ずっと僕に懐いていたんだよ。何度も寝かしつけたし、ミルクも飲ませた。言葉も教えたし一緒に勉強もした。台本も一緒に読んだ」
「そんなに昔から。・・・覚えてなくてごめん」
「葵の記憶を奪ったのは僕だ。責められることはあっても責任を感じる必要はないよ」
「僕はずっと純也って呼んでた?」
「何故そう思う?」
「8歳も年齢が違うのに、僕ならまわりの目を気にして篠原さんって、呼んだような気がする」
「葵は賢いな。その通りだよ。僕の二十歳の誕生日に初めて『篠原さん』って呼ばれたよ。僕は絶望してしまった。葵に見放されたと思えたんだ。直接葵に会うのが怖くなって、距離を置いた。今から話すことは、葵の傷に触るけど、聞きたい?」
「教えてほしい」
泳いでいたイルカが高くジャンプをした。水しぶきが上がる。
「葵は僕に捨てられたと感じたと言っていた。僕が距離を取ったことでトラウマになるほど傷ついていた。それを知ったのは、葵と深い関係になってからだった。交際を始めてからも葵は悩んでいた。僕と別れたいと言い出すくらい。でも、僕は葵を手放したくはなかった。葵が二十歳になるまで待ったんだ。自分の意思で僕を選んでほしかった。強引な手を使って、葵を騙すように抱いたのに、葵は許して愛してくれた。前の仕事で共演した時、もうほとんど撮影も終わって、後は濡れ場の撮影だけになったとき、愛情を疑われてしまった。これは僕の仕事の仕方に問題があったんだ」
「仕事の仕方に問題?」
「話しても本当に平気?気分悪くない?」
「大丈夫」
「僕は十代の仕事がなかったときから、社長に命じられて枕営業をさせられていたんだ。それが何かわかる?」
葵は頷く。
枕営業は仕事を得るために体を売ることだ。
噂だけは聞いたことがあった。
「相手は名のある演出家だったり女性プロデューサーだったり、もう顔を覚えてないほどたくさんの人に抱かれたり、抱いたりした。僕の意思はなにも通らなかった。気に入られたら主役級の仕事がもらえた。そのことがとても恥ずかしかった。だんだん葵に合わせる顔がなくなっていった。『篠原さん』って呼ばれて距離を感じたショックもあって、純真な葵を避けるようになった。そんなとき、葵は月のシンフォニーの舞台のオーディションに受かったと聞いた。仲間は葵より年上で、僕と同じ年齢の奴もいると知った。葵のただ一人の兄の立場も失って、今度こそ仕事を辞めようかと本気で考えた。でも、その頃から仕事がたくさんもらえるようになった。知り合ったセレブのスポンサーが、僕の専属のお財布になってくれたんだ。主演の仕事が何本も入って、僕はあっという間に、抱かれたい男一位の座を取っていた。最優秀主演男優賞までもらって、これは、僕の実力ではなくて、セレブのスポンサーのお蔭だったんだよ。体を売って得た栄光だ。僕のことを目標の人だと言っていた葵は、そんな僕の汚いところを見破ってしまったんだ。軽蔑された」
篠原は苦しそうに手で目を覆ってしまった。
何も見たくない。思い出したくないと体中で訴ええているように見えた。
「見破られる前に、僕は葵の仕事に対する姿勢っていうかプライドをずたずたに傷つけてしまった。最高の演技も本当は褒めたかった。仕事に対する姿勢も素晴らしかった。なのに、先に否定するようなことを口にしてしまった。僕がそうだったから、いつの間にかそれが普通のことに思えていたんだ。葵に言われたことは、枕営業をするしかなかった僕には、眩しいほど正当な言葉だった。葵は正しい事しか言ってなかった。葵に謝ったけど、もう信頼関係は崩れてしまった。その夜葵は何度も演技の練習をしたんだろうね。朝、僕が見つけたときには、練習用のグラスが転がっていて、もう元の葵はいなくなっていた」
篠原は辛そうに両手で顔を覆っていた。
今にも泣き出しそうな篠原の手を掴んで、顔を上げさせた。
「今も枕営業してるの?」
「葵が二十歳になる前に、セレブのスポンサーには、好きな人がいるからと断りを入れた。これが最後の仕事になってもいいと思って、葵が出演するドラマに出たんだ。撮影が終わってから社長に呼び出されて『何故言うことを聞かない』って殴られた。枕営業のリストを渡され、行ってこいと言われたけど、僕はそれを破り捨てて断った」
「それで喧嘩になって辞めたの?」
「退職願を出したとき、仕事ができないようにしてやると脅されて、追い出された。その足で、葵の社長に会いに行った。葵の専属マネージャーにさせてほしいと頼んだ。葵に言葉を取り戻してほしくて。少しでも力になりたいと思ったんだ。社長には経緯はすべて話すことになってしまったけど。子役のうちに引き抜いておけばよかったと言われて、僕は救われた気がした。社長は僕のことも守ってくれると言ってくれた。葵のいるプロダクションは家庭的で優しい」
「何て言ったらいいのか言葉が見つからないけど、これ以上傷つかないで」
葵は篠原を抱きしめた。
「僕で癒すことはできる?」
