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家主の距離が近すぎる
⑦
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「ヘンリー、ヘンリー」
「ん、うぅん……」
眩しい。
それと、チェロのリラクゼーションミュージックみたいな優しい声に、薄目を開ける。
「おはよう、ヘンリー」
ちょっと面長でえらの張った顔立ちはダンディなのに、朝イチで見ても鬱陶しいとは思えない。
黒のワイシャツにシルバーのネクタイを通しながら、トーマスが顔を覗き込んでくる。
「……」
「まだ夢の中かな」
「とーます?」
「ああ、おはよう。お腹を出して寝ると風邪をひくんだろう? きみのお腹はなんというか……シンプルな作りだね」
「んっ……と、トーマス? あ、あれ……トーマス!? ど、どうして部屋にいるんだ。ノックは?」
「ノックはしたよ。返事がなかったんだ」
シュルシュルと慣れた手つきでネクタイを結んだトーマスは悪びれる様子一つ無い。それどころかオレのお腹に手のひらをペッタリと密着させて、親指でへそをぐいと押してくる。
なんにせよ無断で部屋に入っているじゃないか……。
よく、昨日の今日でこんなに気負わずに話せるものだと思う。
確か昨夜はあのままベッドに潜り込んで……気付いたら寝落ちしていたんだっけ。
昨日は昨日、今日は今日。オレを支配していた感情の濁流も多少はマシになったらしく、トーマスの顔を見ても昨日ほど酷い情緒にはなっていない。
だけど、トーマスが普段通りにオレに接してくれていたらオレは今以上に普通にできていたことだろう。腹をまさぐられてなんとも思わないわけない。
「と、トーマス……どこ触ってるんだよ」
「朝のコーヒータイムにきみが起きてこないから。『腹いせ』ってやつだよ。ハハハ、ナイスジョークだろう?」
す、拗ねてる。あのトーマスが、拗ねてる。
もともとトーマスはオレより9つも年上なのに、たまに年上らしからぬ言動をすることがあった。彼のパーソナルスペースがイカれているのか、誰に対してもこうなのか。
朝のコーヒータイムはその名の通り、朝に一緒に起きてコーヒーを楽しみ、朝食を作る時間だ。彼はコーヒータイムのニュアンス以上に朝食を作るという共同作業の部分が損なわれた件について苦言を呈したいのだろう。
「それは、ごめん。起きられなかったんだ。夕食の皿洗いはオレがするよ」
ここは、夕食はオレが作るよ。と言うところだろうが、夕食に比べて朝食は作成コストが低いし、オレはそもそも料理ができないためだ。
朝食を一度、全部任せられたからといって、わざわざマズい夕食を口にしたくはないだろう。
「気にしないで。私が言いたいのは、朝にきみの顔を見られなかったことが辛いという話だよ。もう出勤の時間だ」
「へ、あ、う……うん。いってらっしゃい」
「キスしてくれないの?」
「はえ?」
「いってらっしゃいのキス」
やたら発音がエロティックな『キス』に卒倒しかける。オレだって『いってらっしゃいのキス風習』が存在していることは知っている。でも、普通は家族間や恋人同士、夫婦とか、あくまで身内である場合であって、オレたちは友人だ。
それにキスって言っても一般的にはチークキスだし、アメリカではキスよりもハグが普通だって聞いたぞ。違うのか?
「ヘンリー、私を遅刻させたいのかい?」
「う、う、う……わかった、わかったよ!」
追い詰められて言質をとられる。途端にトーマスは表情を明るくさせて。オレの腕を自らの首へ導き、まるでショーのように体を絡める。
これ、必要か!?
