13 / 22
吊るされた男
しおりを挟む
世間からの期待に応え続ける事にすっかり疲れ切っていた私は、一人きりになるためにちょっとした山に登った。
初心者向けの短いハイキングコースを進んでいたはずなのに、気が付くと私は道に迷ってしまっていた。おまけに携帯電話は圏外だ。
「参ったな……」
下手に動かない方がいいのかもしれない。しかしこの場にじっとしていても、誰も通らないかもしれない。
ふと、視界の端に妙なものを捉え、私はそちらに振り向いた。
「な……な……っ!?」
それは、太い木の枝に右足首を縛られ、逆さ吊りになった男性だった。
大変だ! 私は慌てて男性に走り寄った。
「大丈夫ですか!?」
私が声を掛けると、男性の目がゆっくり開かれた。
「今助けます!」私は男性の右足首に手を伸ばした。
「あ、そのままにしておいて。好きでやってる事だから」
男性ののんびりとした口調に、私は面食らった。
「……どうしてこんな事を?」いつからやっているのか、頭に血は上らないのか、などと聞きたい事はいくつかあったが、とりあえず私はそれだけ尋ねた。
「うん? まあね、その……ちょっと人生に行き詰まっちゃってさ。何をやっても上手くいかない、楽しめない。苦痛に感じる事が多くなって、すっかり何もかもが嫌になっちゃって。
ある日この山に登ったら、道に迷って、今のおれと同じように逆さ吊りになっているおっさんに出会った。その時に勧められたんだ。こうする事で、今まで見えなかったものが見えてくるようになったり、悩みの解決の糸口が掴めるようになるかもしれないよって」
何と答えたらいいのかわからず固まる私を見て、男性は苦笑した。
「まあ、普通は引くよな。おれだって最初はそうだった。でもね、そのおっさんと色々語り合っているうちに、何だか興味が湧いてきて。最終的にはおっさんと代わるようにしてこうなったんだ。あれから何年経ったかなあ」
「何年だって!?」
「ああ。一年や二年じゃ足らないねえ」
流石に信じられなかった。じゃあその間、食事や排泄はどうしていたんだ。天候だって変わるだろう。……いや、それ以前の問題だ。
「おれにはね、ガキの頃から、ある分野において突出した才能があった。チヤホヤされ、挫折知らずで、自分でも天才だと思っていたよ。
ところが、年齢が上がるにつれ、徐々に伸び悩んできた。ライバルたちに越されるようになった。それでもおれは、君はこんなものじゃないと言う周囲の期待に応えるため、必死になって続けたんだ。本当はもうとっくに気付いていたんだけどね、自分の限界に。
そうこうしているうちに、それ以外の事も上手くいかなくなって、日常生活にも支障をきたすようになった。それでも周囲はおれを解放してはくれなかった。おれは逃げ出したくて、一人きりになりたくて、そうしてここまで来たってわけさ──そう、君と同じようにね」
男性はそう語ると、私をじっと見据え、それからニヤリと笑った。
私は、回れ右して一目散に逃げ出した。それまで迷っていたはずなのに、どういうわけかあっさりと元のハイキングコースに戻れたが、そんな事はどうでも良かった。とにかく早く家に帰り、あの逆さ吊りの男性の事を忘れてしまいたかったのだ。
あの日以来、私はまともじゃなくなってしまったようだ。
鏡に映る自分の姿が逆さになる時がある。
家具を全てひっくり返したくなる時がある。
一日ずっと逆立ちしていたくなる時がある。
身近な人々は、日に日に元気を失くしてゆく私を心配し、少し休むべきではないかと提言してくれた。私はその言葉に甘え、長期休業と一人旅を宣言すると、皆の元を去った。
そうしてわたしが向かったのは、あの山だ。
初心者向けの短いハイキングコースを進むうちに、いつの間にやら道に迷っており、そうこうしているうちにほら、あの男性を見付けた。
逆さ吊りの男性はゆっくりと目を開き、私と目が合うと、唇を三日月のようにして笑ってみせた。
多分、私の顔にも似たような表情が浮かんでいただろう。
初心者向けの短いハイキングコースを進んでいたはずなのに、気が付くと私は道に迷ってしまっていた。おまけに携帯電話は圏外だ。
「参ったな……」
下手に動かない方がいいのかもしれない。しかしこの場にじっとしていても、誰も通らないかもしれない。
ふと、視界の端に妙なものを捉え、私はそちらに振り向いた。
「な……な……っ!?」
それは、太い木の枝に右足首を縛られ、逆さ吊りになった男性だった。
大変だ! 私は慌てて男性に走り寄った。
「大丈夫ですか!?」
私が声を掛けると、男性の目がゆっくり開かれた。
「今助けます!」私は男性の右足首に手を伸ばした。
「あ、そのままにしておいて。好きでやってる事だから」
男性ののんびりとした口調に、私は面食らった。
「……どうしてこんな事を?」いつからやっているのか、頭に血は上らないのか、などと聞きたい事はいくつかあったが、とりあえず私はそれだけ尋ねた。
