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64   生きてる幽霊

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「キャッ!」

 ダンと体が揺れて、アリスが大袈裟に転んだ。

 季節は三月。

 シェックの婚約披露宴から約一ヶ月経った。

 あの日、マリアナに会ってから、何もかも上手く事が運ばない。

 ぼくはそもそも器用でも天才でもない。

 凡人より、更に下を行く不器用な人間なのだ。

 公爵家の嫡男に生まれながら、親から教わった事はほぼない。

 家のことは乳母が行い、領地の事は執事が行っている。

 当主になり、もうすぐ一年も経つというのに、未だにだ。一人で何もできない。

 なんと情けない当主だろう。


「奥様、大丈夫ですか?」

「痛いわ、アル、ごめんなさいって言ってるでしょう」


 殆ど家に戻ってこなかった父上に、勝手に婚約者を決められて、好きでもないアリスと婚約させられて、断ることもできないままアリスと結婚した。

 アリスは父上の患者だった。アリスは伯爵家の長女で、学校の卒業を待って、結婚式を挙げた。

 父上が儚くなって、丁度一年が経って、時期も丁度よかったのだ。

 17歳で公爵家の当主になり、正直に言えば震え上がっていた。

 父上はマリアナの捜索に、ずいぶん長いこと邸を出ていた。

 ぼくはマリアナに嘘をついている。

 存在を覚えていないと言ったが、忘れるはずもない。

 我が家はマリアナ中心の生活をしていたのだから。

 マリアナが生まれてから、父上も母上も、マリアナに夢中になっていった。

 マリアナは天が授けた神の申し子だと言っていたのを覚えている。

 言葉を覚えるのも早かった。小さな癖に、おしゃまで生意気で、よくしゃべる妹だった。

 見た物は直ぐ覚え、次はそれを応用して、両親を驚かせていた。

 両親は幼いマリアナに医学を覚えさせようとしていた。

 本を読ませるときも、難しい医学書を与え、マリアナは普通に読んで理解していた。

 両親は毎日、進化をするマリアナに夢中になり、僕の存在は、きっと両親から消えていた。

 僕の味方は乳母だけだった。

 母上はマリアナを連れて、回診に回っていた。

 ただでさえ医者の子は構ってもらえないと言われているのに、マリアナは特別だった。

 そんなマリアナを皇帝陛下が放っておくわけもなく、第一皇子のクラクシオン皇太子殿下と婚約させてしまった。

 幼いくせにおしゃまな口を利くマリアナを、クラクシオン皇太子殿下は直ぐに気に入って、二人は仲良くなった。

 ある日、母上とドゥオーモ王国まで回診に出かけたマリアナは、帰ってこなかった。

 何日かして、ドゥオーモ王国の国王陛下から手紙が来た。

 母上が死んだと。

 母上は血に塗れて帰ってきたのに、マリアナの存在は誰も知ることはなく、皇帝陛下が捜索隊を出して、極秘に捜査を開始した。

 母上の死で、父上もショックを受けていた。

 母上を亡くしたショックと、愛娘のマリアナの喪失で、父上は暫く寝込まれた。

 そんな時に、皇帝陛下が父上を見舞って、必ず見つけ出して、連れ帰ると、力強い声でおっしゃった。

 寝込んでいた父上は、マリアナ捜索隊に合流して、マリアナを探し始めた。

 父上の中から、ぼくは消えていたに違いない。

 マリアナは特別で、ぼくは凡人。

 父上は医師として働きながら、時間を見つけてドゥオーモ王国に出かけていた。

 ぼくの事も気にかけて欲しかった。

 母上を亡くしてショックを受けたのは、父上だけではない。

 頼りの父上は、マリアナを探し続けた。

 何年そうした時間を過ごしたのだろう。

 ぼくは父上に『マリアナはもう死んでいるんだよ』と言った事がある。

 父上は、ぼくの頬を叩いた。

