【改稿版】骨の十字架

園村マリノ

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第二章

#2-5 莉緒華①

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「あの人は元々ああいう性格──気が強くて気分屋なんだ。いちいち気にしてちゃやってられないよ……ねえ?」

 上司の木田きだの口調からは、面倒事に巻き込まないでくれという本音がひしひしと伝わってくる。

「まあさ、私もとりあえず気を付けて様子を見ておくけどさ、ああいう人はああいう人なんだって割り切った方がいいよ。うん」

 ──やめとけば良かった。

 畑野莉緒華はたのりおかは、会議室を出ると深く溜め息を吐き、全く晴れない気分のまま帰路に就いた。そもそも、この会社の人間に相談しようなんて考えた自分が馬鹿だったのかもしれない。

 ──嫌な事ばっかり。嫌な奴ばっかり。わたしの人生、いつもこう。

 莉緒華には画家になるという夢があった。幼少時より絵を描く事が大好きで、中学時代には、一度だけだが風景画のコンクールで特別賞を受賞した経験もある。
 美大に進学し、いずれは画家になりたいという夢を、勇気を出して父に打ち明けたのは、高校一年の時だった。

「お前が考えている程、現実は甘かない! お前以上に画力があったって食っていけない人間は、世の中腐る程いるんだぞ」

 頭が固く独善的な父の反応は、莉緒華の想定内だった。

「お前の性格なら、事務や経理の仕事が合っているだろ。文系でも理系でもいいから、通常の四年生大学に通って、その間に色々な資格を取ってだな──……」

 ──嫌だよ……。

「絵なんて、結婚して子供産んで育てて巣立ちしたら、老後の空いた時間でいくらでも描けるだろ」

 ──それじゃあ意味ないんだよ……。

「ん? さっきから無言だが、父さんの言ってる事、間違ってるか? 父さんはな、お前の事を思って──……」

 莉緒華は昔から、父には逆らえなかった。絵画教室に通いたいと頼んでも許されず、興味のない英会話や書道を習わされたり、資格を取得させられた。莉緒華自身が嫌々ながら行っていたためか、どれも中途半端な出来だったし、現在役立っているものはない。テストで悪い点を取れば何日も無視された。
 中学三年の夏休みには、ほぼ休みなく朝から晩まで二箇所の塾に通わされ、ストレス症状が体のあちこちに出てしまった。父は全く気付いておらず、見かねた母が無理をさせ過ぎではないかと指摘すると、父は激怒し、自分がどれだけ娘の将来を考えた上で金を使っているか、自分の子供の頃は貧乏で、習い事などやりたくても出来なかった、などと二時間近くも説教を続けた。勿論、状況が改善される事などなかった。
 高校二年からは予備校通いをさせられ、アルバイトは許されなかった。卒業後の友人たちとの旅行にも参加出来ず、微妙な距離感が出来てしまい、以降はほとんど交流していない。
 全く望んでいなかった某国立大学に進学し、卒業後は同じく全く望んでいなかった、自宅から徒歩で通勤可能な磨陣市内の小さな会社に就職した。一人暮らしを望んだが、案の定反対された。そもそも父は莉緒華の話などろくに聞かず一方的に、やれ若い娘の一人暮らしは危険だの、ろくな家事も出来ないお前には無理だろうなどと頭ごなしに否定するだけだった。

 ──あれも駄目、これも駄目……。

 悪夢のような現実は続く。入社から二週間もしないうちに、自分よりたった三箇月早く中途入社しただけの年上の女性社員、大河内真紀子おおこうちまきこに舐められ、いびられるようになった。大河内は気分屋なので、機嫌がいい時は信じられないくらいに優しく親切だが、そうではない日の方が圧倒的に多い。
 そして現在、入社二年目の秋。
 今日だって、莉緒華の些細なミスを目ざとく見付け、室内の人間全員に聞こえるような大声で指摘し、どうやったらそんなミスが出来るのかと嫌味を言った。莉緒華と来客との雑談に勝手に割り込んで来たかと思えば、莉緒華は一切家事をしない人間だと決め付けた物言いをし、反論に聞く耳を持たず鼻で笑うと去って行った。来客は反応に困っており、気まずい空気になってしまった。
 我慢の限界が近付いていた。他の社員たちは誰もが見て見ぬ振りだ。
 こうなったら、自分から直接助けを求めるしかない。そう決意し、大河内が定時退社したのを見計らって木田を捕まえ、洗いざらい訴えたのだが、彼の反応からすると今後も何も変わりそうにはなかった。

