気高く咲く花のように ~モン トレゾー~

綾月百花   

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気高く咲く花のように ~モン トレゾー~ 10話

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 教授に宿題を提出して、丁寧にお礼を言った。ノートの提出も忘れない。
 全教科回ったところで、今度は史郎を連れて、二号館のカフェでミルクティーとミルフィーユを注文した。
「葵も律儀だよな。本気で奢ってもらうつもりはなかったんだけど」
「今日は仕事オフ日にしたんだ。全部終わらされるために」
「葵にとって、僕への接待も仕事のうちなのか?」
 葵はホットココアを注文した。
 秋も始まり、夏のような猛暑日は、少なくなってきた。
 体を冷やすと、葵は体調を崩しやすい。子供の頃からの体質だ。
 冷たいものはあまり摂らない。
「史郎といるときは、完全にオフだよ。史郎に気を遣ったことなんてないだろう?」
「ないな」
 史郎はミルフィーユをわしづかみで口に運ぶ。
 いつ見ても豪快だ。
「葵はケーキ食べないのか?」
「最近、ご飯をちゃんと食べさせられてるから、あんまりお腹空かないんだ」
 食べ方は豪快だが、交わす言葉は囁き声だ。
「篠原さん、戻ってきたのか?」
「うん、取り戻してきた」
「波乱な夏休みだったみたいだな。見たくなくてもテレビで騒いでる」
「うちにいるって秘密だからな」
「わかってるって」
 手に着いた粉砂糖を舐め取って、ミルクティーを飲みだした。
「史郎はうまくやってるのか?」
「知りたい?」
「別に」
 お手拭で手を拭うと、史郎はスマホを取り出した。
 アルバムを開くと、スクロールさせていく。
「どう?すごくラブラブに見えるだろう」
「喧嘩とかしないのか?」
「しないな。相手が年上だからかな?プチンとキレる前に躱される」
 葵は笑った。
 史郎がキスされていた。
 仲のいい二人を見るのも楽しい。
「葵のアルバムも見せろ」
「僕は撮ってない。バレるとやばいから」
「一枚もないのか?」
「ない」
「寂しくないのか?」
「僕の場合、仕方ないと諦めてる」
 ふと手元のバックに視線が落ちる。
(僕だって、本当は写真も撮りたいしラインもしたい。でも、我が儘を言うようで言い出せない)
「連絡はどうするんだ?」
「事務所のスマホを持たされてる。お互いに」
 気を利かせた小池が、葵と篠原に事務所所有のスマホを持たせてくれた。
 入っているのは事務所と社長と小池とSまたはAだ。
 名前すら書かれていない宛先に、連絡する気にもなれない。
 お守り代わりのスマホだ。
「窮屈そうだな」
「僕が引退するまで、仕方ないよ」
 少し冷めたココアを飲み干してしまう。
「食べ終わったら教科書販売に行くか?」
「行く」
 葵が席を立つと、史郎が後から追いかけてくる。
 子犬度はまた増したような気がした。


「葵君、コマーシャルの更新付き合ってくれて助かったよ」
「いつも小池さんだけの顔見ても、スポンサーも嬉しくないでしょ。自分の仕事くらい手を抜かないよ」
「エステのCM評判いいんだってさ。葵君の肌綺麗だから」
「ここのエステに通わせてもらってるし、自分でもお手入れしてるし。肌が綺麗じゃなかったら、CMもらえなくなるよ」
「葵君のそういう真面目なところ、いろんなスポンサーに伝わるんだろうな。先に行ったスマホのピクシーの新作CM担当の広報部の方も喜んでいらしたし、キラキラサイダーの社長もご機嫌だった」
 小池はご機嫌に葵を車に乗せると、すぐに自分も車に乗り込み、運転を始める。
「あと何件回るの?」
「あと一件。水木製薬」
「あれ、新規?」
「水木製薬は新規だね。目薬のCM依頼が来てるよ」
「ふーん」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど、目薬のCMは初めてだから」
「あれれ、葵君でも緊張するの?」
「普通にするよ。もともと人見知りだし」
「ここは、先方が是非、葵君と会いたいと言ってるんだ。次のドラマのスポンサーについてくれてる」
「怪盗山猫のスポンサー?」
「そうだよ」
「失礼のないようにしないとだね。はぁ」
「葵君、疲れてる?」
「疲れて眠い」
「少し、仮眠したら」
「そうする」
 葵は後部座席に凭れて、バックからアイマスクを取り出し目の上に留める。
 午前中、学校に行ってからの挨拶廻りだ。
 すでに三軒回ってる。
 年上の人と会うのは疲れる。
 毎日抱き合うのも習慣になってきたが、寝不足になりがちだ。
 お昼ご飯は手作り弁当を持たされているから、以前のように空腹でふらふらになることはなくなった。
(純也、今頃何してるかな?)
 今日は午後から社長と一緒に弁護士の先生と打ち合わせをしている。
 今頃は、もう終わっている頃だろう。
(早く復帰できるといいな)


「初めまして、悠木葵です」
「水木製薬の代表取締役、荒井田誠です」
 握手してきた男性は、30代半ばの若い男性だった。
 今まで出会った社長の中で一番若い。
 綺麗な顔立ちに爽やかな笑顔は、自分がCMに出ても見劣りしないだろう。
 応接間のソファーに向かい合って座った。
 葵の隣には、小池がちょこんと座っている。
「赤い誘惑も月のシンフォニーも観させてもらったよ。いい演技をなさる」
「観ていただきありがとうございます」
「葵君が子役の頃からのフォンでね。美しく成長した姿を見て、是非、うちの目薬のCMを頼みたいと思ってね」
「ありがとうございます」
「そのままの姿も素敵だが、女装の姿も素敵だ。どっちの映像も使わせてほしいと思って直々にお願いに来たんだが、どうだろう?」
「女装の姿もですか?」
「嫌かい?」
「はい。できれば僕は男ですし。赤い誘惑の時は主演が急に降板になって、ピンチヒッターだったんです」
「それでも、素晴らしい演技だった」
「はあ」
「今回のドラマも期待して、スポンサーに声を上げさせてもらった」
「それは、ありがとうございます」
「ドラマコラボCMも考えている」
「はい」
「ギャラも二人分用意させてもらう」
「僕一人で二人分ですか?」
「一億円では安いだろうか?」
「葵君、お受けして」
 今まで黙っていた小池が身を乗り出すように言った。
「よろしくお願いします」
 笑顔の荒井田が手を伸ばしてきた。
 そっと握ると、両手で握ってきた。
「契約書のサイン頼むよ。広報からもらってきているんだ」
「はい」
 荒井田の秘書が契約書とペンを持ってきた。
 契約書を読むが不審な言葉はなかった。
 ただ女装を含むと書かれていただけだった。
(すごいトップスターと同じ金額だ)
 葵がサインすると、小池が印鑑を出してきた。
 小池から印鑑を受け取ると、名前の横に捺印した。


