気高く咲く花のように ~モン トレゾー~

綾月百花   

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気高く咲く花のように ~モン トレゾー~ 1話

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「何度も言っておくが、この貸しはコンビニのプリン一個や二個で済むようなものじゃないんだからな」
 薄化粧を施した顔は端正で、淡いピンクのルージュを引いた唇は、少し小さめで愛らしい。
「分かってるよ、そんなこと。でも、こんな無茶を頼めるのは葵をおいて他にはいない」
 猫目がちの目には淡いアイシャドーを手慣れた仕草で引いて、ロングヘアーのウイックを被ると、どこからどう見ても上品な令嬢の出来上がりだ。
 生まれたときから芸能界入りして、芸歴も誕生日を迎えて二十年となった。
 舞台で培われたメイクの知識を女装に使うとは、俳優で大学二年生の悠木葵も思ってもみなかった。
 身に着けているのは稲生史郎が用意した清楚なワンピースだ。
 悪ふざけで高校三年生の文化祭でメイド喫茶をしたときの写真を、親友の史郎にマッチングアプリの写真に使われていたと知ったときは、さすがに呆れを通り越して腹が立ったが、すぐにアプリを削除し、心から謝罪した史郎の思いつめたような顔と涙にほだされてしまった。
「で、どうするんだよ?僕は史郎の相手の鈴村和也って人の顔も知らなきゃ、おまえがどんな話題で盛り上がって、会う約束をしたのかも知らねえよ」
「読んでもらってもいいよ。ほらライン」
 ちらりと見たスマホの画面には、好きだの会いたいだのの文字の羅列。
「そんなの読みたくないよ。ざっくりと話してくれればさ」
「読まれるのは、ちょっと恥ずかしいと思ってたんだ」
 もじもじとしながら言う史郎は、葵よりひとまわり小さい体型に、チワワのような面差しで男にしては可愛い部類だろう。
 それこそ葵が今かぶっているウイックをそのまま頭に載せたら女の子に見えるんじゃないかと思う。
 ただ葵は美人というイメージだが、史郎はどこまでも小型犬のような可愛らしさだ。
 写真とはかけ離れている。
「別にさ、出来心で違う写真載せてましたって正直に言えば済むことじゃないのか?」
「だって僕は男だし」
「それを言うなら、僕も男だよ」
「葵みたいに美人じゃないから」
 また、ほろほろと涙を流しだす。
 史郎とは幼馴染の腐れ縁で、幼稚園から大学まで偶然同じだ。
 葵も史郎が授業のノートを丁寧に書いてくれるお蔭で、授業にも遅れず進学できた恩もある。
 十分なほど貸しができているから、泣きつかれれば手を貸さざるを得ない。
「僕が行くから泣くな。だから、ちゃんと説明しろよ」
「うんうん」と頷きながら、洋服の裾で涙を拭っている親友は、すっかり恋する乙女だ。
 ティッシュボックスを持ってきて、渡してやると数枚を引き抜き、目元の涙を拭っている。
「名前は、鈴村和也。人材派遣の会社に勤めていて、見た目は俳優の篠原純也そっくりだ」
「俳優の篠原純也にそっくり?」
 また胡散臭い。
「相手も違う写真載せてたんじゃないのか?」
「和也さんは、そんなことしない。すごく誠実な人なんだ」
「和也さんね。それで史郎はどんなふうに呼ばれてるの?」
「葵ちゃん」
 頭を抱えたくなる。それはもう恥ずかしい。
 子役時代から知っている俳優仲間たちは、未だに葵を葵ちゃんと呼ぶ者いるが、初対面の人に呼ばれるのは、さすがに嫌だ。
「史郎は紅茶派だったよね」
「うん。アイスティーが飲みたい」
「ストレート?甘くするの?レモンとかミルクとか入れたりするの?」
「そうだった。この間、ミルクティーが好きだって、話したんだ」
「入れるのはミルクだけでいいの?」
「甘くはしないんだ」
「そういうことちゃんと話してくれないと、わかんないだから」
「他に好きなものとか言わなかった?」
「ケーキが食べたいって」
「どんなケーキ?」
「イチゴのミルフィーユ」
「また、そんな食べづらいものを」
 パイ生地が何層にも重なったミルフィーユを上品に食べるのは難しい。
「だって、好物なんだもん」
 そうだった。
 史郎はミルフィーユをわしづかみで食べる。
 とっても美味しそうに。
 いっそ史郎の真似をしてわしづかみで食べてやろうか。
「葵なら上品に食べられるよね?」
 頭の中をのぞかれたようなタイミングで、史郎が腕にしがみついてくる。
「わかんねぇ。そんなのあんまり食べないし」
 史郎の大きな目に涙がじわっと浮かんでくる。
「今日のデートはなにするって?」
「お茶飲んで、水族館行くんだ」
「好きな魚とかの話は?」
「ペンギンが好きって言った」
「そういうことは、自分から教えてくれないと、話が合わなくなるだろう?」
「ペンギンとイルカショー見ようって約束した」
「代わりに行くけど。結果がどうなっても僕に責任押し付けるなよ」
「行ってくれるだけでいいんだ。僕は傍から見てる」
 緊張しているのか、史郎は何度も頷いている。
「そろそろ時間だから、葵、お願いね」
「わかったから、そんなにくっつくな」
「葵の腕ってすべすべ」
 腕をさすられて、そっと史郎の手を掴んで離す。
 いくら親友でも、肌にべたべた触れられるのは好きじゃない。
「一応、僕自身が商品なんだよ。エステだって通ってる」
「そうなのか?そうだよな。げーのーせーじんだもんな」
 ぱちくりと目を瞬かせる史郎に苦笑が浮かぶ。
 史郎は昔から芸能人とは言わない。
 なんでか間延びしたげーのーせーじんと呼ぶのだ。
 まるでどこかのゲーマーのようだ。今はゲイなのか?
 葵は自分のマンションの玄関で、可愛らしいヒールを履いて、シューズボックスにある全身が映る鏡で最終チェックを行う。
(完璧におんなに化けてる)
「葵、すごく綺麗だ」
「ありがとよ」
「はい、バック」
「どうも」
 史郎が用意した洋服や靴、バックは、お小遣いで購入したものらしい。
 ブランド品ではないが、センスのいいチョイスだ。
 お店の人に相談したと言っていたが。
 全部プレゼントするからと、もらっても使い道はこの先ないだろう。
 そこに自前のショールをふわりと羽織る。
 初夏の季節は日差しが強い。
 仕事上の都合で日焼けはご法度。
 夏でも肌は晒さないようにしている。
「ほら、史郎。玄関出て。鍵閉める」
「いよいよ会える」
「はいはい」
 バックの中にマンションのカードキーを入れて、葵も玄関の外に出ていく。
 隣を歩く史郎の足取りは軽やかだ。
「和也さん、早く会いたいな」
「はいはい」
 そんなに会いたいなら、自分で会いに行けばいいのにと心で思いながら、隣を歩く親友を、そっと見守る。
 エレベーターがやってきて、ふたりで乗り込むと先に乗っていた住人が、じっとこちらを見てくる。微笑で会釈をすると、男は頬を赤らめた。
(本気でおんなだと思っていやがる)
 変装は完璧だ。
(さて、どうするかな?)
 できれば、本人同士で会えるようにしてあげたい。
 お互いに好き合っているなら、男同士でもうまくいくだろう。
(うまくいくかな?)
 自分の姿を見下ろし、やはりため息しか出なかった。


