裸足のシンデレラ

綾月百花   

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第十二章

3   信頼関係   葵の誕生日

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 年末近くになると特に外勤の仕事も増えてくる。

 美緒に護衛を付けてから、心配せずに仕事に出られるようになった。

 朝一から会議が始まり、時間単位で会社を移動していく。

 忙しい今日に限って、葵からラインが何通も来る。

 電話までかかってきて、俺はスマホの電源を落とした。

 仕事に関しては、秘書が連絡を受けてくれるだろう。

 美緒は学校だと言っていた。

 教室内まで護衛が付いていれば、危険はまずない。

 美緒はおとなしく好戦的ではない。学校でトラブルを起こしたこともない。

 むしろ控えめすぎて、心配になるくらいだ。

 万が一、精神が不安定になった時は、護衛に薬を預かってもらっている。

 薬を飲ませて、ホテルに帰るように指示を出している。

 時計を見ながら、美緒を想像する。

 今頃、授業中か?




 …………………………*…………………………




 ルームサービスが届いた時に、「こんにちは」と言って、ベビーカーを押した葵さんが部屋の中に入って来た。

 入室の許可は出していない。

 コックが「申し訳ございません。お部屋を開けたら、入ってしまって」と謝罪している。

 二人のコックのうち、一人がフロントに連絡している。

 多岐さんも立ち上がって、わたしの前に立った。


「光輝さんは、いらっしゃいますか?朝から連絡しても繋がらなくて」

「今日は主人は外勤の日です」

「あら、本当に?他に女でもできたのかもしれないわね?最近とても冷たくて、不安なの」

「主人は不倫はしていません」

「あら、本当に?今日は私と約束をしているのよ」


 以前とは雰囲気の変わった葵さんは、お洒落なワンピースを着て、カーディガンの上からワインカラーのダウンコートを着ていた。

 パッと見て安物の洋服ではない。

 ワンピースもダウンコートも高級ブランド物で飾られている。

 ベビーカーに座っている美衣ちゃんは、ずいぶん成長していて、赤いコートに赤い靴。コートの下から青色のズボンが見えている。

 きちんとお給料をもらって、普通に生活できている。何の不自由もなく生活できている事が見られる。


(返済2万円は少なすぎるんじゃない?)


