【改稿版】骨の十字架

園村マリノ

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第二章

#2-1 情報①

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 朝の家事を一通り済ませた茶織さおりは、リビングでアールグレイを飲んで一息吐いていた。時折、外から人の声や行き交う車の音が聞こえてくる以外は静かだ。
 ついでに、数日前に駅前のスーパーで手に入れた求人情報誌に適当に目を通す。金銭面に余裕があるとはいえ、健康体にも関わらずこのまま無職でいるのはどうなのかと、茶織の中の倫理観やら何やらが訴えかけているのだ。
 それでも茶織はいまいち乗り気にはなれなかった。綾鷹あやたかが気掛かりだという事もあるが、それ以上に茶織自身が、綾鷹以外の人間とのコミュニケーションを好んでいなかった。

 ──一緒に連れて行ってくれれば良かったのに。

 祓い屋のような仕事とやらが具体的にどんな内容なのかはわからないが、綾鷹のためなら命懸けの仕事だって何ら苦にはならないだろう。

 ──次に会ったら、無理矢理にでも一緒に──……

「サオリ……聞こえますか……」

 静寂を破るか細い男の声に、茶織は危うくアールグレイを噴き出しそうになった。

「……っ、勝手に出て来るなっつったわよね、バロン・サムディ」

「えー、声だけでも駄目?」

「……見えなきゃ見えないで気持ち悪いわね。許可するから出て来なさい」

「んじゃ」

 サムディはすぐに姿を現した。茶織の予想通り、正面の椅子に腰掛けている。

「そこは綾兄あやにいの席」

「アヤタカいないじゃーん。他に椅子ないし」

「で、要件は?」

 サムディは待ってましたとばかりに、憎たらしいくらいに真っ白な歯を見せニカッと笑うと、

「酒と葉巻が欲しい!」

「却下」

「即答! ちょっと、ワシをタダ働きさせるつもりっ!?」

「全室禁煙。酒だって、酔って何しでかすかわかったもんじゃない」

「ワシ、酒には強いよ? ヴードゥー天下一酒豪決定戦では、常に準優勝だし。あ、ちなみに優勝はワシの妻のブリジット。いやどうして、なかなかブリちゃんには敵わないんだよなあ。ちなみに三位以下は毎回決まってなくて──」

 サムディのお喋りは無視して、茶織は二杯目のアールグレイをポットから注いだ。綾鷹の滞在中は彼の好みに合わせてアッサムを淹れていたが、やはり紅茶はアールグレイが一番だ。

「──で、オグンの奴がバッタリと倒れ、それからワシとブリちゃんの一騎討ちになって──」

 せっかくなのでクッキーかラスクでも食べたかったが、綾鷹が出て行った後にやけ食いしてしまい、一つも残っていなかった。

「──結局、またブリちゃんの勝ち。いやあ、あの時は結構自信あったんだけどねぇ~。応援席の皆も、今回ばかりはワシが勝つと思ってたらしいから──」

「パンならどう?」

「へっ?」

「酒と葉巻の代わりにパン。何だったら、クッキーやラスクも付けてあげてもいいけど」

 クッキーやラスクも販売している、なかなか美味しいパン屋が隣町にある。雷徒町らいとちょうに引っ越して来てから存在を知り、試しに足を運んで以来、茶織は割と気に入っていた。

「パンか……」サムディは勿体ぶったように間を置き、ややあってから頷いた。「仕方ない……それで手を打とう。で、今くれるの?」

「これ飲んだら買いに行くのよ。一応言っておくけど──」

召喚よばれない限りは勝手に出て来るな、でしょ。わかてますよーだ」

 サムディが大人しく姿を消すと、茶織はゆっくりとアールグレイの続きを味わった。


〈きくちパン〉に向かい、雷徒町から梛握町だあくちょうへと続く緩やかな坂道に差し掛かった時、二階建ての洋風住宅の廃墟が茶織の目を引いた。
 汚れてひび割れた外壁には蔦が這い、敷地内には不法投棄された大小様々なゴミが散乱している。塗装の剥げた門は鎖で閉ざされているが、鎖そのものは比較的新しそうだ。
 過去に何度か目の前を通り過ぎてはいるが、気に留めた事は一度もなかった。それがどういうわけか、今日に限っては特に理由もないのに足を止めずにはいられなかった。

 ──……?

