【改稿版】骨の十字架

園村マリノ

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第一章

#1-3-2 那由多②

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 一七歳の春、祖母に次いで祖父が亡くなると、その直後に緋雨は姿を消した。家の周辺を探しても見当たらず、葬儀にも姿を現さなかった。那由多は、もう二度と戻って来ないのかもしれないと考えた。

 ──緋雨は、あくまでもおじいちゃんの友達だったんだな……。

 七歳の時に初めて出会って以降、祖父母の家を訪れる度に自分の方から話し掛けたりちょっかいを出していたが、緋雨の方からそうしてきた事はほとんどなかった──一一歳で眼鏡を掛けるようになり、その後再会した時は例外で、何故か興味津々な様子であれこれ聞かれたが。
 短期間に身近な存在を相次いで失ったものの、その後の楽しい高校生活は、那由多の寂しさを紛らわせてくれた。
 人外との交流も増えた。人間の霊が主だったが、動物の霊や大自然の精霊、妖怪の類なども少なくなかった。駄目元で彼らに喋るカラスの事を聞いてみたが、やはり誰も知らないようだった。
 高校を卒業し、祖父母の家に引っ越して来たその日の夜。

 ──誰かいる。

 元々は祖父の部屋だった二階の自室で荷解きの続きをしていた那由多は、何者かの気配──間違いなく人外だ──を感じ取った。
 この部屋にはいないが近い。恐らくは隣の、かつて祖母が使用していた部屋だ。換気のために窓を少し開けたままにしていたので、そこから入って来たのだろう。

 ──あ、これ、ヤバいヤツだ。

 突然寒気がして、全身に一気に鳥肌が立った。上手く表現し難い不安感でいっぱいになる。那由多の経験上、生き物に害なす存在の気配を感じ取ると、ほぼ必ずこの症状が現れている。
 自室のドアをそっと開き、廊下を覗く。姿はない。やはり隣の部屋のようだ。
 那由多は武器や防具になりそうなものを、ダンボールの中から探した。普段から御札や御守りを身に着けているわけではなく、徐霊や浄霊の経験もない。昔から、危険な気配を察知すると自分から避けていた──亡き祖父の教えでもある──ので、今のような状況で、具体的にどうすればいいのかはわからなかったが、少なくとも丸腰で対面するのはまずいだろう。
 カッターやハサミなどの刃物は、相手がほとんど実体のない霊だったとしたら、恐らく大した効果はない。反撃されたら、こちらが怪我だけでは済まなくなるかもしれない。
 考えに考えた結果、厚みが約八センチ、重さは三キロ以上もある大判の辞書を抱え、廊下へ出た。刃物と同じであまり攻撃には期待出来そうにないが、向こうからの攻撃はある程度は防げそうだ。

 ──会話で済めばいいんだけどな。

 難しいとはわかっていても、そう願わずにはいられなかった。
 足音を立てず、一歩一歩慎重に進む。まるでこちらが悪い事をしているようだ。隣の部屋のドアまでの三、四メートルかそこらの距離が、特別長く感じられた。
 レバー型のドアノブにそっと手を掛ける。刑事ドラマみたいに一気に開いて突入すれば、驚いた相手に隙が出来る。そこに打撃を何発か食らわせれば、直接ダメージは与えられなくても、怯んで退散する……はずだ。

 ──上手くいくかな……というか、上手くいかなきゃまずいんだよな……。

「──オマエ──」

 唸るような殺気立った声に、那由多は身を強張らせた。右手がドアノブから離せず、左腕に抱えた辞書が一段と重く感じられた。

 ──気付かれた。

「クルナ──ジャマ──ナラ、タダデハ──サヌ」

 途切れ途切れだが、何を言っているのかはだいたい判断出来た。

 ──おじいちゃん、俺はどうすればいい?