『生きている。あの子は賢かったから、誰かに誘拐されたのだ。助けるのは父親の務めだ』と言った。

 ぼくは出かける父上の背中を見ながら、寂しくて泣いていた。

 頬を叩くんじゃなく、抱きしめて欲しかった。

 立ったまま涙を流す僕を抱きしめてくれたのは、乳母だけだった。

 そんな父上が、肩を落として帰ってきた。

『マリアナを見つけたが、父だと分からなかったようだ』と泣き笑いした。

 王家に捕らわれていたようで、簡単には奪い返せない。

 父親の存在も認識できなかった事から、洗脳されている可能性があると言われていた。

 戦争を起こせば、人質として危険になる。マリアナ救出作戦は慎重に進められた。

 父上は長年の疲労から倒れられた。

 そうして、病気も発病して、仲間の医師達が治療にあたった。だが、父上の具合は、徐々に衰弱していった。

 皇帝陛下が父上に『もう少しだ。もう少しで連れ戻せる』と励ます声が聞こえていた。

 父上は徐々に痩せ細り、とうとう儚くなった。

 まだマリアナは戻っていないのに、先に旅立たれた。

 父の人生は、マリアナ捜索で殆ど終わってしまった。

 亡くなる寸前まで、マリアナの名前を呼んでいた。

 ぼくの名前は呼んではくれなかった。

 ぼくも父の子であったのに。

 父上の最後は、マリアナの婚約者だったクラクシオン皇太子殿下と皇帝陛下が見送った。

 ぼくもいたけど、父上にはぼくは見えなかったに違いない。

 やっと保護されたマリアナは、記憶喪失であった。

 ぼくの事も覚えていない。

 やっぱり、ぼくは生きる幽霊だった。

 父上にも母上にも見えなかった幽霊。

 結婚したアリスの目にぼくは映っているのか、心配だった。

 アリスは、今日、学校時代の男友達と遊びに出かけたのだ。ぼくに嘘を言って。

 街で偶然、アリスを見かけた。

 楽しそうに笑って、見知らぬ男達と歩いていた。

 ぼくは後を追うか迷ったけれど、迷っている間にその姿を見失った。

 その土地は、男女が逢瀬を行う宿屋街だった。

 その場所で姿を消したと言うことは、アリスは男達と宿屋に入ったのだろう。

 アリスにもぼくは見えていないようだ。


「アル。ごめんなさい」

「実家に帰れば。誰にでも足を開く阿婆擦れはいらない。汚いから触るな」


 ぼくは縋り付いてきたアリスを再度突き飛ばした。

 ゴロンと転がったアリスを置き去りにして、ぼくは書斎に入っていく。

 アリスの泣き声が聞こえる。

 乳母が慰めている。

 扉がノックされた。


「アル坊ちゃん、開けますよ」


 入ってきたのは乳母だった。


「本当にアリスを実家に帰すのですか?」

「裏切り者はいらない」

「少しお茶を飲みに出かけただけだと言っていますよ」

「ぼくにその言葉を信じろと言うの?」

「信じるかどうかは、坊ちゃんが考えればいいですよ」

「それなら、離婚だ」


 ぼくはアリスの父親に手紙を書いた。



『貴方の娘は、夫がいながら、他の男と隠れて会っている。不倫をするような妻は、公爵家の妻に置くわけにはいかない。従って離婚をする。不実なことをしたのは、貴殿の娘だ。慰謝料はこちらからは払わない。反対に慰謝料請求を致す。10000ループの支払いを請求する。来週の週末までに支払うことを命じる』



 封筒に入れて、我が公爵家の印を押す。


「乳母、アリスに渡してくれ」

「坊ちゃん、アリスを手放してはいけません。アリスは坊ちゃんの味方になってくれます」

「乳母、ぼくは乳母がいてくれたら、もう誰もいらない。アリスをここに置いたら、ぼくはアリスを殺してしまうかもしれない。だから出て行った方がアリスのためだよ」

 ぼくは手紙を乳母に渡した。

 乳母は手紙を持ち、部屋から出て行った。

 ぼくはアリスも信じられない。

 ぼくが見えない人は、みんな消えてしまえ。

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