それでいて、いつでもどうぞと言わんばかりに眉をくいと上げ下げして、顔面の暴力を見せつけてくるのだ。このアイアンマンめ。
「トーマス……」
「ヘンリー、きみは本当にウブなんだなあ」
「お、おい。それ以上言ったら蹴っ飛ばすぞ」
狼狽するオレを楽しそうに、至近距離で見つめるトーマスの頬に、勢いよく唇をつけた。チュッでもなく、ブチュッでもなく、ゴリッとした感触に渋い顔を互いに見合わせる。
「キスというより、頭突きだね」
「もう仕事に行きなよ。ご所望の通りキスしたろ」
「わかったよ」
トーマスをベッドの上からねめつけるとやれやれと首を横に振った彼が途端に覆いかぶさってきて、頬にリップ音がもたらされ、オレは何度目かの衝撃に一周回って理解が追いついた。
「な、な、なッ……!!」
「キスの練習が必要かな、ってね」
颯爽と家を出たトーマスに、ベッドから身じろぎ一つできないオレに。
声にならない絶叫がこだましたことは言うまでもない。
「ん、うぅん……」
眩しい。
それと、チェロのリラクゼーションミュージックみたいな優しい声に、薄目を開ける。
「おはよう、ヘンリー」
ちょっと面長でえらの張った顔立ちはダンディなのに、朝イチで見ても鬱陶しいとは思えない。
黒のワイシャツにシルバーのネクタイを通しながら、トーマスが顔を覗き込んでくる。
「……」
「まだ夢の中かな」
「とーます?」
「ああ、おはよう。お腹を出して寝ると風邪をひくんだろう? きみのお腹はなんというか……シンプルな作りだね」
「んっ……と、トーマス? あ、あれ……トーマス!? ど、どうして部屋にいるんだ。ノックは?」
「ノックはしたよ。返事がなかったんだ」
シュルシュルと慣れた手つきでネクタイを結んだトーマスは悪びれる様子一つ無い。それどころかオレのお腹に手のひらをペッタリと密着させて、親指でへそをぐいと押してくる。
なんにせよ無断で部屋に入っているじゃないか……。
よく、昨日の今日でこんなに気負わずに話せるものだと思う。
確か昨夜はあのままベッドに潜り込んで……気付いたら寝落ちしていたんだっけ。
昨日は昨日、今日は今日。オレを支配していた感情の濁流も多少はマシになったらしく、トーマスの顔を見ても昨日ほど酷い情緒にはなっていない。
だけど、トーマスが普段通りにオレに接してくれていたらオレは今以上に普通にできていたことだろう。腹をまさぐられてなんとも思わないわけない。
「と、トーマス……どこ触ってるんだよ」
「朝のコーヒータイムにきみが起きてこないから。『腹いせ』ってやつだよ。ハハハ、ナイスジョークだろう?」
す、拗ねてる。あのトーマスが、拗ねてる。
もともとトーマスはオレより9つも年上なのに、たまに年上らしからぬ言動をすることがあった。彼のパーソナルスペースがイカれているのか、誰に対してもこうなのか。
朝のコーヒータイムはその名の通り、朝に一緒に起きてコーヒーを楽しみ、朝食を作る時間だ。彼はコーヒータイムのニュアンス以上に朝食を作るという共同作業の部分が損なわれた件について苦言を呈したいのだろう。
「それは、ごめん。起きられなかったんだ。夕食の皿洗いはオレがするよ」
ここは、夕食はオレが作るよ。と言うところだろうが、夕食に比べて朝食は作成コストが低いし、オレはそもそも料理ができないためだ。
朝食を一度、全部任せられたからといって、わざわざマズい夕食を口にしたくはないだろう。
「気にしないで。私が言いたいのは、朝にきみの顔を見られなかったことが辛いという話だよ。もう出勤の時間だ」
「へ、あ、う……うん。いってらっしゃい」
「キスしてくれないの?」
「はえ?」
「いってらっしゃいのキス」
やたら発音がエロティックな『キス』に卒倒しかける。オレだって『いってらっしゃいのキス風習』が存在していることは知っている。でも、普通は家族間や恋人同士、夫婦とか、あくまで身内である場合であって、オレたちは友人だ。
それにキスって言っても一般的にはチークキスだし、アメリカではキスよりもハグが普通だって聞いたぞ。違うのか?
「ヘンリー、私を遅刻させたいのかい?」
「う、う、う……わかった、わかったよ!」
追い詰められて言質をとられる。途端にトーマスは表情を明るくさせて。オレの腕を自らの首へ導き、まるでショーのように体を絡める。
これ、必要か!?
それでいて、いつでもどうぞと言わんばかりに眉をくいと上げ下げして、顔面の暴力を見せつけてくるのだ。このアイアンマンめ。
「トーマス……」
「ヘンリー、きみは本当にウブなんだなあ」
「お、おい。それ以上言ったら蹴っ飛ばすぞ」
狼狽するオレを楽しそうに、至近距離で見つめるトーマスの頬に、勢いよく唇をつけた。チュッでもなく、ブチュッでもなく、ゴリッとした感触に渋い顔を互いに見合わせる。
「キスというより、頭突きだね」
「もう仕事に行きなよ。ご所望の通りキスしたろ」
「わかったよ」
トーマスをベッドの上からねめつけるとやれやれと首を横に振った彼が途端に覆いかぶさってきて、頬にリップ音がもたらされ、オレは何度目かの衝撃に一周回って理解が追いついた。
「な、な、なッ……!!」
「キスの練習が必要かな、ってね」
颯爽と家を出たトーマスに、ベッドから身じろぎ一つできないオレに。
声にならない絶叫がこだましたことは言うまでもない。
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