 怪盗山猫のドラマは葵が主演で依頼が来ていた。
 葵演じる鈴賀霞は、別名山猫だ。しなやか身のこなしで泥棒を演じる。日常の仕事は幼稚園の先生だ。実家は寂びれたバーで、夜だけ店番(バーテンダー)を手伝っている。
 山猫の仲間は、情報収集を得意と鈴鹿陽。バーに入り浸っている鈴鹿陽の役は月のシンフォニーの卓也に決まった。
 バーのマスター(鈴賀霞の父役)鈴賀孝房役は、同じ事務所の大御所、臼井卯吉。渋い声が魅力的な大先輩だ。
 霞の母親役、鈴鹿映見役は、スタイルも顔立ちも綺麗な三月優が演じる。四十歳の美魔女だ。
 泥棒は親子四人が演じる。
 情報収集と逃走の手配は、鈴賀陽の役目だ。
 鈴鹿陽と霞の関係は兄弟だ。
 兄の陽はハッカーの技術に長けて、霞はスリや運動神経に長けていた。
 霞の恋人役兼同僚の亜香里は人気アイドルの黒川千鶴(十八歳)が演じる。
 山猫を追う県警の警察役が二人。
 主要メンバーは七人だ。毎回、ゲストが変わる。
 今回の葵の役は二面性を演じる。
 ほっこりと柔らかい演技と、アクションもあり殺陣もあるスピード感もある演技だ。
 殺陣もアクションも舞台で経験している。
 ただの今回のアクションは普通のアクションではないはなく、しなやかな猫のような動きを意識してほしいと顔合わせの時に監督に言われた。
 ラフ画で見た衣装は、目元を覆うマスクと体のラインが出るスリムなボディースーツだ。
 胸元が大きく開いているのが印象的だった。
 ストーリーは、裏で悪いことをしている者をターゲットにして、裏取引で手に入れた品物を手に入れる。時には、悪者からお金を騙し取られたお金を、被害者に返す。鼠小僧のような泥棒を演じる。警察官が駆け付ける前に、犯人を縛り上げる。
 決め台詞は『おとなしくお縄になれ』だ。
 今回も難しい役だ。
 読み合わせを終えて家に帰ると、篠原が待っている。
「ただいま」
「おかえり」
 ぎゅっと抱きつくと抱き返してくれる。
「純也、今夜のご飯なに?」
「そろそろ肉が食べたくなったかなと思って、ステーキと人参のポタージュだよ」
「お腹空いた」
「ご飯が先?お風呂?」
「ご飯食べたい」
「荷物、置いて、手を洗っておいで」
「待ってて」
 部屋に行って荷物を置くと、急いで洗面所で手を洗って、うがいをする。
 秋も深まり、肌寒くなってきた。葵の苦手な季節が始まる。
「お待たせ」
 席に着くと、テーブルに置かれた赤の薩摩切子の高杯からプラチナの指輪を取ると、左薬指に嵌めた。
 それを待つように、テーブルに温かなご飯が並べられていく。
「美味しそう」
「美味しいよ」
 スプーンですくってポタージュを飲む。
 体がほかほかと暖かくなってくる。
 薩摩切子の高杯は、篠原がネットで購入したものだ。
 赤の蓮に似合っていると言って。
「ほんとに、美味しい」
 篠原は日中、事務所で事務仕事をしている。
 裁判が終わるまでは、事務所の内勤を命じられている。メインは葵の世話係だから、葵の生活に合わせて、事務所の仕事をしている状態だ。
「読み合わせ、どうだった?」
「卓也さんが慣れなくて、ポカミスばかりだすけど、臼井さんはさすが、セリフミスなくてやりやすい」
「卓也君は初めてのドラマかな?」
「ドラマは初めてだと思う。この間の舞台で事務所代わって主演もらえるって言ってたけど、僕が主演やっちゃったし、まさか共演するとは思ってなかった」
「初めてでセリフのある役をもらえるなんて、すごいぞ」
「そうだよね」
 お皿のお肉をナイフで切ってフォークで口に運ぶ。
 柔らかなお肉は、美味しくて頬が緩む。
「葵はどうなんだ?」
「うん。難しい役だけど、なんとか。後で練習するから見てて。決めポーズとかあって、なんか戦隊物のヒーローみたいなんだ」
 葵はクスクス笑う。
「純也は変わったことない?」
「裁判は示談で話が進んでいる。解決まではそんなに時間はかからないらしい」
「そうなんだ。また仕事できるね。共演は春かな?」
「葵は、どんな仕事で共演したい?」
「純也はテレビや映画の人ってイメージがあるかな」
「葵は最近テレビの仕事が増えたけど、舞台の人ってイメージだね」
「純也と共演できるなら、どんな仕事でもOK」
 付け合せの温野菜を食べて、篠原を見上げる。
「スープのお代わりある?」
「あるよ」
「じゃ、お代わり」
「最近、よく食べるようになったな」
「ご飯がおいしいから」
 新しくスープをもらって、スプーンで飲んでいく。
「スープ。喉にいいんだ。僕、この季節、すぐに熱出しちゃうから。いつも小池さんから注意されてる」
「そうなのか?体調はいいのか?」
「今はいいよ。ちゃんとご飯食べてるから、今年は体調崩してない。あ、お弁当箱、後で出すね。お昼食べられなくてもお弁当があると移動中に食べられて、すごく助かってる」
 篠原が微笑む。
「愛情込めてるから美味しいだろう?」
「おいしい」
 キッチンには以前、篠原が欲しいと言っていた食器洗浄機が置かれている。
「ごちそうさま」
「おそまつさまでした」
 葵は食器を持って席を立つ。そのままキッチンに入って、軽く水で食器を流すと、洗浄機に詰める。
 振り意向いて、食器棚からペアのマグカップを出すと、冷蔵庫から麦茶を取り出す。二つに注いで、テーブルに運んでいく。
 そろそろ麦茶も寒くなってきた。
「純也、どうぞ」
「ありがとう」
 葵が麦茶を飲んでいると、篠原が顔を覗きこんできた。
「葵、水木製薬の荒井田さん、気を付けてなさい」
「なにかあるの?」
「以前、僕のドラマのスポンサーだったことがあるんだが、ドラマの収録中は毎日顔を出していた」
「スポンサーが顔出すのって、そんなに珍しくないけど」
「ただ顔出しするなら珍しくないんだが、接触が過激というか強烈なんだよ」
「接触?ボディータッチとか?」
「まあ、そんなところだな」
「そんな人に見えなかった。僕に一億円のギャラを払ってくれるって、水木製薬って儲かってるのか?」
「もともと製薬会社だから、資金はあると思うが、性格に難がある」
「気を付けておく」
 お茶を飲むと、席を立った。
「お風呂入ってくる。純也も入る?」
 篠原が微笑む。
「抱いてもいいの?」
「一度くらいなら」
 顔が赤くなる。
 失神するほど抱かれると、稽古も宿題もできなくなってしまう。
 それでも触れ合うくらいはしたいと思う。
「葵を洗ってあげようかな」
「この後練習するから、そのこと忘れないでね」
「わかってるよ」
 葵の体を抱き上げると、洗面所に連れて行く。
 洋服を脱がされて、そのまま洗濯機の中に入れていく。
 篠原も衣服をすべて脱いでしまった。
「僕は帰宅した時に、シャワーを浴びてるから、葵を洗うだけだよ」
「うん」
 バスチェアーに座ると、頭を優しく洗ってくれる。
 トリートメントをして髪を指で梳くように馴染ませると、温かなお湯が頭を流す。
 バスタブの中は、お湯が張られていた。
 最近の入浴剤は炭酸の入ったものだ。お互いの裸体が見えてしまうが、それでも、葵は篠原の裸体が好きだ。引き締まった体に綺麗に筋肉がついていて美しいと思う。
 葵の理想は、今でも篠原だ。
「立ってくれるか?体を洗うから」
 バスチェアーから立ち上がると絹のタオルで体を洗ってくれる。洗い終わると、篠原は葵の体を抱きしめた。
 掌が体を撫でる。
 ソープの滑りを借りて、体の細部まで丁寧に掌を這わす。
「んっ」
 キスをしながら、片手が胸を撫で、もう片手は葵の欲望をなぞり高める。
「純也、気持ちいい」
「葵は、すごくエッチな顔してる」
 葵は笑って、篠原の舌に舌を絡める。
「あぁ、イキそう・・・ん」
 篠原の手の中にすべてを吐き出すと、葵は体の向きを変えて、篠原に抱きつく。
 片手で体を抱かれながら、もう片手が背筋を辿って行く。引き締まったお尻を撫でると、片足を掬い上げられる。篠原の欲望が蕾を咲かせていく。
「ああ、んんっ」
 毎晩抱き合っているお蔭か、篠原の欲望は容易く入ってくる。
「純也が入ってくる」
「入れてるんだから」
 柔らかな体は、足を上げた状態で抱きしめられる。
「純也、この姿勢きついよ」
「柔らかい体だ」
 もう一方の足も抱え上げれて、葵は目の前の篠原にしがみついた。
 背中がユニットバスの壁にあたる。
「座ってしよ?危ないよ」
「それだけじゃないだろう?」
 葵の全体重が繋がった場所にかかる。
「お尻が裂けそう」
「動くぞ」
「ああ、純也」
 体を持ち上げられ、落とされる。
 背中が壁を滑っている。
「これ以上、入らない」
「入っているじゃないか」
「ああ、お願い」
 不安定な体制のまま篠原の欲望が、最奥を突き上げる。
 お腹の中が裂けそうで、必死に篠原にしがみつく。
 体に走る快感と互いの体に揉みくちゃにされて、葵の欲望は二度目の開放を待ち望んでいる。
 体を持ち上げられ、強く抱きしめられると、葵の欲望は我慢できず達していた。そのに合わせるように篠原も達していた。
 呼吸を乱したまま互いに抱きしめあう。
「背中は痛くなかったか?」
「そこまで気が回らなかった」
 足を降ろされて、篠原が体から出ていく。
 篠原はシャワーを出すと、葵の体を流しだす。
 体から泡がすべてなくなると、篠原もシャワーを浴びた。その隙に、葵はバスタブに浸かる。
 熱すぎず冷たすぎず、葵の好みの温度だ。一度潜って全身にお湯を感じる。シャワーの音が止まった瞬間にザバッとお湯から顔を上げバスタブに座ると、篠原が入ってきた。
「少し温くないか?」
「僕はこれくらいでちょうどいいけど。もう少し寒くなったら、さすがに温かい方がいい」
「真冬もこの温度なら、風邪をひきそうだ」
 抱き寄せられて、葵も篠原に抱きついた。
「ねえ、スマホに連絡先入れてもいい?僕たちの写真も撮りたい」
「事務所のスマホがあるだろう?」
「少しも恋人同士って感じがしない。指紋認証入れてロックかけるから」
「葵はまだ不安なのか?」
「いつだって不安だよ。だって、純也は篠原純也だよ。抱かれたい男一位だよ」
「それは、もう過去のことだろう。今年の投票では僕は圏外だ」
「それでも、僕にとって純也はいつまでも憧れの人なんだ・・・んっ」
 ぎゅっと抱きしめられると、キスと一緒に葵の中に篠原が入ってきた。
 チークダンスを踊るように、ゆっくりと体が揺さぶられる。
「抱きたい男一位があるなら、葵はダントツ一位だろうな」
「そんなランキングないから」
「葵は自分の魅力に自覚を持って、葵を抱きたい男は、この世にたくさんいるよ」
「純也だけで手一杯だよ」
 篠原がキスをしてくる。戯れむようなキスは楽しい。
「いいよ。連絡先交換しよう。僕も心配だったんだ」
「心配?」
「恋人が浚われたりしないか」
「僕が浚われるの?いつも小池さんが見張ってるよ。あり得ないって」
「油断はしないで」
「うん、わかった」
「何かあっても何もなくても、いつでも連絡して。写真も本当は写したかった。恋人の写真が一枚もないなんて、寂しい」
「ありがとう、純也」
 互いの左薬指には、指輪がはまって、キラキラ輝いている。
 その日初めて、二人の写真を撮った。
 居間のダイニングの椅子に座って頬を寄せた写真は、二人とも笑顔だった。


 怪盗山猫の撮影の合間に、CMの撮影が入って、葵の仕事はまた過密になっていった。
 継続のキラキラサイダーのCMは爽やかに海辺で撮影した。ハワイでと言われたが、学校の都合で海外旅行は無理だと言うと、日帰りで北海道の綺麗な海での撮影になった。
 一気に冬が来たように寒くて、変装して同行した篠原が、撮影の合間にコートを羽織らせてくれた。スマホのCMは都内のスタジオや公園での撮影になった。新しいスマホを使ってほしいと新機種一式お土産にもらった。エステのCMはスタジオで前進的なメイクをされて中性的な葵の魅了を前面に出すような演出で撮影された。
 水木製薬のCMは2回に分けられて撮影される。
 一度目は水木製薬で、二度目は怪盗山猫の撮影が始まってからだ。
 指定された水木製薬内にあるスタジオに行くと、二着の服が用意されていた。
 一つは男性用で、もう一つは女性用だ。
 メイクの担当は赤い誘惑で担当した大原だった。
「葵君、久しぶり」
「お久しぶりです、大原さん」
「今日は楽しい撮影になりそうね」
「はあ」
 葵は苦笑する。
「まずは、男性の衣装を着てくれる?」
「わかりました」
 カーテンを引いて、簡易更衣室を造ると、葵は着ていた服を脱いで、用意された洋服を着ていく。
 男性用はカジュアルな黒を基調とした服だった。
 普通の服でホッとしてカーテンを開ける。
「とっても似合うわね。メイクをするから鏡の前に座ってくれる?」
「はーい」
「お肌のお手入れをしてからするから、眠っていてもいいわよ」
「大原さんのお好きにどうぞ」
「そうさせてもらうわ」
 いつもの調子で大原が、葵の肌の調子を掌で確かめている。
 椅子を倒されて、ホットタオルを顔に載せられる。
 カタカタと音がする。
 化粧品を並べているのだろう。
 大原がいつもさせる音だ。
 タオルが外されると、視界が明るくなる。
「お肌のマッサージしてからお化粧するから」
「いつものだね」
「そうよ」
 大原の手が葵の顔に触れてくる。
 いつものマッサージの後にメイクをされていく。
 男性用のメイクなので、軽めのメイクだ。唇はナチュラルな色に塗られるだけで、いつもとそんなに変わらない。
「ヘアメイクは河村さんね」
「初めまして、河村です」
「よろしくお願いします」
 少し髪をセットしただけで見違えるようにかっこよくなる。
「腕いいんですね」
「河村さんは一流よ。主に女性のヘアメイクをされることが多いのよ」
 大原が説明してくれる。
「じゃ、行ってらっしゃい」
 二人に見送られて、スタジオに入って行く。
 スタジオの中に荒井田が待っていた。
「さすがに葵君、見栄えがいいね」
「ありがとうございます」
「目薬は若手をターゲットにしたソフトコンタクトをしたままできる眼精疲労薬なんだ。かっこよく宣伝してほしい」
「キャッチフレーズとかあるんですか?」
「特にないな。薬品名は『ドライガードEX』あとは『水木製薬』と言ってくれればいい」
「声はどの高さがいいですか?」
 葵はいろんな高さで薬品名と社名を口にする。
「男性用は普段の声で。女性用は一番高い声で」
「わかりました」
「じゃ、頼むよ」
 葵の肩を抱いてスタジオの中を歩いて行く。
(確かにボディータッチは多いかな)
 小池がスタジオの隅に立って、葵の姿をずっと目で追っている。
 カメラの前に立つと、カメラに向かって目薬を持ってセリフを口にする。何パターンか撮って、次はカメラ撮影で何パターンか撮ってOKが出た。
「葵君、次は目薬が目に落ちる瞬間を取りたいから、検査室に入って」
 また荒井田は葵の肩を抱いた。
 篠原が言ったように、スキンシップが激しいのだろう。
 暗室に連れてこられて、椅子に座るように指示される。
 丸椅子に座ると、三脚にカメラが固定されて前に置かれた。
「目薬を落とすから、目を閉じないように」
「はい」
「天井の赤いランプをじっと見ていてください」
「はい」
 横に立ったスタッフが声をかけてきた。
 黒い服を着ているので、姿が見えない。
「落とすよ」
 ポトンと目の上に目薬が落ちて、浸透圧で涙が溢れてくる。
「撮れたかい?」
「綺麗に撮れました。次は左目」
 タオルを渡されて、目を拭う。
「今度は反対の目に落とすよ」
 葵は目を開けたままじっと身構える。
 ポトンと落ちて、また涙が滲んでくる。
「撮れました」
「お疲れ、葵君。今度は着替えて、もう一度頼むよ」
「はい」
 葵が立ちあがると、また肩を抱かれる。
「綺麗にしてもらっておいで」
 検査室から葵が出てくると、小池がホッとしたような顔をした。
 肩を抱かれたまま小池の前を通って、メイク室の前でノックをして扉を開けた。
「美しくしてあげて」
「わかりました」
 大原が葵を出迎えてくれる。
「それじゃ、着替えてくれる?」
「わかりました」
 カーテンを引いて簡易更衣室を造ると、葵は着ていた男性用の服を脱いだ。
 ハンガーにかけて、女性用の服がかけられていた場所に引っ掛けると、女性用の服をハンガーから外した。ぽとっとブラジャーが落ちて、葵は溜息をついた。
 篠原が下着をたくさん買ったので、それの値段もなんとなくわかってしまう。
(けっこう高価なブラジャーだ。しかもシリコンパットが仕込んである)
 ブラジャーを拾うと、普段とは違う重量感がある。手触りは柔らかい。女性の柔らかさなのだろうか?しぶしぶそれをはめた。胸が一気に大きくなる。
 ワンピースは胸が大きくあいた大胆なものだった。スカート丈も短い。用意されたパンティーをはき、ストッキングをはいて、カーテンを開けた。
「わあ、葵君、綺麗」
「どこが?すごく悪趣味」
 男性用にかっこよくされた髪型で、このワンピースを着ると、ただのオカマだ。
 足元に置かれた、クリアー(透明)のハイヒールのサンダルを履いた。
「先に髪を洗うね。ワックス付けてるから」
 河村が声をかけてきた。
「はい」
 首にタオルを巻かれて、ケープを着せられた。
 椅子を倒されて、顔にタオルを置かれる。
 丁寧に頭を洗われて、タオルで頭を包まれる。
 頭を綺麗に拭かれてドライヤーで乾かすと、大原がやってきた。
「今度はこっちに座って」
「はーい」
「メイク一回落とすから、椅子倒すよ」
「もう、好きにして」
 仕事を受けたからには、嫌だとは言えない。
 丁寧にメイクを落として、蒸タオルで顔を拭われる。
 化粧水でマッサージをして下地までつけると、椅子を起こされた。
 徐々に化粧を施されていく。
(わあ、すごい。僕じゃないみたいだ)
 赤い誘惑の時とも、篠原を取り戻す時にした時とも違う顔が出来上がって行く。
 葵は大原の化粧の方法をじっと観察して覚えていく。
「シャドー入れたの?」
「そう、顎のところと頸にね」
「喉仏隠したのか」
「葵君はあまり目立たないけど、今回は完全に消してほしいって言われてるんだ」
「なんか拘り強そうだもんね。衣裳が派手じゃない?胸なんかないのに盛りすぎだと思わない?」
「そういうコンセプトなんじゃないかな?」
 大原はクスクスと笑う。
 小顔なのに、ますます小顔になっている。
 色はピン系で纏められている。
 服が白なので柔らかな感じだ。
「はーい、メイクは終わり。河村さん、お願いします」
「はいよ」
 河村はロングのウイックを持ってきた。
 淡いピンクブラウンのウイックを被らせると固定した。
「これはあらかじめ、カットをしてパーマしておいたものだ。オーダーメイドだぞ」
「人毛ですか?」
「そうだ。これだけで何十万だな」
「うわー」
「毛先の遊びがいいだろう?」
「めっちゃお洒落ですけど、CMのためだけに作られたんですか?」
「そういうオーダーだ。これは君に進呈するそうだよ」
「そんなに高いものもらってもいいんですか?」
「いいんだろう?」
 ウイックを固定してから、葵の長さに合わせて前髪をカットしていく。
「ほら、完成だ。いい女になったな」
 ケープを外され、鏡を見ると違う誰かになっていた。
「すごーい」
「葵君、メイク手直しさせて。チークと口紅がちょっと薄いね」
 河村とチェンジして大原が代わりに葵の前にやってきた。
「いいわよ。一度立ってみてくれる?」
 椅子から立ち上がり、大原の前に立った。
「綺麗に服も着られてるわね。OKよ。行ってらっしゃい」
「ありがとうございます」
 扉を開けると、荒井田が待っていた。
「すごく綺麗だ。声は一番高い声で頼むよ」
「わかりました」
「その声だ」
「はい」
 笑顔を浮かべると、肩を抱かれた。
「胸はどうだい?特注のシリコンなんだ。我が社で特許を取っている。女性の肌の柔らかさを再現してるんだ」
「はあ」
 荒井田の手が胸に触れて弾力を確かめるように揉んでくる。そのまま、お尻にも触れる。
「谷間もできてるね。スカートの丈もちょうどいい」
「撮影前なので、触れるのを止めていただけますか?仕事に集中したいんです」
「すまない。葵君が美しすぎてね。撮影の後、食事でもどうだい?」
「明日、学校なので」
「たまには休んでもいいだろう?」
「授業に遅れたくないんです」
「それで、ドラマの撮影なんてできるのかい?」
「監督に理解していただいているので」
「そうかい。今は撮影に集中してくれ」
「はい」
 頭を下げて、カメラの前に立った。
「笑顔で頼むよ」
 カメラマンがカメラを回しだす。
 商品名と会社を口にする。何パターンか演じていく。
「OK、次はカメラ、動きを入れて目薬を持って動いてくれる?」
「はい」
「前に少し屈んで。胸を寄せて」
「え?」
「プロだろう?」
「はい」
 風が吹いてきて、スカートと長い髪を捲り上げる。
 咄嗟にスカートを押さえて、髪を掻き上げる。
「OK、いいよ」
「お疲れ、葵君。少し休むかい?」
「いえ、大丈夫です」
「飲み物用意したんだ」
「ありがとうございます」
 蓋が付けられた紙コップにストローが刺さっている。
「オレンジジュースだよ」
「はい、いただきます」
 口に含むとオレンジの味がした。すべて飲み干して撮影に戻った。
(早く、家に帰りたい。純也、きっと心配してる)
 暗室で同じ撮影をして終えた。
『撮影終ったけど。食事誘われた』
『お疲れ、葵』
『眠いのにもう帰りたい』
『小池さんと一緒だな?』
『今から料亭に行くらしい。小池さんは、まだ待合室だと思う』
『早く帰っておいで』
『わかった、行ってくる』
 トイレに行ってラインを送る。
 鏡に映った女装した笑顔の自分も撮影する。
 それを篠原に送信した。