「ふん、邪魔なのは貴様の方だ」今度は違う声が聞こえた。「ここは我の住処だ。不法侵入だぞ、このド低級霊」

「──サイ──マレ──ダマレ──」

 部屋の中の招かれざる客は、那由多に気付いたわけではなく、どうやらもう一人いる誰かと小競り合いをしているようだった。そして那由多には、そのもう一人の声に聞き覚えがあった。

「その間抜け面で脅しているつもりか」

「──ロス──コロスコロスコロス!!」

「殺れるものなら殺ってみろ」

 寒気が急激に増した。室温は実際に何度か下がっているだろう。

「クイコロス──オシャベリカラス!!」

 呪縛は解け、那由多は部屋に飛び込んでいた。
 最初に目に入ったのは、こちらに背を向けている、全長二メートル近い人形ひとがたをした真っ黒い何かが、窓側に立つ男性に掴み掛かろうとする姿だった。 

「やめろ!!」

 那由多が叫ぶのと、真っ黒い何かが悲鳴を上げたのはほぼ同時だった。
 真っ黒い何かの体を、男性の右腕が貫通していた。
 那由多は呆然と立ち竦んでいたが、真っ黒い何かが身を捩って再び悲鳴を上げると我に返り、辞書を両手で振り上げた。

「その必要はない」

 男性はそう言うと右腕を引き抜き、真っ黒い何かにぽっかり空いた穴に両手を掛け、何のためらいもなく力任せに引き裂いた。
 一番大きな悲鳴は長くは続かなかった。ちぎれた真っ黒い何かは霧状になり四散すると、男性の腕に吸い込まれるようにして消えた。

「ふん、雑魚が調子に乗るからだ」

 男性は吐き捨てるように言うと、那由多に向き直った。紺色の着流しに草履姿で、黒い短髪はパンクロッカーのように逆立っている。四〇代くらいだろうか、顔には所々細かな皺が刻まれており、口の周りには無精髭。一七七センチの那由多より一〇センチ近く背が高い。見覚えはなかったが、普通の人間ではまずあり得ない鋭い眼光を放つ紅い目に、懐かしささえ感じる声とやや高圧的な口調は── 

「緋雨……だよね?」

 男性は眉をひそめた。「それ以外に誰がいる」

「ああ、うん、間違いなく緋雨だ。人間の姿、初めて見たよ。変身出来るんだね」

「ああ、お前には初めてだったか。これは我の──」

 突然男性の姿が煙のように消えたかと思うと、畳の上にカラスが一羽。

「ああ畜生、長く持たん!」

「えーっと……緋雨? 今のおじさん姿は……」

「我の本来の姿だ……はあ……」

「え、本当? ビックリなんだけど! え、ちょ、ちょっと何で何で?」

 那由多は緋雨と距離を詰め、腰を下ろして辞書を脇に置くと、くっ付けんばかりに顔を近付けた。

「色々と事情がある。そのうち気が向いたら話す。ところで……久し振りだな」

「緋雨こそ。おじいちゃんが死んでから、何処行ってたのさ。探したんだよ……」

 込み上げてくるものがあったが、何となく照れ臭かったので、那由多は平静を装った。緋雨も同じであってほしいなと思いながら。

「それも気が向いたら……な。ところで那由多」緋雨は那由多の左肩に止まると、耳元に嘴を近付けた。「眼鏡を変えたな」


「あ、それでさ緋雨──」

 前方から腰の曲がった小柄な老婆がゆっくり歩いて来るのが見えると、那由多は一旦口を噤んだ。老婆は八〇代後半くらいだろうか。途中、一度立ち止まると大きく息を吐いて腰を擦っていた。

「大変だよね、坂を上らないと帰れないような場所に住んでると」

 老婆とすれ違ってから、那由多は先程よりも声を小さくして再び話し始めた。駅方面へ向かうにつれ、他人とすれ違いやすくなる。

「俺だって、ピエロの事がなければこっちまで来なかったよ。骨折り損だったかなと思ったけど、アルバちゃんに会えて良かった」

「那由多、先程我に何か言い掛けていただろう」

「ああ、そうだった」

 坂道が終わり、再び平坦な道を進む。

「明日はどんなお土産を持って行けばいいと思う? 手ぶらじゃあね。和菓子より洋菓子の方が好きかな」

「そもそも、甘い物が好きとは限らんぞ」

「それを言っちゃあ……うーん……」

 前方から歩いて来る人々に混じり、両手を伸ばし、那由多に向かって一直線に近付いて来る女の霊が一体。異様に長い髪で顔のほとんどが隠れ、薄汚れた白いワンピースに裸足という姿だ。那由多は考え事に夢中で気付いていない。
 緋雨は一声鳴くと、女の霊の顔面に飛び掛かり爪を立てた。甲高い悲鳴が通り一帯に響き渡ったが、驚いて足を止めたのは那由多だけだった。

