青い鳥を探して

かほ

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第一章

露呈

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「遅れてしまい申し訳ありません」
「ああ、アルべノール君ですか。珍しいですね。次からは気をつけてください」
「はい」

 ノアが授業に遅れてきたのを見たのは初めてだった。それは教師も同様だったらしく、他の誰かならこれに小言が2つ3つ追加されるところだが、随分と甘い反応である。

 教室の前の扉から入ってきたノアの姿は、後ろ方の席に座っているエーリクからはよく見えた。


 彼…いや、おそらくは彼女、というのが正しいのだろう。

 すらりとした華奢で小柄な体と、中性的で美しい顔立ち。…いや、今までは中性的だと思っていたが、今はもう女性のものとしか思えない。体つきとてそうだ。肉感の少ないとはいえ腰回りの曲線などの骨格は特に、そうとわかって見てみれば明らかに女性のそれだった。

 そんなことを考えながらノアの姿を目で追っていると、ぱちりと音を立てそうなほどはっきりと視線がぶつかった。
 人の身体を不躾にも、じろじろと観察してしまった罪悪感で思わず顔を背ける。

 流石に不自然だったろうか。そう思い視線を戻すと、ノアはまだじっとこちらを見つめていた。
 何を考えているかわからない、透明な眼差し。

 ふいと目をそらしたのは、今度はノアの方からだった。

 ふうと無意識に息を吐きだしていて、この一時の間に自分が緊張していたことにエーリクは気がついた。

 


 眠りを妨げられた不快感。

 それが昨夜のエーリクが第一に感じたことであった。寝入っていたのを声もなくゆさゆさと揺さぶられたのだから当然だといえよう。しかし不機嫌に掛け布団を押し退けたところて見た光景で、それもすぐに吹き飛んだ。

 ルームメイト――ノアの泣き顔にはそれほどの破壊力があった。


「ど、どっ、どうし、よ。…どうしたら。ごめっ」

 あふれだす感情と、それを堰き止めんとする強固な理性がせめぎあっているかのようだった。
 ノアはエーリクに縋ろうとしながらも、どこかなりきれず、そう。遠慮をしていた。

 薄暗がりでもわかるほど顔を真っ赤にしながらしゃくり上げて、声もまともに出せない様子だ。なんて下手くそな泣き方だろうか。驚きすぎて逆に冷静になった思考で、どこか他人事みたいにそう思う。年齢が2桁にも満たない子どもですら、もっと上手に泣くだろうに。

 あまりに赤裸々で無防備なその姿に、エーリクが今まで抱いていたノアへの印象の全ては、あっけなく吹き飛ばされていた。
 なんというか、綺麗で冷淡で、もっと人間らしくないのを想像していたんだが。
 まる2年、同じ部屋で過ごしていたのに、ノアとエーリクの間にはろくな交流がなかった。挨拶はするし、少しくらいの世間話もする。やれうるさい、やれ片づけないなどと険悪な仲の同期も少なくないなか、喧嘩すら一度もしたことがない。けれども、少しも親しくもならなかった。

 見えない壁が張られているのを、いつも感じていた。初めのほうは、少しは努力したのだ。一緒に食堂に行ったり、遊びに誘ってみたり。ノアは付き合いは悪くなかったから、言えば大抵ついてきた。だけどエーリクが誘うからのってやるだけ。楽しくなさそうに見えたし、誘っても誘わなくてもノアにとってはどうでもいいのじゃないかと思えたので、長くは続かなかった。
 そのことで特別傷つかなかったのは、ノアが誰に対してもそんなふうだったからだ。きっとひとりが好きなんだろう。そう思っていた。


 今、目の前で涙を流すノアに、あの強固な壁は感じない。

 気が付けばその背中に手を伸ばしていた。頭を抱えるように胸に抱きとめ、ぽんぽんと背中を叩く。

 弟がいたらこんな具合だろうかと半ば現実逃避じみた夢想をしながら、特段の根拠もなく、大丈夫、大丈夫と繰り返す。

 それにしても妙に薄い身体だった。同年代の中でもノアは身体が小さいほうだが、それにしても少し不安になるくらいの華奢さだ。



「それで、どうしたんだよ。こんな夜中に」

 少ししてしゃくり上げる方の動きが大分治まり、泣きつかれたのかノアの瞼が重たげになってきた。エーリクはノアが落ち着いてきたのを見計らって、ようやく涙の原因を訪ねることが出来た。