「一緒にいてくれるだけで癒される」
体を離して、葵は篠原の顔を見上げた。手は繋いだままだ。
「記憶を失くした経緯は分かった。どんな喧嘩をしたのかも、想像できる」
「葵は怒ってないのか?」
「あの時の気持ちまでは分からないけど、今の僕は怒ってない」
「葵」
思いつめたままの顔の篠原に、葵はにこりと笑う。
「純也、少し水族館を案内してくれる?」
「まだ名前で呼んでくれるのか?」
「純也はそう呼ばれたいんじゃないかと思ったんだけど。篠原さんの方がいい?」
「葵の言うとおりだよ。僕は葵にずっと純也と呼んでいてほしかった」
「わかった」
葵は篠原の手を引っ張って立たせた。
「史郎のデートの再現じゃなくて、僕たちのデートをしてくれる?」
篠原の上着から眼鏡を取り出すと、それを篠原の手に握らせた。篠原は眼鏡をかける。
「葵が眠くなる前に、大水槽のトンネルにいかないか?マンタが空を飛ぶように見えるんだ」
「そこに連れて行って」
葵はそっと腕に腕を絡めて、甘えるように凭れかかった。
「演技してるのか?」
「こうしたいだけ」
葵の微笑みを見て、篠原もやっと微笑みを浮かべた。
大水槽を見た後、お昼を食べて車で帰った。
車に乗ると寝るのが、最近の葵のスタイルになっている。
まだ体力が戻っていないのか、眠りは深い。そっと抱き上げて、部屋まで運ぶ。
ベッドに寝かせて、篠原はキッチンに入っていく。
夕食の支度を始める。栄養のある食事を食べさせたい。
食事ができる少し前に、葵が眠そうに目を擦りながら部屋から出てきた。
「起きたのか?」
「いつも運ばせてごめん。起こしてくれてもいいのに」
「抱き上げても起きないくらい深く眠っているんだ。簡単には起きないだろう?それに、僕のことを信用してるから眠れるんじゃないのか?」
葵は微笑んで、篠原の傍に近づいてくる。
「ウイックはずしてあげる」
篠原が体を屈めてくれる。
「いつもありがとうな。変装のお蔭で家の外に出られる」
「コスプレって奥深いんだよ」
ニコニコ笑いながら、葵は自分のウイックも外してしまう。
「汗かいたから、ウイック洗ってくる」
「自分で洗えるのか?」
「もちろん」
ピアノのある部屋に入っていって洗浄液を持て出てきて、洗面所に向かっていく。
水の音が聞こえる。
篠原は、食事を並べながら葵が立てる音を聞いていた。
今度はドライヤーの音がする。
覗くと、葵は髪のセットまでしていた。
「美容師の資格もあるのか?」
「ないよ。見て覚えた」
綺麗にセットをされたウイックを持ってピアノのある部屋に戻っていく。
椅子の上にウイックホルダーを載せて、ウイックを並べて置いた。
「今日は仕舞わないのか?」
「完全に乾かしたいから」
納得するように篠原は頷いた。
「ご飯までまだ時間がある?」
「あと三十分くらいかな」
「三十分宿題やってくる」
「行っておいで」
ニコッと葵が笑う。
葵の笑顔が増えていくことが嬉しい。
いつもは閉める部屋の扉は開けたままだ。葵の姿が見える。
水族館で篠原の闇を知って、葵なりの気遣いなのかもしれない。
葵は勉強机に座って、山積みにされたコピー用紙をノートに写していた。葵の集中力は高い。うっかり物音を立てても振り向かない。
台本を読んでセリフを全部覚えてしまうほど、葵は一度目にしたものは、すぐに記憶してしまう。
幼いころから葵の記憶力は素晴らしかった。
静かに食事の支度をしていると、来客を知らせるチャイムが鳴った。
モニターには社長が映っていた。
「はい、今開けます」
「すまないね」
セキュリティーの行き届いたマンションの入り口を開けると、しばらくして玄関のチャイムが鳴った。
「こんばんは」
「葵は起きてるか?」
「先ほど起きて、勉強を始めました」
「葵は集中するとチャイムにも気づかないから、鍵は持ってきたんだけど、篠原君がいるなら開けてくれるかと思ってね」
「葵の集中力はすごいですね」
「昔から、何かを始めると時間を忘れて没頭してしまうんだよ。目を離すのが心配で、小池を見張りに付けたんだが、葵は小池に懐かなくてね。すぐに追い出してしまったんだが、篠原君のことは追い出さないな」
「ありがとうございます。葵の声を奪った僕を傍に置いてくださって」
「声を奪うほどの影響力を持っているなら、戻すことも可能だろう。どうだい、様子は?」
「ふとした瞬間に「あ」と声を出しました。声は戻ると信じてます」
篠原はダイニングテーブルに緑茶を出す。
社長が座っているのは、葵の席だ。
「何分で勉強を終えると言って入って行ったかな?」
「三十分と言いましたから、あと五分ほどです」
「あの子の頭の中にはタイマーが仕掛けられているのか、時間に正確なんだよ。あと少し待たせてもらうよ。篠原君は葵の食事を仕上げてくれるか」
「すみません。では」
篠原はキッチンに入っていった。葵の為に、煮込みハンバーグを作っていた。
煮込みハンバーグの中には、貧血改善のためのレバーが隠されている。