 目を覚ますと、何も見えなかった。ただ眩しくて、目を開けていられない。
「純也、純也」
 ベッドを下りて自宅ではないと気付いた。
「誰か、助けて。誰か助けて!」
 大声を上げて、助けを呼ぶと扉をノックする音が聞こえた。
「助けて、誰か、助けて」
「今開けますから」
 人の足音が聞こえる。
「どうかされましたか?あっ」
「助けてください。目が見えない」
 シーツで体を包まれて、「大丈夫ですよ」と女性の声が聞こえる。
「警察と救急車の手配お願いします」
 誰かが電話をしている。
「なに?どうしたの?」
「大丈夫ですよ。ここはプレミアムホテルで、私は客室係の犬飼です。お名前、教えていただけますか?」
「悠木葵。赤坂プロダクションの赤坂社長に連絡お願いします。番号は―――」


「目は散瞳してます。散瞳薬を使われたのでしょう。時間が経てば見えてきます。昨日からの記憶はありますか?」
「昨日なんですか?水木製薬に撮影に行きました。撮影後に荒井田社長に食事に誘われました。お店に行く前にラインをして、その後の記憶はありません」
「レイプされた痕跡があります。口腔と肛門の検査を行います」
「レイプ?」
「覚えていませんか?」
「何も。ただお尻が痛い」
「痛いのはお尻?肛門?」
「どっちも痛い」
「お尻に打撲の痕があります。肛門から出血をしてます。精液らしいものも付着しています。内診をして、傷の状態を確認します。性感染症に感染してないか確認します。加害者の証拠収集をします。血液検査で薬物投与の検査も行います」
「本当にレイプされたんですか?」
「検査で分かります」
「はい」
 救急車で運ばれると、警察も病院に到着していた。
 検査の合間に、何枚か分からないほど写真を撮られた。
「直腸内にガラスのボトルが入っています。その上に被さるように割れたガラスのボトルが挿入されたままあります。直腸内は裂傷がひどく出血も続いています、このまま緊急手術をします。挿入されたボトルを撤去できないようでしたら、開腹手術になります。サインできますか?」
「そんなに悪いんですか?」
「今は危険な状態です」
「・・・目が見えません」
「どこにでも名前を書いてくれればいいよ」
 ペンを持たされて同意書に名前を書いた。
「緊急手術になるので、ご家族に連絡できますか?」
「事務所の社長が、僕の保証人です」
 携帯電話の番号を告げた。
「連絡します」
「はい」
 何も見えないまますべてが始まっていった。


 麻酔から覚めて、まだ意識がぼんやりする。
「葵」
 篠原と社長の声がして、目を開けた。何も見えなかった視界が、人影を映す。
 部屋はカーテンを引かれ薄暗くされている。
「命が助かってよかった」
「心配したんだぞ」
「ごめんなさい」
 採取された精液はDNA検査に回された。着ていた洋服も脱がされて、警察の鑑識が持って行った。血液検査でアルコールと睡眠導入剤を投与されたことがわかった。
「ごめんなさい」
「葵君、ゴメン。僕が車を見失わなかったら」
 小池の声が聞こえた。
 葵は首を左右に振る。
「目は見えるようになってきたか?」
 静かな篠原の声がした。
 涙が流れてくる。
「ごめんなさい」
「今は目のことを聞いているんだよ」
 手を握られた。
「僕だよ、わかる?」
 葵は頷いた。
「ホテルで目を覚ました時よりは。でも、まだ輪郭しか見えない」
「目を閉じてていいよ。眩しいんだってな」
「うん」
 目を閉じると、篠原が椅子に座った。
「葵、被害届を出すぞ」
 怒った社長の声がした。
「はい」
「小池、警察まで乗せて行け」
「わかりました」
「篠原君は、絶対に葵から目を離すな」
「はい」
 二人が部屋から出ていく。
「純也、ごめん。なにも覚えてないんだ」
「自分を責めるな。葵は悪くない」
「でも、僕は誰か知らない人に、犯された」
 片手で目を覆う。
 涙がポロポロこぼれてくる。
「僕には純也だけなのに。ごめんなさい」
「葵は被害者だろう。怒ってないから、泣くな」
 葵は泣きながら首を振る。
「僕が嫌なんだ。僕は汚い。汚れてきたない」
 篠原の手を振りほどいて、葵は目を開けてベッドから降りようと暴れた。
 点滴が腕から抜けて、腕が自由に動くようになった。
「悠木さん、落ち着いて。まだ麻酔がかかってます」
「嫌だ、触らないで」
「葵、看護師さんだよ」
「誰も、触らないで」
 葵は手に触れた看護師のポケットからボールペンを抜き取って、それを喉に突き刺そうとした。咄嗟に篠原が葵を羽交い絞めにしてベッドに押さえつけた。
 葵の手からペンが落ちる。
「怖い、触らないで」
「すみません。しばらく押さえててください」
 術後管理室のナースが集まってきて、更に押さえつけられる。
「いやだ、嫌だ」
「点滴入れますから」
「嫌だ」
 腕に痛みが走って、葵はまたがむしゃらに暴れたが、暴れた分、押さえつけられる。
「怖いっ、怖い」
「鎮静剤入れますから」
 だんだん意識が遠くなってくる。
「死にたいんだ・・・」
 ぽつりと呟いて、葵は眠りに落ちた。