「忘れてしまったのかしら?」

「今日は仕事です」

「それなら、連絡が取れるか電話をしてみてくれる?」


 葵さんは引き下がってくれない。

 わたしは渋々スマホを出して、光輝さんに電話をした。

 電源が入っていない。


「どう?繋がらないでしょ?」

「お仕事中だと思います」


 わたしは電話を切って、スマホを片手に持ったまま、葵さんに向き合う。


「主人は夜まで帰って来ないと思うので、どうぞ出直してください」

「あら、こんなお昼時に、美味しそうなサンドイッチを見せられて、美衣が欲しがっているわ。こんなに小さな子に、食べ物も与えてはくださらないの?」


 確かに美衣ちゃんは、『おなかちゅいた』『ぱん、ちょうだい』『ジュース』と可愛い声でテーブルの方へ手を伸ばしている。

 テーブルの上にはミックスサンドとオレンジジュースが並んでいる。


「お昼時に、訪ねてくるなんて礼儀知らずだと思いますけれど」

「ベビーカーを押して来たんですもの、移動に時間がかかるのよ」

「帰ってくれませんか?私は入室の許可をしていません」


 葵さんに甘い顔をしてはいけない事は、今までの経験上、分かっている。


「ママ――、おしっこ」


 けれど、美衣ちゃんのこの言葉を拒絶することはできなかった。


「トイレを借りるわ」


 葵さんはさっさと美衣ちゃんをベビーカーから降ろすと、トイレに向かった。

 この部屋の配置は、知っている。

 去年、この部屋に居座っていたので、何がどこにあるのか、全てお見通しなのだ。

 わたしは多岐さんの顔を見上げた。


「美緒さんは、帰って欲しいのですね?」

「はい、話すことはありません」


 多岐さんは、また光輝さんのスマホに連絡をした。

 けれど、やはり通じない。



「お昼くらい、ご馳走してくれない?」



 トイレから出てきた葵さんは、美衣ちゃんの手を放した。

 トコトコと歩いて、ダイニングテーブルの上のサンドイッチに手を伸ばしている。

 身長的にまだ届かないけれど、椅子によじ上って取ろうとしている。



「食べたら、帰ってくれるの?」
「そうね、今日は食べたら帰るわ」

 わたしはメニューを見せる。

「あら、色々あるのね?そうね、牛ヒレステーキと焼きたてパンとオニオンスープをお願い。飲み物はコーヒーね。美衣はこのサンドイッチとジュースでいいわ」

 ハラハラしているコックの方を見て、わたしは「彼女の注文を受けてください」とお願いした。

 追加で自分のサンドイッチとジュースも頼んだ。


「本当に申し訳ございません」


 コックの否ではないけれど、コックは謝罪して部屋から出て行った。

 美衣ちゃんは自分でサンドイッチを掴んで、食べている。葵さんはグラスにストローを刺して、美衣ちゃんが飲めるようにしている。

 美衣ちゃんのお皿からサンドイッチを掴んで、自分の口にも運んでいる。

 部屋が暖かなので、葵さんはダウンコートを脱いで、美衣ちゃんのコートも脱がした。空いた椅子に荷物を置いて、美衣ちゃんの世話をしている。

 その指先にふと目が行った。

 輝く指輪は、見たことのある物だ。左の薬指に嵌まっている。

 よく観察すると、葵さんはネックレスをしていた。

 その先端には、指輪が通っている。

 わたしはスマホで、葵さんを撮った。葵さんではなくて、指輪を撮った。


「なに?写真を撮ってくれるの?」

「美衣ちゃんも成長したから、光輝さんに見せてあげようかと思って」


 ズームを最大限にして指輪の宝石が写るようにしても撮った。

 写真に撮られることを意識したのか、襟元を直してネックレスは洋服の下に片付けてしまった。

 葵さんは宝石を売らなかった。

 隠し持っていて、今、それを嵌めている。

 そんな確信が持てた。

 わたしの最初の結婚指輪に婚約指輪を盗んで、自分の物にしたの?

 売ったのは、もともと、自分が持っていた物だったのかもしれない。だから探しても出てこなかった可能性もある。


「多岐さん、少し見ていてもらえますか?部屋に光輝さんの秘書の方の名刺があると思うので」

「分かりました」


 わたしは自室に戻って、引き出しからカードケースを出して、カードケースを開けた。

 たくさんの名刺が入っている。誰が誰か分からなくなるので、名刺にどこの誰か書いてある。

 光輝さんには、たくさんの秘書がいる。そのうちで一番、信頼していると言っていた秘書の方の名刺を探した。

 本当はスマホに連絡先を登録してくださいと言われていた物だが、仕事の邪魔をしてはいけないと思って、登録してなかった。

 秘書の武実さん。この方も円城寺家の方だ。

 年齢は光輝さんより年上で、お爺さまが総帥であった頃から仕えている人だと聞いた。仕事もできて、人望も厚い。

 わたしは、初めて連絡をした。

 10コールほどで電話は通じた。


「円城寺武実さんのスマホで間違いがありませんか?」

『はい、そうです』

「わたし、円城寺美緒です。光輝さんに連絡が取れないので、すみません、こちらにかけさせてもらいました」

『何かありましたか?』

「遠藤葵さんが部屋に押しかけてきていて、帰ってくれないのです。今日はお約束をしていたと言っています。配膳車と一緒に部屋に入って来てしまって困っているのですけれど」

『分かりました。連絡してみます』

「お願いします」



 わたしはそのまま光輝さんの秘書の円城寺武実さんのスマホの連絡先を登録した。

 急いで名刺をカードケースに片付けると、引き出しに片付けて、ダイニングに戻った。

 至急で作ったのか、料理が運ばれて来ていた。

 葵さんが声を上げて、喜んでいる。


「美衣、お肉が食べられるわよ」

「おにく、おにく」

「まだ、熱いから、待っていなさいね。火傷しちゃうわよ」


 お肉が食べたくなって光輝さんを訪ねてきたのかな?

