【改稿版】骨の十字架

園村マリノ

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第四章

#4-1-4 危機と希望④

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 那由多と緋雨は、再び開けた空間へと辿り着いた。一つ前の空間とは似て異なり、更に広く明かりも点いてはいるが、タイルがあちこち剝げたり汚れている。
 空間のほぼど真ん中に、カジュアルスーツの女の姿があった。小さな丸椅子にこちらに背を向けて腰掛け、キャンバスに筆を走らせている。その向こうの壁際には、俯せで重なって倒れている女性が三人。

「おい女、向こうに倒れている三人はどうした」
緋雨が問うた。「死んでいるのか」

 女は筆を走らせる手を止めた。那由多は緋雨の腕を掴み、女性たちを不安そうに見やった。

「自分で確認すりゃいいでしょ」

 女は面倒臭そうに答えると、一息吐いて筆とパレットを足元に置き、座ったまま那由多たちに向き直った。疲れたような、何かを諦めてしまったような顔をしていた。
 緋雨は女の横を通り、重なって倒れている女性たちの元まで来ると、一番上のミニスカートの女性を抱え起こした。女性は目を見開き、舌をダラリと出したまま事切れていた。首元には、ロープか何かで絞めた痕がくっきりと残っている。残る二人の内一人は鼻と口に乾いた血がこびり付き、首がありえない方向に曲がっている。そして残る一人は、後頭部が腐った果物のように潰れ、赤黒く染まっていた。
 緋雨の後ろからそっと覗いた那由多は顔を背け、数歩下がった。

「貴様が殺ったのか」

「ええ」

「無関係な人間を巻き込んだのか」

「無関係? 違うわ」女は緋雨に向き直った。「そいつらは死んで当然なの。かつてわたしを散々傷付けた癖に、大きなバチが当たる事もなく幸せに暮らしてやがったから」

 那由多は睨み合う緋雨と女を交互に見やり、それから絵を覗いた。描かれているのはピエロだ。顔全体を白塗り、目の周りや眉は黒く縁取り、濃い赤の口紅を唇から頬骨まで引いている。身に纏っているのは、てっぺんから二つに分かれ先端にポンポンが付いたキャップ、右半分が黒で左半分が白の先端がクルリと丸まっているブーツ、それらと配色が左右逆のスーツ。

「これが……今俺たちが対峙している張本人なんだね」

 緋雨が那由多の隣に並んでピエロの絵に目をやり、

「間違いない。こいつだ」

「ねえおねえさん、あなたは生きた人間ですよね。どうしてここに……どうしてピエロに……?」

 そう問いつつも、答えは返って来ないだろうと那由多は思った。しかし予想に反し、女は静かに口を開いた。

「似た者同士だから」

「……あなたと、ピエロが?」

「わたしもあの子も虐げられていた。いつ覚めるかわからない悪夢の中、孤立無援、息苦しさを感じながらも自分なりのやり方で生きてきた。性根の腐った狡猾な、人の皮を被ったモンスターたちは、わたしたちみたいなグズにちょっかい出さなきゃ気が済まない性分なのよね。そしてそれ以外の人間はわたしたちをまるっきり無視するか、余計な口出しや邪魔はするけど、いざという時は何もしてくれないの」

 女は小さく溜め息を吐くと、身を屈めて足元の筆とパレットを取り、二人の男の存在なんて忘れてしまったかのように再び絵を描き始めた。緋雨は女の肩を掴んで振り向かせようとしたが、那由多が止めた。

「俺たちがここまで来る途中、何枚も絵画を見ました。あれらもあなたが?」

「まあね」

「俺は絵に関しては素人ですけど、それでもあなたの画力が高いって事はわかります。特に風景画は、状況が状況じゃなかったら、もっとじっくり見ていたかった。元の世界でも描いていたんですか?」

「……そんな事聞いてどうするの」

「いや、ただ気になったから……」

 女は理解不能とばかりに肩を竦めた。

「お喋りはそこまでだ」緋雨は少々苛立った様子で言った。「貴様も我々を始末するために送り込まれたのだろう。私怨で三人殺し、ついでに絵を描くためだけに来たわけではなかろう」