「お風呂に入りたい」
「術後だから入ったらいけないんだけど、体を洗いたいんだね」
「はい。レイプされた体が気持ち悪い」
「いったん点滴を抜いてあげて。シャワー後診察をするから、呼んでください」
 翌日視界がクリアーになって、一般病棟に移ってきた。回診に来た医師にお願いすると、看護師が監視することを条件に快諾された。
「よかったら、メイク落としとスキンケア用品はサンプルだけど使って」
「ありがとうございます」
「今準備するから待ってて。付添の方、売店で下着を購入してください」
「他にいるものは?」
「病衣はレンタルできますから、ボディーソープとシャンプー、歯ブラシ、タオル、スリッパ、食事の時のコップ、箸やスプーンとスキンケア用品くらいでしょうか」
「わかりました」
 篠原はずっと葵の横にいるが、葵はずっと俯いていた。
 部屋から鏡やガラス製品は、取り外されていた。
 鎮静剤がまだ効いているのか、頭がまだぼんやりとしている。
「入浴の間に買ってきます。よろしくお願いします」
「行ってらっしゃい」
 篠原が病室を出ていく。
「悠木さん、歩いてこられますか?」
「はい」
 病室の個室には部屋にお風呂がついていた。
 ベッドから降りて、お風呂場に歩いて行く。
 身に着けていた病衣を脱ぐと、下着は身に着けていなかった。
「自分で洗えますか?」
「はい」
「お尻は傷があるから、こすらないでくださいね」
「はい」
 シャワーを浴びて、髪を洗って、濡れタオルにボディソープをたっぷりつけて体を洗っていく。一度洗ってシャワーを浴びると、もう一度綺麗に洗ったタオルにボディーソープをたっぷりつけて、体を洗っていく。
「悠木さん、洗うのは、これが最後ね」
「はい」
 今度は念入りに体を擦って行く。
「あまり擦り過ぎると、怪我しますよ」
「汚いから」
 胸も性器もお尻もしっかり洗って、看護師にタオルを取り上げられた。
「お尻は洗ってはダメだと言ったでしょう」
「もっと洗わせて」
「駄目です。もう十分洗えてますから」
 葵は唇を噛みしめて、俯いた。
「シャワーで流しますよ」
 看護師がシャワーで葵の体から泡を洗い流していく。
 篠原が帰ってきた。
 走ってきたのか、珍しく呼吸が乱れている。
「自分で流す」
 看護師からシャワーを受け取って、体のぬめりを取って行く。
 もう一度顔を洗って、頭からシャワーで流す。
「体は拭けますか?」
「はい」
 タオルを受け取って、体を拭いていく。
「下着、お願いします」
「これでお願いします」
 篠原が看護師に買ってきたばかりの下着をわたした。
「服は着られますか?」
「着られる」
 トランクスを履いて、病衣を着ると、篠原がスリッパを出してくれた。
「ありがとう」
 それを履いて、ベッドへと歩いて行く。
「ドライヤー持ってきますので、お願いします」
「はい、お願いします」
 篠原が葵の濡れた髪を拭こうとすると、葵は自分で拭きだした。
「肌の手入れはしないのか?」
 サンプルのスキンケア用品に手を伸ばすと、ゆっくりと顔に付けていく。
 看護師がドライヤーを持ってきた。
「僕が乾かします」
「お願いします。お風呂の片づけしますので、何かあったら声をかけてください」
「わかりました」
「葵、髪を乾かすよ」
 ドライヤーのコンセントを挿しこむと、葵は篠原の手からドライヤーを奪った。
「自分でできる」
 髪を乾かしている途中で、ドライヤーをベッドに置いてしまった。
「もういいや」
「まだ濡れてるだろう」
 それを篠原が掴んで、葵の髪を乾かしていく。
 葵の目は虚ろで、意識がぼんやりしている。
 髪を乾かしている間に、眠ってしまった。ベッドに凭れたまま静かに眠っている。
 病衣の間から見える鎖骨の下に、血がにじみ出ていた。
「怪我をしている」
「すみません。タオルで強く擦ったようで、表皮がめくれてしまいました。術後の処置と一緒にしますので」
「お願いします」
「鎮静剤の投薬も始まりましたので、眠ってしまう時間が増えると思います」
 看護師にドライヤーを返すと、看護師は病室を出て行った。
 篠原は葵を抱くと、ベッドに寝かせた。


「学校に行きたいから、退院する」
 翌日、目を覚ました葵は、ベッドから降りて帰る準備を始めてしまう。
「葵、回診が始まったら、医師に聞いてみよう」
「僕の服ある?」
「ここにはない」
「純也の着替えはある?」
「ないよ」
「じゃ、病院の服借りる」
「気分はどうなんだ?」
「取り乱したりしたけど、もう平気だ」
 平気と言いながら、葵はまだ一度も篠原と視線を合わさない。
「僕は何も覚えてないんだ。結果がそこにあるだけ」
 葵は持ち物を探した。
「僕の鞄は?」
「小池さんが持ってるんじゃないのか?」
「僕のスマホは?」
「そういえば、見かけないな」
「盗難届出して。解約してもいい。だめだ、スマホにデーターは残る」
 葵は震える手で唇を押さえる。
「純也との写真。アドレスもラインも入ってる」
「小池さんに連絡してみようか?」
「お願い」
 篠原はスマホを取り出して、小池の通話ボタンを押した。
「小池さん、葵のスマホを持ってるか?それと荷物がないと探しているんだが」
「葵君の荷物もスマホも持っていません。ちょっと待ってください。事務所のポストに葵君宛ての封筒が入っていたんです。今それを開けるところです」
 事務所内がざわついている。
「スマホが入っていました。怪文書も入ってます。『ドラマの降板をしないと命の保証はない』と書かれています。あ、社長と代わります」
 葵は篠原を見上げている。
「篠原君。スマホは葵の指紋認証がないと内容が見えない。病院に今から向う。葵から目を離さないように」
「わかりました」
 通話を切ると、葵をベッドに戻す。
「今から社長が来られるそうだ。スマホは事務所にあるようだよ」
「よかった」
 葵はホッとしたように、肩から力を抜いた。
「朝食、少しでも食べないさい」
「純也も食べてない」
 篠原は葵の頭を撫でる。
「小池さんが来たら、売店で何か買ってくるよ」
「僕は一人で待てるよ」
「葵から目を離したくない」
「僕が頼りないから。ゴメン」
 葵は俯いてしまう。
「食べさせてあげようか?」
 おかずをおかゆに載せて、スプーンで口に運んでやる。
「食べなきゃ駄目?」
「少しだけでいいから食べて。お薬飲まないといけないから」
「薬もいらない」
 スプーンを持って行くと、葵は口を開けた。
 三口食べて、葵は食べるのを止めてしまった。
 薬を飲むと眠くなる。
 葵はベッドに横になって、眠ってしまった。


 眠っている葵の指先をスマホのボタンに触れさせると、スマホが起動した。
「アルバム、メール類のチェックをしてくれるか?」
手には綿の手袋をしている。
 メール類には何も変わったものはなかった。史郎からのラインを知らせるランプがついているだけだ。アルバムを開くと、葵が犯されている場面の写真が大量に収められていた。
「・・・っ」
 眠っている葵を犯しているのは三人。顔は見えない。撮影者を入れると最低四人だ。
「君は見るな。小池」
「はい」
 言葉を失くす篠原の手から小池がスマホを受け取る。
「データーのコピーはできるか?弁護士にも見せたい」
「予備のSDカード持ってきてます」
 手袋をした小池がスマホを操作して、画像を保存した。
「ついでに指紋認証消しておきます」
「小池、警察に持っていくぞ」
「はい」
 篠原はビニールに入れられた脅迫状を見ていた。
「篠原君は葵から目を離さないように」
 社長はコンビニの袋をわたしてくれる。
 飲み物とおにぎりがたくさん入っている。
「ありがとうございます」
「君まで倒れたら葵の面倒をみられる者がいない」
「葵が退院して学校へ行きたいと言っているんですが」
「学校は休みだ。葵は食事を食べてるか?」
「ほとんど食べません」
「退院は医師と相談してくれ。自宅の方が落ち着くかもしれん」
「わかりました」


「僕は葵のパートナーで一緒に暮らしています」
「わかりました。説明しましょう。最初にも説明しましたが、直腸に割れた瓶が重なるように挿入されていました。時間はかかりましたが、開腹することなく、ガラスの破片を取り除くことができましたが、直腸の裂傷は重症です。割れた瓶を押し込んだり回したりしたんでしょう。腸内の欠落も見られました。腸破裂を起こさなかったのが奇跡です。感染予防の点滴を入院中行ってきましたが、傷はまた塞がっていません。しばらくは安静に。急な出血や発熱が見られたときは、すぐに連れてきてください。炎症が治まらないときは、直腸の壊死も考えられます。そのときは直腸を摘出しなくてはならなくなります。肛門もひどく傷ついています。見られたと思いますが、お尻に痣もあります。どちらも痛みもあるようです。セックスは傷が治るまで禁止です。いつまで禁止とは言えない状態だということは、理解していただけましたか?」
「はい」
「食事は消化のよいもので。痛み止めとお腹を緩くする薬と肛門内に注入する一日二回の傷薬の処方が出ています。自分でできないようでしたら、手伝ってあげてください」
「精神科からは、まだ発作的な自殺の可能性があります。鎮静剤と精神安定剤、睡眠導入剤を処方しています。学校への通学は気分転換になるかと思いますが、様子を窺いながらお願いします。仕事の復帰も本人の負担にならない程度で。通院は週一で来てください」
 葵は処置室で怪我の処置をされている。
「篠原さんでしたね。悠木さんがレイプされて重篤な怪我をされましたが、あなたは今まで通り悠木さんを愛せますか?」
「僕は葵にたくさん助けられてきました。葵への愛情は変わっていません」
 医師二人は、同時に頷いた。
「脅迫状が届いていると聞きましたが」
「はい。命の保証はないと脅されています」
「また誘拐されないように、気を付けてください」
「目を離さないように気を付けます」
 扉がノックされて、開いた。
「処置終わりました」
 看護師に付き添われた葵が部屋の中に入ってくる。
 医師が同時に立ちあがって、「お大事に」と告げて出ていく。
 篠原は丁寧にお辞儀をした。


「お待たせしました」
 小池が病室に顔を出した。
 葵の洋服を持ってきてもらった。
 退院は入院から一週間後になった。
「葵君、着替えたら帰れるよ」
「今、着替えます」
 葵は躊躇うように、二人を見る。
「カーテンしめてもいい?」
「いいよ」
 篠原はさっとカーテンを引く。
 シャツとスラックスとジャケットだ。
「新しい洋服だよね。かっこいい」
 カーテンを開けながら葵が出てくる。
「社長からのお見舞いの品だよ。今度社長に会う時に見せてあげて」
「はい」
「じゃ、送るから」
 小池が、葵の前を歩いて、篠原が葵の横を歩く。
 脅迫状のことも写真のことも、葵は知らない。
「小池さん、買い物に寄りたいんだが」
「わかりました。スーパーに寄ります。葵君は僕と車でお留守番ね」
「僕は行けないの?」
「何か欲しいものがあるのか?」
「あったかいココアが飲みたい」
「牛乳たっぷり入ったのが飲みたいのか?」
「そう。一緒に行ったらダメ?」
「今日はまだ退院したばかりだし、変装してないから駄目だ」
「わかった」
 葵はぼんやりと外を見ている。
「篠原さん、買い物が必要なときは言ってください。作るのは苦手だけど、買い物くらいはできますから」
「これから、頼む」
「葵君の送迎も二人でと言われています」
「学校はどうなった?」
「社長が交渉して、同伴を認めてもらいました」
「そうか、葵、学校へ行けるぞ」
「いつから?」
「明日からでも」
「よかった。単位が心配だったんだ。勉強も遅れるし」
「僕も一緒に登校だ。葵のウイック貸してもらうぞ」
「純也も一緒なの?顔バレしたら大変」
「顔バレしても、僕は構わないよ」
「学校中で大騒ぎだよ」
 葵がクスクスと笑った。
 入院してから初めての笑顔だ。
 まだ視線は合わせてこないが、笑顔が浮かべるほどには回復してきたのだろう。
「仕事はいつから行ける?」
「社長がOK出さないと、仕事には行けない」
「練習ずいぶん進んでるはずだよ」
「葵君、明日の午後、学校が終わったら事務所に来るようにと社長が」
「わかった」
 葵の目がとろりとしている。
「眠かったら寝てもいいぞ」
「ちょっと眠い」
 背もたれに凭れると、葵は目を閉じた。


「葵、手洗いとうがいな。ジャケットも脱いでおけ。動きづらいだろう」
「はーい」
 葵は洗面所に入って行き、篠原は買い物袋を持ってキッチンに入って行く。
 台所で手を洗い、手早く冷蔵庫の中に食品を入れていく。
 留守にしていた時の食品はすべて破棄した。
 いつまでも洗面所から水の音がしている。
「葵、いつまでうがいしてるんだ?」
 洗面所を覗くと、ジャケットを脱いだ葵は、いつまでも手を洗っていた。
「手が綺麗にならないんだ」
「もう綺麗だよ」
 水を止めて、タオルで手を拭ってやる。
 葵はじっと手を見ている。
「ココア淹れてあげるよ。おいで」
「うん」
 ダイニングテーブルの上の赤の薩摩切子の高杯からプラチナの指輪を篠原は取って、左薬指にはめる。
「葵もはめるだろ?」
 指輪を取り葵の手を取ると、葵は首を左右に振った。
「僕にはもう資格がない」
 涙を流しながら、葵の部屋に入って行ってしまった。
 指輪を元に戻すと、篠原は葵の部屋に入って行く。
 部屋の隅で泣いている葵を背後から抱きしめた。
「僕の気持ちは変わってないからね」
 わずかに頷いて、篠原にしがみついてくる。
「純也、ごめん」
「立てるか?ココア飲むだろう?」
「うん」
 篠原が立つと、葵も立ちあがった。
「おいで」
 葵の手を引いて台所に立って、ココアを淹れていく。
「カップ出してくれるか?」
「わかった」
 ペアカップを取り出して並べると、温かなココアが注がれていく。
「僕が持っていくから、葵は座って」
「うん、いい香り」
 椅子に座った葵を見てからカップを運んでいく。
「どうぞ」
「ありがとう」
 篠原が葵の横に座る。
「純也、僕のこと好き?」
「好きだよ」
「うん」
 ホッとしたように頷くと、カップを手に持った。
「美味しい」
 篠原もカップを手に持ち、ココアを口にする。
「葵、僕のこと好き?」
「うん」
 葵は少し俯いてしまった。
 今までは『好き』と返ってきた言葉が、頷くだけになっている。
 赤の薩摩切子の高杯にある指輪が、寂しく輝いている。