「血が、起きたら血が出ていたんだ」

 ノアは打って変わって感情をにじませることなく淡々と述べた。
 密着していた身体を離しながら、ノアの様子をつぶさに観察する。赤くなった眦が痛々しく、視線はこちらに向けられることなく伏せられている。その姿はどこか危うげに見えた。

「血?」

 そう尋ねるエーリクに、ノアはこくりとうなずく。

「…起きたら、おなかが痛くて。下着が湿って気持ちが悪かったから確認したら、血が…」

 相当にショックだったのだろうその光景を思い出したのか、ノアの薄い唇がわなないた。安心させるように肩に手をやると、少し落ち着いて息をつく。

 その一方で、エーリクは改めてその肩の薄さに驚いていた。いや、厚みの問題ではない。骨ばってはいるがどこかやわこくて、片手でも容易に握りつぶせそうに思われた。


「…傷とかはなかったのか?」

「わ、わからない。けど、そういう痛みはないし、覚えもないんだ。あんなに血が出るってことは、もし傷なら、相当深いものだと思うし…。わからないっていうのは、その、あの時は怖くて確認できなかったんだ。今も正直、怖い…」

 
 とりあえず思いついたことを言ってみるが、どうやら外れらしい。ノアは自身を情けなく思っているようで、言いながら縮こまっていってしまう。正体を考えることすら恐ろしいらしい。先ほどのように取り乱しはしないまでも、糸が切れそうなほど張りつめているのが伝わってくる。

 傷ではないとしても、血はどこからか出たはずだ。本当は見てみるのが一番早いが、医者でも何でもないエーリクが他人の局部を見るのは気が咎めたし、他の同級生ならまだしも――なんとはなしにいけない気がした。医学的な知識はほとんどないが、血便とか血尿が出るとよくないという話はよく聞く。何か重大な病気の前兆なのかもしれない。それにしても股の間から血が出るなんて、そんなこと…。

 はっと思いついて、ノアの顔をまじまじと眺める。いやいや、そんな馬鹿な。

「…お腹が痛いっていうのは、例えば、どんな具合なんだ?」
「え?…なんとなく、腰とか下腹のあたりが重くて、打ち付けるみたいな鈍い痛みがある、かな」

 それはかつてエーリクが姉に聞いた話と奇しくも一致していた。あんたは良いわよね。男なんだから。と、姉はそれが来ると、妙に愚痴っぽくなりエーリクによく絡んできた。
 そんなはずはないと思いつつも、納得している自分がいるのをエーリクは自覚していた。先ほどから幾度となく驚かされたノアの身体の華奢さにも、それで得心がいく。

「…たぶん、大丈夫だ」
「え?」

 ぱっとノアが顔を上げる。縋りつくような眼をしていた。

「俺が知ってる奴なら、たぶん、1週間くらいで治まる」
「ほ、本当に?…僕はどこもおかしくないんだろうか?」
「あ、ああ。生理現象だと聞いている。月に1度来る、らしい…」

 ぽろりと、ノアのガラス玉のような瞳から雫が落っこちるのを見た。ノアは安心しても泣くらしい。

 けれどもエーリクには泣いているノアを、もう、どうやって扱えばいいのかがわからなかった。


「血はリネンとか、吸収の良い布でも当ててやればいいって聞いたから、後で俺のタオルを切っといてやるよ。あ、あと血が出ている間は冷やすとよくないらしい。…それと、あとは――‐」

 とりあえず、姉から聞いた覚えのある情報を垂れ流すことに専念した。ノアはエーリクの服の裾を摘まみながら、しばらくの間啜り泣きをしていたので、エーリクの話を聞いていたかは実のところよくわからない。エーリクもそういえば寝不足で、何よりもいっぱいいっぱいだったので、気が付いた時にはノアはもうエーリクの膝に頭を乗っけてすやすやと眠ってしまっていたのだった。


 突然揺り起こされて、ルームメイトを慰めたかと思えば、実はそのルームメイトは女の子だったかもしれなくてーーなんて、どんな状況だろう。

 思考を整理しようにも、疑問は後から後から溢れ出す泉のように湧いてきてとめどがない。
 安らかなるルームメイトの寝顔を苦い思いで眺めながら、当然の如くその晩は眠れなかった。
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