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女教皇
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彼女は今日も同じ席に座っている。
森の小さな図書館。
かつては町の人々で混雑する事だってあったらしいけれど、ぼくはまだ二〇年も生きていなくて、ここに通うようになった二年前から閑散とした状態だったから、〝かつて〟を知らない。
彼女は一階の読書室の一番奥に座る。天気のいい日も悪い日も、珍しく利用客が多い日も普段以上に少ない日も、必ず同じ席だ。
彼女の姿は、ここに来ると必ず見掛ける。ひょっとして、ここに住んでいるんじゃないかとさえ思えてくるが、まあ近所なのだろう。実際のところどうなのかはわからない。一度も会話した事がないし、彼女と会話する人や、彼女の話をする人を見た事がないからだ。
ある日、初めて彼女に挨拶してみた。彼女はぼくと同じ挨拶を返してくれた。
普通だったら、そのまま続けて何の本を読んでいるのか尋ねるか、あるいは邪魔をしては悪いので、それ以上は話し掛けないだろう。しかしぼくはどちらにも当てはまらなかった。
その巻物は何ですか? そう尋ねてみたのだ。
彼女はいつも、本を読まない。
巻物を両手で抱え、近くの窓越しに外を眺めているか、あるいは正面をじっと見据えているのだ。後者の場合、実際のところは特に何かを見ているわけではないように感じられたけれど。
「言葉には出来ません」彼女はゆっくり答えた。「言葉には出来ない、あらゆる神秘、真理、叡智が記されているのです」
どうやらぼくには難しそうだ。
ぼくは曖昧に頷くと、そっとその場を離れ、読書室を出ようと扉を開けた。すると、黒猫と白猫が一匹ずつ入って来た。ぼくは振り向いて二匹を目で追った。
二匹が向かった先は彼女の元だった。机の上に静かに飛び乗る。
「ボアズ、ヤキン、おかえり」
彼女がそう言うと、二匹はそれだけで満足そうに目を細め、寝そべった。
彼女と目が合った。
飼っているんですか、とぼくが尋ねるより先に彼女が言った。
「信じなさい。自分の直感を、自分自身を」
ぼくは元々、読書には興味がなかった。座学よりも運動が好きだ。そんなぼくがここに通うようになったのは、現実逃避ってやつだ。
ぼくには小さい頃からの夢がある。でも周囲は無謀だと反対するし、ぼく自身も、最近では自信がなくなっていた。不安からか、学校の成績が落ちてきたし、両親とはしょっちゅう言い合いになった。友達に相談しても真面目に聞いてくれなかった。
そんなこんなで苛立ちが募ってゆき、どうしようもなくなって爆発しそうになった二年前のある日、特に何の考えもなしに、ふらりとここに立ち寄ったのだった。
彼女には全てを見透かされているようだった。二匹の猫も、金色の目でいつの間にかこちらをじっと見ていた。不快感はないが、何だろう、この感覚は。
ぼくは……その……
「何も言わなくていいのです。ただ、信じなさい。自分の直感を、自分自身を」
ぼくは……ぼくは──……
あれから十数年が経った。
ぼくは町を出て、夢を叶え、第一線で活動している。
あの日以降、あの図書館を訪れる事はなくなり、それっきりとなった。未だに信じられないのだが、あの図書館はぼくが通うようになった頃よりずっと前に閉館しており、廃墟のまま放置されていたのだという。その事実を知ったのは、町を出てしばらく経ってからだ。そしてつい最近、取り壊されたと実家の母から聞いた。
ぼくは二年もの間、何処に通っていたのだろう。彼女や図書館の司書、他の利用客たちは何者だったのだろう。彼女(と二匹の猫)以外に誰かを見掛けた事が、そもそもあっただろうか。どんな本を読んでいたんだっけ。図書館の内装やにおいは?
