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家主の距離が近すぎる

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「あ、え、えっと……」
「私が初めて弾いた曲なんだ。自分自身の道に迷った時は、いつもこれを弾いていた。大学の寮で暮らしていた時は、よくうるさいって怒られたよ」
「あ、そ、そうなんだ……オレも好きだよ。特に学生の頃、毎日のように聴いてた。いまでも急に聴きたくなる時がある」

郷愁に襲われて、目を細める。
にしても、トーマスにもそんな時期があったんだな。意外なエピソードに、トーマスと目を合わせると、なんとも言えない穏やかで優しい瞳に、これまたなんとも言えない気持ちがこみあげてくる。
どうしてそんな目で見るんだ?

「一緒に歌えて嬉しい」
「あ、あー……ハハ、オレたち、音楽の趣味がバッチリだものね」
「映画もね」
「それに、きみの話はいつも、その……オレを元気にしてくれる」
「私だってきみからのレスポンスを毎日楽しみにしていた」
「そ、それに、それに……きみと暮らし始めてから、オレは、以前よりマイナスな気持ちになることが減った」
「それは私がいるからじゃない。きみが前向きになって、より明るい未来を考えるようになったからだ。きみの変化だ」
「そんなことないよ、トーマスのおかげだ。ありがとう」

忌憚ない感謝を口にして、へらりと笑う。

瞬間、吐息が交わった。
あまりに近すぎる距離だから、何が起きたのか把握しきれなくて、理解の範疇を越えた出来事に、頭は電源ボタンを長押しされたコンピュータのように思考を停止した。

「し、しるびお」
「シルヴィオじゃない。トーマスだよ、ヘンリー」

さらにオレのこめかみに追撃のキスをして、ニッコリ微笑んだ。

「あ、あう……」

オレは壊れたおしゃべりロボットのように情けない声を上げて、今この状況をどう処理したら良いのか決めあぐねていた。

「きみは可愛いな。心の底からそう思うよ」

トーマスは表情豊かで、言葉とともに眉の動きで語るタイプだ。
きゅっと締まった眉根の谷に、静かだのに激しい感情の奔流を感じて、オレは恥ずかしくなって、思わずギターをトーマスに突き返し、与えられた自室に逃げ込んだ。

バタンと扉を閉める。
心臓が壊れそうなほど高鳴っていた。

ど、どうしちゃったんだ。トーマスも、オレも……!!

なぜ、トーマスがオレにキスしたのかわからない。
か、可愛いなんて言ったのかもわからない。
いくら2年もの間、SNS上で交流していたからといってオレを居候させているのかわからない。

ただの厚意? なにか思惑がある? 収入源としては心許ない『趣味』のため?
ど、どんな後ろ暗い考えを持っていたとしても、キスはおかしいだろ……!

「ヘンリー」
「ひっ」

珍しくトーマスがノックをした。きまり悪く思っているのだろうか。
困った声の調子に、オレの方が調子が狂う。いっそ「ジョークだよ!」と笑い飛ばしてくれたらよかったのに。

「ヘンリー、驚かせてしまった? あー……怒っているのかい?」

喉が締まって声が出せない。というか、なんて言ったらいいのかもわからない。ひとりぼっちなのにオレは目をぎょろぎょろと動かしてこの会話の出口を探す。

「ヘンリー、ドアを開けてもいい?」
「だ、だめだ!!」

難しい思考は置いておいて、とにかく今、部屋に入られるのはまずい。八方塞がりになってしまうじゃないか。

並大抵ではない行動力を発揮しようとしているトーマスに向けて、思わず大声の拒否をしてしまい、罪悪感が煽られる。
しかしどうしようもなく高鳴っている心臓には、彼の言葉も、腕の感触も、毒にしかならない。

「だ、だめ……入らないで。きみになんて顔をしたらいいのか、わからない」
「キスは嫌だった?」

またしても言葉に詰まる。
どうしてこうストレートに聞いてくるかなあと頭をガリガリと掻きむしる。
そんなの、トーマスだから。仕方ない。

遠回しな言葉を面倒臭いと思ったことは何度もあるけど、こうして直球で問われるのも困る。返答を急かされているみたいで、圧を感じるから。
しかし、うっと言葉に詰まって数秒が経ったが、トーマスはオレの答えを神妙な無言と静寂の中で急かすことなく待っている。

「い、嫌じゃない……」

もし、真正面にトーマスが構えていたなら言葉にはできなかっただろう。
扉に背を預けて縮こまったオレの口から出た答えに、自分自身すら困惑しているのだから。

「びっくりしたんだ、こういうことは初めてで……」

キスしたことがないわけじゃないが、男同士で、そういう雰囲気になって、流れを掴みとる前に見つめ合ったのち不意打ちのキス……というのはさすがに経験がない。

陰謀論、思惑、に、2000年問題……?
トーマスが何を思ってどうしてキスしたのかを完全に理解することはできないが、ニュアンスからして……好意はあったのだろう。
明らかに挨拶のキスじゃなかった。なんとなく雰囲気になっていたことも認める。そもそもキスって好きな人とするものだし。つまりトーマスはオレに好意があるかもしくは……ペット感覚とか?

わ、わからない。まったく全貌がつかめない。
だけど、嫌じゃなかった……。

見つめ合ったときの、吸い込まれるような青い瞳。甘い囁き。吐息の交わり。
ドキドキして、目が離せないナニカがあった。数年忘れかけた人間的感覚を我が手に取り戻したというか……。

「ヘンリー」
「はっ……な、なに?」

真後ろ、ドア越しの声。扉の上の方で、ガリッと爪を立てる音がして、それはドアの表面を削る音と共に、ゆっくりとオレの背まで下りてくる。

「きみは本当に可愛いな」

張り詰めた緊張の中、甘ったるい声が、パイを投げつけるように扉にぶっ飛んできて、オレの心臓はついに破裂寸前になった。
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