「お待ち合わせでしょうか?」
 待ち合わせのお洒落なカフェに入ると、ウエイターが声をかけてきた。
「はい。鈴村さんという方なんですけど」
「はい。お聞きしています。ご案内いたします」
「よろしくお願いします」
(ちゃんと来てるのか。約束の時間ちょうどなのに。これは相手も本気?気を引き締めて行かなくちゃ)
 お店は空席がまだある。
「こちらの席です」
 案内された席は、中央あたりで、あとで入ってくる史郎も見える席だろう。
 男性が立ちあがった。
「はじめまして、鈴村です。葵ちゃんだよね?」
「はじめまして。悠木葵です。和也さん」
 声のトーンはソプラノだ。変声期はあったが、ボイストレーニングで鍛えた声域は広い。
 ソプラノ、メゾソプラノ、アルト、テノール、バリトンを使いこなすことができる。
 そのお蔭で幅広い役をこなせる葵の武器だ。
 笑みを浮かべておじぎをする。
(とても嬉しそうに。会いたかったって伝わるように)
「さあ、座って」
「はい」
 すすめられて、鈴村の席の前に腰掛ける。
(え?本当に篠原純也そっくり。むしろ本物じゃないのか?)
 鈴村が照れたように笑った。
「じっと見られると恥ずかしいな」
「和也さんって、本当に俳優の篠原純也さんに似ていらっしゃいますね」
「そうかな?自分ではそんなに似てると思わないけどね」
 ウェイターが水を運んできた。
「葵ちゃんは、アイスミルクティーとイチゴのミルフィーユでよかったかな」
「はい。大好物なんです」
 鈴村はアイスミルクティーとイチゴのミルフィーユとホットコーヒーをオーダーした。
「写真で見るより可愛らしい人だね。それにとても美しい」
「そんな・・・恥ずかしいです」
 史郎が入ってきた。ちらりとこちらを見て、隣のボックス席に座った。
 アイスミルクティーくださいと小さな声が聞こえる。
「今日、会えるのをとても楽しみにしていたんです」
「俺もだよ。ずっと会いたかった」
(見れば見るほど、篠原純也にそっくりだ)
 篠原とは物心つく前から何度も仕事をしているし、今回のドラマも共演している。
 毎日のように顔を見ているが、同じ顔に見える。
 食い入るように見ていると、鈴村も視線を逸らさない。
(瞳の色も同じじゃないか。虹彩の色、コーヒー色してる。ほんとに、篠原さんじゃないのか?篠原さんであってもなくても、今はここの攻略。乗り切らないとな)
「毎日のラインの交換も楽しくて。時間を忘れてしまうほどなんです。ご迷惑ではなかったですか?あんなに毎日何時間もチャットしてしまって」
「迷惑だなんて思ったことはないよ。葵ちゃんと話していると時間を忘れてしまうんだよ。迷惑かけてないかって、俺も心配してたんだ」
 瞳を合わせて微笑むと、鈴村も微笑み返してくる。
(あの膨大なチャットを知っているのか?やっぱり篠原さんにそっくりなだけなのか?)
「思っていたよりも優しい方で安心しました」
「まだ会ったばかりなのに、安心して大丈夫かな?」
「和也さんは和也さんでしょう」
(シナリオなしの即興劇だ。相手のことを知らな過ぎて、何を話していいのかさっぱりわかんね)
「俺は俺だよ」
 鈴村が笑った。
 人のよさそうな優しい笑い方だ。
 ウェイターがトレーを持ってやってきた。
 コーヒーを置いて、アイスティーを置いた。
 小さなミルクポットとガムシロップをアイスティーの横に置く。
 難関のイチゴのミルフィーユが目の前に置かれた。
 何層にも重ねられたパイ生地の間に、生クリームとイチゴが挟まりトッピングには粉砂糖が雪のようにふりかけられ、生クリームの上にイチゴがのっかっている。
(イチゴは先に食べる派か、後で食べる派か聞くの忘れたぞ。いつもどうしてたっけ?そうだ、あいつ好きなものは先に食べる派だ。イチゴが先だな。違ってても誤魔化せばいいか)
「ごゆっくりどうぞ」
 微笑で軽く会釈をする。
「ここはミルフィーユが美味しいお店らしいんだ。葵ちゃんの口にあうと嬉しいな」
「わざわざ探してくださったんですか?」
「せっかくなら、美味しいものを食べてほしいと思ってね。お代わりしてもいいからね」
「いただきます」
 まずはアイスティーにミルクを注ぎ、ストローでかき混ぜる。
 ガムシロップは入れない。
 鈴原の視線が指先を追っているのが分かる。
 悪戯っぽく笑って、イチゴを摘まんでみた。
 どんな顔をするのか見てみたかった。
 ぱくりと口に入れて、へたを取る。
 ゆっくり咀嚼して、嬉しそうに笑う。
「とても甘いイチゴです」
「それは良かった」
 視線はずっと葵の所作を見ている。
 今度はフォークを持ち、できるだけ上品にミルフィーユを食べていく。
 さくりとした食感と甘すぎないミルフィーユは確かにお代わりできそうなほど美味しい。
 ただ想像以上に食べづらい。
「とても美味しいです」
「見ていてわかるよ。ほんとうに美味しそうに食べてる。食べ方も上品だね」
「じっと見られていると恥ずかしいです」
「ずっと会いたかった葵ちゃんが目の前にいるんだから、どんな仕草も見ていたいんだよ」
 鈴原の手が伸びてきて、そっと葵の口元を拭い、それを口に含んだ。
(え?)
「生クリームが少しついていたんだ」
 演技ではなく、顔が紅潮する。
 こんなことをされたのは、初めてだ。
 バレンタインデーではチョコをたくさんもらうが、葵は恋愛経験が全くない。
 ファーストキスも、もちろんエッチもしたことがない。
 彼女を作る・・・交際をする余裕のない生活を送っている。
「頬を赤く染めて、なんて可愛らしいんだろう」
「和也さん、あまりからかわないでください。私、男性とお付き合いしたことがなくて。どうしたらいいのかわからないんです」
 食べるどころではない。
 フォークを置いて俯いた。
 どんな表情をしたらいいのか、わからずに、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
(演技しろ。今まで積み重ねてきた経験を生かすんだ。とりあえず落ち着け)
「葵ちゃん、ケーキはもう食べないの?」
「いただきます」
 テイク、ツー!
 気持ちを切り替えて、笑みを浮かべた。
 ゆっくりとフォークを使いながら、ミルフィールの攻略を進めていく。
 最後まで綺麗に食べて、ホッとした。
 ミルクティーをストローで混ぜて飲むと、氷で少し薄まっていた。
 葵自身はミルクティーよりホットチョコ派だ。
「お代わりはいらないかい?」
「ええ、もうじゅうぶんいただきました」
(この食べづらいケーキをもう一個食べろと言われるのは勘弁してほしい)
 甘いものは嫌いじゃないが、この緊張感はどうにかしてほしい。
「それじゃ、そろそろ水族館にいくかい?」
「ええ、ちょうどよくイルカショーが観られるといいですね」
「今日は休日だからショーの回数も多いみたいだよ」
 目の前で鈴村が立ちあがった。
 慌てて席を立つ。
 外していたショールとバックを掴んでいるうちに、すっと会計の紙を鈴村が手に取った。
「私の分の会計、払います」
「ここは俺の顔を立ててくれないか?葵ちゃんは学生で俺は社会人だよ」
 さりげなく肩を抱かれて、エスコートされる。
(背の高さも篠原さんと同じくらいだ。本当に本人じゃないのか?本人なら女装を面白がるか、なにか言ってきそうな気がするが・・・)
 瞳を覗き込むようにじっと見ると、肩に置かれた手がさらりと頭を撫でてきた。
「綺麗な髪だね」
 ウイックはヘアメイクの佐々木に借りたものだ。
 撮影で使うものだ。
 たぶん高価なものだろう。
 手触りは普通の髪とあまり変わらない。
「お手入れも大変そうだ」
 すっと髪を掬い上げてキスをする。
「和也さん、恥ずかしいです」
「人前ですることじゃなかったね」
 ちょっと待っててねと言うと、カードで会計を済ませてしまう。
「ごちそうさまでした」
「今日はランチも夕食もご馳走するよ」
「え、そんなに」
「約束だっただろう?」
(聞いてないぞ、史郎のやつ!)
「ええ、そうでした。今日はよろしくお願いします」
(明日は仕事なんだよ。台本しっかり読みたいんだよ、どうしてくれるんだよ!)
 引き攣りそうな顔を笑顔に変えて、初々しくお辞儀をした。


