春 かすか

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第四部

いぬ

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 波の音が聞こえた。眼前に広がるのは、真っ青な海と空。

 何処かで海猫が鳴いている。

「……どうかしたの?」

「あ、申し訳御座いません。……ゆきさん」

 主人、ゆきから呼び掛けられて、私は歩を進めた。砂浜に足音が出来る。主人に対して、さん付けをする、私。ーーあ、これは、夢の中なのだとぼんやりと認識した。

「これから、新しい学校を手配するけれど、必要な物があったら言ってね」

「ありがとうございます……」

 主人に優しくそう言われて、純粋に嬉しいと思った。私は、彼のお陰で、あの忌々しい場所から出られたのだから。

「他に、僕に、何かして欲しい事はあるかい?」

 微笑む主人に、それを言われて、はやる、私の気持ち。

「……私、私っ……私を、貴方の……っ」

   ♡

 夢の余韻の残る中、目が覚めた。まだ現実と夢の境がぼんやりとしている。

 とても懐かしい夢を見た。窓の外を見やると、朝の光がカーテンから漏れていた。

 あの日から、私の使用人の仕事が始まったようなもの。

 ひるこという、人間は、あの日に生まれたようなものだから。

   ♡

 今日は、仕事だ。私は、使用人宿舎の自室で使用人の制服に着替える。

 机へと振り返ると、写真立てが見える。ーー私の家族の写真。

「ーー行って来ます」

 ぽつりと呟くが、いつも通り、返事はない。

   ♡

 使用人頭のちとせさんと朝礼を済ませてから、今日のスケジュール調整を確認する。ちとせさんに頼まれて、私は大浴場にタオルを運んでいた。

 廊下を歩いていると、ノルンが歩いて来たので、私は事務的に「ーーおはようございます」と挨拶をする。だが、ノルンは、不機嫌そうに私の挨拶を無視して通り過ぎて行く。

 私は、不思議に思い、足を止めてノルンを見返した。ノルンは、大理石の床を歩いて足音を響かせている。ーー生意気なガキだ。そう思い、無表情のまま、私はある言葉を口にする。

「ーー返事くらいしろ。そのおつむには一般常識すら詰まってないのか? ガキ」

 ノルンは、私の言葉に足を止めて、振り返った。眉間に皺を寄せて。何処からどう見ても不機嫌だが、そんな事、私の知った事ではない。

「ーーは? 貴方、使用人でしょ? 何ですか? その口の聞き方は?」

 内心、ーーあ? とすごみたくなった。ふさげるな。たかが、主人のお気に入りな犬の分際で。ナマ言ってると、全ての歯をへし折って、口を聞けなくしてやろうか? と思う。日本語すらまともに分からない、靴紐も結べなさそうな顔をしやがって。

「主人御用達の愛玩動物に、丁寧語で喋るルールはない」

 激怒したノルンは、近場にあった花瓶を徐に手に掴み、私に向かって投げて来た。私は、持っていたタオルを床に投げ捨てると、飛んで来た花瓶をさっと避けた。

 そして、花瓶のわれる盛大な破裂音。それが合図となり、某ポケット怪物よろしく、ノルンが襲い掛かって来た。

   ♡

「ーーな、何? 何してんの!? 二人共!?」

 数十分後、マリアが駆け付けて来て、対立する私とノルンの間に入る。ノルンは、動き回って呼吸が乱れていた。野郎の癖に、軟弱な奴だと思い、鼻で笑う私。

「……あらあら、ひるこさん。何してるの? ーー廊下、ぐちゃぐちゃじゃない」

「ちとせさん。朝から申し訳御座いません。ーー直ぐ、片付けます」

 驚いた様子の使用人頭のちとせも続いて、廊下にやって来た。私の対応の格差に、ノルンは苛立ちを覚えているようだった。マリアは、慌てて、私とノルンの仲裁に入って言葉を続けた。

「何があったのか、分からないけど、二人共やめなよ! 喧嘩!」

「ーー喧嘩じゃないわ。犬に甘噛みされたから、ちょっとじゃれてただけ」

 その私の煽り言葉に、屈辱だったのか、ノルンは震えながら舌打ちをすると、私に再度、襲い掛かろうと右足のつま先をぎゅっぎゅっと二回靴で踏み鳴らした。

 そんな私は、ノルンに対して、見下した無表情のまま、一瞥する。

 ーーそんな時だった。

「ーーあれ。こんな所で、集まって、皆、何してるの?」

「ゆき様っ……。おはようございます。も、申し訳御座いません……」

 主人にとんでもない所を見られてしまったと思う。丁寧に主人へ頭を下げると、主人が「ーーおはよう」といつも通り、私に微笑んでくれた。ノルンは、主人の出現により、私から離れる。

「ちょっと忘れ物しちゃって。ーーちとせ。僕の部屋から書類を取って来てくれないかい?」

「畏まりました」

 ちとせは、パタパタと走って主人の書斎へと向かう。私は、座り込み、われた花瓶の破片を拾い始めた。主人は、ノルンを見るなり、朝の挨拶をしてノルンも「ーーおはようございます」と淡々と返す。

 ノルンは、マリアの言葉を受け流すと廊下から立ち去り、私も掃除機を取りに行って、仕事へと戻った。
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