葵はレバーが嫌いだ。だから、隠して入れている。
シーザーサラダを盛り付けて、ネーブルオレンジを切り分け、お皿に載せると、ゴールドキウイを切り分け、オレンジの横に綺麗に並べていく。
葵の偏食と貧血改善に考えたレシピだ。貧血の治療のための錠剤も出されているが、二週間の入院で治るものではない。貯蔵鉄を蓄えて、やっと完治と言える。最低でも三か月はかかる治療だ。
「社長も食べていかれますか?」
「私は葵に話をしたら、すぐにお暇するよ」
「そうですか」
「美味しそうなメニューだ。葵は胃袋を掴まれたのかな?」
「どうでしょうか?」
篠原が調理を終えて、手を洗っていると、葵が立ちあがった。
ちょうど三十分だ。
「純也、お腹空いた」
振り向いた唇が、そう動いたとき、葵はぱたぱたと部屋から出てきた。手にはホワイトボードが握られている。
「葵、宿題は終わったか?」
『まだ、たくさんあるんだ』
「そうか、ゆっくりやりなさい」
葵は頷く。
『何かあったんですか』
「舞台の稽古だが、葵がいないと全体を合わせることができないから、出てきてくれないかって言われたんだが、体調はどうだ」
「まだ退院して二日目です。二週間の安静ができるならと退院させてもらったんです」
篠原は社長の無理難題を反対した。けれど……。
「それは先方も承知の上での無理難題だ。少し顔だけでも出してくれないか?もちろん無理はしなくていい」
『わかりました。明日から出ます』
「まだすぐに疲れて眠ってしまうんです」
反論する篠原の腕を、葵は掴む。
「純也、大丈夫だから」
「篠原君は、葵が無茶をしないように見ていてくれ。適当に昼寝もさせてやってくれ。ああそうだ、お守りにこれを持ってきたんだ」
社長は紙袋を篠原に渡した。
『社長、なんですか?』
「お守りの酸素だよ。葵が無茶して倒れたときのね」
葵はムッとしたような顔したが、紙袋は篠原が受け取った。
「頼むよ」
「わかりました」
社長は篠原の淹れたお茶を飲むと、席を立った。
「じゃ、お邪魔したよ」
玄関まで見送って篠原は頭を下げる。
『おやすみなさい』
葵のホワイトボードを見て、社長は微笑むと葵の頭を撫でた後、頭を下げる篠原の肩を叩き玄関を出て行った。
「全体の流れを見たいから、最初からラストまで流すよ」
演出家の川島が葵に指示を出した。
いきなりの無理難題も篠原はただ見ていることしかできない。葵に「途中で止めないで」と言われている。
昨夜食事を終えて、お風呂に入った後、葵はDVDを集中して見ていた。全体の流れを頭に入れて、台本を読み。演技の練習を二時間して、二時間半みっちり踊った。お風呂に入った後、篠原に与えた部屋に入って布団を二つ敷いて、倒れるように眠ってしまった。
練習先がスタジオではなく休演日の舞台だったから、葵は予想をしていたのだろう。
服装も舞台衣装だ。頭には輝く緋色の蓮のウイックを被っている。目には透き通るような赤色のカラーコンタクト。
葵の面影は、まったく消えている。
月のシンフォニーの蓮になりきっている。
「はい」
声は出ないが唇は動かす。
最初に5人のダンスが始まった。
テンポのいい曲調で、動きも軽やかだ。
今まで練習に参加してなかったのに、四人の動きとシンクロしている。
舞台上の動きも頭に入っているのか、ぶつかったりしない。
表情は明るく、眩しい笑顔は溌剌として凛々しい。いつもの顔とはまるで別人だ。
ダンスが終わると、いったん舞台は暗くなる。
演劇が始まった。
暗闇の中に目映い光の渦が沸き起こる。
光と音響で葵の体から、涙のような雫型の光が葵の体に映り込み天使の羽が消えていく。
静寂が訪れると光の中には白い服を着た葵が立っていた。
天使だった葵は人の姿に変わり舞台の中央に立っていた。
二冊の台本、一冊目の台本は声のない演出で動きが大袈裟になっている。もう一冊はセリフの入った演出。
葵は声のない演出に唇を動かして、セリフを唇に載せている。
少し大げさな動きだ。
声がない分、表情や仕草で表現している。セリフのない葵の分は他の団員がセリフを回す。
仲間たちの掛け合いは面白い。
演劇の題材はゲームの中のメインストーリーを改変したものだ。
『哀愁の天使』
禁忌を破った天使が声を失くすストーリー。
葵にあて書きされたストーリーは、葵の声が出なくても演じられる。
切なくて悲しいストーリーに、他の役者たちが絡んでくる。
葵は演技力だけで、役者たちとも絡んでいく。
人を愛した天使は、天上から地上に降りてきて、声と羽を失った。
愛する人には許嫁がいて叶わない恋だとしても、そばで見守っていたい。
地上に降りた天使は、だんだん力を失っていく。
既に声と羽を失くしている蓮には、時間がない。
早く天上に戻らなければ、魂は消えてなくなってしまう。
仲間たちは、早く天上に戻るように蓮を説得するが、蓮は仲間の言葉に耳を貸さない。
ある日、愛した人の許嫁に恋人ができて、縁談は破談になってしまった。