「おい、史郎。こんなに遅くまで拘束されるなんて、聞いてなかったぞ」
「だって、言ったら葵怒るだろう?」
「断ってたよ」
「だから言えなかったんだよ」
「家まで送るって言うのを最寄駅まででいいと断るのが、どんなに大変だったと思ってる?」
「家バレしたら終わる」
「だから、頑張って説得して駅で下してもらったんだ。タクシーで帰ってきたけどな」
「ありがとー」
「家に帰る前に、史郎の家に寄って報告しないと会話がかみ合わなくなることまで心配してやって、わざわざ来てやったんだ。ききやがれ」
「で、デートどうだった?」
 喫茶店を出た後は、車での移動になったために、史郎は追いかけてこられなくなった。
 水族館までの道のりもタクシーを使えばできないことはないが、学生の身分ではそれもできない。
 バスと電車を乗り継いで行けば行けないこともないが、すれ違うことは目に見えて分かっていたので、史郎は健気に喫茶店で会うことだけを楽しみに今日という日を迎えたのだ。
「水族館でイルカショー見たよ。小学校の遠足で見たやつとほとんど同じだ。ペンギンの前で一時間も見てやった。じゅうぶんにペンギンが好きだって伝わっただろうさ。そうしたら、お土産売り場でペンギンのキーホルダー買ってくれたよ。最初はでっかいペンギンのぬいぐるみを買ってくれるって言うのを断って、一番小さな物にしてもらったんだよ」
 バックから小さな包みを出して、史郎に投げつける。
「大事なプレゼント投げるな」
 今にも踊り出しそうな顔をしながら、テープを綺麗に剥がす。
 小さな袋の中から小指の先ほどのペンギンがついたキーホルダーが出てくる。
「おおきなぬいぐるみでもよかったのに」
「そういうのは、自分で会えるようになってから買ってもらえ」
「なんで、そんな意地悪なこと言うんだよ。僕は一生会えないのに」
「一生会えないなら思い出もいらないだろう?」
「僕は葵みたいに顔も美人じゃないし、名前も史郎で可愛くないんだ」
「おまえは見た目、可愛いぞ。まるで子犬みたいにさ」
「フォローになってない」
「もういい。ちゃんと聞け」
 ランチに食べたもの。夕食のメニューと味つけ。食事中に交わした会話を全部話し終わったところで、史郎のスマホが鳴った。
「和也さんだ。ああどうしよう。すごくかっこよかったよね」
 史郎の目がキラキラしている。
「ああ、そういえば。髪にキスされたぞ」
「え、どこに?」
「髪を掬い上げて、チュってさ」
 髪をかきあげて、さらりと髪をおろすと、史郎が髪に手を伸ばしてきた。
「どこ?まんなかあたり?」
「どこかな?自分じゃ見えないし」
「キスさせろ。間接キスしたい」
「させるか、ばーか」
 抱きついてくる史郎を押しのける。
「帰宅できたことと今日のお礼。ちゃんと書いておけよ。僕は帰る。見送りはいらねぇけど、鍵はかけておけよ」
 スマホを大切そうに持っている史郎に軽く手を振ると、史郎の部屋の扉を開いた。
 史郎は実家暮らしをしている。
 家族構成は史郎が末っ子で、兄が三人いるが、三人とも独立して家を出ている。
 両親は共働きで、家には史郎だけだ。
 葵の両親は葵が中学に上がるときに、父親の仕事の都合で渡米している。
 一人っ子で、子役の時は母親がマネージャーのようについていたが、葵に専属マネージャーがついたので、父親と一緒に発って行った。
 今はアメリカで手芸教室を開いているらしい。
 葵は中学からは事務所借り上げのマンションで暮らしている。
 最初はマネージャーが、葵と同居したが、マネージャーが作る食事が激マズで、いびきも煩いので翌日出て行ってもらった。
 それ以来、気ままな一人暮らしだ。
 親代わりの社長には叱られたが、自分のライフスタイルを誰にも邪魔されたくなかった。
 大通りに出てタクシーを止めようと思っていたのに、史郎の家は閑静な住宅街だったことを忘れていた。
「タクシーいねぇ」
 歩きづらいヒールの高い靴は脱いでしまいたい。
 きっと靴擦れができている。歩くたびに足が痛いのは、人魚姫だったろうか?
 ひらひらと揺れるスカートも下半身がすかすかする。
「ああ、もう!早く家に帰りてぇ」
 バックを振り回しながら、葵は最寄駅まで急いだ。
 帰って靴を脱ぐと、血豆がつぶれて傷になっていた。
「撮影の前じゃなくてよかったーっ」


(靴擦れいってぇ)
 ふわりと出たあくびを台本で隠し、目を擦りそうになって、ふと手を止める。
(メイクしてたんだっけ)
 ほんのり薄いファンデーションと少し赤みのある口紅。
 頬にも淡い紅がさされている。
 ドラマ赤い誘惑の読み合わせだ。
 読み合わせなのに、なぜ自分だけメイクされたのか聞いてみたら、顔色が悪かったからだと、メイク担当の大原がクスクス笑った。
 借りたウイックを返しに行って捕まって遊ばれたというわけだ。
〈寝不足だよ!〉
 帰宅して入浴をすませたら、シンデレラタイムは過ぎていた。
 そこから、台本を読みはじめて、ひととおり頭に入れたら明け方だった。
 寝落ちしているところを、マネージャーの小池に起こされて現場入りしたが、いまひとつ目が覚めきれていない。
 台本の読み合わせは、稽古場の一室で行われている。
 事務用机が四角に並んでいて、主演から順に左右にくるりと並んでいる。
 準主演の篠原の弟役になる葵は、篠原の隣だ。
(それにしても、昨日会った鈴村とうりふたつだ。違うところを探すなら、人称が俺と僕の違いくらいしかみつからねえ)
「はーい。少し休憩いれようね」
 監督の杉浦が声を上げた。
 ぱたりと台本を閉じて、机に突っ伏す。
「大丈夫?ずいぶん眠そうだね」
 隣から声をかけてきたのは、準主演演じる篠原純也だ。
 だらしなく伏せていた体を慌てて起こす。
 大先輩相手に失礼になる。
 背筋をピンとさせて、篠原を見上げる。
「学校の課題が終わらなくて」
 間違ってはいない。
 学校の課題よりももっと面倒くさい。
 くすりと笑っただけなのに、篠原は無駄な色気があり過ぎる。
 雑誌で抱かれたい男ランキングの一位に選ばれているだけのことはある。
 去年は最優秀主演男優賞を受賞して、今や押しも押されぬ人気俳優だ。
 ちなみに葵は、ティーンズ雑誌でデートに誘いたい男ランキングの一位に選ばれている。
 年齢が八歳違うが、芸歴は同じ二十年。
 0歳でデビューした葵と8歳でデビューした篠原は、デビュー作が同じだ。
 もちろん0歳の葵にその時の記憶は全くないが、それ以後も仕事でよく組まされていた。
 先に大人になっていく篠原を見て、いつも篠原のようになりたいと思い続けるほど、篠原は俳優として輝いている。
 葵の憧れの先輩だ。
「僕も学業との両立は大変だったな」
「篠原さんでも大変だったんですか?」
「仕事してるから単位取れないとか言われたくはないだろう?」
「ですよね。僕もそこだけは気を付けているんです。単位は絶対落とさない。テストも高得点取れるように。再試になんてなったら、どんな噂をされるか考えただけでぞっとする」
「頑張ってるんだな、葵は」
「篠原さんができたことなら、僕にもできると思うんですよ」
「葵の目標は、僕かな?」
「はい。篠原さんは僕の目標の人です。篠原さんのようになりたいと思ってます」
「嬉しいな。葵の理想を崩さないように、僕も頑張らないとだね」
 リラックスをして、葵の方に体を向けていた篠原が、パチンとウインクを寄越す。
 ドキンと胸が鳴った。
(あれ、なんで?)
 無意識に指先が髪を撫でた。
 昨日キスされたその場所に触れて、頬が熱くなる。
「葵とは20年も一緒に仕事してきたからね。親近感がわくんだよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
 机に載っているペットボトルに手を伸ばす。こくこくと飲んで蓋を閉める。
(落ち着け自分。篠原さんと鈴村さんとは別人だろう?)
 篠原もペットボトルを引き寄せて飲んでいた。
 仕草ひとつひとつが様になる。
 大人の男の色艶がにじみ出ている。
 葵も二十歳になったが、まだ少年の面影が強い。
 器用さと芸歴の長さで、難しい役もこなすが、大人の役はあまり回ってこない。
 まだまだ子役を脱皮しきれていないような気がする。
「今日はずいぶんと色っぽい顔をしてるな。思わず食いたくなる」
「篠原さん、おなか減ってるんですか?飴なら持ってますよ」
 椅子の下に置いた鞄を取ろうとすると、その手をぎゅっと握られる。
 思ったよりも温かい大きな掌に、視線が釘付けになっていた。
 子役の頃はよく手を繋いでいたが、知らない間に葵よりずっと大きな手をしていた。
 男らしいがっちりとした手だが、指先はするりと綺麗だ。
 人に見られる仕事だから、お手入れもきちんとしているのだろう。
(僕も毎日お手入れしてるけど、負けないように綺麗にしよう)
 葵がじっと見ているのに気づいた篠原は、苦笑しながら手を離す。
「いや、腹は減ってないよ」
「はあ。メイクはメイクの大原さんが悪戯したんですよ」
「葵は昔からみんなに可愛がられているからね」
「遊ばれているだけです」
 クスクスと篠原が笑う。
(笑い方まで同じだ。もしかして双子の兄弟とか?)
「篠原さんって、双子の兄弟とかいますか?」
「双子ではないけど、姉がいるよ。それがどうかした?」
「いえ、ちょっと気になって」
 監督が立ちあがった。
「そろそろ始めていいかしら。寝ている人は手を上げて」
 みんながどっと笑う。
 今回もなかなかいい雰囲気のカンパニーだ。
 きっといいドラマが出来上がる。
 すっと背筋を伸ばして、台本を開く。
 室内が心地よい緊張感に包まれる。
「じゃ、最初の出会いのシーンから」
 監督の声で、篠原の艶のある声が室内に響きだした。
(ああ、美声。低くて綺麗な声)
 篠原との会話のお蔭で、頭が冴えて眠気は去っていた。
(眠くて、集中できてないの、気づいてたんだな)
 すごいな、この人。
 葵の篠原に対する評価は、どこまでも尊敬する憧れの先輩だった。
 