 ──辞めたい。

 出来るわけがなかった。あの父が許すわけがない。何て言われるかは容易に想像が付く──〝石の上にも三年〟って言葉があるだろう! 最低でも丸三年は働きなさい!
 そして丸三年働き、今度こそ辞めたいと言ったところで、新たに理由を付け絶対に認めやしないのだろう。

 ──むしろ死にたい。

 涙が溢れてくる。学生時代にも何度かいじめられ辛い思いはしたが、乗り越えてきた。でも、だからといって、決して慣れたわけでもなければ傷付かなくなったわけでもないのだ。

 ──死にたい……でも。

 どうせ死ぬのなら、大河内に報復してからだと莉緒華は考えているが、他人を殺す度胸もなければ自殺を図る度胸もなかった。

 ──わたしの人生……何なんだろ。

 とぼとぼと歩く莉緒華の背中を、数十メートル後方から、一人の少年が無表情でじっと見つめていた。


「おい畑野」

 今日の大河内はここ数箇月の間で一番機嫌が悪い。出勤直後から物に当たり散らしていたし、電話応対でも機嫌の悪さを隠そうともしなかったので、聞いているこちらがヒヤヒヤさせられた。
 定時になり、やっと解放されるかと思いきや、帰り支度中に呼び止められてしまった。

「……何ですか」

「何ですか、じゃないんだけど」

 カチカチカチカチッ。

 大河内は席に座ったまま、苛立たしげにボールペンを何度もノックしている。

「わたしが何で呼び止めたのかわかんない?」

 場の空気が凍り付いた。周囲の社員たちは残っている仕事や帰り支度に集中する振りをしつつ、しっかり聞き耳を立てているのがわかる。

「……わかりません」

 カチカチカチカチッ。

「本当にわかんないわけ?」

 カチカチカチカチッ。

「わかりません」

 大河内はボールペンを放るようにデスクの上に置き、細い目を更に細めて莉緒華を睨み付けて小さく舌打ちすると──

「あんたの態度だよ!」

 突然怒鳴り声を上げ、莉緒華以上に周囲の社員たちを驚かせた。

「朝から何なんだよ、反抗的な態度ばかり取りやがって! 何様のつもりだ!?」

「……は?」

「は? じゃねえよ。こっちが黙ってりゃ調子に乗りやがって。だいたいあんたはいつも──」

「ま、まあまあ大河内さん!」営業の男性社員の大島おおしまが慌てて立ち上がり、制するように手を伸ばした。

「まあまあまあ、とりあえず落ち着きなよ」大河内の後ろの席の、同じく営業の新田にったも宥める。

 莉緒華は開いた口が塞がらなかった。朝から態度が悪かったのは大河内の方であり、莉緒華自身は、今日に限らず毎日、どんな態度を取られたって普通に接しているつもりだ。

「全然意味がわかりません」莉緒華はきっぱり言った。「わたしがどんな生意気な態度を取ったっておっしゃるんですか。機嫌が悪いからって、言い掛かりはやめてください」

「……人が声を掛けても何か注意しても、ろくに返事もしないだろうが!」

「え? それは普段の大河内さんの方でしょう」

 場の空気が更に凍り付いた。一応自覚はあるらしく、大河内は返答に詰まった。顔を真っ赤にし、瞼をピクピクと痙攣させ、口元をプルプルと震わせている。

 ──この人、結構馬鹿かも。

 そう思うと、少しではあるが勇気が湧いてきたので、莉緒華は鬱憤をぶちまける事にした。

「わたしの入社早々から馬鹿にして、事ある毎にイチャモン付けて。他の人たちと明らかに態度が違いますよね。機嫌がいい時はこっちが騙されそうになるくらい優しいですけど、今日みたいに機嫌が悪いと普段の五倍は性格悪くなりますよね」