「待って緋雨! その人は平気だから!」

 すれ違った人々のうち二、三人がチラリと振り向いたが、すぐに去って行った。

「イ……タイ……」女の霊は両手で顔を抑え、よろめきながら道の端の方へ移動し、うずくまった。

「ごめんよ、大丈夫?」那由多は女の霊が落ち着くまで待ち、立ち上がるのに手を貸した。「久し振りだね、サチエさん」

「何だお前の知り合いか。紛らわしい」

 緋雨はぶっきらぼうに言うと、再び那由多の左肩に止まった。女の霊サチエは殺気立ち、前髪の間から暗く鋭い目で緋雨をギロリと睨み付けたが、那由多にもう一度謝罪されると平静を取り戻した。

「サチエさん、ピエロの姿をした霊を知ってる? 生きた人間、それも何故か中学生と高校生だけを殺す悪霊が、磨陣市内に潜んでいるらしいんだ」

 サチエは顎に指を当て首を傾げ、やがてゆっくり横に振った。

「知らないか……ああ、いいんだ、気にしないで。有難う」

 那由多は、他にまだ話を聞いていない人外の友人たちの姿を思い浮かべた。

 ──地道に聞いて回るしかなさそうだ。

「──ス……とか……」サチエがボソリと呟いた。

「ん? サチエさん、もう一回」

「ピエロなら……サーカス……とか……大道芸……」

「そうだね……ああ、大道芸といえば、六堂ろくどう大道芸は来月の上旬頃だっけ──」

 後ろから那由多の肩が叩かれた。振り向くと、生きた人間の友人が一人。

「ようナユちゃん!」

「ああ、小林こばやしさん!」

 小林は、図書館の最寄り駅である青木せいぼくの改札から徒歩三〇秒のラーメン店〈青蘭せいらん軒〉のアルバイトで、那由多より五歳年上だ。体が大きくいかつい風貌だが、陽気で親切な男性であり、年齢問わず他の常連たちからも慕われている。初来店時、何度も替え玉を注文する那由多に大食い大会に出場するべきだと興奮気味に勧めてきた。お互い食べ歩きが趣味だとわかるとすぐに意気投合し、〈青蘭軒〉で会う度に美味い店の情報を交換し合っている。

「こんな道の端っこで何してんだ? ナユちゃんの事だから腹減って動けなくなったか?」

「うーん、まあそんなところ」

「ワハハ、大丈夫かぁ?」

「小林さんはどちらへ?」

「俺はその先の坂ずっと上って行って、おばあちゃん家。腰が悪いっつうから色々買ってね」小林は背中の膨れ上がったリュックに手を回し、軽く叩いた。「学生時代はよく小遣い貰ってたし、このくらいはな」

「流石は小林さん」

 別れ際、小林はふと思い出したように、

「一一月の六堂大道芸、うちの店もフードコーナーに出店するんだ。初めてだから店長が張り切ってる。良かったら食べに来てな。まあ、いつものメニューと変わんないけどさ」

 サチエとも別れ、再び歩き始めて間もない頃、那由多は盛大に腹の虫を鳴らした。

「おい……まさか」

「うん……お腹空いた」那由多は恥ずかしそうに笑った。

「牛丼をどんぶり二杯食べてから、二時間程しか経過しちゃいないだろう」

「仕方ないだろ。ちょっとした山を登ったり坂道往復したりお喋りしたんだから」

 小声で答えながら、那由多はパーカのポケットからスマートフォンを取り出しイヤホンを挿し込み、耳に装着した。が多くなる時は、こうする事で、周囲には通話中だと思わせられる。

「今月の食費は大丈夫なのか」

「ギリギリかな。家でおやつにするよ」

「またアルバイトでも始めたらどうだ」

「そのつもり」

 小さな男児とその母親とすれ違った。男児は母親に手を引かれ、キョロキョロしながら歩いていたが、那由多に気付くと視線が釘付けになった。通り過ぎてからも振り返って見つめていたが、やがて母親の手を引っ張り興奮気味に声を上げた。

「ママァ、カラシュ! おしゃべいカラシュいた!」
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