「葵ぃ、もう一回頼む。和也さんがまた会いたいって言ってきたんだ」
「断れよ」
「そんなこと言わずに、手伝ってよ」
「手伝うって?やっと自分で会う気になったのか?」
「それはまだできてない。和也さんとの縁を切らないでくれよ」
「このまま僕が代わりに会っても、恋の進展はないんだよ?そこんとこ分かってる?」
 大学の講義室だ。
「だって、だってさ。和也さんのこと好きなんだ」
「正体ばらして、自分で会いに行け」
 レポートだけ提出すれば単位がもらえる教科のノートを写している。
 原本は史郎のノートだ。
 さらさらと書き写しているページを捲ろうとしたとき、すっとノートを引き抜かれた。
「会いに行ってくれないんだったら、もうノート見せてやらない」
「史郎!卑怯な手を使うな」
「こういうことは、ギブ&テイクじゃないのか?」
「ノートは見せろ。時間がない」
 史郎の手からノートを奪う。
 ぺらりとノートを開いて、続きを書きはじめる。
 書くスピードは速いが、文字は綺麗だと評価されている。
「じゃあ、引き受けてくれるね?」
「言っとくが、僕は今すごく忙しいんだ。そこんとこちゃんと理解しろよな」
「忙しいのは知ってるよ。今日も午後から仕事なんだろう?」
「ちゃんと分かってるじゃないか」
「いつなら会える?」
 鞄からキャンディの袋を取り出し、葵の前にひとつ置いた。
 史郎は自分の口の中に入れる。
 手を止めて、キャンディの包みを開け口の中に入れて、しょぼくれている史郎の頭をがしがしと撫でてやる。
「相手は土日を希望してるのか?」
「いつでもいいって。僕に合わせるって言ってくれてる」
「仕事、そんなに暇なのか?」
「和也さんと仕事の話はしたことないよ」
「一度、しっかり仕事の話も聞いてみた方がいいんじゃないの?騙されてる可能性はゼロじゃないよ」
 手だけは急いでノートを写している。
「和也さんが僕を騙す?」
「史郎だって、和也さん騙してるだろう?」
「そっか、僕は和也さんを騙しているのか」
 史郎はしゅんと項垂れる。
「僕、フラれるのかな?」
 瞳が不安そうに揺れている。
 今にも泣き出しそうで、見ている自分まで切なくなってくる。
「あと一回だけ。あさっての十九時以降か明々後日の授業後。土日は残念だけど、どっちもしばらく埋まってる」
「ありがとう、葵。和也さんに聞いてみる」
「日付と時間が決まったら、早めに教えて」
 ちょうどノートを写し終えて、史郎にノートを返す。
 史郎のノートがないと、仕事の調整をしなくはいけなくなる。
 学校と仕事のかけもちは、正直きつい。
 まわりの協力なくては、とてもできないし、自分自身も忙しすぎてスケジュールの管理が大変だ。
 次の授業が始まる。
 慌てた生徒が講義室に駆け込んでくる。
 急に静かになった隣を見ると、史郎はスマホを持って文字を打ち込んでいる。
(ああ、もう、ほんとにこいつは!)
 顔を見ていると、顔つきがニコニコし始める。
 相手は鈴村なのだろう。
「もうすぐ先生来るぞ」
「うん。わかってる」
(恋をすると人はこんなに幸せそうな顔をするのか)
 史郎を見ていると、気分が浮かんだり沈んだり忙しい。
 おおむねふわふわと幸せそうにしているが、時々、不安そうな顔つきをする。
 恋が成就するといいと思う。
 なんとか史郎の気持ちが伝わるといい。
「葵、あさっての十九時以降は僕と洋服買いに行こうよ。約束は明々後日にしたから」
「洋服って、史郎、お小遣い大丈夫なのか?」
「だって、同じ服着させて行かせられないよ。靴だって、靴擦れしたって言ってたし」
「別にジーンズとスニーカーでもいいんじゃないか?」
「それは駄目。葵のイメージが崩れる」
「イメージね。史郎の中の僕はどんなイメージなんだろうな」
「葵のイメージっていうか、僕のイメージかな」
 俯いてぼそりと呟いた史郎の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 史郎は一生懸命に恋をしているのだろう。
 今までの長い付き合いの中で、こんなに我が儘を言ってきたのは初めてだ。
「付き合ってやるから、史郎の好きなようにしたらいい」
 恋が成就しても失恋しても、今は後悔しないようにさせてやりたい。
「絶対に葵を落第させたりしないから」
 ふっと笑いが込み上げてきた。もちろん落第するつもりはない。
「頼んだよ」
 涙を浮かべたまま、史郎は笑っていた。


 ティーンズ雑誌の撮影を終えた葵は、スタジオに見学に来ていた史郎の肩をポンとたたいた。
「お待たせ」
「葵ってすごくかっこいいんだな」
「いつも一緒にいるのに、今更そんなこと言うの史郎くらいだろうな」
 興奮したようにしがみついてくる史郎の肩をぎゅっと押して、少し落ち着かせる。
「また借りてきたからさ、あれ」
 ふわりと史郎の頭を撫でてやる。
 やはり史郎は子犬のように可愛い。
「ありがとう」
「買い物行くんだろう?店が閉まる」
「早く行こう」
 変装用の眼鏡と帽子をかぶって、スタジオを後にする。
 その後ろ姿を篠原がじっと見ていた。