「まあね……でも……もういいかな、って。何か疲れちゃった」

 女は自嘲気味に笑うと、再び筆とパレットを足元に置き、完成途中のピエロをぼんやりと見やった。その目からは精気が失われつつあるようだった。那由多は緋雨の言葉を思い出し、薄ら寒いものを感じた──〝死んでいるも同然といえば、先程のあの女も似たような状態だったな〟

 ガサ……ガサガサ。

「……え?」

 ガサガサ……ガササ。

 何か小さい生き物が這い回るような音が、積み重なった死体の方から聞こえてくる。

「緋雨……」

 緋雨は那由多を庇うように一歩前へ出た。

 ガサガサ……ガサガサガサ。

「何を仕掛けた」 

 女は答えない──いや、答えられないようだった。精気を失いかけていた目には明らかに動揺の色があり、死体の方を不安げに見やっている。

 ガサガサッ。

 音の正体が死体の陰から姿を現し、四足歩行でヤモリのように壁を這った。四、五〇センチ程の大きさで、全身真っ黒なそれには人面が付いており、那由多たちに気付くと目玉をギョロギョロと忙しなく動かした。

莉緒華りおか

 化け物が男の声で喋り出すと、カジュアルスーツの女はビクリと体を震わせた。

「莉緒華、お前はどうしてそう暗いんだ? そんなんだからいじめられるんだ。お前にも原因があるんだぞ」

 化け物が小首を傾げニタリと笑うと、女は憎々しげに睨み付け、椅子から立ち上がった。

「おい、どうやらあいつは貴様も獲物の一人と認識しているようだぞ。所詮貴様はピエロにとっては使い捨ての駒に過ぎないのだろうよ」

「わかってる」女──莉緒華は低い声で答えた。「そんな事、最初からわかってる」

 緋雨は莉緒華を自分の後ろへ引き寄せようとしたが、その手は払い除けられた。

「莉緒華、お父さんの言う事聞きなさい」化け物は今度は女の声を発した。「絵ばっかり描いて。勉強はしているの?」

「うるさい……」

「莉緒華、父さんの話聞いてるのか。ん?」

「莉緒華、絵よりももっと家事を覚えてよ。女の子でしょ」

「うるさいうるさい!!」

 化け物は反時計回りに素早く移動した。

「那由多、その女は任せたぞ」

 緋雨は化け物に近付き、短く呪文を唱えた。直後、両手が青白くまばゆい光に包まれた。

「莉緒華さん、教えて。この部屋に、俺たちがやって来た以外の出口はない?」

「ないわよ」

「本当だね?」

 化け物は緋雨の拳を紙一重でかわすと天井へ移動した。緋雨がそちらに拳を突き出すと青白い光が一直線に飛んだ。化け物はこれもかわし、那由多の真上にやって来ると舌舐めずりした。

「那由多、先にここを出ろ」

 化け物が黒い息を吐き出した。咄嗟に那由多は鉄扇を広げて庇い、莉緒華を無理矢理引っ張って元来た方へと走り出した。

「俺の仲間が向こうにいるんだ。とりあえず合流すれば──」

 一〇メートル程進んだところで那由多の足がもつれ、膝を突いた。

「あ、あれ……」

 那由多は立ち上がろうとし、顔をしかめて呻いた。足全体が酷く痺れていた。腕を使い、莉緒華に向き合うように体勢を変える。

「さっきの息のせいね」莉緒華は那由多を見下ろし淡々と言った。「まともに喰らってたら、足だけじゃ済まなかったわよ」

「先に行くんだ」

 莉緒華の眉がピクリと動う。

「早く。君は無事なんでしょ」

「……知ってた? あの化け物、中途半端な攻撃だと分裂する事もあるのよ」

「え?」

 那由多が引き留めるよりも先に、莉緒華は踵を返した。


「むう……」

 緋雨は己の不甲斐なさに歯ぎしりした。化け物は予想以上にすばしっこく、なかなか攻撃を当てられずにいた。ようやく足に喰らわせたかと思いきや、その傷口から分裂してしまい、更には吐き出された黒い息のせいで左腕に痺れが生じていた。

