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家主の距離が近すぎる
⑧
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買収後、外資系企業として生まれ変わったとある会社の社員食堂には、実にグローバルな風が吹いている。
アメリカ本社から海を渡ってきた『マシュー・ペリー』たちは平たい顔族ののっぺりした視線などどこ吹く風と辣腕をふるい、約2年と少しの間で傾いた社塔を立て直す足場を組み上げた。
まさしく、ペリー来航。変化に戸惑う社員の心の教科書に深く刻み付ける結果となった。
本社のキャリア組筆頭、いい年こいて独身。トーマス・ハーゼスが派遣されたのはこの二つの理由あってのことである。
彼は仕事と結婚したんだ! と表裏でいじられていたものだが、仕事にしても人柄にしても優良かつ誠実であることに違いなく、ダンディな色気も相まって、男女の垣根なく大変人気のある男でもあった。
そんなトーマスは首都のクリーンな景色を一望できる、人気の窓際席に腰かけて、唐草模様の巾着から取り出したお弁当を広げにんまりとした。
「一人でニヤついてるのは不気味だぞ。なにかあった?」
「やぁ、ブライアン。聞いてくれよ」
大変人気な男、トーマス・ハーゼスが、社内でちょっかいをかけられない理由が一つ。
彼がオープンリーゲイだからだ。
「ついにカレと進展したんだ!」
「あぁ、勢いで同棲中のカレね」
「その通り」
同僚のブライアンはトーマスの隣に座って食事を始める。
トーマスがゲイだという話が瞬く間に広まって、共に食事をする彼らを遠巻きに眺めていた人も、現在はずいぶん減った。
トーマスはオープンな人間ではあったものの、同時に、そうすることによって自分を恐怖の対象として見る人がいることも理解していたため、セクシャルな話やそれに付随する恋愛観などを安易に口にしなかった。
下世話で下品な人たちの口さがない言葉に耳を貸さなかったし、かといって己の性指向を否定もしなかった。そんな仕事とプライベートとを線引きする姿、大人な態度、トーマスの持つ人格、いわば、ある種の気高さによって、彼は部下や周囲から尊敬されていた。ブライアンもそのうちの一人である。
年齢はトーマスより3つほど下で、かつてはトーマスと同じく本社勤務だったが、キャリア形成の一環として日本へやってきた。
当初、彼も周囲と同じく、トーマスを遠巻きに見ていた一人であった。当時は気さくで温厚なトーマスに怯えてすらいた。
だが、時間が経つにつれ、トーマスの仕事の割り切り方や優秀さに感化されるうちに彼への主観と感情ばかりの評価を改め、現在こうしてよき同僚として付き合っている。
「いい感じなんだ。良いことだね。だけど、カレは日本人なんだろ? そろそろ考え方の違いが浮き彫りになる頃だと思うね」
「カノジョに浮気されたからって八つ当たりするのはやめなさいよ、ブライアン」
口をへの字に曲げたブライアンに批難の言葉を浴びせたのは、レパートリーの豊富な社食をトレーに乗せた日本人同僚、理恵。
彼女はブライアンの隣の席につき、ブライアンに対して冷ややかな視線を送った。
「あー……彼、浮気されたの?」
「カノジョのインスタの写真に別の男が写り込んでたんだって」
「勘違いしている。あれはカノジョじゃない。だから僕は浮気なんかされてない」
ブライアンはあくまで不服を訴えているものの、あからさまな負け惜しみにしか聞こえないため、トーマスは苦笑いした。
顔を背けて昼食の竜田揚げにとりかかったブライアンに非常に小さい嘆息をついたリエは、座り直してトーマスに向き直った。
「だけど、彼の言うことも一理あると思うわ、トーマス」
「おいおい。確かに一緒に暮らすことになったのは勢いだったが、カレとは2年以上の仲だし、同意もあった。問題ないよ」
「私は自分では気づけない部分のことを言ってるのよ」
「それってキミの経験から言ってるの?」
「おだまり、ブライアン」
リエは豪胆で強かな性格で、はっきりと物事を口にするため、おべっかや謙遜を面倒だと感じる人からは好意的な印象を持たれている。
一方で、お節介だと言われることもしばしばあるため、皮肉屋なブライアンとは反りが合わない。
「カレは話すことが苦手なだけで不満を溜める人じゃないよ」
「日本人とアメリカ人とでは考えてることがまったく違うわよ。友達として付き合う時は楽しくても、恋人になったら噛み合わないとかね」
「聞いたことあるよ! 日本には『コクハク文化』があるんでしょ?」
「その通りよ」
拗ねていたブライアンが身を乗り出す。神妙に頷くリエ。
トーマスは初耳の言葉を反復する。
「『コクハク文化』……?」
「日本では交際する時、その確約をするんだって。『わたしとあなたはカップルです』ってね」
「正しくは『あなたのことが好きだから交際してほしい』だけどね。相手が納得したら交際が始まるの。待って。トーマス、あなたがそれを知らないのはおかしいことじゃないの?」
二人の視線がトーマスに注がれる。たこさんウインナーをフォークに刺した姿勢で固まった彼は、器用なことに眉だけをぎゅっと寄せて思考をロードした。