愛する人を失ったショックで、蓮の愛する人は、不治の病にかかってしまう。
愛する人の天命が尽きようとしたとき、蓮は愛する人を助けるために自分の命の欠片をほとんど与えてしまう。愛する人は生き返るが、命の欠片をほとんど失くした蓮にはもう天界に戻る力は残っていない。
劇中には女性は出てこない。女性の姿はライトの演出で現れたり消えたりして見せている。
蓮は仲間たちに見守られ、幸せそうに死んでいく。
死んだ蓮にスッポライトが当たり、蓮の魂を吸い込むようにライトが消えて劇場が暗くなる。
今回のストーリーは、月のシンフォニーで演じられてきた明るいパワフルなストーリーとは違い、数少ない悲恋ストーリーだ。
葵の心は大丈夫なのか、篠原自身が心配になる。
あまりにも今回のストーリーは、赤い誘惑のストーリーにも似ているし自分たちにも似ている。
当てはめるなら、女性を捨てた男性が篠原で、不治の病にかかって命を落としかける女性が葵だ。
台本は葵が抱えていたので、篠原はストーリーを劇場で観て初めて知った。
心配しているのは篠原だけなのか、葵は演劇に集中している。
仕草も切なさももどかしさも悲しさも全身で演じている。
初めて演じたはずなのに、観客として見ている篠原には、既に完成しているように見えた。
劇場が暗くなると、葵たちはいったん舞台から降りて早着替えをして、眩しい光が周りを照らす中を走って出てくる。
ファンが一番好きな葵の歌が始まる。
部屋で練習していたダンスが始まった。
葵の唇が歌を載せて動いたとき、他のメンバーが順に歌っていく。
葵の動きが一瞬止まった。
「葵、踊りなさい」
監督に言われて、葵は踊り出す。
葵の持ち歌は、他の仲間たちが順に歌っていく。
葵のようにのびやかな歌声ではないが、無音よりはマシかもしれない。
すべてを踊り終えて、葵はその場に膝をついて倒れた。
息が苦しくて、うまく呼吸ができない。
「葵、大丈夫か?」
仲間たちが口々に声をかけてくる。
篠原は携帯用の酸素を持って、葵のもとに走った。
「葵、口に当てるぞ」
小さく頷く。
汗に濡れた顔を、タオルで拭ってやる。
「ゆっくり呼吸をしろ」
監督が近づいてきて、倒れている葵の前に膝をついた。
「自主練はでいているようだな。立ち位置も間違えてないし演劇も問題ない。最初のダンスも問題ない。動線も覚えてきているな。DVDだけで完璧に覚えてきた気合は素晴らしい。だが、ラストの葵の歌は、さすがに無音じゃ観客に申し訳ないから、他のメンバーに歌を歌わせた。歌は葵に比べて落ちるが、声が出なきゃ仕方ないだろう」
監督は立ち上がると、「帰っていい。診断書は二週間だったな。ゆっくり休め」と言って葵から離れて行った。
握った葵の手が震えている。
「葵、ごめん」
四人の中で一番年少の俊介が、葵に頭を下げた。
「俺が提案したんだ。葵が歌えないなら、歌いたかった」
「俺もだ。これが最後の舞台になるかもしれないなら、歌いたかったんだ」
弘明も葵に頭を下げた。
「俺や卓也はもうすぐ三十路だ。この舞台と少しの端役だけでは飯は食えない」
卓也が倒れてる葵の前に膝をついた。
「そろそろ引退も考えていた。どちらにしろ葵の声が出なきゃ月のシンフォニーは、空中分解だ」
「葵、体力が戻ってないのに、通し稽古させてすまなかった。葵は一度も練習に来なかったのに、俺たちが何週間もかけて練習してきた舞台を演じられていた。実力の差と言ったら失礼になるな。きっと退院してから稽古場のような部屋で自主練頑張ったんだな。体力早く回復させておいで」
裕久が最後に言って、四人は稽古場から出て行った。
葵は、口に当てられた酸素を手で除けた。
「もう大丈夫」
「もう少し横になっていた方がいい」
「手を貸してくれる。着替えて帰る」
「抱いて行くか?」
葵は首を振る。
「倒れてもみんなの前では絶対にしないで」
篠原が手を差し出すと、その手に捕まって、葵はゆっくり立ち上がった。
「僕のくだらないプライドなんだ」
「わかったよ」
まだ肩が苦しそうに上下して、体がふらついているのに、葵は歩いて行く。
更衣室に戻ると、ウイックとコンタクトを外し、タオルと着替えを持ってシャワー室に向かっていく。
「シャワーをあびるつもりなのか?」
「倒れたりしない。すぐ出てくるから。待ってて」
カーテンを少し開けて俯いたまま入って行く。
服を脱ぐ衣擦れの音の後に、シャワーの音が聞こえてくる。
しばらくすると苦しそうな声が聞こえてカーテンを少し開けると、葵はシャワーに打たれて泣いていた。漏れる嗚咽に、少しだけ呻くような声が混じっている。
篠原はカーテンを閉めると、葵が出てくるまでじっと待った。
葵の傷つけてはいけないプライドは、所々に隠れている。
今は、それを教えてくれる。
泣き顔を見せないのも、プライドなのだろう。
いつも眠ってしまう車の中で、葵は起きていた。
窓の外をぼんやり見ている。
「葵、昼食はどうする?」