 待ち合わせは以前と同じ喫茶店だ。
 ただ今夜は喫茶店の前。
 授業が遅くなるのでオフ日になっていた日だ。
 約束は二十時半。
 お腹はペコペコだ。
 急いで自宅に戻って、シャワーを浴び、着替えとメイクをすると、史郎と一緒に待ち合わせ近くまでタクシーでやってきた。
 史郎はたぶん隠れて見ているだろう。
「お待たせしました。和也さん。遅い時間に申し訳ございません」
「授業だったんだろう?遅くまで大変だったね」
「和也さんもお仕事、お疲れ様です」
「俺も仕事が終わる時間だったから、ちょうどよかったよ」
「さあ、行こうか」と手を握られ、思わずその手を振り解きそうになる。
「手を繋ぐの、嫌かな?」
「いえ、ちょっとびっくりしただけです」
「嫌じゃなきゃ、手を繋いで行こう」
 指先が絡まる恋人繋ぎで、ぎゅっと繋がれ、頭を抱えたくなる。
 背後で見ている史郎の心情を思うと、複雑な気持ちだ。
「夕食はまだだね?」
「はい。授業後すぐ来たので」
「なにか食べたいものはある?」
「あまり詳しくないので、和也さんにお任せしてもよろしいですか?」
「葵ちゃんは、もう二十歳だからお酒も飲めるね」
「はい。あまり強くないので、軽いものでお願いします」
 お酒は普段飲まない。
 飲める年齢になったのもつい最近だ。
 事務所で誕生祝いをしてもらった時、初めてお酒を飲んだ。
 そのあとはコンビニで興味本位に購入したカクテルとワンカップのワインだけだ。
 そういえば、マッチングアプリは恋人探しの場だよな。
 気が合えば、エッチもすると女子たちが言っていたことを思い出して、今更、貞操を気にする。
(僕は男だぞ。誘われたら、どうやって断ればいいんだ?そもそも男同士でヤレるのか?)
 史郎とそのへんのうち合わせをしてなかったことに気づいて、背後を振り返ってしまった。
「どうかしたの?」
「いえ、知り合いがすれ違ったかと思ったけれど、違いました」
「俺といるときは、俺だけ見てほしいな」
「ごめんなさい。いつも和也さんのことばかり考えてますよ」
(史郎はね・・・はぁ)
「可愛いことを言ってくれるね。着てる服も可愛らしい。この間も可愛らしかったけど、今日はゆるふわで思わず食べてしまいたくなる」
 既視感を覚えて、記憶を遡る。
『思わず食いたくなる』と言われたのは、ほんの数日前だ。
 あの時は純粋にお腹が空いているのだと思ったのだが、今ここで鈴村の言葉を聞いてお腹が空いて食べたいと言われたのではないような気がした。
(まさかね?篠原さんが僕を食べたいなんて。またからかわれただけだよね)
「あ、あの。今日の夕食は何を食べるんですか?お腹が空いてて、もうお腹鳴りそうなんです」
「さすがに若いな」
「二十歳ですから」
「じゃ、お肉にするか?ワインが美味しいお店があるんだ」
「お財布の負担にならない程度でお願いします」
「今日もちゃんと奢ってあげるよ」
「毎回、奢ってもらうの、悪いので」
 史郎が入れるお店にしたい。
 同い年だが、史郎は葵より誕生日が早いのでとっくに成人している。
 たいていのお店には入れるが、あまり敷居の高い店だと金銭的に難しくなる。
「俺にも下心があるんだよ。隙あらばキスもしたいし抱きしめたい」
(待ってくれ。僕は本人じゃないから、そういうのは困る)
「え?あの、心の準備がまだできていません」
「大丈夫、いきなりがっついたりしないから。葵ちゃんは男の人とお付き合いするのは初めてなんだろう」
「はい。今まで好きになった人がいなかったので」
「それなら、自分を大切にしなくちゃね」
「はい」
(意外と誠実な人なんだ。さて、どうやってこの誠実な人に史郎を紹介するかだな)
 今日も篠原純也と同じ顔と声で、さらりとかっこいい言葉を囁いてくる。
(篠原と鈴村は全くの他人で、顔見知りでもないのか?僕たちみたいな訳あり代理だったりしないのか?)
 あまりにそっくな姿と声に、つい疑いを持ってしまう。
「ほら着いたよ」
「わぁー」
 背中をポンとたたかれて、飛び上がる。
(ブラジャー付けててよかった。付けてなかったら、今気づかれてた)
 連れてこられたお店は、お洒落なフランス料理のお店だった。
(史郎はこんな高そうな店には入れないぞ)
「何か食べたいものは?」
 声のトーンに気をつけながら、笑顔を浮かべる。
「和也さんにお任せします」
「ワインは飲んだことある?」
「少しだけ。辛口は苦手です」
 コンビニで買った辛口のワインは、一口飲んで捨ててしまった。
 渋さが強くて口に合わなかった。
「イチゴのワインなんてどうかな?口当たりもいいし、ジュース感覚で飲めそうだよ」
「じゃ、それで」
「俺は少し辛口のものが好きだから、それにさせてもらうね」
「私にあまり気を遣わないでください」
「気を遣うよ。可愛らしくて、美しいお嬢さんだ。見てごらん。周りの席の男性たちは、ずっと君を見ている。一緒にいるのが誇らしいよ」
 まわりを見ると、確かにいくつかの視線と目が合う。
「どうだった?みんな見てただろう?」
「私は普通の大学生です」
「ほころび始めた花のようだ。咲かせるのは俺でありたいと思ってる」
「和也さん」
(なんて恥ずかしい口説き文句をさらりと言うんだ、この人は)
 真っ直ぐな視線を向けられて、どうしていいのか分からなくなる。
 俯いて、膝の上に組んだ手をじっと見つめる。
(ここで口説かれるのは、僕じゃなくて、史郎じゃないと不味いんだ)
「あまり困らせると逃げて行かれてしまいそうだな」
「慣れてないので、ごめんなさい」
「慌てなくていい。ゆっくり心の準備をしてほしい」
(えええええ!心の準備って、やっぱり本番目的か?)
 男なら女を抱きたいと思うのは本能だろう。
 それにマッチングアプリ自体、出会いを目的にしたアプリだ。
「心の準備ができるまで待ってください」
「ああ、分かってるよ」
 すっと肩から力が抜ける。
 今日、今すぐ抱くつもりはないんだな?
 いつの間にオーダーしたのか、テーブルの上にはワイングラスが並んでいた。
「葵ちゃん、あまり緊張しないで、今日は食事を楽しんで」
「はい」
「乾杯しようか?」
「はい、和也さん」
 よく磨かれたワイングラスに、白ワインとブドウの赤さとは違う赤いワインが並んでいる。
 鈴村がワイングラスを持つのを見て、葵もグラスを持った。
「乾杯」
「かんぱい」
 重なるグラスの音が、心地よい音色で響く。
 見つめ合って微笑むのを忘れない。
(僕は今、史郎なんだから、史郎が感じる想いを受け取って繋げてあげないと)
 口にしたワインは、イチゴの味がしてまるでジュースのようだった。
 今まで口にしたお酒の中で、一番美味しかった。
「甘くて美味しい」
「美味しいって顔をしてるね」
 鈴村が綺麗に笑った。
 その笑顔が篠原純也の顔に見えてくる。
 篠原とは物心つく前から一緒にいた、お兄ちゃんだ。
 セリフの関係でママの次ににいたんという言葉を覚え、篠原の名前を覚えてからは、純也と呼んでいた。
 呼ぶことを許されていた。
 名前で呼ばなくなったのは、葵が中学生に上がった頃、篠原さんと呼び始めた。
 一番初めにそう呼んだ時、篠原は寂びそうな顔をしたが、いつまでも子供ではいられないと思った。
 篠原自身が二十歳になったことも、ちょうどいい区切りだと思えた。
 小さなころから手を引かれ、抱っこもされていた。
 篠原の腕の中で何度も眠ったこともある。
 頭を撫でられるのが好きだった。
 兄弟のいなかった葵の本当の兄のような存在。
 傍にいると安心できる。
 文字の読み書きを教えてもらい。
 台本の読み合わせもいつもしていた。
 学校の勉強も篠原に習っていた。
 葵の芯の部分を作ってくれた人で、葵が歩いてきたすべてに、篠原がいた。
(僕は篠原さんのことが好きだった)
「葵ちゃん」
 ふと名前を呼ばれて、顔をあげた。
 篠原と同じ顔の鈴村が微笑んでいる。
「私、ごめんなさい。ずっと黙ったままで」
「食事は美味しかった?」
「はい、とても」
 テーブルマナーは完璧だったと思う。
 無意識に手は動く。それほど、いろんな撮影でいろんなものを食べてきた。
 ちょうど、デザートのケーキを食べ終えたタイミングで声をかけてくれたのだろう。
 テーブルの上には、食後の紅茶が置かれていた。
 ミルクティーにできるように、ミルクが添えられている。
 紅茶にミルクを入れて、ティースプーンで軽く混ぜる。
「とても美味しくて、お食事に夢中になってしまいました」
 他のことを考えていたとは、さすがに言えない。
 知らぬ間にお腹がいっぱいになっていた。
(篠原さんとは長い付き合いだけど、こんなふうに二人でデートのような食事をしたことはなかったな。二人の関係は、史郎と同じ。幼馴染のような。いや、違う。ただの仕事仲間。いや、大先輩だ)
「お腹はいっぱいになったかな?」
「はい。もうお腹いっぱいです」
「お茶を飲んだら、ドライブに行こうか?」
「あ、でも。和也さん、お酒飲んでいらしてましたよね?」
「実は、あれはブドウジュースでね。ワインって言わないと、葵ちゃんが遠慮をするんじゃないかと思って」
「気を遣わせてしまったんですね。私だけお酒いただいてしまってすみません」
「ほらね、葵ちゃんは、すごく気遣いのできる子だから、本当は黙っていたかったんだけど」
「和也さんも。優しい気遣いができる方ですね」
 カップを持って、残りの紅茶を飲んでしまう。
(さて、どうするかな。今日は史郎のこと話してしまいたい)
「そろそろお店を出ようか?」
「はい」
 椅子の背もたれと背中の間に置いていたバックをさりげなく取ると、音をたてないように席を立つ。
 ふわりと体が揺れて、テーブルに手をつくと、鈴村が肩を抱いてきた。
「もしかして、少し酔ってしまったかな?」
「大丈夫です」
 睡眠不足と過労の上の飲酒だ。
 酔いが少し回ったかもしれない。
 にっこり笑って姿勢を正す。
(史郎の葵ちゃんを演じるんだ)
 歩きながら、頭を抱かれる。
「かわいい、葵」
 そのまま頬にキスが落ちて、抱擁が解かれる。
 鈴村は会計をしに、離れていく。
(今、キスされた!)
 頬を手で押さえた。
(なんで、こんなにドキドキするんだよ。ああ、もう。この人は史郎の好きな鈴村さんで篠原さんじゃないんだから。ああ、それも違う。篠原さんであってもドキドキするのは、違うだろう)
 葵の頭は、大混乱していた。
(頬にキスくらいたいしたことないだろう?昔はよく篠原さんがしてたじゃないか、頬にキスくらい)
 葵が篠原を純也と呼んでいた頃は、頬にキスをされることは日常だった。
 それくらい二人は親密だった。
 篠原さんって呼ぶようになってからは、キスはされなくなった。
 それを寂しいと、何度も思っていた。
 急に距離を置かれて、会う頻度も急激に減った。
 子供の相手なんかいつまでもしたいとは思わないだろう。
 面倒な子守り役から解放されて清々しているのだと思えた。
 テレビ局で会っても素通りしていく篠原を見て、嫌われているのかもしれないと落ち込んだこともある。
 違う世界に羽ばたいて行って、葵の存在も忘れてしまったのだと思えた。
 もう手の届かない場所にいて、その後、仕事も一緒にしたことはあるが、昔のように近くに感じることはなかった。
 挨拶とたわいもない雑談になった。
 葵の中では、篠原は思い出の人となった。
 そう思わないと篠原とは仕事はできなかった。
 ずっと忘れていたせつなさを思い出すと、跳ね上がった胸の鼓動はすっと静まり返った。