 廃墟の二階の窓に、一瞬だが人の姿が見えたような気がした。

 ──まあ、何がいてもおかしくないわね。

 今更驚くまでもない。ピエロの化け物に殺されかけ、ヴードゥーの精霊が同居人のような存在になってしまった。廃墟に幽霊がいる、それが何だというのだ。

「あのお家に用があるの?」

 唐突に聞こえた無邪気な少女の声に振り向くと、歩道の縁石の上に七、八歳くらいの少女がいた。おさげ髪で、天使の少女と悪魔の少年のイラストが描かれたピンク色の半袖のTシャツを着ている。小学生女子向けのブランドのキャラクターで、一〇年程前に流行っていたが最近はほとんど見掛けない。

良香りょうかおねえさんに用があるの?」

 茶織の視線は自然と少女の足元へと移った。カスタード色のスカートから伸びる細い脚は膝から下が透け、足首から下に至っては完全に消えている。
 茶織は小さく溜め息を吐き、思いやりの欠片もない口調で、

「事故にでも遭ったわけ?」

 少女はきょとんとしている。

「そんな所にいないで、さっさと成仏──」

「入って来ていいって」

「え?」

 少女は廃墟を見上げ、

「良香おねえさんが、入って来ていいって」

 つられて見上げようとした茶織は、門を閉じていた鎖が消えている事に気付いた。

「用があるなんて言ってないけど」

「えー、そうだったの?」

 茶織はそれ以上何も言わず立ち去ろうとしたが、ふと思い付いて留まった。

「あなた、ピエロの幽霊に会った事がある?」

「ピエロ? ううん」少女はかぶりを振った。「でも、それも良香おねえさんなら知ってるかも。物知りだし、お友達沢山いるもん」

 茶織は考え込んだ。あの生意気で忌々しいピエロは見付け次第必ずこの手で制裁してやるが、そのための手掛かりがあまりにも少ない。まさか近所中の人間に聞いて回るわけにもいかない。そうなれば頼れるのは、ピエロと同じような存在──生きた人間以外──なのではないだろうか。
 茶織は、周囲に人気ひとけがない事を確認すると、ゆっくりと門を開いた。

「あ、やっぱり行くんだ」

「そうするわ」

「付いて行った方がいい?」

 少女の口調には、むしろ付いて行きたいという意思が隠し切れていなかった。

「結構よ」

「そっかぁ……」

 茶織は慎重に足を踏み入れた。恐怖心が全くないと言えば嘘になるが、認めたくはなかった。

「早く行った方がいいよ。誰かに見られたら、怒られちゃうかもしれないから」

 門は半開きのままにし──決して不安感のためではなく、帰りの際の手間を省いたのだと自分に言い聞かせ──草と石ころとゴミだらけの庭を横目に、アプローチを一〇メートル程真っ直ぐ進んだ。チャイムが見当たらなかったので、元々は真っ白だったのであろう、あちこちが薄汚れたドアを拳で叩いた。
 耳を澄ませたが返事はなく、誰かがやって来る気配もない。茶織は元来た方へ振り返った。少女の姿は見えなかった。

 ──騙された?

 突然、軋んだ音を立てながらドアが開いた。茶織は驚いて後ずさったが、ドアを左手で押さえると、そっと中を覗いた。家具はなく、若干、瓦礫類や木材が散らかっている。ドアを開けた者の姿は見当たらないが、気配だけはしっかり感じられる。

 ──近くにいる。

 恐ろしい考えが茶織の脳裏をよぎった。あの少女もこの廃墟の住人も、実はピエロとグルで、茶織わたしが探しに来るのを待ち構えていたのだとしたら……?

 ──あり得るわね。

「どうしたの」

 落ち着いた女の声がはっきりと聞こえた。茶織は背負ったリュックにそっと右手を伸ばした。

「お入りなさいよ」

 ──いいわよ。やってやろうじゃない。

 茶織は言われた通りにした。
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