 葵はお風呂に入ると、演技の練習に入った。
 側転前転ジャンプを組み込みながら舞踊を踊っている。倒立で体の向きをかえて、優雅に起き上がってくる。手に棒を握っている。棒は刀の代わりなのだろう。そのまま殺陣練習に入る。スピード感があり視線が鋭くなっている。手に握っていた棒を部屋の隅転がすと、手刀と蹴りで練習していく。
「痛い」
 葵は動きを止めて、その場に膝をついてしまった。
「どうした?」
「お尻が痛い」
「一度に動くからだ。ベッドで休むか?」
「汗かいたから、お風呂に入りたい」
「抱き上げてもいいか?」
「お願い」
 顔色が蒼白になっている。
「純也、ごめん」
「謝らなくていい」
「うん」
 洗面所に下ろすと、葵は服を脱いでお風呂場に入ってく。
 バスチェアーに座って、葵はお腹を押さえていた。
 殴られた痕のような紫色の痣がある。
「おなか痛いのか?」
「痛い」
「洗ってやるよ」
 篠原も服を脱いでお風呂場に入って行く。
 シャワーを頭から流して、体を濡らしていく。
 シャンプーをしてトリートメントをしてやると、少し傷んでいた髪が柔らかくなる。
「体を洗うぞ。立てるか?」
「うん」
 シルクのタオルで体を洗っていく。鎖骨の下の傷は瘡蓋になっていた。
 お尻にも大きな痣がある。
 痛いはずなのに、痛いとは言わない。我慢しているのだろう。
 全身を洗ってシャワーで流していく。
 お風呂に入って、葵の顔色が少し良くなってくる。
 葵のシルクのタオルを洗って自分の体もシャワーを浴びると、篠原もバスタブに入って行く。
「今日は温かいな」
「寒かったんだ」
 葵はお風呂の中で目を閉じてしまう。
「眠いのか?」
「ここで寝てもいい?」
「溺れるぞ」
「溺れてもいいよ」
「出るぞ」
 葵を抱えてお風呂を出ると洗面所で体を拭いてやる。
「葵、まだ死にたいと思っているのか?」
「死にたい」
「僕を一人で残していくつもりなのか?」
 篠原の指輪を見て、葵は俯いた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいから、眠る準備をしなさい」
「わかった」
 葵がパジャマを着ている間に、篠原も体を拭き、パジャマを着ていく。
 葵が歯磨きをしている間に、一緒にすませてしまう。
 葵は肌の手入れを習慣でしているために、風呂から上がった後はゆっくりしていることが多い。今日も無意識に手は動いている。
「パジャマ、お揃いだったけ?」
「小池さんからのプレゼントだ。明日お礼を言ってやったら喜ぶだろうな」
「わかった」
 葵は白色で篠原は紺色だ。
 同じデザインで襟とポケットのところに、互いの色のラインが入っている。
「ほら、髪を乾かすぞ」
 返事を聞く前に、ドライヤーで葵の髪を乾かしていく。
 さらさらな葵の髪を、篠原は気に入っている。葵の髪を乾かすのは、篠原の役目になっているほどだ。
「ほら、乾いたぞ。次は薬飲むからおいで」
 葵の手を引っ張ってキッチンに連れて行く。
「薬だ」
「うん」
 グラスに水を入れてわたすと、粉薬と錠剤を順に飲んだ。
「痛み止めはいるか?」
「うん、痛い」
 錠剤を追加して飲ませる。
 グラスを洗浄機に入れて、スイッチを入れてしまう。
「ベッドに行くぞ」
「台本、まだ読んでない」
「今日は寝よう」
「うん」
「お尻に軟膏入れるぞ」
「僕がやる」
「病院では看護師が傷の具合を見ながらしてただろう?縫った傷に触らないように入れてやるから」
「うん」
 葵をベッドに横にさせて、パジャマと下着を下ろさせる。
「力抜いていろよ」
「ん」
 綺麗だった葵の蕾は赤く腫れていて、縫合した糸が痛々しく見えている。
 葵の傷の状態を、初めて見た。
 とても抱けるような状態ではないことは、目で見てよくわかった。
 篠原を包み込んでくれていた場所は、もっと重傷だと言われた。
 そっと薬の先端を入れて、軟膏を注入する。
「痛くなかったか?」
「大丈夫」
 葵が服を直している間に、手についた軟膏を洗面所洗うと、洗濯機のスイッチを入れておく。
 自動で乾燥までしてくれる。
 リビングダイニングの電気を消して、ベッドルームに戻る。
 葵はベッドに座っていた。
「寝ないのか?」
 背中を向けている葵を覗き込むと、いつの間に持ってきたのか、カミソリで手首を切っている。
「んっ」
「葵!」
 ポタポタと血液が滴り落ちる。
 真っ白なパジャマが真っ赤に染まっていく。
 もう一度切ろうとしたカミソリを取り上げて、ティッシュで手首を押さえる。
「なんで切るんだ」
 葵の体が凭れかかってくる。
「・・・ごめんなさい」
 そのまま目を閉じて、泣きながら葵は眠ってしまった。
 葵をベッドに寝かせて、傷の手当てをすると、真っ赤に染まったパジャマを脱がせてきれいに洗い、アイロンで乾かすとそれを着せた。
 目を覚ました時、おそろいのパジャマでいたかった。
 家中にある刃物を片付けた。
 葵の心は薄いガラスでできているほど繊細だ。記憶や言葉を失うほど脆い。最初にペンで喉を刺そうとした姿を思い出し、すべての文房具を片付けようとしたが、葵のペンケースを隠すことはできなかった。
 目を離さないように気を付けるしかなさそうだ。
 ダイニングテーブルの上に置かれた赤の薩摩切子の高杯からプラチナの指輪を掴んで、ベッドで眠る葵の指にはめた。
 絶望していた篠原に力くれたこの指輪が、きっと葵の心を目覚めさせてくれると思った。


 葵は目を覚ますと、すぐに指輪に気づいた。
「どうして指輪が」
「僕がはめたんだ。二人で愛を誓ったことは覚えてるよね」
「覚えてる」
「葵が自分の体が汚いと言うなら、僕はもっと汚れてる。汚れた僕を受け入れてくれたのは葵だよ」
 震えながら、目に涙をためている。
「純也は嫌じゃない?」
「葵が自分を傷つける方が嫌だ」
 昨夜葵が傷つけた手首を持ち上げる。
 包帯の巻かれた手首を見て、葵は俯いてしまう。
「純也、僕のお尻見たでしょう?もう一生純也を受け入れられないかもしれない。セックスできないかもしれないんだ。そんな僕と愛を誓ったら駄目だ。純也はいつか後悔する。きっと他の誰かとセックスしたくなる。いつか僕から離れていくなら、今、別れよう」
 葵は右手で左指にある指輪を、外そうとした。けれど、篠原は葵の右手を掴んで外させてくれなかった。
「僕が葵の体だけが目的で一緒にいたいと思ってるの?」
「だって、いつも僕を抱いてた」
「葵は魅力的だから、抱けるならいつでも抱いていたい。でも、一生セックスができなくなっても、僕は葵を選ぶよ。僕にとって葵は宝物なんだ。誰にもわたしたくはない」
「そんなの嘘だよ。僕を慰めるために言ってるだけだ」
「僕にとって葵は宝物。信じて」
 両手を繋いだまま、篠原は指輪のはめられた左の薬指にキスをする。
「信じて、葵」
 指輪の上にキスをして、そのまま葵が傷つけた手首へとキスをずらして、傷つけた場所を唇で軽く食む。
 チクリとした痛みが走る。
「痛い」
 小さな葵の呟きを聞いて、篠原はしっかり葵を見つめる。
「葵が痛いと、僕の胸も痛い」
 傷口をもう一度軽く食んで痛みを与える。
「純也、痛い」
「葵を傷つけるのは僕も辛い。だからもう傷つけないで」
 傷口が開いて、真っ白な包帯が赤く染まっていく。
 赤く染まっていく手首に、篠原はキスを落とす。
 優しいキスに、葵はただ見とれる。
 癒やすようで嘆くようで、唇で痛みを吸い取っていくようだ。
「純也が汚れる」
「葵の血で汚れたりしない」
 篠原の唇が、葵の血液で赤く染まっている。
 葵は指先で篠原の唇をなぞって、唇に付いた血液を拭った。
「葵、キスしてもいい?」
 返事を聞く前に、葵の体を抱きしめて、初めて葵に教えたキスをして体を離した。
「嫌だった?」
 葵は首を振る。
「キスを返して」
「でも」
 葵の視線が、入院してから初めて合わされた。
 目にいっぱい溜まった涙を流しながら、真っ直ぐに見つめてくる。
 その視線を捕まえるように、篠原は葵の手を握り、しっかり視線を合わせた。
「葵のキスが欲しい」
 もう一度、葵にレッスンのキスをした。
 葵の手が肩に触れてくる。
 少し唇を寄せると、葵から触れてきた。
 初めて教えたレッスンのキスをして離れていく。
「上手だ」
 抱き寄せて包み込むと、葵の手が背中に廻された。
「信じるから。純也を信じる。だから、もう、しない。切ったりしない。純也ゴメン。もう終わったことなんだよね?囚われてたらいけない」
 葵の心は繊細で脆いけれど、芯が強い。
 何度でも再生していく。
「もう過去のことだよ。忘れてしまっていい」
「うん」
 もう一度、葵にキスをすると、葵がしがみついてくる。


「葵君、返すのを忘れてた。ついでだから、新機種に変更しておいたよ」
 小池が朝迎えに来て、葵にスマホを返してくれた。
「ありがとう。ピクシーの新作、カッコいいね。赤の蓮を意識したのかな?ブラックに赤のラインがすごくいい」
 葵がニコニコと笑顔を見せる。
「葵君、すごく元気になって安心した」
「心配かけました。もう大丈夫です。新しいパジャマもありがとうございました」
「気に入ってもらえて嬉しいよ」
「あ、ねえ。僕の写真撮ってSNSに載せておく」
「CM効果ね」
「うん。企業さんにも貢献しないと」
「じゃ、それは僕がしよう」
 篠原が何枚か写真を撮ってメールで送ってくれる。一枚はラインで文字も書いてある。『愛してる』頬が熱くなる。
「なになに?」
 小池が画面を覗きこもうとしてくるのを、するりと躱して、メールで送られてきた画像をSNSに貼り付ける。
『おはよう!今から学校に行ってきます!ピクシーの新作に変更☆めちゃカッコいい☆』
 すぐに反応が返ってくる。
 いいねとリツイートボタンがくるくる回って行く。
 通知はオフにしてるから、スマホが鳴ることはない。
「朝からいい仕事してるな」
「しばらく休んだから」
「じゃ、出発するか?」
「学校での呼び方どうしよう?名字だとバレそうだし、名前呼び捨てだと年上に失礼に思われる」
「それなら純也さんでいいだろう?」
「うん。わかった」
 葵が最初にわたした金髪にシルバーフレームの眼鏡をはめている。
「僕に付き合わせてごめんね」
「これも今の僕の仕事だ」
「うん」
「じゃ、行きますよ」
 小池が先に歩いて行く。
 葵の横には篠原がいる。


「わぁお」
 大学に行くと、史郎がびっくりした顔をしていた。
 唇に指を当てると、史郎は頷くだけで何も聞いてこなかった。
「ノートのコピーたまってるぞ」
「ごめん。また一週間入院してたんだ」
「今度はなに?ああ、詮索はなしだった。葵はもっとげーのーせーじんの自覚を持て」
「はーい」
「その手首の包帯は、まだ新しいな」
 葵は頬を膨らます。
「で、ノートのコピー代は?」
 大量のコピー用紙が机に載せられる。
「ありがとう」
「また教授の部屋でしてきたから無料だよ。休むときは連絡寄越せ」
「ごめん。今回もトラブル続出で」
「それで、護衛付きの登校なんだな?」
「そういうこと」
 篠原はクスクス笑いながら、二人の会話を聞いている。
「なんか授業参観に親が来た気分だ。一枚写真撮るぞ。和也さんに送ってやろう」
「また和也さんか」
「俺たちラブラブだから、情報交換は頻繁なんだ」
 すぐに通知が鳴って『俺も行きたい』と返ってきた。
「もう、二人の世界にいていいよ」
「葵が休んでる間も、ずっとラインしてたから暇はしてなかったぞ。寂しかったけどな」
「史郎」
「二号館のカフェでケーキつけて、アイスミルクティーな」
「わかった。今日は先約があるから明日でいい?」
「いつでもいい。俺はいつも暇だから」
 葵と会話しながら、ずっとスマホを操作している。
「そんなにラインしてて、和也さん仕事してるのか?」
「隠れてしてるって、いつも言ってる」
「クビにならなきゃいいけど」
 葵はふわっとあくびをする。
 薬を飲んでいるので、とても眠い。
 今度の診察の時、薬を止めてもらおう。
 もう取り乱したりしない。
「先生来たぞ」
「ほんとだ」
 最後に一文打ち込んで送ると、通知音を消してスマホを鞄にしまった。