信号で止まったところで、篠原は葵に声をかけた。
「いらない」
「僕の方を見てくれないと、言葉がわからない」
「いらない」
振り向いた目が少し充血していた。
「食べないと回復しないよ」
葵はしばらく考えてから頷いた。
「二回目のデートを再現して」
篠原は変装しているが、葵は変装してない。
「少し買い物をしてから行こうか」
車線を変えて、以前葵を連れて行ったブティックに連れて行った。
新しいワンピースにレースのショートブーツ。ウイックはふわりとウエーブのかかったショートボブだ。冷房に弱い体を冷やさないように、ワンピースの上に七分丈のボレロを着ている。
ノーメイクでも葵は女性に見える。
葵はそれほど顔立ちが整っている。
「純也はこういう女性が好きなの?」
「ウイックはこれしかなかっただろう」
「そうだったけど。純也はこの髪型が可愛いって言った」
どうやら地雷を踏んでしまったようだ。
今までと雰囲気が違う髪型を褒めた途端、葵は不機嫌になった。
愛を疑われているようだ。
「色は葵が選んだんだぞ」
「そうだよ」
髪色は篠原の選んだ洋服に、一番似合うと思った淡いブラウンだ。
「髪の質が悪い」
「値段安かっただろう。そんなに気に入らないなら、専門店に行くか?」
「これでいい」
着ているワンピースと下着は白色だ。白色のレースのブーツとよく似合う。
今まで持っていない色にしようと篠原が選んだ。
センスは悪くない。
シフォンの白のワンピースはふわりとして着心地もいいし葵も可愛いと思った。
「僕が好きなのは葵だけだ。どんな姿に変装していても葵は葵だ」
ずっと苛々している葵の目をしっかり見て、篠原は口にした。
篠原を見ていた葵は、やっと頷いた。
目の前にはワイングラスが並んでいる。
一つは白ワインに見立てたブトウジュースで一つは赤ワインとは違う赤色をしている。
「前は乾杯したけど、今はそういう気分じゃなさそうだね」
「いい、乾杯しよう」
葵は気分を変えるために、ひとつ深呼吸をした。
「仲直りできたよね?」
「もう怒ってない」
篠原はホッとしたような顔をした。
八つ当たりをしていただけなのに、篠原は葵の顔色を気にかけている。
その優しさに、葵の苛立ちは癒されていた。
篠原の顔を見てから、葵はグラスに手を伸ばす。
よく磨かれたグラスは美しい。
「乾杯」
「かんぱい」
グラスを合わせる。
重なるグラスの音が、心地よい音色で響く。
ワインを口にして、葵の表情が明るくなる。
「おいしい。これ、イチゴ?」
「イチゴのワインだよ。気に入ったらお代わりしてもいいよ」
「うん」
運ばれてきた前菜を食べていると、お肉のプレートが運ばれてきた。
「おいしそう」
「前は、そんなに感動してくれなかったんだ。ただ黙って何かを考えて食べてた」
「なにを考えていたんだろう」
「僕には葵の心の中まで見えないからな」
「今日は何も思い出せない」
沈んだ重い溜息を漏らす葵を、篠原は以前にも見たことがあった。
赤い誘惑の主演に選ばれそうだったとき、葵は悩んでいた。
食事の後に、『僕たち別れよう』と言われた。
あんな悲しい言葉を聞くくらいなら、もう思い出してくれなくてもいい。
「急いで思い出す必要はないよ」
「でも、僕は早く思い出したい」
「今は食事を楽しもう。今日は、まだ一度も笑ってないよ」
葵はナイフとフォークを置くと、手で顔に触れた。
「朝は緊張してたし、練習後は辛くて、情けなかった」
「僕は通しの演劇を観て感動したよ。ダンスも演技も素晴らしかった。いつの間に、複雑な動きまで覚えたんだ?」
葵はワインに手を伸ばした。
「動きを紙に書きだして、ペンで何度も辿って完全に覚えた。それを舞台に置き換えて頭で何度も再生してたんだ」
「イメージトレーニングか」
「そう」
「歌・・・歌いたかったんだ」
喉を押さえてから、葵はワインを飲み干してしまった。
「お代わり飲むか?」
「もう一杯だけ。これおいしい」
篠原がすぐにオーダーしてくれる。
新しいグラスをテーブルに置かれて、葵はまたワイングラスを手に持った。
「みんなが歌いたかったって知って、今まで僕ばかり歌わせてもらっていたことが申し訳なかった。そのことに気づかなかった自分が情けなかったけど、情けなくてもやっぱり僕はあの場所を譲りたくはなかった。僕は我が儘すぎなんだな」
ワインを一口飲んで、また一つため息をついた。
「俊介さんと裕久さんが引退考えていたなんて知らなかった」
「芸能界の引退は、誰でも何度でも考えるものだよ」
篠原の言葉は説得力がある。
最優秀主演男優賞を取った篠原がプロダクションを追い出され、今は仕事がなくなって葵の世話を見ている。
「僕も考えてる。今回の舞台が最後」
「どうしてだ?葵の演技は素晴らしい」
葵は首を振る。
「声が出なきゃ、何も演じられない」
目を伏せて、じっとグラスを見ている。
「演じていたじゃないか、今日の演技は素晴らしかった。声は必ず戻るから」
俯いたまま葵は、首を左右に振る。