 ──一撃で息の根を止めねば。

 二匹の化け物は、倒れたイーゼルのすぐ隣に立つ緋雨を挟むようにして、それぞれ壁にへばり付いている。

「緋雨……お前は卑怯者だ」

「緋雨さん……戻りたいわ……あの頃に」

 懐かしくも忌まわしい声が緋雨を挑発し、攻撃を誘おうとする。無論、緋雨は乗せられるつもりはなかった。

 ──奴らは慢心している……好機を窺え。

 遠ざかったはずのパンプスの靴音が近付いて来る。二匹の化け物は、視線を緋雨から靴音の主に移した。

「あ、やっぱり増えてる」

「おい、何故戻った」緋雨は振り返らずに言った。

「そいつが分裂する事を教えてやろうと思って。遅かったわね」

「先に言わんか」

「それとさ……」

 莉緒華は緋雨の元に寄り、そっと耳打ちした。その内容に緋雨の表情が曇る。

「上手くやってみせるわ。だからあなたも頑張ってよ」

「まさか……おい、それでは貴様が」

 莉緒華は左側の化け物に近付いた。

「何ジロジロ見てんだよ、畑野はたの

 化け物が気分屋女の声で意地悪く言い放った。莉緒華は動じず、小馬鹿にしたように薄笑いしてみせた。

「ペタペタペタペタ、這いずり回る事しか出来ないわけ?」

 化け物はギョロリと目玉を回した。

「後はせいぜい変な息を吐くだけ。雑魚じゃない」

 化け物は呻くと、目にも止まらぬ速さで莉緒華に飛び掛かり、体に溶け込むようにして消えた。莉緒華は一瞬苦しそうに顔を歪めたが、一歩踏み出しかけた緋雨を手で制し、振り返ってもう一体の方へ歩き出した。

「畑野ってマジキモイよなー!」

 中学時代、莉緒華をいじめたグループのリーダー格であり、今は重なる死体の一番下にいる女の声だった。

「はいはい、言ってろ雑魚二号」

 莉緒華が中指を立てると、それが合図になったかのように残る一体も莉緒華に飛び掛かり、消えた。

「……っく」

 莉緒華はシャツの胸元を掴み、屈んだ体勢でよろめいた。

「おい──」

「早く! 言ったでしょ、こいつらは何かに憑依している時が一番弱いって。今ならまだ上手く動け……っ」

 莉緒華の顔から血の気が引いてゆき、目の焦点が定まらなくなってきた。

「はや……ヒ……サメ……ナマイキカラス……コロス……」莉緒華の口から、彼女と彼女のものではない声が発せられた。「ヤイテクッテヤ……う……何してるの、早く……!」

 緋雨は迷いを吹っ切るように頭を振ると、拳を突き出した。青白い光は一直線に飛んでゆき、異様な形相でこちらに向き直った莉緒華の心臓を一撃した。
 この世のものではないおぞましい悲鳴を響き渡らせると、莉緒華の体は真後ろに倒れ、ゴツリと音を立てた。ややあってから、莉緒華の開いた口から二体の化け物が慌てて這い出して来たが、以前の俊敏さはなかった。
 緋雨は両手でそれぞれ一体ずつ何なく掴み上げると、青白い光でゆっくり、頭のてっぺんからつま先まで完全な灰になるまで焼き焦がした。

「……ふん」

「上手く……いった?」

 緋雨はしゃがんで莉緒華を抱え起こした。助からないのは一目でわかった。

「お前には、ここを生きて出るつもりは最初からなかったのだな」

「……まあ、ね」莉緒華は笑いかけたが咳込み、それが落ち着くとゆっくり目を閉じた。「お友達に……よろしくね……」

 緋雨は一度も振り返らずにその場を後にした。
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