「ただいま帰りました」
「こんにちは」
 事務所を訪ねると三木が笑顔で出迎えてくれた。
「いらっしゃい、葵君。社長は社長室で待ってるわよ」
「はーい」
 社長室に向かうと小池も篠原も一緒に着いてきた。
 扉をノックすると社長が扉を開けてくれる。
「お帰り、葵」
「ただいまです」
「お昼はまだだろう。四人で鰻食べるぞ」
「今日は四人なんですね」
「さあ、座りなさい」
「はい」
 篠原を見上げると、篠原は微笑み返してくれる。
 葵と篠原が並んで座った。葵の前に小池が座って、葵の斜め前の一人掛け用の椅子に社長が座った。
 事務員の三木が扉をノックして、温かいお茶を持ってきてくれる。お代わり用のやかんのような急須を置いて行くのは、この事務所の名物だろう。
 夏は麦茶、秋冬は温かいほうじ茶だ。
「鰻とどきましたよ、小池さん、手伝ってください」
「はーい」
 小池が飲んでたお茶を置いて、部屋から出ていく。
 小池と三木が部屋に入ってきた。
 以前、篠原を取り戻す前に食べさせてもらった鰻だ。
 小池がテーブルにお重を置き、三木がお吸い物を置いてくれる。
 三木が部屋から出ていくと、社長が『食べなさい』と言った。
「いただきます」
 三人で手を合わせると、お重の蓋を開けた。
「わあ、前と同じ特上だ」
「今日の葵は食欲があるのか?」
「おなかペコペコです」
「元気になってなりよりだ」
 社長が篠原に微笑みを向ける。
「いっぱい食べなさい」
「はい」
 食事が終わると、篠原が薬を手渡してくれる。
 お茶で飲んでいる間に、小池がお重とお吸い物のお椀を片付け始めた。
 テーブルの上がお茶だけになる。
 社長が席を立って、机の中から一枚の紙を持ってきた。
 小池が席に着くのを待って、紙を葵の前に置いた。
「なんですか、これ」
「脅迫状だ」
『ドラマの降板をしないと命の保証はない』
「怪盗山猫ですか?」
「そうだ。葵はどうしたい?」
「こんなの、別に気にしません。ただの悪戯でしょう?」
「今回はそうじゃないかもしれない。葵は既に誰かに襲われてる」
「あっ」
「思い出させてすまない。今は篠原君と小池に護衛をさせているんだ」
「それで大学まで篠原さんが来たんですか?」
「そうだよ」
「誰かに狙われても、ドラマを続けるか?止めるか」
「でも、一億円のCMがドラマに付属してついてますよね。ドラマ止めたら違約金が発生してきます」
「その通りだよ。これは事務所をひっくるめた喧嘩だ」
「それならやるしかないです」
「父親役の臼井と臼井のマネージャーの話では、稽古は苦戦しているようだ。月のシンフォニーの川島卓也君だったね。あの子が足を引っ張っているらしい。読み合わせで躓いているようだ。葵が休んでいる間、少しも練習が進んでいないと言っていた」
「僕が今、復帰しても、間に合うんですね」
「そうだ」
「それなら、僕はこの挑戦状に屈しません」
「昨日まで死にそうな顔をしていたのに、何があった?」
「昨日、自殺しました。弱気な僕はそこで死んだんです。篠原さんが生き返らせてくれました」
 社長に手首を見せる。
「篠原君、傷はどうなんだ?」
「自宅で手当てできる程度です。カミソリの傷ですが、深刻な深さではありません。場所が手首の皺に重なるので傷は目立たないと思います」
「社長、この脅迫状、写真に撮ってもいいですか?」
「構わないよ」
「葵君、SNSには上げないほうがいいよ」
 小池が控えめに声を上げた。
「他にも何かあるんですか?」
「あるが、見せられない」
「僕がレイプされているときの写真か動画ですか?」
「写真だ」
「見せてもらってもいいですか?心は痛くなるかもしれませんが、犯人の姿を覚えておきたいんです。また襲われないように」
 社長は腕を組んで難しい顔をしている。
「篠原君、どう思う?」
「葵は頑固ですから、言い出したら聞きません」
「それでもな。せっかく葵が元気になったのに、ショックを与えるのはよくない」
「自分に何が起きたのか、すべて知りたいんです」
「そこまで言うなら、見たらいい。小池出してやれ」
「はい」
 小池は立ち上がると、いったん部屋から出て行ってタブレットを持ってきた。
「社長、机開けます」
「構わないよ」
 小池は引き出しからSDカードを取り出すと、それをタブレットに入れて持ってきた。
 社長が立ちあがる。
「小池、私たちは席を離れよう。篠原君、頼むよ」
「はい」
 小池からタブレットを受け取ると、小池は社長を追いかけるように部屋を出て行った。
 葵は操作して写真を表に出す。
 一枚ずつゆっくりと見ていく。
 篠原が葵の肩を抱いてきた。
「無理はするなよ」
「うん。人の体だと思って酷いことしてる」
 すべてを見終って、もう一度最初から見ていく。
「この後ろ姿、卓也さん?」
 舞台の上で土下座してきた卓也の姿が瞼の裏に映る。
 何度も見直して、その背中を追っていく。
 タブレットを置いて、スマホを取り出した。
 月のシンフォニーで一番年上の裕久のラインに文字を打ち込んでいく。
『お久しぶりです。唐突ですが、卓也さんが移籍した事務所わかりますか?』
『お久しぶり。葵、元気か?卓也の事務所はカズハプロダクションだよ』
『元気です。ありがとうございます。また連絡します』
「純也の前のプロダクション、カズハプロダクションだよね?」
「そうだ」
「卓也の移籍したプロダクションもカズハプロダクションだって。この間やった舞台で卓也さんは僕を潰そうとして、わざとぶつかってきたり転ばせたりしたんだ。本番の舞台でも、ずっと狙っていたって千秋楽が終わったあと、僕に謝罪してきたんだ。僕に怪我させて潰せって事務所から命令されたって言ってた。この背中、卓也さんに見えるんだ」
 スマホを置いてタブレットを撫でる。
「卓也君のDNAもらっておいで。友達を疑うのは辛いだろう?はっきりさせれば、気持ちも楽になる」
「うん、そうする」
 写真を閉じて、タブレットをテーブルに置く。
「僕が辞めて、ここに移籍したから、この事務所の葵に目をつけて潰しに来たのかもしれない。僕と葵の関係も知っているのかもしれない」
 ノックの音がして、棚の一部の引き戸が開いた。
「話は聞かせてもらった」
「社長」
「この部屋には隠し部屋があってね。そこで様子を見させてもらった」
 小池も社長のあとからついてくる。
「隠し部屋って、僕が昔、忍び込んで遊んでた部屋ですか?」
「そうだよ。忍者ごっこしてた部屋だ」
「油断した」
 葵は頬を膨らませた。
「まずは卓也君の唾液のついたものか、髪でも抜いておいで」
「怪盗山猫の稽古はいつの何時ですか?」
「明日の午後の13時からだよ」
 小池が答えた。
「授業が終わったら行きます」
「気を付けて行くんだよ」
「はい、社長」
「それから篠原君、篠原君は私がスカウトしたんだ。ちょうど無職だったからね。今は葵の付き人をしてもらってるが、篠原君は俳優として雇っている。いずれ俳優の仕事をしてもらうから、心に留めておきなさい。前の事務所のいざこざを心配する必要はない。わかったね」
「はい」
「もうひとつ。葵との関係を知られて葵が襲われたとして、君は葵への気持ちは変わるのか?」
「変わりません」
「それを聞いて、安心したよ。それじゃ、篠原君。葵を頼むよ」
「はい」
 篠原が答えると、社長は楽しそうに笑っていた。
「社長、楽しそうですね」
「売られた喧嘩を買うことができるんだ。そりゃ楽しいさ」
「悪趣味」
 葵が呟くと、社長の指先が額を弾いた。
「小池、生意気な坊やを送って行け」
「はい。それでは送って行きます」
「坊やってなんだよ」
 葵は社長に食って掛かる。
「葵、帰るぞ。社長から見たら葵は坊やだろうな」
「篠原さんまで、そんなふうに言うのか?」
「葵がオシメをしていた頃から知っていれば言いたくなるだろうな」
「純也まで僕を坊やって呼ぶの?」
「小池、うるさいから早く連れて行け」
 社長が笑いながら、声を上げる。
「葵君、喧嘩は家に帰ってからゆっくりして」
「小池さんもうるさい」
 小池に連れられて葵と篠原は家に帰った。
 その日、葵は台本を熟読してすべてを覚えて、立ち稽古も始めた。
 葵は何度も一人芝居をしている。
 人物によって声を変えるので、見ていて面白い。
 篠原はキッチンで食事の片づけと、翌朝の朝食と弁当の仕込みをしながら、葵の稽古の様子を見ながら笑っていた。


「監督一週間もお休みいただきまして、すみませんでした」
「肺炎はもう治ったの?」
(肺炎?そういう設定だって教えてよ。でもお尻の手術とは言えないよな。レイプだし。週刊誌の餌食になるだけだ)
 葵が女装していたために、ホテルの従業員は葵を女性だと思っているようだった。
「はい。まだ通院とかで抜けさせてもらうかもしれませんが、大丈夫です」
 警察は最初に荒井田のDNAのサンプルを取って事情聴取をしたと言っていた。
 葵の記憶は水木製薬のトイレまでしかないが、料亭まで行ったようだ。
 荒井田がトイレに立っている間に、葵の姿が消えたと言っている。しばらく待ったが戻ってこないので、一人で帰ったと供述した。防犯カメラで荒井田は一人で帰って行っている。
 葵は荒井田が帰る前に、一人の男性に抱きかかえられるように連れ出されていたらしい。
 どこで薬を盛られたか思い出そうとするが、撮影の時にオレンジジュースを飲んだきり、何も口にしていない。
 キャストの皆が並ぶ机の前で、葵は頭を下げた。
「おかえり」と拍手が湧きあがる。
 葵は臼井の横に座った。主役の場所だ。同じ事務所の臼井は事情を知っているので、心強い。
「葵、待ってたよ」
「臼井さん、よろしくお願いします」
「はいよ」
 反対を向いて卓也の顔を見る。
「卓也さん、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
 卓也の表情は硬い。
「川島卓也君。自主練はできてるかな?」
「はい、練習はしています」
「全員揃ったところで、初めから流します」
 初めの場面は葵のセリフだ。幼稚園での慌ただしい生活を演じる。保育士役の女性と恋人との言葉の掛け合いだ。テンポよく話が進んでいく。
『ただいま』
『おかえり、霞。いつまで幼稚園の先生なんて続けるんだ?』
 家は寂びれたバーでお客はいない。バーのマスターである鈴賀孝房は臼井が演じる。
 五十代の臼井は、よく刑事の役を演じる。渋くてカッコいい。声も低くて怒ると迫力がある。根は優しくて面倒見がいい。葵も子役の時から可愛がってもらっている。
『僕はまっとうな仕事をしたいんだ』
 葵演じる霞は気弱な泥棒だ。ただ腕はいい。腕がいいことを悲観している。
『俺たちの仕事がまっとうな仕事ではないと言うのかね』
『泥棒の仕事がまっとうな仕事だと言えるのか?父さん』
『あら、霞。霞ほどの素質を持った泥棒は世界中探してもいないわよ。ガキ相手の仕事なんかしてないで、もっと生きることを楽しんだら』
 霞の母、映見を演じる美月優は美魔女だ。とても四十代には見えない美貌と色気のある演技をする。
『母さん、僕は泥棒なんてしたくない。幼稚園の先生も楽しい仕事なんだ』
『副職で幼稚園の先生もしていていいけど、本職の泥棒の仕事はきちんとしなさいね』
『もう、母さん』
 葵は怒ったように声を出す。
『次のターゲットは300カラットのダイヤがはめ込まれた王冠だ』
 臼井が楽しそうな声を上げる。
『まあ、素敵』
 三月が色っぽい声をあげる。
『持ち主は不動産会社を経営している橋詰多門』
『う、うらの顔、顔はオレオレ詐欺のか、か・・・頭で、橋、はし詰が、所有する・・・マンション』
「川島君、台本を見ながら読んでいるだけなのに、どうして読めないんだ。もう一週間以上読み合わせをしているのに、君は本当に練習をしてきているのか?」
「すみません」
 今までスムーズだった読み合わせが、卓也のセリフから途切れてしまった。
 卓也を見ると、顔が蒼白になって目が泳いでいる。
「そろそろ立ち稽古に移らないと撮影に間に合わないんだよ」
「はい」
 監督が台本をテーブルに叩きつけた。
「台本持って川島君だけ来なさい。後は台本読んでいてください」
 監督に連れられて、卓也は部屋を出て行った。
 稽古場がざわつく。
「ずっとこんな感じなんだ。あの子は舞台をやっているんだろう?」
 臼井が顔を近づけて、小さな声で話しかけてきた。
「はい。僕と同じ月のシンフォニーやってます」
「どうして音読もできないのかな?あの子にセリフはなかったのか?」
「長いセリフは、なかったかもしれません」
「ガムの包みが置いてあるぞ。読み合わせの間、髪をずっと触っていたから、髪も抜けてるかもしれないな」
 臼井に言われて卓也の席を見ると、テーブルの上にはペットボトルの横にガムの包みと毛髪が二本落ちていた。
 葵はハンカチでガムを包むと、そのままテーブルを拭くように毛髪をハンカチに挟んで、用意していたビニールに入れた。
「小池を呼ぶか?」
「自分で連絡を入れます」
「早い方がいいんじゃないか?」
「はい」
 葵はスマホを取り出して、小池に連絡した。
 待機していた小池が、すぐに駆けつけてきた。
 隣に篠原もいた。
「僕は行ってきますので、臼井さんと篠原さん、あとはよろしくお願いします」
「おう」
「わかりました」
 篠原の手が葵の肩に載せられて、優しく肩を叩いて、「行っておいで」と臼井の方に体を押した。
「中では俺が見ているぞ」
「はい、お願いします」
 二人は何度も共演したことがある。
 篠原は臼井に頭を下げた。
 卓也を信じたい。
 信じるための検査だ。
 冬公演でまた五人で月のシンフォニーを演じるために、胸に湧いた不安は取り除いておきたかった。