「あの時、葵は倒れてしまったから気づかなかったかもしれないが、いつもは流れない二番の曲が流れていた。もちろん歌はなかったが、曲だけが流れていた。もしかしたら、葵の声が出るようになったら歌えるように構成されているんじゃないか?」
俯いていた顔が上がる。
「二番の曲」
「あるだろう?」
「ある」
「今は思いつめるな。時間はまだある。笑っているときは、いろいろ思い出せただろう?」
「純也、ありがとう」
篠原が微笑むと、それに応えるように葵は微笑んだ。
「残さずに食べなさい。今は力を蓄える時だよ」
「わかった」
葵は頷いて、ワインを飲み干してしまうと、ナイフとフォークを持ってお肉を食べだす。
海に行くのは今度にしようと言われて車に乗ったことまでは覚えているが、それ以降の記憶がない。
暗い天井を見上げてから、自分の部屋を見渡した。
自室のベッドの上で眠っていたようだ。服は白のワンピースを着て、頭にウイックを被ったままだ。
体を起こしてウイックを外し、ワンピースの上に羽織っていたボレロを脱いでベッドを下りた。
隣に篠原がいないことが寂しかった。
部屋を出るとリビングの灯りも落とされていた。
隣の部屋の扉を開けると、灯りが消されて布団が一枚敷かれ、篠原は眠っていた。
静かに近づいて、篠原の横にそっと体を横たえた。甘えるように顔を近づけたとき、篠原の目が開いた。
「葵」
「一緒にいてもいい?」
暗くて唇の動きが見えないのか、一方的に話し出す。
「葵、部屋に戻りなさい。最初に話しただろう。僕たちは愛し合う関係だったんだ。一緒にいたら抱きたくなる」
「それでも一緒にいたい」
唇の動きが見えなくて、篠原は起き上がろうとした。
葵は篠原に立ち去られると思って、必死に抱きついた。
体が勝手に動いて、篠原の唇に唇を合わせていた。
だんだんキスを深めて、そっと唇を離す。
「レッスンのキス覚えているのか?」
葵は首を左右に振る。
「体が覚えているのか」
何を言われているのかわからず、首を左右に振る。
今度は篠原からキスをされた。軽く触れるだけのキスから、徐々に深いキスに変わっていく。
唇が離れていく。
「葵が今したキスを返した。分かるか?僕が教えたキスだ。覚えているんだな?」
首を振るしか伝わらない。
「電気をつけるから、待ってろ」
篠原は立ち上がると、部屋の灯りをつけた。
眩しくて目を塞ぐと、調光センサーで高度を下げた。
目を開けると、篠原が目の前に座った。
「起こしてごめん」
「いいよ」
「一緒にいたかったんだ」
「僕といると襲われるぞ」
悪戯っぽく篠原が笑った。
「それでも一緒にいたかった」
「キスは覚えているのか?」
「勝手にしてごめん」
「怒ってない。もう一度してくれるか?」
膝立ちになった葵が、篠原の肩に手を置いて、唇を重ねてくる。
篠原が教えて順序でキスを終えると、体も離そうとして来る。
「嫌じゃなかったら、もっといっぱいキスしてくれる?」
頷くと唇が重なってくる。
篠原は片手で葵の体を抱くと、もう片手でスカートの中に手を入れて、葵の太腿を撫でた。
フルっと震えてキスを辞めようとした葵の体を抱きしめて、キスを深めていく。
「ぁぁぁん」
キスの合間に声が漏れる。
葵の中心に触れると、勃起していた。
「気持ちよかったのか?」
顔を隠すように篠原の肩に顔を埋めて、首を振る。
「だって葵、勃起してるよ」
肩の上で頷く。
「葵はここに触られると、声を出して悶えていた。今も声、出てたよ」
「ほんとに?」
葵が顔を上げて、篠原をじっと見た。
「可愛い声だった」
篠原はワンピースのファスナーを降ろして、ブラジャーのホックも外してしまう。
「抱いてもいい?」
「覚えてないのにいいの?」
「僕は葵を抱きたい。僕の中の葵は一度も消えてない。以前よりもっと愛しいんだ。葵が嫌だったら止める。いいならキスして」
葵は篠原に抱きつくように体を寄せると、触れるだけのキスをした。
「優しくするから」
ワンピースを脱がされて、ブラジャーが床に落ちる。
体を引き寄せられて、布団の上に横にされた。
「本当に、葵は綺麗だね」
篠原の手が体のラインをなぞり、窮屈そうな下着を脱がしてしまう。
「あ」
「ほら声が出た」
勃起したその場所を葵の手が覆う。
「声が出たのわかった?」
「わかった」
「あって言ってみて」
葵は声を出そうとしてできなくて首を振る。
「慌てなくていい。出てるってわかれば、声は自然に出る」
篠原もパジャマを脱いで、裸になった。
葵がじっと見つめてくる。
「僕に見とれてるの?」
「好き」
「僕も葵を好きだ」
唇が重なり体が重なる。
「僕も勃起してる。葵と同じだ」
「うん」
キスをしながら掌が肌を撫でる。キスが徐々に下へと降りて行く。
葵の大切な場所に触れると、今にも弾けそうなほど張り詰めていた。
「僕もずっとしてないから、そんなに持たない。先に一度抱いてもいい?」
こくんと葵は頷いた。