不穏センサーに完全にからめとられたトーマス。リエの絶叫が食堂にこだまする。
アメリカ本社から海を渡ってきた『マシュー・ペリー』たちは平たい顔族ののっぺりした視線などどこ吹く風と辣腕をふるい、約2年と少しの間で傾いた社塔を立て直す足場を組み上げた。
まさしく、ペリー来航。変化に戸惑う社員の心の教科書に深く刻み付ける結果となった。
本社のキャリア組筆頭、いい年こいて独身。トーマス・ハーゼスが派遣されたのはこの二つの理由あってのことである。
彼は仕事と結婚したんだ! と表裏でいじられていたものだが、仕事にしても人柄にしても優良かつ誠実であることに違いなく、ダンディな色気も相まって、男女の垣根なく大変人気のある男でもあった。
そんなトーマスは首都のクリーンな景色を一望できる、人気の窓際席に腰かけて、唐草模様の巾着から取り出したお弁当を広げにんまりとした。
「一人でニヤついてるのは不気味だぞ。なにかあった?」
「やぁ、ブライアン。聞いてくれよ」
大変人気な男、トーマス・ハーゼスが、社内でちょっかいをかけられない理由が一つ。
彼がオープンリーゲイだからだ。
「ついにカレと進展したんだ!」
「あぁ、勢いで同棲中のカレね」
「その通り」
同僚のブライアンはトーマスの隣に座って食事を始める。
トーマスがゲイだという話が瞬く間に広まって、共に食事をする彼らを遠巻きに眺めていた人も、現在はずいぶん減った。
トーマスはオープンな人間ではあったものの、同時に、そうすることによって自分を恐怖の対象として見る人がいることも理解していたため、セクシャルな話やそれに付随する恋愛観などを安易に口にしなかった。
下世話で下品な人たちの口さがない言葉に耳を貸さなかったし、かといって己の性指向を否定もしなかった。そんな仕事とプライベートとを線引きする姿、大人な態度、トーマスの持つ人格、いわば、ある種の気高さによって、彼は部下や周囲から尊敬されていた。ブライアンもそのうちの一人である。
年齢はトーマスより3つほど下で、かつてはトーマスと同じく本社勤務だったが、キャリア形成の一環として日本へやってきた。
当初、彼も周囲と同じく、トーマスを遠巻きに見ていた一人であった。当時は気さくで温厚なトーマスに怯えてすらいた。
だが、時間が経つにつれ、トーマスの仕事の割り切り方や優秀さに感化されるうちに彼への主観と感情ばかりの評価を改め、現在こうしてよき同僚として付き合っている。
「いい感じなんだ。良いことだね。だけど、カレは日本人なんだろ? そろそろ考え方の違いが浮き彫りになる頃だと思うね」
「カノジョに浮気されたからって八つ当たりするのはやめなさいよ、ブライアン」
口をへの字に曲げたブライアンに批難の言葉を浴びせたのは、レパートリーの豊富な社食をトレーに乗せた日本人同僚、理恵。
彼女はブライアンの隣の席につき、ブライアンに対して冷ややかな視線を送った。
「あー……彼、浮気されたの?」
「カノジョのインスタの写真に別の男が写り込んでたんだって」
「勘違いしている。あれはカノジョじゃない。だから僕は浮気なんかされてない」
ブライアンはあくまで不服を訴えているものの、あからさまな負け惜しみにしか聞こえないため、トーマスは苦笑いした。
顔を背けて昼食の竜田揚げにとりかかったブライアンに非常に小さい嘆息をついたリエは、座り直してトーマスに向き直った。
「だけど、彼の言うことも一理あると思うわ、トーマス」
「おいおい。確かに一緒に暮らすことになったのは勢いだったが、カレとは2年以上の仲だし、同意もあった。問題ないよ」
「私は自分では気づけない部分のことを言ってるのよ」
「それってキミの経験から言ってるの?」
「おだまり、ブライアン」
リエは豪胆で強かな性格で、はっきりと物事を口にするため、おべっかや謙遜を面倒だと感じる人からは好意的な印象を持たれている。
一方で、お節介だと言われることもしばしばあるため、皮肉屋なブライアンとは反りが合わない。
「カレは話すことが苦手なだけで不満を溜める人じゃないよ」
「日本人とアメリカ人とでは考えてることがまったく違うわよ。友達として付き合う時は楽しくても、恋人になったら噛み合わないとかね」
「聞いたことあるよ! 日本には『コクハク文化』があるんでしょ?」
「その通りよ」
拗ねていたブライアンが身を乗り出す。神妙に頷くリエ。
トーマスは初耳の言葉を反復する。
「『コクハク文化』……?」
「日本では交際する時、その確約をするんだって。『わたしとあなたはカップルです』ってね」
「正しくは『あなたのことが好きだから交際してほしい』だけどね。相手が納得したら交際が始まるの。待って。トーマス、あなたがそれを知らないのはおかしいことじゃないの?」
二人の視線がトーマスに注がれる。たこさんウインナーをフォークに刺した姿勢で固まった彼は、器用なことに眉だけをぎゅっと寄せて思考をロードした。
不穏センサーに完全にからめとられたトーマス。リエの絶叫が食堂にこだまする。
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