 人畜無害そうな顔をしながら、葵さんはしたたかだ。

 光輝さんが100年の約束をした女だと思うと、わたしはどうしても嫌悪してしまう。

 これを嫉妬と呼ぶ事は知っている。


「わたしのサンドイッチはカウンターにお願いします」

「畏まりました」


 一緒のテーブルで食べる仲でもない。

 できれば、関わり合いになりたくない人だ。

 美衣ちゃんは可愛い盛りだと思うけれど、美衣ちゃんを餌に寄って来ているとしたら最低な親だ。




 …………………………*…………………………




「総帥、すみません」


 会議中に、秘書の佐竹が紙を差しだしてきた。


『電話の電源をお切りでしょうか?奥様が連絡が取れないようで困っておられるようです』と書かれていた。

「少し席を外すが、続けていてくれ」


 俺はそう言うと、席を立って会議室から出た。

 佐竹が後ろから付いてきている。

 すぐにスマホの電源を入れると、ラインの数が三桁になって、不在着信もかなりの数ある。

「何があった?」

「奥様が武実さんに連絡をしてきたそうです。遠藤葵という方が、どうやら配膳車と共に部屋に入って来てしまって、出て行かないようですね。約束をしているのかと聞いていらっしゃったとか」

「美緒も葵も部屋にいるのか?」



 時計を見ると13時半。昼食には遅めだ。

 具合が悪くなって帰宅したのか?普段の美緒なら、まだ学校の授業があるはずだ。

 大量なラインを開くと大半が葵で、美緒と護衛の多岐から電話がかかってきていた。

 葵のラインを開くと、どうやら今日は葵の誕生日で祝って欲しいという内容が殆どだった。

 100年の約束をした覚えはないが、やはり葵は美緒が想像した通り、100年の誓いをしたつもりでいたようだ。

 誤解のないように、ラインの返信はしてないし、連絡は弁護士を通してしている。

 けれど、ラインの内容は、愛する者同士のような内容であることは確かだ。

 俺はまず、美緒に連絡をした。

 ワンコールで電話が通じた。



『光輝さん!』



 バタバタと部屋の中を走っているような音がする。

 扉が開いて閉じた。

 自室に戻ったのだろう。


「どうかしたのか?」

『今日は葵さんと約束しているのですか?お昼過ぎに、コックが食事を運び込む時に一緒に入って来てしまって、帰ってくれないのです』


 大きなため息がする。


『葵さんは約束をしているって言っています。あの、それと』


 美緒は言いよどんで、『指輪』と告げた。


「指輪がどうした?」

『盗まれた指輪を葵さんが嵌めているの。結婚指輪は指に。綺麗な婚約指輪はネックレスに通しているのを見てしまったの。写真を撮ったのを送ってもいい?』

 プツリと電話が切れると、ラインに数枚の写真が送られてきた。

 ズームで撮った物だから、ピンボケしているが、確かにあの指輪だと思える。

 背後に見える洋服は、見覚えのある高級ブランド物の洋服だ。隣にワインカラーのコート?

 給料だけで、こんな贅沢な物を買えるはずがないが、美緒が普段着にしている物よりいい物を着ている。

 俺はまた電話をした。

 ワンコールで電話が繋がった。


「美緒は具合が悪くなって帰宅したのか?」

『今日は、本当は休みで、多岐さんと午前中出かけていて、お昼過ぎに戻って来たの』

「体調が悪くないのなら、もう少し相手になっていてくれ。今日は葵の誕生日らしい。ケーキでもオーダーしてやったら、喜んでおとなしくしているだろう」

『わたしに誕生会をしろと言うの?』


 美緒の声が不機嫌になった。


「俺は今からそちらに向かう。1時間弱かかる。それまで相手になっていてくれないか?」

『分かった。でも、お仕事、大丈夫なの?』

「大丈夫ではないが、そのままというワケにはいかないだろう?指輪を今、身につけているなら、取り戻したい。葵に与えるような物を買った覚えはない。指輪は美緒に買った物だ。待っていてくれ」