「うん? まあね、その……ちょっと人生に行き詰まっちゃってさ。何をやっても上手くいかない、楽しめない。苦痛に感じる事が多くなって、すっかり何もかもが嫌になっちゃって。
ある日この山に登ったら、道に迷って、今のおれと同じように逆さ吊りになっているおっさんに出会った。その時に勧められたんだ。こうする事で、今まで見えなかったものが見えてくるようになったり、悩みの解決の糸口が掴めるようになるかもしれないよって」
何と答えたらいいのかわからず固まる私を見て、男性は苦笑した。
「まあ、普通は引くよな。おれだって最初はそうだった。でもね、そのおっさんと色々語り合っているうちに、何だか興味が湧いてきて。最終的にはおっさんと代わるようにしてこうなったんだ。あれから何年経ったかなあ」
「何年だって!?」
「ああ。一年や二年じゃ足らないねえ」
流石に信じられなかった。じゃあその間、食事や排泄はどうしていたんだ。天候だって変わるだろう。……いや、それ以前の問題だ。
「おれにはね、ガキの頃から、ある分野において突出した才能があった。チヤホヤされ、挫折知らずで、自分でも天才だと思っていたよ。
ところが、年齢が上がるにつれ、徐々に伸び悩んできた。ライバルたちに越されるようになった。それでもおれは、君はこんなものじゃないと言う周囲の期待に応えるため、必死になって続けたんだ。本当はもうとっくに気付いていたんだけどね、自分の限界に。
そうこうしているうちに、それ以外の事も上手くいかなくなって、日常生活にも支障をきたすようになった。それでも周囲はおれを解放してはくれなかった。おれは逃げ出したくて、一人きりになりたくて、そうしてここまで来たってわけさ──そう、君と同じようにね」
男性はそう語ると、私をじっと見据え、それからニヤリと笑った。
私は、回れ右して一目散に逃げ出した。それまで迷っていたはずなのに、どういうわけかあっさりと元のハイキングコースに戻れたが、そんな事はどうでも良かった。とにかく早く家に帰り、あの逆さ吊りの男性の事を忘れてしまいたかったのだ。
あの日以来、私はまともじゃなくなってしまったようだ。
鏡に映る自分の姿が逆さになる時がある。
家具を全てひっくり返したくなる時がある。
一日ずっと逆立ちしていたくなる時がある。
身近な人々は、日に日に元気を失くしてゆく私を心配し、少し休むべきではないかと提言してくれた。私はその言葉に甘え、長期休業と一人旅を宣言すると、皆の元を去った。
そうしてわたしが向かったのは、あの山だ。
初心者向けの短いハイキングコースを進むうちに、いつの間にやら道に迷っており、そうこうしているうちにほら、あの男性を見付けた。
逆さ吊りの男性はゆっくりと目を開き、私と目が合うと、唇を三日月のようにして笑ってみせた。
多分、私の顔にも似たような表情が浮かんでいただろう。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

愛のゆくえ【完結】
春の小径
恋愛
私、あなたが好きでした
ですが、告白した私にあなたは言いました
「妹にしか思えない」
私は幼馴染みと婚約しました
それなのに、あなたはなぜ今になって私にプロポーズするのですか?
☆12時30分より1時間更新
(6月1日0時30分 完結)
こう言う話はサクッと完結してから読みたいですよね?
……違う?
とりあえず13日後ではなく13時間で完結させてみました。
他社でも公開
【完結】私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね
江崎美彩
恋愛
王太子殿下の婚約者候補を探すために開かれていると噂されるお茶会に招待された、伯爵令嬢のミンディ・ハーミング。
幼馴染のブライアンが好きなのに、当のブライアンは「ミンディみたいなじゃじゃ馬がお茶会に出ても恥をかくだけだ」なんて揶揄うばかり。
「私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね! 王太子殿下に見染められても知らないんだから!」
ミンディはブライアンに告げ、お茶会に向かう……
〜登場人物〜
ミンディ・ハーミング
元気が取り柄の伯爵令嬢。
幼馴染のブライアンに揶揄われてばかりだが、ブライアンが自分にだけ向けるクシャクシャな笑顔が大好き。
ブライアン・ケイリー
ミンディの幼馴染の伯爵家嫡男。
天邪鬼な性格で、ミンディの事を揶揄ってばかりいる。
ベリンダ・ケイリー
ブライアンの年子の妹。
ミンディとブライアンの良き理解者。
王太子殿下
婚約者が決まらない事に対して色々な噂を立てられている。
『小説家になろう』にも投稿しています
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。
『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる