【改稿版】骨の十字架

園村マリノ

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第一章

#1-2-2 龍②

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 雷徒町の隣町、梛握町だあくちょう。    
 今年で創業八〇年目の老舗パン屋〈きくちパン〉は、決して全国的に有名というわけではないが、知る人ぞ知る名店として評判だ。
 
 ──あの子、今日も来ないかしら。

 吉岡佐和子よしおかさわこは、店の常連である磨陣高校の男子生徒を思い浮かべながら、焼きたてのかぼちゃあんパンを店頭に並べていた。一六時四〇分。普段ならば近所の主婦や高齢者で狭い店内がいっぱいになっている時間帯なのだが、今は珍しく客が一人もいない。

 ──タイミングが合わなかっただけかしらね。それとももう飽きちゃったとか。

 脱色したプラチナブロンドの髪と奥二重の切れ長の目が印象的な、細身で色白の少年。去年の春頃から一、二週間に一度の割合で買いに来てくれているが、先週は一度も見掛けなかったし、今週ももう金曜日なのに、まだ見掛けていない。
 少年が気になる理由は二つ。
 一つは、少年を見ていると、一人息子の健一けんいちの高校時代を思い出すからだ。今では一児の父となり親孝行をしてくれる健一も、当時はよくこの店でパンを買って食べていたし、髪を勝手に染めたり脱色したりする度に、母子間で口喧嘩が勃発した。
 
 ──あの男の子も、あっという間に立派な大人になるのかもね。

 自動ドアが開き、客が一人入って来た。

「いらっしゃいませー!」

 ──あ。

 反射的に笑顔で挨拶した吉岡の目に入ったのは、例の少年だった。

「いらっしゃいませー」吉岡よりやや遅れて、レジ担当の滝本洋子たきもとようこも、大きな体に似合わない小さな声で挨拶した。

 ──何でわたしよりドアに近いあんたの方が遅いのよ!

 若干の苛立ちを覚えながらも、吉岡は笑顔を崩さなかった。
 少年は吉岡の隣の棚で、最上段の右端に並ぶ揚げパンと、その下のストロベリージャムパンを左手のトングで一つずつ取り、右手のアイボリーのトレーに乗せた。

「いつも有難う」

 吉岡が少年に直接話し掛けたのは、これが初めてだった。少年は一瞬驚いた様子を見せたが、はにかんだように微笑んで軽く頭を下げた。

 ──あら可愛い。

 余計な世話を焼いてみたくなり、吉岡は話を続ける。「今日はちくわパン売り切れなの。ごめんなさいね」

 少年は再び軽く頭を下げ、吉岡の後ろを通り過ぎていった。こんなおばさんに話し掛けられても迷惑だったかもしれないと内省しつつ、引き続きパンを並べながら無意識のうちに少年の姿を目で追った。
 少年は惣菜パンコーナーのやきそばパンの前で立ち止まると、首だけ店の外の方に向け、やきそばパンをトングで指し示すような仕草をしてみせた。

 ──まただわ。

 まるで、外にいる誰かに、やきそばパンを購入するか否かを尋ねているようだ。しかし外には誰の姿も見当たらない。
 少年が気になるもう一つの理由とは、この奇妙な仕草だ。来店の度に必ずではないが、何度も目にしていれば誰だって興味を持ってしまうだろう。だからといって、直接聞く事で少年が引いてしまい、二度と店に来なくなってしまうのは避けたかった。
 少年は合計六つのパンを選ぶと、最後にレジ横の小型冷蔵庫から二〇〇ミリのアップルジュースと牛乳の紙パックを一つずつ取り出し、トレーやトングと一緒にレジカウンターに置いた。少年が会計を終えて店を出るまで、吉岡は作業の手を止め、その姿を見続けていた。

「今の金髪の子、吉岡さんの知り合いですかー?」

 少年が完全にいなくなると、滝本から見当違いな質問が投げ掛けられた。

「いえ、違うけど。あの子常連さんじゃない」

「へー、そうなんですねー。わたし初めて見ましたー」

「……滝本さんの出勤日にも何回も来てたわよ」

「あれ、そうでしたっけー。全然覚えてないや。吉岡さん、記憶力いいですねー」

 ──あんたがボケッとし過ぎなんだよ!

 吉岡は大声を上げたい衝動に駆られたが、何とか堪えた。滝本は呑気で、縦にも横にも大きな図体は動きがのろく、間の抜けた喋り方をするので、イライラさせられる事が多かった。〝独活うど大木たいぼく〟や〝木偶でくぼう〟などと陰口を叩く店員もいるくらいだ。

「今日はお客さん少ないですよねー」

 そのセリフは朝から何回目だとはっきり言ってやりたかったが、それも堪えた。代わりにどんな返事をするべきかと迷っていると、厨房から自分を呼ぶ声が聞こえたので、吉岡はこれ幸いと売場を離れた。

「さっきの高校生、髪の色は地色なんですかねー」滝本は外を眺めながらのんびり言った。「外で待ってた小さな白人の女の子が、同じような髪の色してたし、ハーフの兄妹かなー? 顔は全然似てなかったけど、沢山買ってったのは、あの女の子の分もなのかなー……」

 焼きたてのメロンパンがいくつも乗せられたトレーを持った吉岡が戻って来て、ようやく滝本は自分の台詞が独り言になっていたと気付いたが、だからといって特に何とも思わなかった。昔からよくある事だからだ。


「案外早かったな」

〈きくちパン〉を出て数十メートル直進後、角を曲がり、自分以外の通行人の姿が見当たらない事を確認すると、日高龍はそう口にした。

「そうですか?」愛らしい少女の声が、誰もいないはずの龍のすぐ隣から聞こえた。「リュウさん、今日はどんなパンを買ってくれたんですか?」

「先に言っておくと、ちくわパンは売り切れだった。後は帰ってからのお楽しみだ」

「あら、人気なんですね、ちくわパン。残念です。でも今日は収穫があったからラッキーですよ。何と、リュウさんと同じように、ピエロの事を調べているという人間の男性に偶然お会い出来たんです」

 龍の足が止まる。「え、マジか」

「マジです。急ですが、明日こちらまで来ていただける事になりました。大丈夫ですよね」

「ああ」

 再び歩き出した。
 反対側の歩道から茶トラの野良猫が一匹、車道を突っ切って渡って来た。野良猫はそのまま龍の目の前を横切り、民家と民家の間の狭い隙間に入って行こうとしたが、龍の方をチラリと振り向いた途端、驚きのあまり勢い良く飛び上がり、慌てて元来た方向へと走り去ってしまった。

「あー……やっぱりネコさんには怖がられてしまいますね」 

「そりゃそうだろ、お前のその姿なら」

 龍は〝見える〟し〝聞こえる〟人間だ。

「アルバ、ちゃんと喋れよな。猫でなくともビビるぞ普通は」

「えー、どうしましょう」

「何で途中でわざわざんだ」

「うーん、何となく。ウフフ」

 龍と同じ体質の人間ならば〝見える〟し〝聞こえる〟だろう── 彼の隣を歩く、自らの首を小脇に抱えた少女の姿と、彼女のご機嫌な鼻歌が。
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