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ヒーローとの出会い

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「ミスター……」

バスルームから出て、ちらりとリビングを窺う。トーマスは何人掛けかと数えたくなる広々としたソファに身を預けていた。びしょ濡れだったスーツは、部屋着だろうか。上下とも黒のゆったりとしたルームウェアに着替えられている。
彼は腕まくりをして、太い腕でしなやかなギターを抱いていた。ペグの調整をしながら鼻歌を歌っている。それがやっぱり、どこかで聞いたことがあるような気がするのだ。
オレが知っている曲、にしては、トーマスの声を聞いてからずっと何かを忘れたような気分になっているし。なんだか気持ちが悪いな。

「ミスター、シャワーをどうもありがとう。あと着替えも」

もう一度、今度はハッキリと話すと、トーマスは目をぱちぱちさせて顔を上げオレを見た。集中すると周りが見えなくなるのかもしれない。オレと一緒。

「ああ、着替えはどう?」
「ちょっと大きいかな。上はいいけど、下がずり落ちそうだ」
「あぁ、サイズはそれしかないんだ。きみは小さいから困ったな」

クスクス笑ってトーマスはまたギターの音を合わせる。チューニングってやつだっけ。彼が弦をゆっくりと上から下へなぞると、神妙な音が鳴った。

「こっちへ来なよ。温かい飲み物はいる? ココアしか用意できないけど」
「そこまでしてもらうのは悪いよ」
「変なところでジャパニーズ精神を働かせるなあ。下着まで私のものなのに」
「え、新品だってさっき……」
「ハハハ、ジョークだよ。そんなに焦ることないじゃないか。ねえ?」



トーマスがシャワーを浴びている間、オレは鞄から濡れている荷物を取り出した。幸い、鞄の中にろくなものが入っていなかったため、スマートフォンが氷の板みたいに冷たくなってしまったくらいで済んだ。

先ほどまでトーマスが座っていたソファ。座り心地は控えめに言っても最高。柔らかすぎなくて、硬すぎもしなくて、ひじ掛けの高さまでちょうどいい。コの字型に並べられたソファだけど、それを引いても周辺はガタイの良いトーマスが2人並んで歩いても余裕で通れる広さがある。大きなテレビが黒々と存在感を主張して、テレビとソファ以外は殆ど白。白の床とカーペット。広すぎて落ち着かないが、ここにはトーマスとオレ以外に人はいないという。

オレはスマホを開いた。
今日、この日に全てを終わらせるつもりだった。
趣味の絵を載せているSNSも昨日で更新をとめている。別れの挨拶なんてしない。そんなことをしたら心配されたいイタいヤツみたいだって思うから。
友人たちにも何も言っていない。
けれど、唯一。SNSを通じて仲良くなった人がいた。その人にだけは伝えたのだ、もう話せないって。
会ったことはない。ダイレクトメールでメッセージを交換して、ただ話していた、顔も本名も知らない友人。オレが死んだとしてもまったく気が付かない人。
中途半端なまま、急に連絡が途絶えてしまうことが申し訳なくて。
彼は何も悪くはないということを伝えておきたくて。
オレを所詮ただのネット上の関係だったと、すぐに流して忘れてしまえるように。


英文のやり取り。相手からの返事が来ていた。震える指先でメッセージを開く。既読なんかが付かないのが幸いだ。

『突然だけどもう話せない。きみはオレを楽しませてくれるとても良い友人だったよ』

何度も書き直して、書き直して、書き直したオレのメッセージの下。フキダシは三つ。最初は昨晩に。もう一つは、今朝に。最後は、今からおよそ30分前。オレが飛び降りようとした直前。

『なぜ? もしかして、もう絵も描かないの? 事情があるなら教えて。前から言っているけれど、きみと会ってみたい』

『本当にもう返事をくれないつもり? 私を友人だと思っているのなら何でも相談してほしい。私はきみに嫌なことを言ったかな』

『もし覚えていたら、きみがいつも通るっていってた場所に来て。不安なら友達でも連れてきていいから。私はきみともっと話したい』

読むたびに肺と肺の隙間から冷たい風が通り抜ける。イガイガした棘が喉一杯に突き刺さって息をすることさえ苦痛にさせた。

どうしたらいいんだろう。オレは、死にそびれてしまった。そのことがようやく脳みそに浸透して、焦燥が生まれる。
もう話せないと言ってしまったからには何が何でも死ななくてはいけない気がした。今、彼に謝ったなら彼は返事をくれるだろうか。それとも呆れてオレをブロックするだろうか。構ってほしい鬱陶しいやつだと思われるだろうか。
そんなの嫌だ。辛すぎる。

だからオレは、返事をすることができない。惜しい友人だけど。
ネットなんて広大な海の中で2年間もの間、毎週、毎日、彼とやり取りをした。くだらない話だ。好きな歌、好きな絵、ドラマ、海外の流行。オレがSNSに載せた絵や写真について。彼の、新しい曲について。

楽しかった。顔が見えない相手だけど、彼は明るくてポジティブでオレと真反対なのに彼はオレに劣等感を与えなかった。第三者から見たら、くだらないと鼻で笑われるだろう。なにせネット上の関係なのだから。相手がやめればどうしたって終わりになる。きっと、オレが彼に同じことをされたなら酷く傷つくだろう。
そう思う反面、明るい彼ならきっと、現実でも友達が多くいてオレなんかその中のくだらないひとりに過ぎないから、どうせすぐに忘れられてしまうんだろうななんて思う。

こうなって初めて、自分が嫌になる。返事ができないまま、スマートフォンを額にくっつけて喘ぐ。

「……シルヴィオ」

シルヴィオ
シルヴィオ・ラヴ
オレの大切な、大切な友人だった人。

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