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第四章 二〇年前

08 森へ②

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 百合子は最初のうちこそ、枝を踏み付けて音を鳴らす度にビクついていた。普段ならからかってくるであろう保が何も言わないのは、命が懸かった真剣な状況だからなのか、あるいは彼自身も強い恐怖を感じているからなのかは、判断が難しかった。
 そのうち慣れてくると少しずつ心に余裕が生まれ、枝葉に手足を傷付けられる怒りの方が勝ってきた。上手く避け切れない場合は、懐中電灯や金属バットの先で乱暴に払い除ける。

「ああもう、いっそ燃やしたい!」百合子は口を尖らせた。

「油断すんなよ?」保は少々呆れたように言いながら、石ころを蹴飛ばした。

「わかってるよ。ねえ二人共、ライター持ってない?」

「なっ!?」

「持ってないわ、残念ながら」絵美子は振り向かずに答えた。「でも百合子のその気持ち、よくわかるわよ」

「あ、あるわけないだろそんなもん!」

 何故か動揺する保が気になったが、百合子は言及しないでおいた。


 一本道をひたすら歩き続けても、肝心の〝あいつ〟どころか、虫一匹の気配すら感じられなかった。

 ──一体いつまでこんな調子が続くの?

 百合子は隣の保をチラリと見やった。珍しく愚痴を溢さずにいるが、その表情からは若干の疲労と、それ以上に苛立ちが感じられた。

「ねえ絵美子、これ本当に──」

「止まって」

 言うや否や絵美子は立ち止まり、両手を広げて後ろの二人の足も止めさせた。

「絵美子? どうし──」

「しっ」

 ──……!!

 三人が耳を澄ますと、何処からか低い唸り声のようなものが聞こえてきた。百合子と保の金属バットを握る手に、自然と力が入る。
 唸り声は徐々に近付いて来る。保が振り返って絵美子に背をくっ付けるようにしたので、百合子もそれに倣った。

「おい、この声は何だ。獣か?」

 保はほとんど囁くように尋ねたが、絵美子は無言だった。
 唸り声はすぐ間近に感じられるようになった。

「やだ、怖いよ」

「落ち着け星崎。〝あいつ〟を三枚おろしにしてやるんだろ?」

「ボコボコって言ったの!」

 百合子がつい大きな声を出したその時だった。
 一際大きな唸り声が響いたかと思うと、保に近い木々の間から、巨大な真っ黒い煤の塊のようなものが飛び出し、三人の頭上を覆った。よく見ると真ん中に一つの穴が空いており、そこから舌舐めずりするような音が聞こえた。
 百合子と保は煤の化け物を見上げたまま、互いに身を寄せ合った。至近距離から光を当てられても、煤の化け物は一瞬僅かに怯んだだけだった。

「え、絵美子!」

「大丈夫よ、落ち着いて」

 振り向いた絵美子は冷静にそう言うと、携帯をスカートのポケットにしまい、拝むように両手を合わせた。

「お、落ち着けって言われても──」

 絵美子の形も色もいい唇から、呪文のような言葉が吐き出された。

 パンッ。

 それが終わると、絵美子は拝むように手を打ち、乾いた音を響かせた。するとその直後、煤の化け物は唸り声からは想像出来ないような甲高い悲鳴を上げ、身を捩らせるようにしながら雲散霧消した。

「もう大丈夫よ」絵美子は微笑んだ。

「あ、有難う……」

「助かった」

「どういたしまして。ねえこれ、この後も持っててもらっていいかしら」絵美子は携帯を保に差し出した。「後ろから上手く照らしてね」

「お、おう、わかった」保は何度も頷いた。

「絵美子、今の何だったの? 幽霊?」

「半分はね。もう半分は〝あいつ〟の力……魔法みたいなものかしらね。ちょっとその辺は私もよくわからないのだけれど、混ざっていたわ。悪趣味なやり方よ」

 三人があまり進まないうちに、今度は四方八方から複数の囁き声が聞こえてきた。

「ま、またさっきのみたいな?」

「……名前を呼んでやがる。望月の」

 百合子は耳を澄ました。

「──子」

「絵美子」

「不吉……娘……」

 囁き声は、先へ進むにつれてはっきり聞こえるようになってきた。

「あれは呪われているよ」

「気味が悪い」

「絵美子ちゃん誰と喋ってるのお?」

「望月って知ってるか? 見た目はいいのに頭ヤバい感じの!」

「変わってる子よねえ」

「愛情不足かしら」

 自分が悪口を言われたような気分になり、百合子は顔をしかめた。

「ちょっと見た目がいいからって」

「アタシのカレに色目使ってんじゃねーよ」

「キミ可愛いよねえ! 付き合ってよ。ねえ待ってよ無視しないでさあ」

「付き合うなら望月絵美子だろ! 顔も体をいいじゃん。不思議ちゃん? いいよ別にヤれるなら!」

 保は舌打ちした。「おい望月……何だよこいつらは」

「そうね、いい加減やかましいわね」

 パンッ。

 絵美子が再び手を打つと、ほとんどの声が止んだ。

 パンッ。

 今度は完全に聞こえなくなった。

「ふざけやがってクソが……」

 保は忌々しげに毒突くと、気遣うような視線を絵美子の背中に投げかけたが、中傷された本人は何事もなかったかのように歩き続けている。

 ──絵美子……。

 百合子は、胸の辺りに締め付けられるような痛みを感じた。あれらの声全てが、絵美子が実際に耳にしてきたものだとしたら。

 ──性格悪過ぎ。

 金属バットを強く握り直す。

 ──やっぱり〝あいつ〟は、ボコボコじゃ足りない。三枚おろし!

 立ち止まった絵美子に危うくぶつかりそうになり、百合子は我に返った。

「どうやら着いたみたいね」
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