 鈴村は紳士的だ。
 エスコートもスマートだし、会話も楽しい。
 史郎が夢中になるのも分かってきた。
 車は夜の海に向かった。
 その海は昔、撮影で来たことがある砂浜だ。
 篠原演じる伊達正宗と葵演じる伊達小次郎。
 馬に乗って、この砂浜を並んで走った。
 この砂浜での撮影前に、二人で乗馬クラブに通って乗馬の練習をした。
 どちらが先に馬に乗れるか、缶のホットチョコを賭けたことがあった。
 身軽な葵の方が先に乗りこなし、篠原にホットチョコを一箱もらったことがある。
 思い出してクスクス笑うと、鈴村は「なにかな?」と首を傾けたが、葵はただ首を横に振るだけで何も話さなかった。
 鈴村に話せる内容ではない。
 史郎の思い出ではなく、葵の思い出だ。
 鈴村はどうしてここに、葵を連れてきたのだろう。
(たまたまなのか?近くに駐車場もあるし)
「可愛い笑顔も見られたし、そろそろ帰ろうか」
 時刻はとうに0時を過ぎているだろう。
「はい。もう遅いですし」
「遅くまで連れ出し過ぎたね」
「いいえ、楽しかったから」
 葵は使命も忘れて、心の底から楽しんでいた。
 そのことに気づいて、気を引き締める。
 ふわりと頬にまたキスされた。
「和也さん、私、まだ」
「これ以上はしないと約束しよう」
「はい」
 先に立ちあがった鈴村の手を握って、立たせてもらう。
「今日は楽しめた?」
「とても楽しかったです」
 砂浜を歩いて、駐車場に向かう。
「今日は家まで送らせてもらえるかな?」
「近くまでなら」
「前より進歩したかな?」
 葵は曖昧に微笑むことしかできなかった。
 助手席の扉を開けられて、「ありがとうございます」とお礼を言って、助手席に乗り、シートベルトをはめる。
 運転席に鈴村が乗り込む。
「今度は明るい時間に見に来よう」
「そうですね」
 車が静かに走り出す。
 時刻は0時半。
(明日は仕事だ。台本をしっかり読み込みたい。また寝不足だ。寝不足になるから、もう代役しなくて済むように、史郎のことを話さないと)
 ふわりとあくびが出て、両手で顔を覆う。
(眠い)
 ドラマの仕事が決まってからは、台本ともとになった小説を深く読み込んでいる。
 葵のセリフの覚え方は、独特だ。
 世界観からキャラクターひとりひとりの性格まで読み解いていく。
 シーンひとつひとつの風や香りも感じ取り役作りを始めていく。
「眠いだろ?都内についたら起こしてあげるから、眠ってていいよ」
(ああ、なんて親切なんだろう。もう寝落ちそうだ)
「いえ、運転手の隣で寝るなんてできません」
(史郎のこと、どうやって話そう・・・)
 しばらくすると、静かな寝息が聞こえてくる。
 運転しながら隣を見ると、長い睫毛が影を落とし、うっすらと唇が開いている。
「真面目だな。気を遣いすぎて疲れるだろうに。もっと心を許したデートしてほしいものだ」
 無防備な寝顔は、子供の頃の面影を残し、ずっと見ていたくなるほど愛らしい。
「葵は誰とここにいるつもりでいるのかな?でも浜辺での笑顔は、葵の微笑みだったな」
 赤信号で止まると、体を伸ばし、唇を重ねようとしてやめる。
 信号が変わると、起こさないように静かに車を走らせた。