「その前に葵を楽にしてあげる」
敏感な先端を舐められて、体がひくっと跳ねた。
「声出していいから」
先端を口に含み鈴口を突くと葵は体を捩って、「ぁぁぁぁっ」と吐息の声を上げる。
口をすぼめて葵の欲望に刺激を与えていく。
「純也、だめ」
掠れていたが声になっていた。
葵を追い上げると、高い声を上げて、篠原の口の中に吐精した。
肩が大きく揺れている。
「葵、今、僕の名前呼んでくれた」
「ほんとに?」
「純也って。もう一度言える?」
「純也、純也・・・・」
「嬉しいよ、葵」
「でも、まだ言えない」
「言えたよ。僕は聞いた」
「うん」
ぎゅっと抱きしめられると、お腹に篠原の熱く滾ったものが触れて、葵は篠原の腕から離れて起き上がった。
「僕もする」
篠原の欲望に触れようとした手を、篠原は両手で掴んだ。
「僕は葵の中に入りたい」
葵は首を傾ける。
出会った時の葵は、セックスの知識はまるでなかった。
結ばれる場所に手で触れて、そっと指を押し当てる。
「男同士は、ここでするんだ」
「は?」
驚いた顔が可愛い。
「前の僕もしてたの?」
「ここが柔らかくなるほど」
「痛くないの?」
「痛くないようにするから、体を委ねてくれるか?」
「あ」
史郎の言葉を思い出した。
『和也さんに委ねてみたんだ。幸せだった』
「うん」
チュッと唇に触れるだけのキスをすると、篠原はもう一度、葵の欲望を握って扱きながら先端を口に咥えた。
「あ、あああっ」
身をくねらせて、葵は篠原の背中にしがみつく。
「純也、ダメ、あああっ」
葵を口と喉で締め上げて追い上げていく。
「純也、純也、それ以上は駄目」
快感で足先が震えている。
時折、掠れた声が聞こえる。
射精を迎える瞬間、葵の先端を吸って、精液をすべて口に含むと、そのまま会陰を舐めながら結ばれる場所まで体をずらしていく。
射精の快感で、葵は呆然と体を投げ出している。その隙に、足を開いた。花芯にキスをして舌先でつつき、指を添えて少しずつ濡らしていく。
「純也、そこ駄目。純也、ああっ」
指が二本入って、噛みつくような激しいキスをされると、葵は全身でもがき、吐息で悲鳴を上げた。
葵の両手が篠原の髪を掴む。
葵が出した精液をすべて入れると、二本の指で葵の感じる場所に、優しく触れると、葵の性器が徐々に起ち上がってく。
「純也、純也・・・」
葵は、ずっと篠原の名前をすすり泣きしながら呼び続けている。
快感が強すぎたかもしれないと思っても、掠れた声で名前を呼ばれて、篠原は嬉しかった。
「葵、入れるぞ」
すすり泣きながら頷く、葵の体を抱きしめて、ゆっくり挿入する。
最初の時と同じように、先端だけ入れると、少しだけ体を揺すり、篠原は射精した。
葵は体の中に温かなものが広がって、ぎゅっと閉じていた目をやっと開けた。
「怖いか?葵」
「怖い」
「まだ先端を入れただけだ。怖いならやめるか?」
「やめない」
濡れた頬を掌で拭ってやる。
「葵、僕の名前、ずっと呼んでたよ。気づいた?」
葵は首を左右に振る。
「声でてるよ」
「声出るの?」
「出てる」
喉を押さえて、声を出そうとする。
咳が出て、うまく出ないようだ。
すっと吐息を吐いたとき、葵の瞳がきらりと光ったように見えた。
葵の手が背中に廻されて、篠原を抱きしめる。
「純也、抱いて」
体と体が密着すると、吐息が囁いて、篠原は葵の顔をじっと見た。
「葵、今のは?」
「声、聞こえた?」
「聞こえた」
葵が嬉しそうに微笑んだ。
頭を撫でてやると、葵は照れくさそうに頬を染めた。
「続けるぞ」
「うん」
「深呼吸してくれるか?」
葵が頷いて、何度も深呼吸をする。
ゆっくりと葵の中に欲望を入れていくと、葵の手が何度も篠原の肩を掴む。
「痛いか?」
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「純也、ああっ、だめ」
前の刺激で悶えている間に、一気に奥まで入れてしまう。
「葵、全部入ったよ」
葵の手を握って結合部に導く。
開いた肛門に突き刺さる篠原のものを指でなぞって、葵は抱きついてきた。
「嬉しい」
吐息が囁く声を聞いて、篠原は今まで以上に葵を愛しく感じていた。
「僕も嬉しい」
「僕は愛されてる?」
「愛してるよ」
葵は頷いて、抱きしめる腕を弛めた。
「抱いて」
離れてしまうと、葵の声は聞こえない。
葵の感じる場所を重点的に突き、抱えた足の太腿に唇を寄せる。
「葵、自分の声わかるな?」
何度も頷きながら、葵は悶え泣きながら、悲鳴のような声を上げる。
「純也、そこだめ」
「葵は、ここが感じるんだよ」
「あああっ」
葵がイクと篠原のものを搾り取るように中が締め付けられて、葵に持って行かれる。
「葵の中、すごいぞ。絡みついて離さない」
篠原の精液で濡らされて、葵の中は柔らかくなっていく。
葵の感じるポイントを激しく突くと高い声が上がった。その声があまりに綺麗で、何度もつくと、葵は吐精しそのまま意識を手放してしまった。
