【改稿版】骨の十字架

園村マリノ

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第二章

#2-5-2 莉緒華②

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 ──サボっちゃった……。

 罪悪感と解放感とがない交ぜとなった複雑な気分を抱きながら、莉緒華は平日の東京の空の下をあてどなく歩いていた。
 無断欠勤なんて初めてだった。学生時代にいじめられていた時だって、苦痛に耐えしっかり通っていた──そうしないと、父が絶対に許さなかったからだ。
 会社からは何度も着信があり、トークアプリのグループにメッセージが入っていたが、全て無視した上で前者は着信拒否、後者はグループを抜け個人からのメッセージもブロックした。
 もうこのまま辞めてしまいたかった。業務の引き継ぎ? 知ったこっちゃない。
 しかし、ある意味最大の敵は同じ家に存在する。会社を辞めるだけではとてもじゃないが解決しない。

 ──どうしよう……。

 何処からか香ばしい匂いが漂ってくると、莉緒華は自分が空腹だと気付いた。朝はほとんど食欲がなかったし、昼食にいい時間だ。

 ──食べてからまた考えよう。

 莉緒華は匂いの元を辿り、つい最近新装開店したというベーカリーカフェに入った。


「畑野さん……来ないわね」

「木田課長が何度か電話してるけど、出ないみたいですよ。メッセージの返信もないし、それどころか会社のグループも抜けちゃってます」

 田所雛子たどころひなこ小沼安奈こぬまあんなは、後輩である畑野莉緒華を心配していた。二人共、莉緒華が日頃から大河内に受け続ける仕打ちを静観する事しか出来ずにいたが、今になって後悔し始めていた。

「このまま辞めちゃうのかしらね……」雛子が溜め息混じりに呟いた。

「かもしれません……何だか畑野さんが可哀そ──」

 大河内がトイレから戻って来たため、安奈は口を噤んだ。当の大河内は、呑気に鼻歌を歌っている。二人は無言で顔を見合わせた。

「大河内さん」席に腰を下ろそうとした大河内の元に、神妙な面持ちの木田がやって来た。「話があります。ちょっと会議室に」

 室内に緊張が走った。流石の大河内も話の内容には思い当たったらしい。木田が背を向け歩き出すと、露骨に顔を歪めてから後に続いた。そしてそれから数十分後には、全員の予想通りすっかりお冠状態で戻って来た。

 ──自分が悪いなんて一ミリも思っちゃいないんだわ……今まで散々意地悪しておいて。

 安奈は怒りを覚えた。

「小沼さん」

 氷のように冷たい声に突然呼ばれ、安奈は飛び上がりそうになった。大河内が能面のような表情でこちらを見ている。

「領収書の作成は?」

「え、あ、えっと、あと少しです」

 大河内はそれ以上何も言わず、着席すると必要以上に物音を立てながら仕事を再開した。
 その場にいた大河内以外の人間が、それぞれ距離の近い者同士で目配せし合った。大半は気まずそうだったが、中にはニヤニヤと笑い、状況を楽しんでいる者もいた。

 ──畑野さん……こんな所辞めて正解だと思うよ。

 安奈は、駅にある求人情報誌を忘れずに持って帰ろうと決めた。


 二〇時過ぎに帰宅した莉緒華は、簡単な夕食と風呂を先に済ませ、部屋に籠ると手書きの辞表を作成した。充実した一日──最高に美味しいパンに美術館にウィンドウショッピング──が、背中を押してくれたような気がした。
 明日はいつも以上に早起きし、先に出社しているであろう木田に辞表を叩き付けてやる。あんな会社や大河内のババアとはおさらばだ。両親には夜になったら勇気を出して話す。間違いなく父は許さず、一悶着あるだろうから、場合によっては当て付けに家出してやるつもりだ。

 ──行く宛なんてないけどね……。

 〇時を回る頃、莉緒華はベッドに入った。明日の事を考えると緊張と不安でなかなか眠れそうにない。

「わたしの人生……本当にどうなるんだろ」

 コン、コン、コン。

 ようやくうとうとし始めた頃、部屋のドアがノックされた。

「……何?」

 母だろうと思いそのまま待ってみたが、入って来るわけでもなければ喋り出す様子もない。莉緒華は仕方なくベッドから出て、部屋の明かりは点けずにドアを開けた。真っ暗な廊下には誰もいない。両親は既に寝たのか、二階の他の部屋も一階も明かりは消えている。

 ──今……絶対に音したよね……?