 ふと目を覚ますと、見知らぬ天井が見えた。
(どこ?)
「おはよう」と声をかけられて、声がした方を見ると、篠原そっくりの顔があった。
(え?)
 咄嗟に自分の胸を抑える。洋服は着ている。
「一緒のベッドで眠っただけだよ」
(えっと)
 声のトーンを気を付けて、声を出す。
「しの・・・和也さん?」
「起こしても起きなかったし、家を教えてもらってないからね。俺の家にお持ち帰りしたんだよ」
「お持ち帰り?」
 かーっと顔が熱くなる。
 ベッドの上で正座をして、頭に触れると、長い髪が指に触れる。
(ウイックずれてないか?)
「ご迷惑かけてすみません。あの、お手洗い貸してください」
 両手で髪を押さえたまま、咄嗟に口に出していた。
「気が付かなくてごめんね」
「いえ」
 何もかも気になって、それどころではない。
 パニック状態の葵を一笑すると、鈴原はベッドから降りて立ちあがった。
 部屋着なのか、Tシャツに、ラフなパンツをはいている。
「ついておいで」
「はい」
 顔はあげられない。
(ウイックがずれてたらどうしよう)
 手で押さえてないと不安で、心臓がバクバクとしている。
 リビングを通った先の扉を開けて、トイレを開けてくれる。
「あの洗面所を」
「隣の扉がそうだよ」
 先に入って、引き出しを開けると、新しいタオルや歯ブラシ。洗顔石鹸も出してくれる。
「シャワー浴びたかったら、浴びてもいいよ。バスタオルとバスローブも出しておこうか?」
「いいえ、そこまでは。顔を洗わせてください」
「ゆっくりどうぞ」
 そういうと、鈴村は洗面所から出て行った。
 座り込みそうになるのを必死にこらえて、鏡に向かってしっかりと立った。
(首筋にキスマークの痕はない。下着はつけたままずれてない。衣服の乱れなし。やましいことはなかったな。意識がない間に、触られたりしなかっただろうか?鈴村の様子はおかしくはなかった。頬以上のキスはしない。その言葉を信じるしかない)
 ウイックは緩んでいたが、ずれたりしてなかった。
 取れたりしないように、しっかり付け直して、出してくれた歯ブラシを見て、使うかどうしようか迷う。
 せっかく出してくれたのだから、使った方がいいのか?
 シャワーはさすがに浴びられない。覗かれたらアウトだ。
 歯を磨いて顔も洗う。タオルで拭いた後、メイクが取れていることに気づいて頭を抱える。
 口紅はバックに入っているはずだ。
 取りに行くにしても、ノーメイクの顔を鈴村に見せることになる。
(メイクしてなくても、おんなにみえるか?)
 鏡をじっと見ていると、扉をノックされた。
「葵ちゃん、大丈夫?」
 ずっと籠城しているわけにもいかず、「大丈夫です」と答えた。
 タオルを畳んで洗面台の上に置いて、背後を振り返ると扉を開いた。
「顔を洗ったらメイクが取れてしまって。あまり見ないでください」
 俯いたまま顔が上げられない。長い髪は頬を隠してくれる。ロングヘアーにしてよかった。
「そんなこと気にしてたの?ノーメイクでも綺麗だよ」
「見ないでください」
 俯いてる葵の手を、鈴村は掴んで「おいで」と手を引いて行く。
「朝食食べないか?」
「和也さんが作ったんですか?」
「ありあわせだから、豪華ではないけどね。紅茶はあるよ」
「座って」と言われて、椅子に腰かける。
 テーブルの上には、ワンプレートのお皿に、色とりどりの野菜やスクランブルエッグ、ソーセージに食べやすいように半分に切られたトーストが載っていた。
 一人暮らしを始めてから、初めて見るような手の込んだ朝食に目を見張る。
(めっちゃ想われてるじゃないか)
「食べてくれるよね?」
「はい。・・・いただきます」
(どうしよう。僕はこんなに想われちゃいけなくて。史郎の話をしなくちゃいけないのに)
 鈴村は葵の前の席に座った。篠原と同じ顔で同じように微笑む。
 紅茶をカップに注ぎ入れてくれる。
(どうやって史郎の話をしたらいいんだよ?話をするなら今だよな)
「ミルクは入れる?」
「なくてもいいです」
 淹れてもらった紅茶のカップを持って、口に運ぶ。
「葵ちゃん、熱いから気を付けて」
(僕は葵だけど葵じゃないって話さないと。騙すみたいになったことを謝って、史郎の気持ちも分かってもらえるように)
 紅茶を一口含んで、その熱さにびっくりして体が跳ねた。
 その瞬間に手に持っていたカップが手から落ちて、足に当たり床で割れた。
「熱っ」
 右の太腿に紅茶がこぼれて、床に滴る。
「葵!」
 向かいの席から、鈴村が慌てたようにやってくると、そのまま抱き上げられた。
「熱いと言っただろう」
「ごめんなさい」
 浴室に連れ込まれ、床に下ろされると、シャワーで水をかけられる。
 スカートを捲ろうとする手を、必死で押さえて、葵は「やめて」と叫んでいた。
「火傷の状態を見るだけだ」
「でも、だめ」
 下着は男性用のものを身に着けている。
 見せるわけにはいかない。
「葵、言うことを聞け」
 今までと違う口調と声のトーンに、葵は顔をあげた。
「篠原さん?」
「僕は篠原純也だ。分からないのか?」
「やっぱり篠原さんだったんだ」
 ホッとして肩から力が抜けていく。
「足を見せろ」
 自分でスカートをたくしあげて、太腿を露わにする。
「やっぱり火傷してるな。もうしばらく冷やすぞ」
 葵は頷いた。
 太腿は広範囲に赤くなっていた。
 ひりひりと痛む。
 声は普段の声に戻す。
 もう演じる必要はなくなった。
「篠原さんは、どうして鈴村さんの名前を名乗ってマッチングアプリに写真載せてたんですか?」
「鈴村は大学の時の友人だ。悠木葵って子と知り合って仲良くなりたいからって、仲介を頼まれた。勝手に写真を使われて縁を切ってやろうと思ったが、写真と名前が葵と同じだったから、今回は気になってのってみた。まさか、本物の葵が来るとは思わなかったが」
「僕は史郎の身代わりで来てたんだ。史郎は幼馴染で親友で。史郎が高校の文化祭の写真を使ってアプリに登録してて。そのことに対しては怒って、アプリは削除させたんだけど。鈴村さんとの縁を切らないでくれって頼まれて。史郎は本気で鈴村さんのことを好きになって。前回の時も、昨日も今日もそのことを言おうと思って。なかなか言い出せなくて」
「お互いに代理だったってことだな?」
「そうみたいだ」
 体が冷えてきて、震えてくる。
「寒いか?」
「寒い」
「もう少し冷やしたほうがいいが」
 シャワーを持たされて、自分で足にシャワーをかける。
 篠原は浴室を出て行った。
 しばらくして戻ってきた篠原は、厚手の上着を持ってきた。
「これ着てろ」
「でも、濡れる」
「いいから着ろ」
 葵の手からシャワーを奪うと、上着をわたされる。
 篠原のにおいがする上着は、温かくて懐かしい。
 なんでか涙が出てきた。
「痛いのか?」
「ちがう」
「くそう」
 シャワーが床に落ちると、強く抱きしめられた。
「篠原さん」
「黙ってろ」
 唇が何度か重なって、口の中に篠原の舌が入ってくる。
 舌が絡まる。呼吸ができないほど貪られて、目の前が白くなってくる。
(なんで?どうして?篠原さんがキスしてくるんだ?)
「呼吸しろよ。苦しいだろう?」
「だって、キスなんて、初めてなんだ。どうしたらいいか、分からない」
 喘いでいる背中を宥めるように、今度は優しく抱きしめられた。
「悪いけど、初めてじゃないよ。ファーストキスは0歳の時だ。葵が僕の誕生日に『篠原さん』って呼ぶまで、ずっと隠れてキスしてた。なんで呼び方変えた」
「だって、篠原さんは、僕よりずっと年上で、呼び捨てでなんて呼んでたら、まわりから生意気だって思われるし、僕がいつまでも子供に見られる」
「子役時代の8歳の差は大きいからな」
 こくんと頷く。
「やっと二十歳になったんだ。キスは祝いだ。これからもしてやる」
「え?」
「葵を好きだと言ってるんだよ。まったく鈍い」
「僕を篠原さんが好き?」
「大人の8歳は、そんなに離れてない」
「8歳は8歳ですよ?」
 篠原は抱擁を解いて、またシャワーで足を冷やしだす。
「もう大丈夫です」
「どこがだ?こんなに広範囲に火傷しやがって、痕が残ったらどうするんだ。病院行った方がいいだろうな」
「そんな大げさです」
「葵は俳優だ。商売道具はなんだ?」
「僕の体」
「足に火傷の痕が残っても写真集が売れると思うのか?もっと自分を大切にしろ。自分自身が商品だって、昔教えたよな?」
「ちゃんと覚えてます」
 ぽんぽんと頭を撫でられて、頭を引き寄せられる。そのまま篠原の肩に額を押し付けられる。甘えていいと言われているみたいだ。
 篠原のことはずっと憧れの人だ。
 好きだと言われて嬉しい。
 体を労わられて嬉しい。
 傷が残ったとしても、優しい思い出だ。
「三十分以上は冷やせたな」
 シャワーを止めると、篠原は葵の濡れた服を脱がしだす。
 上着を脱がし、ワンピースのファスナーを下ろすと、ブラジャーのホックも外される。
 恥ずかしさで顔が熱くなる。
「あのタオル貸してください。自分で脱げます」
「怪我しなければ、抱くつもりだったのに」
「え?」
「なーんてな、なんてもう誤魔化す必要もないな」
 篠原はすぐにタオルを取りに浴室から出ていく。
(僕を抱く?篠原さんが?そんなまさか・・・)
 ゆっくり立ち上がり、濡れた洋服を床に落としていく。
 裸になり、鏡に映った自分を見る。
 ロングヘアーに平らな胸。
 寒くて小さくなった男のシンボルと太腿に広範囲な赤い痕。
 筋肉はつきづらい体質なのか、薄くついているだけだ。
 葵の長所は、中性的な美しさ。
 国宝品の笑顔と称されている。
 整った顔立ちのお蔭でウイックを被れば、異性を問わず大概の役になりきることができる。
 2・5次元俳優とも言われて、男女問わずファンも多い。
「葵、タオルとバスローブだ。下着は僕のしかないが着るか?」
 咄嗟に脱いだワンピースで胸から下を隠す。
 その姿を見て、篠原が苦笑した。
「綺麗なスタイルだ。背中に羽でも生えてきそうだ」
「え?あ?」
 浴室の二面に大きな鏡が付けられている。
 隠しようがなくて、もう泣き出してしまいそうだ。
「僕の下着だが着るか?」
「貸してください」
 バスタオルを手渡されて、扉が閉められる。急いで体を拭く。
 バスタオルを体に巻きつけ、浴室を出ると、下着とバスローブが置かれていた。
 手早くそれを身に着け、ダイニングに向かう。
「冷めてるが食べていくか?」
「はい。いただきます」
 いつの間に着替えたのか、ワイシャツにトラウザーパンツ姿の篠原が、割れたカップを片付けていた。
「カップ割ってしまってすみません」と頭を下げる。
「カップなんて割れてもいい」
 濡れた床を布巾で拭っている。
「足、見せろ」
 バスローブの合わせから足を見せると、篠原は顔を顰めた。
「早く食べろ。食べたら病院に行く」
「はい」
 できたてだったプレートのおかずやトーストは冷めていたが、美味しかった。
 とんと目の前に置かれたマグカップの中は、ぬるめのココアだった。
 篠原は素早く朝食を食べると、お皿をシンクの中に置いて、ダイニングから出て行った。
 葵はキッチンにプレートを運ぶと、二人分のプレートとカップを洗って、シンクの脇のカゴに入れた。
 手を洗っていると、薄手のジャケットを羽織った篠原がダイニングに戻ってきた。
 片手には黒のブリーフケースを持っている。いつも仕事場に持ってきている鞄だ。
「行くぞ」
 葵に葵のバックをわたすと、頬にキスが落ちる。
「片付けてくれたんだな」
「いつもやってることですから」
「いつから一人暮らし始めたんだ?」
「中学入学の時です」
「知ってたよ。さらいに行こうかとずいぶん悩んだな」
「篠原さん?」
 マンションを出て、エレベーターホールに向かう。
 エレベーターはすぐに開いた。
「未成年を連れ出すと誘拐になるって知ってるか?」
「それくらい、知ってます」
「葵は二十歳だな」
「はい」
「もう誘拐にはならない」
「だから、お持ち帰りしたんですか?」
「そうだ」
 エレベータが着いたのは、地下駐車場についた。
「マネージャーに連絡しておけ、僕と現場入りするって」
「名前出してもいいんですか?」
「僕と一緒なら誰も文句は言わないだろう」
「わかりました」
 車に乗り込むとスマホを出して、いつも迎えに来てくれるマネージャーの小池に連絡を入れる。
 小池は何度も失礼がないようにと繰り返していた。
「ウイックはしておけ。変装になる」
「はい」
 ラインの着信ランプがついていた。
 史郎が心配して送ってきたのだろう。
 今は見ないでおこう。
「葵」
「はい」
「僕に敬語で話すな。イラつく」
「でも」
「敬語で話したら、キス一回してもらう」
「え?」
「いいな?」
「はい、あ、わかった」
「それでいい」
 運転席で篠原がふと笑う。
「間違ってくれた方が、キスしてもらえるか」
「とんでもない」
 声を上げて、篠原が笑う。
 どこまで本気なのか、よくわからない。
 車の流れがスムーズで、すぐに病院に着いた。
 車は救命救急病院の駐車場に入っていった。
「僕、一人で行くよ」
「気にするな」
 病院は週刊誌のカメラマンがよく張っていると言われている。
 車から降りて走ろうとしたら、バスローブの布と皮膚が擦れて痛む。
「・・・っ」
 歩くのを躊躇っていると、運転席から降りてきた篠原が近づいてきた。
「少しは甘えたらどうだ」
 ブリーフケースを葵に持たせて、掬い上げるようにして横抱きされ、顔が赤くなる。
「重いから」
「あまり成長してないように感じるな」
「え?」
「体重軽すぎ。顔色もよくない。あまり食べてないだろう」
「・・・忙しくて」
「まあ。今はいい。もっと甘えるように抱かれてろ。ドラマのいい宣伝になる」
 顔を胸に押し付けるように抱かれて、病院に入っていった。

