遠き星、遠き過去

園村マリノ

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 その翌週は最悪だった。
 月曜日から金曜日までもれなく、お局の機嫌がすこぶる悪かった。些細な事でガミガミ言われるのには慣れっこだけれど(勿論、頭にこないわけではない)、いきなり大きな物音を立てたり、お客様からの電話にぞんざいな態度を取るのは、こちらがハラハラするのでやめてほしい。
 それでも何とかいつも通りにやり過ごした──木曜日までは。
 金曜日。会社に到着するなり、結構前から好意を寄せていた、隣の課にいる同期の広瀬ひろせ君に彼女がいて、近々入籍する予定だと知ってしまった。ショックからか、仕事中に細かなミスを連発し、お局にストレス解消のチャンスを何度も与えてしまい、逆にわたしはストレスが溜まる一方だった。
 そして定時まであと一時間弱という頃、とうとうわたしの堪忍袋の緒が切れた。

「あなたの母親、どんな教育してきたのかしら。やっぱり母子家庭って問題あるわよね」

 お局はこう言い放ったのだ。わたしに対する嫌味や悪口はまだ我慢出来る。でも、わたしの母親を侮辱するのは許せなかった。
 気が付くとわたしは、お局を殴っていた──グーで。
 その日のうちに、部長から月曜日までの自宅謹慎を言い渡された。処分内容は、謹慎明けに社長から直接伝えられるとの事だった。
 あーあ、やっちゃった……。
 土曜日。桜花おうか真央まおに相談するべきか迷っているうちに日が暮れた。
 夕食にカップラーメンを啜っている途中、真央からトークアプリに、大手ではないもののコアなファンの多いSNSサイト[Piⅹyピクシィ]のお誘いメッセージが届いた。
 わたしは元々興味がないのでどのSNSも全く利用していなかったし、今だって全然そんな気分じゃないのだけれど、せっかく誘ってくれたのだし、とりあえず登録だけしてみた。真央の話だと、桜花も誘ったけれど、他を利用しているからパスと言われたらしい。
 ユーザー名はピミカにした。
 会社でのトラブルは、結局相談出来なかった。おまけに『遠き星、遠き過去』を観るのをすっかり忘れてしまった。
 日曜日。会社の先輩からトークアプリに、わたしを心配するていでその実、この状況を楽しんでいるのがバレバレなメッセージが届いた。
 二、三行程の、取って付けたようなわたしに同情する内容の後に、お局がわたしを訴えてやると息巻いていたと教えてくれていた。素敵な情報を有難う、先輩。わたしがお局にいびられている時、あなたがニヤニヤ笑いながら聞き耳を立てていた事が何回もあるのを、わたしはよーく知っています。
 月曜日。明日の事を考えると、朝から頭も胃も痛む。
 ミランダ川中かわなかの霊感タロット占い。半年以内にお局が会社を去る? 去るのはわたしになるだろう。運命の出会いまたは再会? 失恋しましたが何か。
 この様子だと、過去世なんてのもただの妄想だったのだろう。……別に本気で信じていたわけではないけれど。
 夜。[Pixy]内の個別メッセージで、MAOMAOマオマオこと真央と、たわいないやり取りをしているうちに決心が付いたので、わたしは会社でのトラブルを打ち明けた。
 直後、すぐに真央から電話が掛かってきた。

「殴ったって本当に?」

「本当だよ。やっちゃった」

 真央はスマホの向こうで絶句しているようだった。それはそうだ、誰だって同じ反応をするだろう。

「せめてチョップにしておくべきだったね」

「……何?」わたしは思わず聞き返していた。

「チョップだよチョップ。馬場チョップ。力道山の空手チョップ。頭にスコーン、と。グーよりマシでしょ、いくらかは」

「……ごめん、プロレスはよくわかんない」

 わたしと真央は同時に笑った。リリニみたい、という言葉は飲み込んだ。

「お局、わたしを訴えるって言ってるみたい」

「え、大怪我させたの?」

「ううん、全然。上手く殴れなかったし」

 真央はプッと噴き出した。

「暴力は良くないけど、大した事なく済んだ。それに芹香は、入社した頃からいびられていた。その事実を突き付けてやれば、向こうだって被害者面していられなくなるはずだよ」

「だといいんだけれど」

「ま、後は訴えられてから考えるんだね。それよりも再就職先じゃない? いっそまたイラストレーターを目指すとか」

「それは……無理だよ。現実は甘くない」

「そっか。まあ、明日処分が決まったら、気は重いだろうけどまた連絡して」

「うん……」

「ねえ芹香せりか。わたしは、何があっても味方だよ。桜花だって同じように答えるに決まってる。何だったら会社に乗り込んで披露してやろうか、わたしの華麗なる空手チョップ」

 わたしは笑いながら少しだけ泣いた。
 


 約一週間ぶりに過去世の夢を見た。
 ピミカわたしは空飛ぶ車には乗っておらず、ネオンの輝きもまばらな街中を一人で歩き、やがて路地裏の小さなバーに入った。客はわたし以外に四人。三人はボックス席の赤の他人で、残る一人はカウンター席のリリニだ。

「お疲れ! ……どうした?」

 リリニは笑顔で迎えてくれたものの、すぐに様子がおかしいと気付いたようだった。
 わたしはリリニの隣に腰を下ろし、バーテンダーにリリニが飲んでいるカクテルと同じものを注文すると、一呼吸置いてから正直に答えた。

「殴っちゃった……馬鹿上司を」

 目を丸くし、ぽかんと口を開けて固まるリリニにお構いなしに、わたしは続ける。

「いつものようにいちゃもんつけてきたから、いつものように反論したら、今度はあろう事かわたしの母さんを侮辱されたの。わたしの躾に失敗したとか、これだから母子家庭は、とか何とか。どうしても許せなかったの」

 ひとしきり喋り終え、目元を服の袖で拭うわたしをじっと見ていたリリニは、静かに口を開いた。

「独立するのにいいチャンスなんじゃないか。やってみなよ。おれが出来る限りサポートするから」

 今度はわたしが目を見開く番だった。

「それでもし万が一、独立が上手くいかなかったら、おれが責任取る」

 口もぽかんと開けたまま固まった。
 バーテンダーが、わたしの前に淡いピンク色のカクテルを静かに置いた。でもお酒どころじゃない。

「え……待って……それって……」

「あと、そのクソ上司があんたを訴えるって言うんなら、おれの友達の優秀な弁護士を紹介する」

「えっと、ちょっと待って。サポートだとか責任取るだとかって……どうしてそこまで」

 リリニはわたしから目を逸らし、カクテルに口を付けた。

「ねえ──」

「腹減ってないか? 軽食なら頼めるぞ」

「ねえってば」

 リリニはそっぽを向いたまま、バーテンダーを呼ぶと勝手に注文した。心なしか顔が赤いのは、お酒のせいだけではないって事ぐらい、わたしにはわかっていた。そしてこの時のわたしも、きっと同じ顔色をしていたに違いない。
 その後も夢は続いていたはずだけれど、残念ながら目を覚ますと同時に記憶が吹っ飛んでしまった。
 またこんな夢を見るなんて。過去世の話はもうほとんど信じていないはずなのに。
 わたしは憂鬱な気分で布団から出た。今日は審判の日だ。
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