「可愛い、葵」
意識を手放した葵を腕に抱くと、すぐに目を覚ました葵が、篠原の胸を叩く。
「どうした葵」
「僕の中からもう出てって」
篠原はクスクスと笑った。
「前にも同じようなこと言われたな」
葵の体を押さえつけて、キスをすると今度は葵の奥を突く。
「純也っ、もうやめて」
「抱かれてたら、発声練習になりそうだよ」
葵の体をなぞりながら、葵の体を貪った。
感じる場所を知り尽くした篠原には、葵に快感を与えることは容易かった。
快感を与えると吐息が喘ぎ声になる。
喘ぎ声が声に、声から言葉になるときがある。
いっぱい声を出させて、葵は抱かれ疲れて失神してしまった。
気を失った体を抱き上げてシャワーで洗い、葵の寝室に運んだ。
床に薄い布団は、正直背中が痛くなる。
一泊二日程度なら我慢できるが、体を休めるためには適さない。
ベッドに横たわった葵に布団をかけて、力の抜けた手をそっと握った。
起こさないように唇に寄せて、キスをする。
『純也』と呼んでくれた声を思い出し、今は何も考えずゆっくり眠ってほしいと願った。
寝顔は久しぶりに満たされた顔をしていた。
オーブンでパンを焼いて、貧血改善のビーフシチューを作り終えたとき、葵の部屋の扉が開いた。
「おはよう、葵」
葵は頬を膨らませていた。
「怒ってるのか?」
パタパタ走ってきた。篠原の首に両腕を回して引き寄せると、耳元で吐息が囁いた。
「初めてだったのに」
「よくなかったのか?」
「もっと手加減してよ」
篠原が声を上げて笑うと、葵は手を離して、篠原の腹にむけて拳を振り下ろした。それを受け止めると、また頬を膨らませて、パタパタ走るとダイニングの椅子に座った。
本気の拳ではなかった。受け止められることを前提に出した拳だった。
葵なりの甘え方なのか、一緒にいると見たことのない葵の一面が増えていく。
「お腹が空いた」
唇が動くのを見て、篠原は焼きたてのテーブルロールを大皿に載せてテーブルに置いた。
「シチュー持っていくから、少し待ってて」
「わかった」
ビーフシチューとスプーンを持っていくと、葵はすぐに食べだした。
「純也も食べよう」
「食べるよ。美味しい?」
「美味しい」
焼き立てパンを半分に割ると、まだ湯気がのぼる。
そのまま口に入れると、「ふかふかでおいしい」と吐息で囁いている。
耳元でなくても、近くにいれば声が聞こえる。
「葵、声出るようになったな」
「声のうちにはいるのかわかんないけど」
「すごい進歩だ」
「純也が強引だったんだ」
昨夜のことを思い出したのか、頬が赤い。
「今夜も忍び込んでくるのか?」
「だめ?」
「それなら布団新しいのを買うか?」
「お布団薄から、痛いよね。みんな言ってた」
「苦情があった布団だったのか。どおりで寝心地が悪いと思った」
「ベッドを買ってもいいよ。あの部屋ピアノ以外なにもないし」
「それなら今日は寝具売り場を見に行くか?」
「行く」
「食べたら行こうか」
「わかった」
「お代わりもあるから、いっぱい食べろよ」
「うん」
二人でお代わりをして、ビーフシチューもパンも全部食べてしまった。
薄いピンクのワンピースにボレロを着た葵は、自室の鏡台の前で両手にウイックを持って悩んでいた。
「葵、準備はまだか?」
「純也はどっちがいい?」
一つは葵がずっと被っていたロングヘアーで、もう一つは篠原が可愛いと言ったゆるふわボブだ。
「どっちでもいいぞ」
「だって、純也、短い方可愛いって言った」
「ロングも可愛い」
「ずるい」
「髪質のいいものにしたらどうだ?肌触り悪いだろう?」
「うん」
やっと決めて、いつものロングヘアーのウイックをつける。
「今では、その髪型のほうが葵らしい」
「もう迷わない」
葵は篠原を見上げて、にこりと笑う。
薄化粧を施した葵の唇は、いつもナチュラルな色のルージュが引かれている。
引き寄せられるように、唇を重ねていた。
「純也、お出かけ」
「もう少しだけ」
自分でウイックを着けられるようになった篠原は、金髪のウイックにシルバーフレームの眼鏡をかけている。
鏡に映った自分の顔を見て、葵は自分が微笑んでいることに気づいた。
(恋してる顔。幸せそうな顔だ)
唇が離れると、篠原の腕が優しく抱きしめてくる。
「口紅とれちゃったかな」
「僕のこと好き?」
「好き過ぎて、困ってるくらいだ。いつでも抱いていたい」
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「どうして?」
「結婚もできたし、純也の子供が産めたよね」
「僕は葵だから好きなんだ。いい?ちゃんと覚えてて」
「うん」
鏡台の上からリップを取ると、篠原は葵の唇にルージュ―を引いた。
「遅くなるから行こうか?」
「うん」
リップを鏡台に戻すと、葵の手を握って歩いて行く。
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