「卓也さん」
 練習が解散になって葵は卓也に声をかけた。
「葵」
 卓也の視線は葵を見ていない。
「緊張してるの?よかったら残って一緒に練習する?」
「俺がダイコンだから、同情して言っているのか?」
「誰だって、初めてはあるよ。月のシンフォニーでは演じられていたじゃないか」
「俺にはほとんどセリフはなかったよ」
「でも、オーディション受かったんだろう?」
 卓也は微かに笑った。
「仕事の取り方はいろいろあるって、葵は知ってるか?」
「知ってるよ」
「何を知ってるって?」
 卓也の手が振り上げられて、葵は叩かれると思って目を閉じた。
 いつまで経っても痛みはやってこなかった。
「やめろ。手を離せ」
 卓也の怒ったような声が聞こえて目を開けると、篠原が卓也の手を掴んでいた。
「俳優が俳優を傷つけていいと思っているのか?俳優は商品だよ」
「わかったよ」
 卓也が葵から、少し距離を取ると、篠原は卓也の手を離した。
「体でも売ったか?」
 篠原の言葉に、卓也の顔が引き攣る。
「せっかく体を売ってまで取った役なら、しっかり演じなさい」
「うるせぇ、マネージャーの癖に偉そうな事言うな」
 卓也は荷物を持つと、部屋を出て行ってしまった。
 一度も目は合わなかった。
「帰るよ、葵」
「うん、卓也さん、一度も目を合わさなかった」
「明日また稽古あるだろう?それまでに、気持ちが落ち着けば。・・・取り返しのつかないことをしていなければ、また一緒に仕事ができる」
 翌日も卓也はひとつもセリフを言えなかった。
 卓也の代わりに、監督がセリフを言って全体通しをした。卓也は俯いたまま、置物のように座っていた。
 卓也の役はセリフも多い。葵との掛け合いも多く重要な役回りだ。
 翌日も卓也は、葵と視線を合わすことなく帰って行った。
 卓也のSNSは、一か月も更新されてないことに気づいた。
「葵君、社長が事務所に来るようにと言ってます」
「はい」
 篠原を見上げる。
 車に乗ると、篠原が話してくれた。
「脅迫状がまた届いたようだ。今度は葵のなくなった鞄が届けられたらしい」
 事務所に到着すると、警察も来ていた。
 葵の鞄もいつも持ち歩いていたストールやタオルも全部切り刻まれ箱に詰められていた。
『降板しないと殺す』
『命の保証はない』から『殺す』に変わっている。
 今度の箱は宅配便で送られてきていた。
 箱は警察が持ち帰った。
 箱を送った先の調査をすると言っていた。
「大丈夫か?葵」
 いつも隣にいてくれる篠原が気遣ってくれる。
「あんなに刻むの大変だったろうなと思って」
「葵君、そこ?」
 事務の三木が笑いだす。
「新しい鞄とストール買わないと」
(僕が取り乱したら、大騒ぎになる)
 社長が葵の肩を叩いた。
「新しいストールは私がプレゼントしてあげよう。これから冷えるからね」
「ありがとうございます。・・・帰っていいですか?」
「小池、送って行け」
「あいあいさー」
 篠原の手が葵の肩を抱いた。
 気づかないうちに、体が震えていた。


 病院の予約日に診察を受けて、精神科の薬は一度に切ることができないので、軽い物に変わった。
 お尻の検査はどうしても恥ずかしい。
 診察を終えると、篠原も診察室に呼ばれた。
「傷はずいぶんよくなってきましたが、セックスはまだ禁止です。継続で薬を出しておきます。次の受診は一週間後です」
「はい」
「手首の方も診ていただけませんか?」
 篠原が頭を下げた。
「いいですよ」
「もう一週間も経つよ」
 看護師が包帯を解いて行く。
「うん。綺麗についてきてるね。何で切ったの?」
「カミソリです」
 篠原が答える。
「血管切らなくてよかったね」
 消毒をしながら、傷の深さを確かめている。
「傷が残らないように、保護テープをもらえませんか?」
「傷がまだじくじくしてるから、テープはもう少し傷が塞がってからがいいね。傷薬とテープを出しておきましょう」
「ありがとうございます」
 手当をしてもらって、待合室に行くと小池が待っていた。
「次は警察ですよ」
「はい」
「会計と薬は後で僕が来ますから、行きますよ。社長も向かったそうです」
「はい」
 葵は篠原の腕を掴んだ。
「大丈夫、葵は一人じゃない」
「うん」


「鑑定の結果DNAが一致しました」
 葵は篠原に凭れかかった。篠原の手が葵の肩を抱く。
「身柄は先ほど確保しました。これから尋問します。仲間は必ず吐かせます」
「会うことはできますか?」
 どうしてこんなことをしたのか、卓也に聞いてみたかった。
「できません」
「葵、無理を言っては駄目だよ」
 社長が宥める。
「卓也さんが僕を犯したなんて信じたくない」
「気持ちはわかるが、DNAが一致したんだ」
「店にあった防犯カメラの映像と照らし合わせましたが、悠木さんを連れ出したのは川島卓也だと思われます」
「そうですか」
 葵は手を握りしめる。
 五年間仲間として一緒に創り上げてきた月のシンフォニーが崩れていく。
 握りしめた手を包むように、篠原の手が重なる。
「今日は稽古あるのか?」
「はい。この後、合流予定です」
「葵に食事を与えないのか?小池」
「いえ、えっと。コンビニでおにぎりを?」
「食事をしていこう。葵、食べられるな」
「・・・はい」
 篠原に手を握られて、返事をした。
「小池、葵にコンビニのおにぎり一個で済ませるな。また栄養失調になるぞ」
「すみません」
 社長に連れられて、中華料理のランチをご馳走になった。
 個室なので、人の目を気にする必要はない。
「葵、辛いことがあったときほど、しっかり食べなさい」
「力に変えるんですね」
「そうだ」
「はい」
 悲しくても、料理は美味しかった。
「犯人が逮捕されれば、葵の事件も明るみになる」
「はい」
「レイプされたと騒がれても耐えられるか?」
「僕は結果しか知りませんから、何も答えません」
「ノーコメントでいい。事務所もコメントはしない」
「はい」
「篠原君、しっかり支えてやってくれ」
「はい」
「小池はしっかり二人を守れ」
「らじゃーです」


 篠原と小池に守られて稽古場に到着すると、監督だけが残っていた。
「川島卓也が逮捕された」
「はい」
「知っている顔だな。葵が休んでいた一週間と川島卓也の事件は繋がっているな」
「はい」
「葵の隣にいるのは、変装しているが篠原君だろう?」
「ご無沙汰しています」
「見かけて、すぐにわかったよ。事務所の移籍で葵と同じプロダクションになったことは知っていたからね」
 監督が座る椅子から立ち上がると、葵たちに近づいてきた。
「鈴鹿陽役が空席なんだが、篠原君、やらないか?」
「まだ社長から俳優の仕事をしていいと言われていません」
「一緒にやろう」
 葵は篠原の腕を掴んだ。
「僕は君の演技が好きなんだよ。君が演じたら、鈴鹿陽の役が輝く」
 監督は篠原の顔をずっと見ている。
「僕の一存では何も答えられません」
「わかった。社長には僕からお願いしよう」
 葵の顔に笑顔が浮かぶ。
「僕はいろいろ問題を起こした役者です。使っていただけるなら、一生懸命演じさせてもらいますが、その前に、上の方たちと相談なさってください」
「もちろんだよ。これから相談してくるよ」
 篠原は深くお辞儀をした。
 葵も慌てて、お辞儀をした。
 監督は稽古場から出て行った。
「純也、共演できるかもしれない」
「まだわからないよ」
「きっとできる」
 葵は篠原の胸に抱きついて行った。
「葵、小池さんがいるよ」
「小池さんも抱きつく?」
「いえ、抱きつきません」
 小池は後ろを向いていた。


 葵の体内から検出されたDNAは四人。一人は卓也だった。卓也はずっと黙秘しているらしい。
 卓也が空けた役は、篠原に回ってきた。
「純也、読み合わせしよう」
 食事を食べて入浴を済ませると、葵は篠原の腕を引く。
 葵の稽古場であるリビングで立ち稽古をする。
「いいけど、葵。宿題はいいのか?」
「学校で片付けた」
 葵は史郎とふざけながら、いつも手は動いている。
 時間を無駄にしない勉強法を自分なりに身に着けているのだろう。
 葵の余暇は、ほとんどが芝居だ。テレビを見たりDVDを見たりしない。
「稽古場で十分しただろう?少しは休んだらどうだ?」
「純也は僕の楽しみを奪うの?」
「葵に付き合っていたら、ずっと仕事をしていることになるぞ。明日の朝食と弁当の下準備をしたいんだが」
「じゃ、僕が演じるから、純也のセリフのところだけ、台所で演じて」
 セリフは今回も全部暗記しているのか、一人芝居を始める。
 稽古で立ち稽古が順調に進んで、葵に演技指導も入っている。
 明日から撮影も始まる。
 葵は体を動かしながら、セリフを言っていく。
 決めポーズも様になっている。
 葵の男の色気が前面に出ている。
 前回のドラマの赤い誘惑では、色っぽい若奥様を演じたが、今度はスピード感もあるスタイリッシュでカッコいい役だ。
 声も普段の声だ。
 リビングでアクションの練習も始めている。
『痛い』と言って屈んでしまった動きも、今ではできている。体も回復してきている。
 第一話を演じて、葵はキッチンに走ってくる。
「純也どうだった?」
「体、柔らかいな」
「うん。3歳の時から中学に入るまでバレエと体操も習っていたんだ。うちの親、なかなかのスパルタで仕事してない時間はいろんな習い事尽くしだったんだ」
「葵は英才教育されていたのか、なるほどな」
「テレビは見る習慣はなくて、自分の演技を見直すための道具なんだ。純也テレビ見たかったら、テレビ線に繋げて」
 篠原は笑うしかない。
 確かに葵の部屋でテレビは見たことはなかったが、線も繋がってないとは知らなかった。
 カップに温かいお茶を淹れて葵に出してやると、嬉しそうに飲んだ。
「お風呂入ってくる。純也も入る?」
「体、流してやろうか?」
 顔を赤くして頷いた。


