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キジトラ
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一〇〇年以上前の話。
とある田舎町に、小料理屋を営む夫婦とマサエという一人娘が、三人仲良く暮らしていた。
マサエは幼少時から猫が大好きだった。七歳の時、父親が知り合いからメスのキジトラの仔猫を貰ってくると、それはもうとても喜び、可愛がった。
キジトラの方も、家族の中では特にマサエに懐いていた。マサエが呼ぶと必ずやって来たし、構ってほしいと、マサエが何かをしている途中でもわざと邪魔をして根負けさせたりした。
年頃にもなると、両親のいいとこ取りで美しいマサエは、何人もの若者や店の客から好意を伝えられるようになった。
当の本人はというと、色恋沙汰にあまり興味を示さず、誰にも応える事はなかった。
「あたし、人間の殿方よりも猫の方が好きだわ。この子さえいれば充分」
膝に抱いた年老いた愛猫を撫でながら、冗談とも本気ともつかない事を口にする娘に、両親は苦笑いしつつも、まあ今だけだろうと気に留めなかった。
マサエが一九歳になる年、両親が相次いで病に倒れた。
マサエの付きっきりの看病も虚しく、ひと月もしないうちに、二人は同じ日に帰らぬ人となった。
更に追い討ちを掛けるように、マサエの心の支えとなるはずだった愛猫までもがいなくなった。葬儀や埋葬などの慌ただしさの中、いつの間にやら姿を消し、それっきり戻らなかったのだ。
──元気で長生きしていたけれど、あの子だって、きっと……。
親族もおらず、天涯孤独の身となってしまったマサエだったが、人前では気丈に振る舞い、両親が遺した小料理屋を継いで細々と営んだ。
心配した近隣住民や客などから、次々に縁談が持ち込まれた。何度か見合いもしたが、後で全て断った。相手方のほとんどが、マサエの店を残す事を考えていなかったからだ。
一人だけ、店はそのまま続けてもいい、何だったら自分も一緒にと言う金持ちの息子がいたが、猫は好きかと尋ねると、あんな身勝手な生き物は嫌いだと笑いながら答えたので、その場で断った。
そんな調子のマサエを、器量良しなのに勿体無いと残念がったり、行き遅れやしないかと心配する者もいれば、優しい顔して頑固者、恩知らずなどと陰口を叩く者もいた。
両親の死から一年が経った、ある小雨の降る夜。
客足も途絶えたので、少々早いが店を閉める準備をしていると、マサエの苦手な常連の中年男が入って来た。先に他の店に寄ったのか、既にほろ酔いで上機嫌だ。
開口一番、いつものように自分を口説き始めた男に、マサエは内心溜め息を吐いた。
──勘弁してほしいわ。
隣の大きな町で会社を営む妻子持ちのこの男は、マサエを気に入っているようだった。自分の元に来れば、汗水垂らしてこんな仕事をしなくとも充分に暮らしていけるぞと、店に来る度しつこかった。
マサエは誰かの妾になるなんて御免だったし、何よりも、両親から受け継いだ家業を〝こんな仕事〟呼ばわりされるのが腹立たしかった。
「お気持ちだけで充分ですわ」
マサエがいつものように断ると、中年男の顔から笑みが消えた。それまでとは打って変わって鬼のような形相になると、小娘が生意気だと言って拳を振り上げた。
「やめろ!」
マサエの窮地を救ったのは、店の前を通り掛かった、初めて見る若者だった。自分より体格のいい中年男をマサエから引き剥がすと、腕を捻り上げ、一発殴って退散させた。
若者はサブロウと名乗った。
マサエより五歳年上で、隣県の由緒正しい家柄に生まれたが、厳格な父親と反りが合わず、半年程前に家を飛び出してからは、あちこちを転々としているという。
「君はこの店を一人で切り盛りしているのかい?」
サブロウに問われたマサエは、自分の身の上話をポツポツと語った。
「へえ、猫を飼っていたのか」
サブロウは、出された温かい茶を飲みながら静かに話を聞いていたが、マサエがかつてメスのキジトラを飼っていたと知ると、初めて口を挟んだ。
「ええ。わたし、猫が大好きなんです」
「おれも好きだなあ」
サブロウの爽やかな微笑みに、マサエは思わず見とれた。
「ん、どうした?」
「い、いえ……」
「今は飼っていないのかい?」
「ええ」
「ずっと一人で頑張ってきたんだね」
「いえ、そんな。周りの人たちに随分と助けられてきました」
マサエの話が終わる頃には、雨風共に強まっており、遠くの方からゴロゴロとくぐもった音も聞こえるようになっていた。
「サブロウさん、今晩泊まる所は?」
「いや、特には……」
「あら、だったら是非うちに」
「いや、流石にそれは」
「こんな天気の中、今から宿探しなんて危ないわ。それに、お腹も空いているんじゃなくて?」
答えるように、サブロウの腹が盛大に鳴った。
「ははは……それじゃあ、お願いしようかな」
翌日、サブロウは食事と泊めて貰った礼にと、店を一日手伝った。