 電話を切って、秘書に今日の予定を全てキャンセルすると告げた。

 話を聞いていた佐竹が「畏まりました」と告げて、会議中の室内に戻って、俺の荷物を持ち出してきた。


「連絡はしておきますので、お気を付けて」


 佐竹は、俺に荷物を渡すと一礼した。


「頼む」



 急いでエレベーターに乗ると、タクシーに乗って自宅ホテルに向かった。




 …………………………*…………………………




 わたしはボイスレコーダーのスイッチを入れた。

 もともと授業で使う物だが、今日はこれから会話する話は、全て録音しようと思う。

 わたしは葵さんを信用していない。


「葵さん、今日は誕生日だったのね?」

 部屋から出たわたしは、部屋にゆっくり居座っている葵さんに声をかけた。


「光輝さんがケーキを頼んでくれと言っていたのですけれど、食べられますか?」

「勿論よ。光輝と一緒に食べる予定だったの、大きなケーキをお願いしてもいいかしら?」

「どんなケーキがいいの?真っ白な生クリームのケーキ?チョコレートのケーキ?」

「そうね」


 葵さんは人差し指でこめかみをトントンと押さえると、にっこり微笑んだ。


「オーソドックスにイチゴがいっぱい飾られた生クリームのケーキがいいわ。ちゃんと『おたんじょうび おめでとう』って書いてもらってね」

「ロウソクは何本用意したらいいかしら?」


 わたしは葵さんの年齢を知らない。


「ロウソクは1本でいいわ。美衣が消せる量で構わないの」

「飲み物は何がいいですか?」

「美衣にはリンゴジュースと私にはコーヒーで」

「他に欲しい物はないですか?」

「今のところないわ」

「それで、光輝は来てくれるの?」

「葵さんが来ているって話したら、すぐに帰るって、今、こちらに向かっていると思うわ」


 パッと葵さんの表情が明るくなる。


「お洒落してきて良かったわ」


 わたしは作り笑顔で、「オーダーするね?ケーキができあがる頃に光輝さんが到着すると思うわ」と、部屋の電話で、ケーキをオーダーした。

 すぐに持って来そうなので、「今からケーキを焼いてください」と付け加えた。

 これで、察してくれるといいけれど……。


 ゆっくり歩いて、今度はダイニングの椅子に座った。

 約1時間、葵さんと話していなければならない。


「素敵なワンピースね。どこかのお店で見た気がするんだけど、どこだったのか忘れてしまったわ」

「あ、これはね。今年の新作なんだけれど……」


 葵さんは服自慢を始めた。

 やはり有名高級ブランドの確か25万くらいしていたワンピースだ。

 光輝さんがわたしにあてがってきた時に値段を見た。

 買わなくても目の肥やしになるからと、光輝さんは、よく有名高級ブランド品のお店に連れて行く。

 ティファさんが来日していた時もフィットルームで着たことがある。

 ワンピースのラインの美しさやワンピースの着心地の良さの自慢が始まると、カシミヤの入ったカーディガンの自慢に移った。もともとお洒落な人なのだろう。

 わたしは、このカシミヤの入ったカーディガンを買ってもらった。確か10万くらいしていた。今日は着ていないが、余所行きの時に着ることが多い。

 着ている物はとても似合っている。

 最後はダウンコートの自慢に移った。

 ワインカラーのダウンコートは、どうやら日本に上陸していないようで、アメリカまで買いに行ったのだと教えてくれた。

 わたしは飛行機の運賃が幾らかかるのか知らないけれど、きっと安くはないと思う。

 そのお金はどこから出ているのだろう。

 一人ではなく、葵さんには美衣ちゃんがいるのに?


「それじゃ、美衣ちゃんもアメリカに行ったのね?」

「美衣は友達に預かってもらったのよ。観光地に子供連れで行っても楽しめないでしょ?」

「何日くらい滞在したの?」

「1週間よ。久しぶりに楽しかったわ」

「どんなところに泊まったの?」

「五つ星のホテルのスイートよ」


(それは、すごい)


「わたしは、まだ外国に行ったことがなくて、幾らくらいで行けるの?卒業旅行に行ってみたくて」

「ツアーなら25万くらいよ。そんなに高くないわよ」


 月に2万の借金の支払いをしているのに、12回分は軽く支払える金額だ。

 ワンピースもカーディガンもコートも安くはないだろう。

 その分を支払いに回したら100年も縛られる事はない。

 けれど、きっと彼女は100年も縛られたいのだと思う。


「ネイルも素敵ね。クリスマス仕様かしら?」


 指先には、白っぽくベースが塗られていて、クリスマスツリーや雪だるま、プレゼント、リースが描かれている。真っ白な雪が降っている指先は、桜子さん並に派手にネイルアートされている。

 毎月、幾ら自分にお金を使っているのだろう?