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 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

【完結】俺はずっと、おまえのお嫁さんになりたかったんだ。

ペガサスサクラ
BL
※あらすじ、後半の内容にやや二章のネタバレを含みます。 幼なじみの悠也に、恋心を抱くことに罪悪感を持ち続ける楓。 逃げるように東京の大学に行き、田舎故郷に二度と帰るつもりもなかったが、大学三年の夏休みに母親からの電話をきっかけに帰省することになる。 見慣れた駅のホームには、悠也が待っていた。あの頃と変わらない無邪気な笑顔のままー。 何年もずっと連絡をとらずにいた自分を笑って許す悠也に、楓は戸惑いながらも、そばにいたい、という気持ちを抑えられず一緒に過ごすようになる。もう少し今だけ、この夏が終わったら今度こそ悠也のもとを去るのだと言い聞かせながら。 しかしある夜、悠也が、「ずっと親友だ」と自分に無邪気に伝えてくることに耐えきれなくなった楓は…。 お互いを大切に思いながらも、「すき」の色が違うこととうまく向き合えない、不器用な少年二人の物語。 主人公楓目線の、片思いBL。 プラトニックラブ。 いいね、感想大変励みになっています!読んでくださって本当にありがとうございます。 2024.11.27 無事本編完結しました。感謝。 最終章投稿後、第四章 3.5話を追記しています。 (この回は箸休めのようなものなので、読まなくても次の章に差し支えはないです。) 番外編は、2人の高校時代のお話。

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