裸足のシンデレラ

綾月百花   

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第十七章

3   母

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 今年は梅雨明けが遅くて、いつまでも雨が降っている。

 せっかく光輝さんが美容院の予約を取ってくれたのに、今日も雨だ。

 今日のお出かけのために、母乳を搾り、冷凍保存させておいた。たくさん搾りすぎて、数日分ありそうだ。

 哺乳瓶も消毒してある。

 彩花がお腹を空かせても、泣かせることはないだろう。

 離乳食も始めたので、彩花の食事は時間がかかる。

 出かける前に母乳をあげて、水野さんにあずける。

 光輝さんは、会社に行っている。


「輝明、加羅さんに遊んでもらっていてね」

「合気道でもいい?」

「いいよ」

「わーい」


 輝明は喜んで、加羅さんと道場に向かった。


「五十鈴さん、彩花を守っていてください」

「しかし、旦那様から奥様の護衛をと言われています」

「今、この部屋に彩花を守れる人は、五十鈴さんしかいません。安心して出かけられません。水野さんは、彩花の子守をお願いしているので、お願いします。わたしは自分の車で行くので大丈夫です」

「分かりました。気をつけて行ってきてください」

「お願いします」



 わたしは子供を預けて、出かける事にした。

 晴輝の送迎は、加羅さんが運転してくれる。

 お迎えに輝明も行くので、護衛も兼ねている。

 今日のお迎えは、加羅さんにお願いしてある。幼稚園にも朝、伝えておいたので大丈夫だろう。

 久しぶりに自分の車に乗って、一人で出かける。

 この車には、チャイルドシートは付いていない。

 子供を乗せる車は、SVUの車になっている。

 今は2列目シートに二つのチャイルドシートが付いている。

 親睦会に行くときに、また変更するかもしれないけれど、日常では、この方が楽だ。

 美容室の駐車場に車を止めて、少し歩いて美容室に入った。

 赤い折り傘を畳んで、ビニールに入れると鞄にしまう。

 それを受付で預けて、まず、髪を切ってもらう。

 その後で、初エステを体験した。

 美容室に併設されたエステで、施術を受ける。

 足をマッサージされて、もう気持ち良くて、蕩けそうだ。

 その後に、顔をマッサージされて、それから肩や胸の上をほぐされる。


「ずいぶん凝っていますね」と言われた。


 凝った肩や背中もほぐしてくれる。

 気持ち良くて、眠くなってくる。

 リンパの流れがよくなってきたような気がする。

 顔にパックをしてもらって、クリーンタイム。


「眠っていてもいいですよ」と言って、施術者が部屋を出て行った。


 リラクゼーション効果のあるオルゴールメロディが流れている。

 ウトウトと眠っていた。


「パックを外しますね」と言われて、目を覚ました。


 パックを外されて、手のマッサージもされた。

 肘から指まで、もみほぐされて、ずいぶん凝っていると自覚する。

 最後に熱いタオルを背中にあてられて、とても気持ちがいい。

 熱いタオルをあてて、血管を広げて、タオルを外して、ひんやりしたところで、毛細血管に血が巡るのだそうだ。

 温泉効果だと教えてもらった。

 子供達にもしてあげようと思った。

 顔も手も肌がつるつるで、最後に美容室で髪を整えてもらう。

 今日は桜子さんがよくしているような、髪型にしてくれた。

 ずっと大人びて見える。

「似合いますね」と言われて、少し照れくさい。

 せっかくセットしてもらったけれど、今日は雨だ。すぐに崩れてしまうかもしれない。

 支払いは光輝さんが纏めて支払いをしているようなので、お礼を言って、お店を出た。

 傘を差して、駐車場に歩いて行く。

 すれ違った人が、わたしの手首を掴んで、傘が落ちた。

 わたしは、わたしの手首を掴んでいる人を見た。


「お母さん?」

「美緒」


 母は昔より老けたけれど、それでも綺麗だった。

 長い髪はウエーブがあり、半袖のワンピースを着ていた。

 昔みたいに、小綺麗にしている。

 わたしは普通の半袖のワンピースにカーディガンを羽織っている。

 今日は特に着飾ってはいない。

 二十歳の時と同じ、赤いポシェットを斜めがけにしている。


「手を放して」


 雨がわたしを濡らす。

 母は白い傘を差していて、雨粒がわたしの手を濡らす。


「わたしに何もしないなら、ここで会った事は黙っているわ」

「母に指図をするのか?」


 母は傘を捨てると、わたしの頬を叩いた。

 平手で叩かれたのは、何年ぶりだろう?