 髪型もお洒落だ。こまめに手入れされているのが分かる。


「美衣が雪だるまを見て喜ぶのよ」

「ゆきだるま」


 葵さんの声に釣られて、美衣ちゃんが声を出した。

 おとなしい子なのか、一人で遊んでいる。

 手元には15㎝くらいの人形を両手で持って、お人形ごっこをしている。

 夜の仕事をしていた人なので、メイクも完璧に美しい。


「葵さんはどんなお仕事をしているの?」

「光輝に紹介してもらった事務の仕事よ。お給料は普通だと思うけれど、美衣を無料で預けられるのは、とても助かっている。家賃も安いし、ファミリー向けの社宅を借りているのよ」


 去年、卓也さんと光輝さんを追いかけて見つけた家だ。

 二人で住むには十分贅沢な部屋だ。


「家賃は幾らくらいなの?」

「5万弱ね。近くにスーパーもあるから、すごく助かっているの」

「事務の仕事だけで、有名高級ブランド物の洋服も買えるの?海外旅行だって、すごいのね?」

「実は、夜も働いているのよ。これは光輝に内緒にして欲しいけれど、昼の仕事より夜の仕事の方がお給料が高いの。だからお金が貯まるのよ」

「美衣ちゃんは、どうしているの?」

「この子、おとなしいでしょ?一緒に連れて行って、事務所で遊んでいるわ」

「一人で?」

「私みたいな女は多いのよ。子連れできて、事務所で遊ばせているの。眠くなったら、勝手に寝ていてくれるし。美衣はいい子だから」

「寝ている美衣ちゃんを連れて帰るのは大変じゃない?」

「ベビーカーで移動できるから、思った程大変じゃないわ。帰るのが億劫な時は事務所に泊まるし。朝まで事務所で寝て、朝、家に帰って着替えるのよ」

 夜の蝶は夜に帰るの?

 せっかく、光輝さんがまっとうな生活が送れるようにしてくれたのに、慎ましく暮らす分は与えてもらっているのに……。


「美衣ちゃんのお風呂は、どうしているの?」

「2~3日に一回くらいだけど、寒い季節だから、汚れないわ」


 わたしは美衣ちゃんをじっと見た。

 洋服はお洒落な物ではない。

 コートを脱いだ美衣ちゃんは、黄色いトレーナーに青い長ズボンを着ている。

 トレーナーには毛玉ができている。ジャージ生地であまり温かそうに見えない。

 もしかしたら、古着かもしれない。

 わたしみたいに体罰はされていないだろうか?