 大河内の赤い顔が白くなったかと思うと、再び赤くなった。

「わたしがおめえに厳しくするのはな! 先輩として、敢えて心を鬼にしているからなんだよ! おめえは鈍臭いんだからそこまでしなきゃ成長しないだろ!」

「本気で教育のつもりなんですか? 信じられない。ただのいじめじゃないですか!」

「言い掛かり付けんじゃねえよ!」

「だから言い掛かりはそっちでしょうが! この性悪ブス!」

「ああ!?」

「ああーっ! 待て待て落ち着けってホントに!」

 新田が二人の間に割って入り、肉厚な手で莉緒華の肩を軽く掴んだ。莉緒華は眉をひそめた。何故この男は、大河内ではなく莉緒華わたしを止めようとするのか。

「やめようって二人共。一緒に働く仲間だろ。な?」

「そうそう、そうだよ」大島は大袈裟に頷いた。

 新田は莉緒華から手を離すと、どこか格好付けたような口調で、

「どっちもどっちだよ」

 ──……は?

「確かに大河内ちゃんは、ちょっと言い方がキツイところもあるし、何も怒鳴らなくたって良かったんじゃないかな。でも、畑野ちゃんも畑野ちゃんだよね」

 ──は? え?

「流石に悪口は良くないよ? 大河内ちゃんだって悪気はなかったんだから。ね!」

 ──……本気で言ってるの?

「だからさ、ここは喧嘩両成敗! お互い謝って、水に流そう! なっ!」

 ──この人……正気?

 この上なく気まずい沈黙が場を支配している。莉緒華は作り笑いを浮かべた新田から視線が逸らせなかった。少しでも動こうとすると倒れてしまいそうだった。

「正直あんまり納得いきませんけど……」大河内が沈黙を破った。「まあ、わたしも大人ですし? ちょっとは言い過ぎたかなって思いますから、謝ってもいいですけど」

 ──嘘だ。

 案の定、大河内は莉緒華をジロリと睨んで踏ん反り返ると、

「でも畑野は全然反省してないよね。そもそもの元凶だっつうのに。ぶっちゃけ、今ここで土下座してほしいくらいなんだけど」

 室内が過去最高に凍り付いた。そして莉緒華の中で何かが切れた。

「……けんな」

「は?」

「ふざけんな!!」

 莉緒華はバッグを引っ掴むと、会社を飛び出した。女性社員の誰かが慌てて名前を呼びながら追って来るようだったが、振り返らずにひたすら走った。

 ──もう嫌だ……何もかも!!

 莉緒華はまだ両親が帰宅していない自宅に戻ると、自室のベッドに突っ伏して一人泣き続けた。両親が帰って来るまでに泣き止めるだろうか? あの二人──特に父に悟られるわけにはいかない。事情を説明したところで、同情どころか説教されるのは目に見えている。

「わたしには……味方なんていないんだ!!」

 
 同時刻。
 畑野家、とりわけ莉緒華の部屋を、数十メートル離れた場所から無表情にじっと見つめる少年がいた。
 少年はここ最近、毎日のように莉緒華の様子を離れた場所から窺っていた。ある時偶然見かけ、かつての自分と同じような絶望感に満ちた孤独な魂を感じ取って以来、ずっと。
 ある夜、莉緒華の夢の中に入り込んで過去を探ってみると、昔から何かと周囲の人間たちに苦しめられている事がわかった。古臭い考えに固執する独善的な父親、夫に逆らえない母親。最近では心身共に歪んで醜い大河内真紀子に、見て見ぬ振りのその他大勢──。

「可哀想に」少年は無表情かつ無感情に呟いた。

 通りすがりの野良猫が少年を威嚇した。少年が僅かに首を傾げ、裂けんばかりに唇を広げてニイッと笑うと、野良猫は怯み、一目散に走り去って行った。

「ケケッ」

 少年は小さく笑い、その場で宙返りしたかと思うと、次の瞬間には姿を消していた。
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