そしてその日の夜も、マサエはサブロウを引き留めた。雨は降っていなかったが、サブロウは今度は遠慮しなかった。
とある田舎町に、小料理屋を営む夫婦とマサエという一人娘が、三人仲良く暮らしていた。
マサエは幼少時から猫が大好きだった。七歳の時、父親が知り合いからメスのキジトラの仔猫を貰ってくると、それはもうとても喜び、可愛がった。
キジトラの方も、家族の中では特にマサエに懐いていた。マサエが呼ぶと必ずやって来たし、構ってほしいと、マサエが何かをしている途中でもわざと邪魔をして根負けさせたりした。
年頃にもなると、両親のいいとこ取りで美しいマサエは、何人もの若者や店の客から好意を伝えられるようになった。
当の本人はというと、色恋沙汰にあまり興味を示さず、誰にも応える事はなかった。
「あたし、人間の殿方よりも猫の方が好きだわ。この子さえいれば充分」
膝に抱いた年老いた愛猫を撫でながら、冗談とも本気ともつかない事を口にする娘に、両親は苦笑いしつつも、まあ今だけだろうと気に留めなかった。
マサエが一九歳になる年、両親が相次いで病に倒れた。
マサエの付きっきりの看病も虚しく、ひと月もしないうちに、二人は同じ日に帰らぬ人となった。
更に追い討ちを掛けるように、マサエの心の支えとなるはずだった愛猫までもがいなくなった。葬儀や埋葬などの慌ただしさの中、いつの間にやら姿を消し、それっきり戻らなかったのだ。
──元気で長生きしていたけれど、あの子だって、きっと……。
親族もおらず、天涯孤独の身となってしまったマサエだったが、人前では気丈に振る舞い、両親が遺した小料理屋を継いで細々と営んだ。
心配した近隣住民や客などから、次々に縁談が持ち込まれた。何度か見合いもしたが、後で全て断った。相手方のほとんどが、マサエの店を残す事を考えていなかったからだ。
一人だけ、店はそのまま続けてもいい、何だったら自分も一緒にと言う金持ちの息子がいたが、猫は好きかと尋ねると、あんな身勝手な生き物は嫌いだと笑いながら答えたので、その場で断った。
そんな調子のマサエを、器量良しなのに勿体無いと残念がったり、行き遅れやしないかと心配する者もいれば、優しい顔して頑固者、恩知らずなどと陰口を叩く者もいた。
両親の死から一年が経った、ある小雨の降る夜。
客足も途絶えたので、少々早いが店を閉める準備をしていると、マサエの苦手な常連の中年男が入って来た。先に他の店に寄ったのか、既にほろ酔いで上機嫌だ。
開口一番、いつものように自分を口説き始めた男に、マサエは内心溜め息を吐いた。
──勘弁してほしいわ。
隣の大きな町で会社を営む妻子持ちのこの男は、マサエを気に入っているようだった。自分の元に来れば、汗水垂らしてこんな仕事をしなくとも充分に暮らしていけるぞと、店に来る度しつこかった。
マサエは誰かの妾になるなんて御免だったし、何よりも、両親から受け継いだ家業を〝こんな仕事〟呼ばわりされるのが腹立たしかった。
「お気持ちだけで充分ですわ」
マサエがいつものように断ると、中年男の顔から笑みが消えた。それまでとは打って変わって鬼のような形相になると、小娘が生意気だと言って拳を振り上げた。
「やめろ!」
マサエの窮地を救ったのは、店の前を通り掛かった、初めて見る若者だった。自分より体格のいい中年男をマサエから引き剥がすと、腕を捻り上げ、一発殴って退散させた。
若者はサブロウと名乗った。
マサエより五歳年上で、隣県の由緒正しい家柄に生まれたが、厳格な父親と反りが合わず、半年程前に家を飛び出してからは、あちこちを転々としているという。
「君はこの店を一人で切り盛りしているのかい?」
サブロウに問われたマサエは、自分の身の上話をポツポツと語った。
「へえ、猫を飼っていたのか」
サブロウは、出された温かい茶を飲みながら静かに話を聞いていたが、マサエがかつてメスのキジトラを飼っていたと知ると、初めて口を挟んだ。
「ええ。わたし、猫が大好きなんです」
「おれも好きだなあ」
サブロウの爽やかな微笑みに、マサエは思わず見とれた。
「ん、どうした?」
「い、いえ……」
「今は飼っていないのかい?」
「ええ」
「ずっと一人で頑張ってきたんだね」
「いえ、そんな。周りの人たちに随分と助けられてきました」
マサエの話が終わる頃には、雨風共に強まっており、遠くの方からゴロゴロとくぐもった音も聞こえるようになっていた。
「サブロウさん、今晩泊まる所は?」
「いや、特には……」
「あら、だったら是非うちに」
「いや、流石にそれは」
「こんな天気の中、今から宿探しなんて危ないわ。それに、お腹も空いているんじゃなくて?」
答えるように、サブロウの腹が盛大に鳴った。
「ははは……それじゃあ、お願いしようかな」
翌日、サブロウは食事と泊めて貰った礼にと、店を一日手伝った。
そしてその日の夜も、マサエはサブロウを引き留めた。雨は降っていなかったが、サブロウは今度は遠慮しなかった。
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