 子供にしてはおとなしすぎる。

 一人遊びに飽きたのか、椅子から降りようとした美衣ちゃんを見て、葵さんは「美衣!」と大きな声を出した。


「はい。ママ、ごめんなさい」


 美衣ちゃんは返事をして、椅子に座り直した。




 …………………………*…………………………




 部屋の電話が鳴り、電話に出ると、ケーキができあがったという報せだった。

 扉がノックされて、多岐さんが護衛に一緒に来てくれる。

 多岐さんが扉を開けてくれた。


「お待たせしました」

「お願いします」


 ケーキと飲み物が準備されていく。

 美衣ちゃんも喜んでいる。


「ケーキ、ふーしていい?」

「後でね」

「はい」


 美衣ちゃんは聞き分けがいい。

 よく躾けられている。


「光輝遅いわね」


 その時、扉が開いた音がした。


「お帰りなさいませ」


 多岐さんが確認して、声をかけた。

 光輝さんが部屋の中に姿を見せると、葵さんは立ち上がって、光輝さんに抱きついていった。


「会いたかったわ」

「あ、パパだ」


 美衣ちゃんの声に、わたしは体が脱力するような感じがした。

 美衣ちゃんは椅子を降りて、光輝さんの足にしがみついて、「パパ、パパ」と呼んでいる。

 その姿は光輝さんの奥さんと可愛い光輝さんの子供のように見えてしまう。


「葵、美衣に俺の事をパパと呼ばすな。俺から離れろ」

「だって、ずっと会いたかったのよ。毎日ラインしても返信もしてくれなくて、寂しかったわ」


 光輝さんはしがみついている葵さんを抱きしめた。手が後ろ髪の中に入ってネックレスを引き出して、体を離した。ネックレスが床に落ちた。

 光輝さんの手の中には、指輪があった。


「どこに隠していた?」

「なんで?これは私にくれたのでしょ?」

「盗まれた物だ」


 光輝さんは葵さんの指も見た。

 初めて誓い合った指輪を見つけて、それも引き抜いた。

 リングの輪の中を見て、葵さんの体を突き飛ばした。


「月2万円の返済は、甘すぎたな。そのワンピースは25万位していた物のはずだ。コートはアメリカ限定品だな。そのカシミヤのカーディガンは確か10万近くしていたな。美緒に買ったから覚えているぞ」


 葵さんは、光輝さんから数歩下がった。


「そのブーツも同じメーカーの物だな。どこからその金を捻出している?紹介した会社の給料では買えない物ばかりだ」

「それは……」


 葵さんは、唇を震わせている。


「光輝に相応しい相手になりたかったの」

「うちの職場は、副業は認めてはいない。その事は仕事を紹介したときに誓約書を書いてもらった。葵は副業をしているな?」

「してないわ」

「嘘を言うな。一般事務に買える品ではない」

「光輝!」

「弁護士に連絡して、現在の総収入と資産を計算してもらう。どうやら毎月2万円の返済額は安すぎたようだ。贅沢をさせるつもりで設定した額ではない。この部屋に乗り込むのも違反だ。俺のラインに送ってくるな。電話は特に邪魔だ。契約違反だ!残金は返してもらうからな」