 痺れるように頬が痛い。



「わたしにどうして欲しいの?」

「憎いのよ」

「何がそんなに憎いの?お父さんと離婚して、もうお世継ぎの事を言われる事もないでしょう?わたしが女の子に生まれても、真竹の家に迷惑はもうかけていないよね?お母さんも、離婚して自由でしょう?」
「そうだね。お父さんは若い女を連れて来て、お世継ぎも産まれて、真竹の家は持ち直したね。でも、私は体を売って生きているんだ。これが幸せだと言えるのか?」

「住む場所がないの?」

「いいや、あるよ」

「お金が足りないの?」

「いや、稼いでいるからね。足りているよ」

「わたしにどうして欲しいの?」


 母とこんなに話したのは初めてかもしれない。

 わたしは、もう昔のわたしではない。

 弁護士資格も持っている。

 話し合いの大切さも知っている。


「ただ憎いだけだ」

「わたしに近づいたら、お母さんが警察に捕まるの、分かっている?」

「分かっているさ。分かっていても、私の幸せを奪った美緒が憎いんだ」

「お父さんの事をまだ好きなの?」

「あんな男、好きだった事なんて忘れたね」

「じゃ、お母さんの幸せって、何だったの?」

「…………」

 母は目を見開いて、わたしの手首を力強く握っている。

 二人とも雨で、ぐしょ濡れになって、髪もすっかり濡れて水滴が落ちている。

 道を走る車と風雨で、傘はどこかに飛ばされていってしまった。

 わたしの髪も母の髪も雨で濡れて、ストレートになっている。


「お母さんの幸せは、どんな事だったの?」


 わたしは根気よく、母に聞いた。




 …………………………*…………………………




 私の幸せは何だったんだろう?

 美緒に聞かれて、私は答えられなかった。

 信司と暮らした生活は、幸せだった。

 真竹流を今以上に有名にしたいと誓い合った。

 信司とお婆さまはわたしが織った反物に絵を描いて、染め上げていった。

 二人が作る着物は芸術品だと思った。

 その芸術品が描かれた反物は、全て、私が織った物だ。

 キャンパスが美しくなければ、芸術品は生まれない。

 静美がお腹にいても、私はいつも反物を織っていた。

 静美が生まれても、静美を背負って、反物を織っていた。反物を織ることが好きだった。

 この反物にどんな色彩がのるのか楽しみだった。

 着物に仕立てられると、達成感があった。

 美緒がお腹に宿ったときは、つわりが酷かった。

 吐きながら、反物を織った。静美が甘えてきて、反物が織れない。

 体調も悪いのに、静美の世話をしながら反物を織る。

 おとなしくしてくれなくて静美を背負って、反物を織る。静美は重く、縛られていることで暴れる。

 思うように、反物が織れない。

 反物が足りないと言われて、信司は外注した。

「もう織らなくてもいい」と言われた時は、絶望をした。

 おまえなど要らないと言われた気分だった。

 そんな時に、お腹が急に痛くなって、足を伝って血が流れてきた。

 私は救急車で病院に運ばれた。

 胎盤が剥離していると言われて、すぐに手術になった。

 出血が止まらなくて、子宮が取られたと聞いたのは、手術も終わって、目が覚めた時だった。

 お腹の赤ちゃんは男の子かもしれないと言われていた。

 誰もがお世継ぎの誕生を祝った。

 けれど、連れて来られた赤ちゃんは『女の子』と書かれている。


「この子じゃないと思います。私の赤ちゃんは男の子だと言われていました」

「超音波検査では、はっきり分からない事もありますから」


 看護師はそう言った。

 信司もお婆さまも「おめでとう」と言ってはくれなかった。

 大切にお腹の中で育てていた私に「頑張ったね」の言葉もない。

 信司は「男の子じゃないし、子宮もなくなった」と言った。

 私はまた要らないと言われたような気がした。

 反物も織れない。子供も産めない。

 私に価値がなくなっていく。

 この赤ん坊が、私の希望を奪っていったと思った。

 だから、授乳拒否し、抱く事もした事はない。

 お婆さまは家政婦を雇い、子供の世話を頼んだ。

 静美が生まれた時に、家政婦を雇ってくれたら、無理はしなくて済んだのに。

 けれど、お婆さまを悪く言う事は許されない。

 知らぬ間に、赤ん坊の名前が決まっていた。

 お婆さまが決められたようだ。

 あの家は、お婆さまが全て仕切っていた。

 真竹流の師範なのだから、仕方が無い。

 信司が真竹流の師範を受け継いだのは、お婆さまが倒れてからだ。


 私は信司に嫌われないように、可愛い嫁を演じて、美緒をいたぶり続けた。

 信司もお婆さまの圧力の捌け口にしていた。

 お婆さまもストレスの捌け口に美緒を叩いていた。

 美緒の泣き声を聞くと、安心した。

 我が家に来ていた修行者達は、見てみない振りをしていた。

 家政婦も同じだ。

 そう、私が幸せだったのは……だったな。

 反物を織ることだった。

 私の反物に素晴らしい絵が描かれること。できあがった着物を見ることだった。

 美緒は悪くないのか?

