春 かすか

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第五部

かいぶつ

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 ノルンの嫌がらせから解放された私は洗面所まで足を運び、口の中を冷水で洗った。目の前の鏡に映る自分を見つめながら、私は身嗜みを整える。そうして、不意に背後から人の気配がして振り返った。

「……あ」

「……こんにちは」

 無機質な人形のような笑みを浮かべる青年に見下ろされる。身長が高く、私は必然的に見上げる形となる。ノルンよりも背が高いかもしれない。だが、常時事務的なノルンと比べると何処となく違和感を覚えるのは気の所為だろうか?

「……マリア様ですか?」

「は、はい」

 首を傾げる仕草は何処か子供のようにあどけなく、声は男性特有の低い声。この屋敷に住んでいるが、初めて見る顔だった。ーー何故、彼は私の事を知っているのだろうか。

「ゆき様のお気に入りの方だと聞きました」

「……え? 誰から?」

「ヴィクトリア様からです」

 私はその名前を聞いてぎくりとする。私はヴィクトリアが苦手だ。性に自由奔放で無邪気で汚れを知らないあの女は、私から見て不気味にしか映らない。

 目の前の青年は、ノルンと同じ敬語を使っているが、淡々としていて、自我のないロボットのようで、ノルンとは正反対な気質に見て取れる。

「いえ、ゆき……様のお気に入りは、他にもいらっしゃると思うのですが、使用人のひるこさんとか……ノルンとか……」

「ーーノルン?」

 青年はぴくりと反応した。本当に一瞬だけ。些細な反応で見落としてしまう程の変化。私は見ず知らずの青年と会話をしているが、ふとこの青年も私と同じなのではないか? と思う。私の勘が外れていないのなら、愛玩動物用の名前をまだ本人から聞かされていない。

 ーーこの青年は、誰なのだろう?

「あ……あの……」

「……貴方は、ノルンの愛人なのですか?」

「…………へ」

 青年から後ずさり、私の背は壁にぶつかる。青年は微笑んでいるが、目は笑っていなかった。そうして、くすくすとほくそ笑みながら私の腕を掴んで壁に私を追い詰めた。

「すっげえ……怒るだろうなあ……。アイツ。くくっ……。俺があんたに手を出したら、どう思うのかな? ノルンが、アイツが、女に乱暴している所を初めて見た。ゆき様が攫って来る、全ての人間には優しく接するのに。あんたさ……ノルンに無理矢理咥えさせられて、どんな気持ちだった?」

「……ッ」

「噛みちぎる度胸もないってか? なら、俺の事も当然、相手してくれるよなあ? あんたも俺と同じ、だろ?」

「……同じ?」

「ーー貞操よりも命の方が大事な人種って事だよ」

 この時に不意にノルンの言葉を思い出した。ヨナという名前の男性がこの屋敷に来ていると。ーーまさかとは思う。

「……貴方、ノルンの事が……嫌いなの?」

「いや、別に? アイツの事なんて、どうでもいい。ゆき様の愛玩動物である連中共は、ノルン様だとか言って、崇拝する信者もいるが。俺はアイツの気色悪い人間性は知り尽くしてるんだよ」

「……え」

「いざとなったら、人を犠牲にしてでも、自分が助かろうとする浅ましい薄汚い犬でしかない」

 顎を持ち上げられた時点で口付けられると思った私は、はっとして、空いた方の手で平手打ちを青年にお見舞いした。ノルンは私の平手打ちを掴むが、この青年はぶたれても涼しい顔をしていた。ーーもしかして、痛覚がないのか?

 両手首をまとめられて、壁に押し付けるように固定され、動けなくされる。何でこうも今日はこんなにも不運に巻き込まれるんだ? 見てくれのいい男共に押し倒された所で大して面白くも嬉しくもない。

「ーーヨナ」

 名を呼ばれたヨナは目を見開き、私を離して距離を空けるように下がった。私は手首を抑える。ヨナの手の跡がついていた。洗面所の入口付近に立って微笑むゆきは、ヨナを工芸品のように眺めている

「きららが探していたよ。ゲストルームにいるから、行ってあげて?」

「……はい」

 ヨナはゆきに会釈をすると、早歩きで立ち去って行った。洗面所に私とゆきが取り残されて、二人きりの空間となる。私はこの空気の中、どうゆきに話し掛けてこの場から立ち去ればいいのかが分からなかった。ーーだが、次のゆきの行動によって、私は度肝を抜かれる事になる。

 ーーゆきは、前屈みになり、凭れるようにして、私へ弱々しく抱擁して来たのだ

「ーーッ!!?」

「……マリア」

「……どう、されたんですか?」

「うん? ちょこっとね、虐められた」

「……へ?」

 言葉の意味が分からなかった。ゆきは変わらず、笑顔だが、何処となく、元気がない。さっき、私の部屋に来た時はいつも通りだったのに。何故だろうか?

「……マリア、ちょっと僕の寝室まで来て? 少し、疲れたから……僕を癒してよ」

 ゆきは滅多に自分の寝室に人を招かない。本当に心を開いた人間にしか、寝室へ入れる事をしない。私とゆきが行為をするのは、いつも私の部屋だった。私はひたすらにゆきの激変振りに戸惑っていると、ゆきは私の首に顔を埋めるようにして、私の匂いを嗅ぐ。

「あ、あの……本当にどうしたんですか?」

「分からないかな……」

「え?」

「ーー愚痴ってるの」

 目を白黒させる私に、ゆきは私を抱き締めたまま、目を閉じる。本当に疲れている様子で弱りきっていた。何があったのだろう? 何だか、ゆきらしくない。こんな一面もあるのかと思った。

「愚痴……? 何か嫌な事でもされたんですか?」

「うん。被虐心を擽られるような罵倒の言葉を散々浴びせられて、悪態で打ち返したんだけど、カウンター食らったから逃げて来た」

「???」

 一体、ゆきは何が言いたいのだろうか? ーーさっぱり分からない。

「マリア。……ね、キスしてよ」

「こ、此処で、ですか?」

「うん。マリアからしてよ」

 ゆきからこんな事を言って来る事は初めてだった。行為中、ゆきは余り服を脱がないし、いつもいつも一方的なアブノーマルな性交渉だったから。ゆきが私に甘えて来る行為自体が最早、有り得なかった。

「あの……でも、此処……人が、通りますよ?」

「そうだね」

「本当に……どうされたんですか? ゆき、様らしくないです……」

「ーー僕らしいって、何……?」

「え、えっと……」

 ゆきと目と目が合う。ゆきの真っ黒な瞳は吸い込まれそうで、相変わらず何を考えているのかが読めない。無邪気で冷酷で絶対的な気分屋。常々、悪魔だと思っていたが、悪魔にもどうやら疲れる事案はあるらしい。

 私は周りに人がいない事を確認してから、ゆきの命令に従った。ゆきから顔を離すと、ゆきは「ーーありがとう」と微笑む。ゆきの暗闇の瞳には、私の姿が映っていたが、同時に何にも映っていないようにも感じられた。
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