「パパ、パパ」


 光輝さんは美衣ちゃんと背丈を同じにすると、美衣ちゃんの頭を撫でた。


「美衣ちゃんのパパではない。パパは別の人だよ」

「ママがパパだって」

「ママが間違えたんだよ」


 しがみついてくる小さな体を抱きしめて、頭を撫でる。

 美衣ちゃんに罪はない。

 全て葵さんの策略だ。

 コックが部屋の中に入って来て、ケーキを箱詰めして袋に入れた。

 そのケーキを光輝さんは受け取った。

 コックはテーブルを片付け始めた。


「明日にでも、弁護士が訪ねるだろう。自分がこの先どう生きたいのかよく考えなさい」



 光輝さんはケーキを葵さんに渡した。

 葵さんがベビーカーに近づくと、美衣ちゃんがコートを持って、葵さんに近づいて行った。

 ベビーカーのフックにケーキをぶら下げると、美衣ちゃんにコートを着せて、自分もコートを着た。


「もう、会えないの?」

「会うつもりはない。あまりしつこいとストーカーとして通報する」

「分かったわ」



 葵さんは、部屋から出て行った。

 嵐のような時間だった。



「ボイスレコーダーで会話は取っておいたの。良かったら聞いてみて」


 わたしはカウンターの上にボールペン型のボイスレコーダーを置いた。

 そのボイスレコーダーの横に指輪が二つ並べられた。

 婚約指輪の方は、わたしのサイズのような気がしたが、結婚指輪はサイズが大きいような気がした。

 指で摘まんでリングの中を覗くと、婚約指輪は多少汚れが目立つが、以前と変わらなかった。

 結婚指輪は、サイズが大きくされて、内側に刻印された文字が変わっていた。


『光輝から葵へ』


「指輪はクリーニングに出そうと思う。結婚指輪は、リメイクするか?素材を使って、違う物を作ろうか?今はお互いに結婚指輪は嵌めている」

「光輝さんがそれでいいなら、お任せします」


 光輝さんは婚約指輪を右手の薬指に入れた。

 美しいけれど、ずっと葵さんが身につけていたと思うと、嫌な気持ちになった。


「やはり汚れているな。綺麗にしてから送り直そう」


 指から、指輪を抜いてくれた。

 わたしは手を洗うと、ミネラルウォーターを出して、お湯を沸かした。

 温かな緑茶が飲みたい。


「お茶を入れるから、着替えてきたら?」

「ああ、コートは香水の香りが移ったな。クリーニングに至急出しておこうか」


 光輝さんは寝室に入っていくと着替えを持って、シャワーを浴びに行った。

 光輝さんは、シャワー派でホテルではお風呂に入らない事を、ずいぶん前に教えてもらった。

 お湯があれば、入る程度らしい。

 もし、わたしがお湯を溜めたら残しておいて欲しいと言われた。

 久しぶりに桜の茶器でお茶を飲みたくなった。

 光輝さんの器を出して、わたしの器も出す。

 多岐さんへは白い器を出した。

 淡い黄色の桜は本当に存在するのか、珍しい色彩で描かれた器だ。


 光輝さんがお風呂に入って行ったのは、わたしに葵さんの香りを嗅がせないためだと思う。

 その心遣いに感謝しながら、美味しいお茶を淹れる。

 沸いたお茶を器に入れて、器を温めて、急須に入れる。暫く蒸すといい香りに包まれる。

 ひとつずつ丁寧にお茶を淹れていると、光輝さんが出てきた。

 セーターにスラックスは普段着だ。今日はもう外出はしないのだろう。


「お茶が入りました。多岐さんも、一緒にどうぞ」


 多岐さんのお茶は、わたしの横に置く。


「心遣い感謝します」


 わたしを挟んで三人でカウンターの前に座る。


「美緒、話すことがあるだろう?」

「ん~~~、何だっけ?」


 葵さんの事で手一杯になって、自分の事を忘れていた。


「多岐さんからメッセージが届いていたぞ」


 わたしが思い出さないので、多岐さんが話し出した。


「今日出かけた先で、美緒さんのお母様が美緒さんに刃物を向けました。お金を要求されて、お財布の中のお金を奪われてしまいました。一緒にいながら、美緒さんを守ることしかできずに申し訳ございません」

「美緒を守ってくれただけで助かった」


 多岐さんは深く頭を下げた。


「真竹の家で、父が若い女性と結婚して、春に待望の男の子が生まれたそうです。母は、今は風俗で働いているそうです。ナイフを向けられ、お金を要求されました。咄嗟にカードを抜いたので、取られた金額は3000円もなかったです。デパートで騒ぎを起こしてしまったので、警察も来て、事情聴取も受けました。母は入店拒否されるそうです。警察は接近禁止令違反と傷害未遂と窃盗で調査をするそうです。わたしは、相当、母に嫌われているみたいです。母の子宮を壊して生まれてきたので……。母は男の子が欲しかったので、仕方がないですね。今日は多岐さんに助けられました。多岐さん、ありがとうございました」


 多岐さんが軽く会釈で答えてくれる。

 飲み頃になったお茶を飲むと甘みがあって美味しい。


「光輝さん、今日はもうお仕事に行かれないのですか?」

「今から向かっても、すぐに顔だけ出す宴会の時間になってしまうだろう。別の日にまだ外勤があるかもしれんが、今日は終わりだ」

「それでしたら、私は失礼いたします」


 多岐さんは、立ち上がると、一礼した。


「「お疲れ様でした」」


 多岐さんは荷物を持つと出て行った。

 契約では光輝さんが帰宅したら、仕事は終わりとなっている。


「美緒、お母さんには気をつけなさい」

「はい、今日は本当に偶然会ってしまったのです」

「デパートで何をしていた?」

「買い物です。欲しい物があって」

「欲しい物がある時は、俺と一緒に行こう」

「すみません、今日は特別だったの」


 できれば秘密で用意したかったのだ。

 愛する人へのプレゼントをゆっくり選びたかった。

 光輝さんの手がわたしの肩に触れて、引き寄せられた。

 啄むようなキスに、夢中になってしまう。


「お昼を抜かせてしまったのだな?」

「はい、でも、いいです。指輪も戻って来て嬉しいので。一緒に食べませんか?今から一食を食べてしまうと、夕食が入らなくなってしまいます」

「それなら、少しいただこう」



 サンドイッチのお皿をずらして、二人の間に置いた。

 光輝さんが摘まんで、わたしの口に入れてくる。

 わたしも光輝さんの口にサンドイッチを入れた。

 二人で一緒に食べる。

 オレンジジュースは、氷が溶けて薄くなっていた。

 氷のように、人の思いも溶けて薄まって、水に変わればいいのに。

 葵さんが抱える光輝さんへの思いや、もう20年も抱えている母のわたしへの恨みも溶けてしまったら、互いに楽になれるのに……。



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