 腑に落ちないが、このまま暗闇を見つめていたくはなかった。音を立てないようドアをそっと閉め、ベッドに戻ろうと振り返った瞬間、莉緒華は心臓が止まるのではないかという程驚いた。
 ベッドの上に誰かが座っている。
 莉緒華は震える手を伸ばしてスイッチに触れた。そして明かりが点くと、小さく悲鳴を上げた。
 ベッドの上に、間違いなくピエロが座っている。

「何、あ、イヤ──」

「シィーッ……とりあえず落ち着くんだ」

 ピエロはベッドから下りると莉緒華との距離を縮め、顔を近付けるとニイッと不気味に笑ってみせた。

「ヒイッ! ヒッ──痛っ!」

 莉緒華は後ずさった拍子に、ドアノブに背中を盛大に打ち付けてしまった。

「落ち着けってば……ボクはキミの味方だし、キミだってボクの味方になってくれると思ってね」

「……はああっ……?」

 恐怖と痛みで気が狂いそうだったが、同時に莉緒華は、不思議とピエロの話に興味を抱きつつあった。

「大河内真紀子……あいつのせいで、キミは毎日、本当に辛い思いをしている。味方なんていない。そして未来に絶望してもいる」

「……何で……それを……いや、ていうかあなた誰なの!?」

「名前なんてない……ただのピエロさ」ピエロはどこか寂しげに答えた。

「た、ただのピエロがいきなり……ど、何処から……」

「そんな事はどうでもいいだろ。それよりキミ、喜びなよ。キミの怨敵・大河内真紀子は、二度とキミに意地悪出来ない。呑みに行く事も、海外旅行も、仲良しグループの間で気さくな面倒見のいい女を演じる事も出来ないのさ! ケケケッ!」

「……へ?」

「大河内真紀子には自分で自分を殺してもらった。アイツ、うたた寝しながらどんな夢を見ていたと思う? まあそれは今度話してやるよ。かなり笑える……おや、言っている意味が全然わかってなさそうだ」

 ピエロは白手袋をはめた両手を、その間に何かを隠すようにして合わせると、そのままの状態で莉緒華の前に差し出した。

「……何?」

 両手がゆっくりと、勿体振るように開かれてゆく。

「……え……」

 両手が完全に開かれると、莉緒華の目も大きく見開かれた。掌の上に乗るそれは、根本に血がこびり付いた人間の指だった。

「あ……あああ……あ……い……」

 悲鳴は出そうで出なかった。代わりに胃の中のものが逆流しかけたが、ほとんど無意識に飲み込むと、今度は全身から血の気が引いてゆくのを感じた。

「最初に切り落としてやったんだ、アイツの左の小指。泣き叫ぶ姿をキミにも見せてあげたかったな! その次に色んな虫を体中に這わせてやったら、そりゃもうパニクッてパニクッて。頑張って引き剥がそうとしてたから、指を切り落としたナイフを貸してやったんだけど、とにかく哀れな程に取り乱していて、やたらめったら……後はもうわかるだろ?」

 莉緒華は膝から崩れ落ちた。目の前は霞み、暗くなりかけている。

「おやおや、大丈夫かい?」

 ピエロはしゃがみ、莉緒華の顔を覗き込んだ。白塗りに黒く縁取った目元、耳の近くまで裂けているように赤く塗られた唇。

「ヒッ……!」

 力が入らない。助けを求めようにもまともな声が出ない。それでも何とかこの状況から逃げ出そうと体を動かす莉緒華の眼前に、ピエロが小指を摘んで差し出した。

「記念にいるかい?」

 莉緒華は完全に意識を失った。
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