 お風呂に入って抱き合う。
 泡まみれで互いの体が滑る。
「んっ」
 キスを交わしながら、篠原の片手が葵と篠原の欲望を握っている。
「純也、気持ちいい」
 互いの先端が擦れあって、篠原の大きな手が二つの欲望を高めていく。
「僕も気持ちいい」
 葵の後腔に入れられなくなってから、二人はお風呂で欲望を高め合っていた。
 唇が離れると、篠原は二つの肉棒から手を離して、葵の欲望を高めていく。
「純也、一緒がいい」
「葵が僕のに触ればいい」
 葵より大きな篠原の欲望に指を絡める。
 篠原がするように真似て高めていく。
「うまくなったな」
「でも、純也、もっと手加減して。純也のできなくなる」
「もうイキそうか?」
「うん」
 篠原は互いの欲望を突き合わせた。
 穴と穴が重なる。
「何するの?」
「いいこと」
「っ」
 その瞬間、葵の中に篠原の精液が入ってきて、葵は篠原にしがみついた。
「純也、今のはだめ」
「葵の中に入れたい」
 するりと篠原の手が、葵のお尻を撫でた。
「入れてもいいよ」
「駄目だよ。まだセックス禁止だ」
 篠原は自分の欲望を扱くと、また葵の先端と合せた。
「あああっ」
 体の中に篠原の精液が入ってくる。
「純也、だめ」
 今度は葵の欲望を握ると括れをなぞり、芯を擦って高めていく。
 すぐに解放がやってくる。
 二人分の精液が互いの間に流れていく。
「また葵の中に入れたい」
 篠原は自分で高めて、先端をぴったりくっつけた。
「あああっ」
 精液が逆流する。腰が震える。
「葵、すごく色っぽい顔してる」
 篠原は葵の欲望を握って高めていく。
 葵の体が、篠原に凭れかかる。
 篠原の腹に吐精して、そのまま抱きつくと、篠原がキスをしてきた。
 葵の目がとろりとしてくる。
「眠いか?」
「このまま眠りたい」
 篠原は体を離すと、シャワーを出して互いの泡を流していった。
「ベッドまで起きてろよ」
「もう寝る」
 体を拭われると、葵はその場で座り込んでしまう。
 葵は子供のように、ぎりぎりまではしゃいで、すぐにどこでも寝てしまう。
「ほらパジャマ着て」
「うん」
 下着とパジャマを着ると、そのまま眠ってしまった。
 急いで体を拭いて、パジャマを着ると、床に横になって眠ってしまった葵を抱き上げて、ベッドに運ぶ。怪我の手当をして葵の体に毛布をかける。
 中学から一人暮らしをしてきた葵は、いったいどんな生活をしてきたのだろうかと、想像すると、床で眠っている姿しか思い浮かばなかった。
 いつもこの季節は熱を出すと言っていたことを思い出す。
 篠原と同居して、葵の顔色がよくなったことを考えると、あながち間違えではないのだろう。
 社長が葵との関係も同居もすんなり受け入れた理由も、そこにあるのかもしれない。


 第一話の収録には、荒井田が顔を出した。
「コラボCMお願いできるかい?」
「はい。今ですか?」
 怪盗山猫の衣装を着た葵に目薬をわたす。
「セリフは考えてきたんだよ」
 薄い台本をわたされて、目を通す。
 篠原は葵の横にいる。
「よかったら、飲み物の差し入れを持ってきたんだが」
 葵の手にストローの刺さった紙コップを手渡された。
「みなさんもどうぞ」
「ありがとうございます」
 テーブルに置かれたジュースを皆が手にする。
「葵君も飲んで」
「いただきます」
 葵はジュースを持ったまま台本に目を通す。
「この通りに演じればいいんですか?簡単な手品を入れましょうか?」
「できるのかい?」
「簡単なものなら」
「練習は必要かな?撮影は明日でもいいが」
「今できます」
 荒井田はカメラマンを連れてきていた。
 目薬のCMで葵を撮った人だった。
 ジュースを皆に配って、急いで駆け寄ってくる。
「じゃ、お願いします」
 葵は、ストローに口をつけたフリをして、篠原に手に持っていたジュースを手渡す。
 耳元で小さく囁く。
「あの日、僕はこのジュースを飲まされた。このジュースしか飲んでない。持っていてくれる?」
「飲まないほうが賢明だ」
 第一話のセットを使って演技をしていく。
 セットは寂びれたバーの室内だ。
 バーの中を歩いて、椅子に座る。
『猫の目も目が疲れる。どこにやったかな?』
 簡単な手品で、隠してあった目薬を手の中に現すと、スマートに目に目薬を入れる。
『スッキリ』
 国宝級と言われている、最高の笑顔を披露する。
「はい、OK。社長、撮影映像の確認お願いします」
「すごいね、一回でOKもらえる子は、滅多にいないよ。笑顔も爽やかで素敵だった」
 カメラチェックをして、荒井田はOKを出した。
 口出しを出させるような演技はしない。
 持ってこられた台本はしょぼいが、それに口出しする必要もない。
 一億円の仕事はやり終えた。
「今夜食事でもどうかな?」
「すみません。撮影中は練習があるので、どなたともお付き合いはしませんので」
 葵は丁寧に頭を下げた。
「そういえば、最初に食事に誘った時、急にいなくなって心配したよ」
「あ、あれは、申し訳ございませんでした」
「警察にも呼ばれてね。DNAの提供までさせられたよ」
「ご迷惑をおかけしました」
「何かあったのかい?」
「暴行事件に巻き込まれまして」
「怪我はなかったようだね」
「ええ。大丈夫です」
「そうか、よかったよ。心配はしていたんだが、私も忙しい身でね」
「撮影状態の見学は、お忙しかったら来られなくても大丈夫ですよ。手を抜いたりしませんので」
 葵を見る荒井田の視線は、嫌いだった。
 体のラインの出る衣装は、バレエで身に着けていたが、荒井田の視線は体を這うようで気持ちが悪い。
 あの事件の先入観かもしれないが。
「葵、セリフの確認をしたいんだが、撮影が終わったのなら、仕事に戻れるか?」
 篠原はわざわざ仕事を強調した。
「はい。撮影は終わりました。荒井田社長、ありがとうございました。それでは失礼します」
 丁寧に頭を下げて、篠原と別部屋へ移動していく。
「純也、少し仮眠をしてもいい?」
「眠いのか?」
「薬を飲むと眠くなるんだ」
 社長が買ってくれたカシミアのストールを肩にかけると、首もとまでしっかり合わせる。
「寒いのか?」
「少し寒気がする」
 綿毛布を取り出し、篠原は葵を包む。
「見ていてあげるから、眠ってもいいよ」
「さっきのジュース、どうした?」
「小池さんに渡しておいた。車に置いてくると出て行ったぞ」
「うん」
 葵は篠原に凭れるように、目を閉じた。
 すぐに寝息が聞こえてくる。
 小池が慌てて戻ってくる。
 葵の寝顔を見て、小池が安心したように微笑んだ。
「僕は中学時代の葵君から見てきましたが、寝顔はあの頃と変わらないですね」
「葵はどこでも寝る子じゃなかったか?」
「そうなんですよ。葵君はチャイムを鳴らしても出てこない子なので、直接部屋に入ることが多かったんですが、床で眠っていて、しかも熱も出していて、毎年、秋から夏までは目が離せない子なんです。今でも床で眠ってしまうんですか?」
「毎晩運んでいるよ」
 小池がくすくすと笑う。
「篠原さんは、葵君に追い出されなくて、子守り役に最適です」
「子守り役ね」
 足音がして、篠原は唇の上に人差し指を当てた。
 小池が頷いて、寝たふりをする。
 篠原も目を閉じた。
 扉が開かれて、誰かが入っていた。
 まっすぐ葵の前まで歩いていく。
 手にキラリと光るものが見えた。
 男の手が葵の肩を掴もうとした瞬間、篠原は手刀で男の手から刃物を落とした。
 小池が背後から男の体を押し倒す。
 マスクを剥がすと、葵を撮影していた男だった。小池が男の髪を掴んで引っ張っている。
「痛い、痛い」
「誰の差し金だ」
「お前ら飲まなかったのか?」
「ジュースなら飲まなかったよ」
 目の前の騒ぎで、葵が目を覚ました。
「あっ」
「葵、ロープを取ってくれるか」
「はい」
 小道具の入った箱の中から、ロープを取り出すと、取り押さえられている男の手首に巻いていく。途中から篠原が変わって、ロープを強く締め付けて縛った。
「この男の髪が手にいっぱいついてる」
「小池さんのカバン開けるよ」
 ビニールのパックから一枚取り出すと、ビニールの口を開けた。
「葵君、ありがとう」
 葵は首を振る。
 小池はスマホを取り出すと、警察に連絡した。
 床に落ちているナイフを見つけると、体がすくむ。
 篠原が葵の目を塞ぐように抱きしめてきた。
「葵、稽古場の様子を見に行きたいんだが」
「僕も一緒に行く」
 篠原の腕にしがみついて、稽古場に行くと、皆が眠っていた。
 篠原がポケットからスマホを取り出して、その光景を写真に撮った。
 そのまま救急車に連絡する。
 新井田の姿は、そこにはなかった。


 カメラマンが二人目のDNAと一致し、葵を殺害するつもりで忍び込んだと供述した。
 現場にいた皆に睡眠薬を混ぜたジュースを飲ませたのも、自分だと答えた。
「僕は荒井田社長に、犯されているような気がするんです」
「なぜ、そう思うんだい?」
「女装した僕の胸を掴んできたし、お尻も触られました」
「それだけじゃ、証拠にならないよ」
「今日、皆に配られたジュースは睡眠薬が盛られていました。僕は撮影の時、同じ容器のジュースを飲みました」
「今日の薬物との照合はしますが、すぐにはわかりません」
「はい」
「ほかに何か言いたいことはありますか?」
「今のところありません」
「それでは事情聴取は終わります」


 葵は警察に連れられて、篠原の待つ待合室に入っていった。
 社長も小池も待っていてくれた。
「怪我がなくて安心した。篠原君も小池もよくやってくれた」
 二人は軽く頭を下げた。
 葵も、二人に頭を下げた。
「僕は荒井田にも犯されているような気がするんだ。見つかったDNAは四人分だった。でも、荒井田のDNAとは一致しなかった」
 葵は自分の体を抱きしめる。
「どうしよう、怖い」
 篠原がすぐに葵の体を抱きしめる。
「純也、また犯されたどうしよう。あの荒井田社長が怖い」
「荒井田社長とカズハプロダクションの関係は、何か掴めましたか?」
「いいえ。ただ、川島卓也君は今回の役をとるために、体を売ったと言っています。誰と関係を持ったのかまでは口を閉ざしていましたが、根気よく聞き出していたところ、荒井田社長と体の関係にあったことがわかりました。川島君はなかなか口を割らないが、あの子はすべての犯行を知っています。地道に口説いていきますが、時間がかかると思います」
「卓也さんは、どこにいますか?」
「この建物の中にいますよ」
「外で歌を歌っても聞こえますか?僕たちの、僕たちが五年もかけて築き上げてきた舞台の音楽を聞かせたい」
「それなら、こちらにおいで。面会はできないが、歌を聴かせることはできる」
 格子がしっかり付けられた扉の前まで案内されると、葵は月のシンフォニーの音楽を二曲歌った。
 舞台の楽しかったこと、苦しかったことを全て載せて、卓也に届けたいと思った。
 歌い終わった後、葵は警察を後にした。
「今日はフランス料理でも食べていくか?葵においしいワインを飲ませてないからな」
「食事だけで充分です」
「卓也君には葵の気持ちは届くよ。葵は気落ちしないように」
 社長は葵に甘めのワインを頼んでくれた。
 透き通るような白ワインだ。
 篠原の前にも白ワインが置かれていた。
「小池は運転手だから土産で買ってやるな」
「はい」
 社長の前にもワインが置かれていた。篠原と同じ白ワインだ。
 白ワインは渋いものだという先入観があったが、口にしたワインは香りもよくて甘くおいしかった。


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