 一度も抱いたことのない我が子だけれど、この子も生死を彷徨った。

 私が退院するとき、まだ病院に入院していた。

 恨み続けて、叩いて、育児放棄してきた娘を、私は見た。

 いつの間にか、私に話かけている。

 生意気に話かけている。

 雨に濡れて、全身濡れている。

 けれど、私から目を逸らしていない。

 子供だと思っていた子は、いつの間にか立派な大人になっている。


「お母さんの幸せはなんなの?」


 声もオドオドしていない。

 私は憎み続けてきた娘ではないと思えた。

 もう別人だ。

 私と同じで、真竹家に縛られていない子に育ったのだ。


「ずっと昔の事で忘れたね」


 歩道のない抜け道で、車が走り抜けていく。


「憎しみだけが残っているの?子宮がなくなって、辛かったんだよね?ごめんね、お母さん」


 美緒は私のお腹を見た。

 謝られて、無様に思えた。


「謝るな!」


 衝動で、私は美緒の手を掴んだまま車道に飛び出した。

 クラクションの音が鳴り響く。

 向かってくるのは大型トラックだった。


(ああ、これで終わる)


 私は体がぶつかる瞬間に、美緒の手を放した。

 一緒に死にたくない。







 ドサッと体が飛ばされた。

 道路に頭をぶつけて、意識が朦朧とする。

 すごい轟音がしたのを聞きながら、意識を失った。




 …………………………*…………………………




 目を覚ました途端、「美緒」と光輝さんに名前を呼ばれた。

 わたしは、光輝さんを見た。その隣に円城寺先生がいた。

 部屋の様子を見ると病院のようだ。

 腕には点滴が刺さっている。

 光輝さんと反対側に警察官が二人立っていた。


「お名前は分かりますか?」


 円城寺先生は真面目な顔で聞いてきた。


「円城寺美緒です」

「何歳か分かりますか?」

「28歳です。記憶はあります」

「何があったか覚えていますか?」

「はい」


 わたしは痛む頭を押さえようとしたら、手も痛くて動かなかった。


「痛い」

「頭は切れていたので縫ってあります。脳には異常はありませんでした。左腕は骨折していますので、ギブスで巻いて固定をしています」

「あの、母は?」

「即死でした」と警察官の一人が言った。

「死んだの?」

「何があったのか、話していただけますか?」

「はい」


 わたしは母に会って、手を掴まれて逃げ出せなくなった事から、話をして、腕を掴まれたままトラックの前に飛び出した事と必死に逃げ出そうとして、逃げ出せたことを話す。

 母が握っていた右手には、母の手の痕が残っていた。

 それを薄気味悪く思う。


「この痣は消えますよね?怖いです」

「自然に消えていくと思います」


 円城寺先生に言われて、少しだけホッとする。

 母が飛び出したトラックは急ブレーキを踏んだが間に合わず、母を轢いたらしい。

 その後、車は玉突き事故が発生して、大変な騒ぎになったらしい。

 母は偽装の免許証や保険証を持っていたそうだ。

 住所は架空で、住んでいた場所は分からないらしい。スマホの登録者も架空で支払銀行口座も架空で、全く分からないと言う。

 わたしは一泊入院して、翌日には退院した。

 片腕で、育児ができるだろうか?



「美緒、どうして、五十鈴を連れて行かなかった」


 わたしを迎えに来た、光輝さんは怒っているような声を出した。


「彩花が心配だったの」

「危害を受ける可能性が高いのは、家にいる彩花よりも、外に出る美緒の方だろう?もっと自分を大切にしてくれ」

「ごめんなさい。でも、彩花に何かあったら、わたしが我慢できない。怪我をするなら彩花ではなくて、自分の方がいいの」

「美緒」



 ずっと無口だった光輝さんが、やっとわたしを抱きしめてくれた。



「あの家に忍び込むのは難しいんだ。トラックでぶつかって来ても、簡単に侵入できない造りになっている。外出する時は、五十鈴を連れて行ってくれ」

「どちらにしろ、もう母はいないから、もう大丈夫よ。私を最後まで憎んで、わたしも殺そうとしたんだから」


 右手の手首には母の手痕が残っている。

 それを見て、逃げようとした時に、手が放された事を思いだした。


「わたしを助けた?まさか母が?」


 手を放してもらえなかったら、わたしも死んでいた。

 怪我をしたけれど、母はもしかして、最後に助けてくれたのかもしれない。

 そう思うと、涙が流れてきた。

 光輝さんは何も言わずに、涙が止まるまで抱きしめてくれていた。

 母は新たに殺人未遂と傷害の罪を背負ったまま、無縁墓地に埋葬されるそうだ。

 姉に電話して母の死を知らせたら、『これで安心して暮らせる』と返事が返ってきた。

 悲しんでいる様子は、まったくなかった。
 
 
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