今となってはわからないし、さっぱり思い出せない。
今でもぼくは、黒猫か白猫、あるいはその両方をいっぺんに見掛ける度に、あの日を、彼女を思い出す。
とは言ってももう、彼女の顔も声も、あの図書館に関する他の記憶と同様に、夢を見た後のようにおぼろげなのだけれど。
ああ、それでも唯一、あの言葉だけははっきりと覚えている。
ぼくは信じたんだ。
森の小さな図書館。
かつては町の人々で混雑する事だってあったらしいけれど、ぼくはまだ二〇年も生きていなくて、ここに通うようになった二年前から閑散とした状態だったから、〝かつて〟を知らない。
彼女は一階の読書室の一番奥に座る。天気のいい日も悪い日も、珍しく利用客が多い日も普段以上に少ない日も、必ず同じ席だ。
彼女の姿は、ここに来ると必ず見掛ける。ひょっとして、ここに住んでいるんじゃないかとさえ思えてくるが、まあ近所なのだろう。実際のところどうなのかはわからない。一度も会話した事がないし、彼女と会話する人や、彼女の話をする人を見た事がないからだ。
ある日、初めて彼女に挨拶してみた。彼女はぼくと同じ挨拶を返してくれた。
普通だったら、そのまま続けて何の本を読んでいるのか尋ねるか、あるいは邪魔をしては悪いので、それ以上は話し掛けないだろう。しかしぼくはどちらにも当てはまらなかった。
その巻物は何ですか? そう尋ねてみたのだ。
彼女はいつも、本を読まない。
巻物を両手で抱え、近くの窓越しに外を眺めているか、あるいは正面をじっと見据えているのだ。後者の場合、実際のところは特に何かを見ているわけではないように感じられたけれど。
「言葉には出来ません」彼女はゆっくり答えた。「言葉には出来ない、あらゆる神秘、真理、叡智が記されているのです」
どうやらぼくには難しそうだ。
ぼくは曖昧に頷くと、そっとその場を離れ、読書室を出ようと扉を開けた。すると、黒猫と白猫が一匹ずつ入って来た。ぼくは振り向いて二匹を目で追った。
二匹が向かった先は彼女の元だった。机の上に静かに飛び乗る。
「ボアズ、ヤキン、おかえり」
彼女がそう言うと、二匹はそれだけで満足そうに目を細め、寝そべった。
彼女と目が合った。
飼っているんですか、とぼくが尋ねるより先に彼女が言った。
「信じなさい。自分の直感を、自分自身を」
ぼくは元々、読書には興味がなかった。座学よりも運動が好きだ。そんなぼくがここに通うようになったのは、現実逃避ってやつだ。
ぼくには小さい頃からの夢がある。でも周囲は無謀だと反対するし、ぼく自身も、最近では自信がなくなっていた。不安からか、学校の成績が落ちてきたし、両親とはしょっちゅう言い合いになった。友達に相談しても真面目に聞いてくれなかった。
そんなこんなで苛立ちが募ってゆき、どうしようもなくなって爆発しそうになった二年前のある日、特に何の考えもなしに、ふらりとここに立ち寄ったのだった。
彼女には全てを見透かされているようだった。二匹の猫も、金色の目でいつの間にかこちらをじっと見ていた。不快感はないが、何だろう、この感覚は。
ぼくは……その……
「何も言わなくていいのです。ただ、信じなさい。自分の直感を、自分自身を」
ぼくは……ぼくは──……
あれから十数年が経った。
ぼくは町を出て、夢を叶え、第一線で活動している。
あの日以降、あの図書館を訪れる事はなくなり、それっきりとなった。未だに信じられないのだが、あの図書館はぼくが通うようになった頃よりずっと前に閉館しており、廃墟のまま放置されていたのだという。その事実を知ったのは、町を出てしばらく経ってからだ。そしてつい最近、取り壊されたと実家の母から聞いた。
ぼくは二年もの間、何処に通っていたのだろう。彼女や図書館の司書、他の利用客たちは何者だったのだろう。彼女(と二匹の猫)以外に誰かを見掛けた事が、そもそもあっただろうか。どんな本を読んでいたんだっけ。図書館の内装やにおいは?
今となってはわからないし、さっぱり思い出せない。
今でもぼくは、黒猫か白猫、あるいはその両方をいっぺんに見掛ける度に、あの日を、彼女を思い出す。
とは言ってももう、彼女の顔も声も、あの図書館に関する他の記憶と同様に、夢を見た後のようにおぼろげなのだけれど。
ああ、それでも唯一、あの言葉だけははっきりと覚えている。
ぼくは信じたんだ。
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