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第二章

10 挟み撃ち

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「カエレ」

 雨野を乗っ取ったオーラの化け物は、笑うのをやめると無感情に言った。

「カエレ。イラナイ。カエレ。カエレ」

「……嫌よ」微かに震える声でケイは答えた。「冗談じゃないわ。雨野さんを返しなさい」

「イヤダ」

「嫌だじゃないわよ!」

 ケイは一歩踏み出した。

「死者の念だか何だか知らないけど、そんな事許されるわけがないでしょう。嫌がるのなら無理矢理引き剥がすしかないわ」

 そう強気な発言をしたはいいものの、ケイは内心かなり焦っていた。どう引き剥がせばいいのか、引き剥がせたところで、その後どう対処すればいいのか全くわからない。

 ──とにかく雨野さんを解放させないと……。

 ケイは慎重に、少しずつ化け物との距離を縮めてゆく。

「イヤダ。イヤダ」化け物は後ずさった。

「このブレスレットを雨野さんの手首に着けるわよ。それが嫌なら直接この矢であんたを射る。小さくても効果は絶大なのよ」

「イヤダ。イヤダ。イヤダ。イヤダ」

「死者に生者をどうにかする権利なんて──」

「ヤメロ!!」

 化け物は醜く顔を歪めて叫ぶと、ケイを突き飛ばして逃げ出した。

「痛っっ!!」

 受け身を取る余裕もなく、ケイは親柱や灯籠に体を打ち付けながら墓石の前に倒れ込んだ。

「う……っく……」

 ゆっくり立ち上がり、ズレた香炉の位置を直すと手を合わせる。

「ごめんなさいわたしのせいじゃないですあの化け物が悪いんです!」

 それから落としたアイテムを探したが、どうしても矢だけは見付からなかった。

 ──いいわ、あと二本ある。

 化け物が落としたロープは無視し、ブレスレットと弓を拾うと、ケイは化け物の後を追い掛けた。体のあちこちが痛むが、気にしている余裕はない。

 ──三塚君と挟み撃ち出来ればいいんだけれど!



〝こっちにいた〟

〝ずっとまっすぐすすんで坂のぼった墓地!〟

 凪のスマホにケイからのメッセージが届いたのは、行き止まりに差し掛かった時だった。

「墓地?」

 凪はパーカーのポケットの上から、中のアイテムに軽く触れた。先に取り出したスマホ以外には、ケイから貰った札が二枚に小さな矢が三本、そして自宅から持って来たが一つ。

 ──上手くいきゃあいいが。

〝今行く!〟

 返信し、スマホをポケットに戻すと、凪は元来た道を再び走った。

 ──緋山、頼むから無茶しないでくれ。

 高校時代の三年間で、凪は緋山ケイの人となりを理解したつもりだった。目立つような事はしない、落ち着きがあって無茶な行動は取らない……。
 まさか、二日前に初めて会ったばかりの人間のために、綿密な計画も立てずに突っ走るような人間だったとは。それも相手は人間ですらなく、まともに話が通じるとも思えない。

 ──状況が状況じゃなかったら、意外な一面だって喜べたんだろうけどな。

 ケイと別れた地点まで戻った時、追っていた女性が前方から走って来るのが見えた。

 ──緋山は何処だ?

 凪に気付いた女性の速度が落ちた。このまま突っ切るか踵を返すか、迷いながらも走り続けているようだった。

「雨野さんですよね!」

 凪が呼ぶと、女性は言葉にならない意味不明な声──それも男性のような低い声色だ──を発した。凪は状況がそれなりに深刻である事を理解した。

 ──まさかもう手遅れって事はないよな?

 凪が立ち止まり、パーカーのポケットから札を一枚と矢を一本取り出すと、女性も足を止めた。二人の間の距離は、一五メートル弱。

 ──で……どうすんだこれ。

「えーと……改めてお聞きしますが、あなたが雨野さんですよね」凪は息を切らしながら尋ねた。「違うなら違うと言ってほしいんですけど、まあ雨野さんですよね。少なくとも体は」

 雨野を乗っ取った化け物は肯定も否定もせず、凪を睨み付けながら、まるで獣のように低い唸り声を上げた。

「これ、あなたに持っていただきたくて」凪は札を掲げた。

「カエレ」化け物は低い声で淡々と言った。「
カエレ。ドケ。カエレ」

「あー……それは無理っすね」

「カエレ。ドケ。ドケドケドケドケ」

 化け物の後方から、ケイが走って姿を現した。上手い具合に挟み撃ち出来る形にはなったが、それでもまだ安心は出来ない。
 化け物は凪とケイを交互に見やると忌々しそうに唸った。

「凪! そいつを捕まえて!」ケイが走りながら叫んだ。「そいつは雨野さんを死なせようとしたの!」

 凪が一気に間合いを詰めようとした瞬間、化け物は耳にした事もないような、人間が発するのはまず無理であろう異様な咆哮を上げた。
 ケイにははっきりと見えた──雨野の口から、あの気味の悪い色合いのオーラが溢れ出し、アスファルトにこぼれ落ちると、二メートル近い長身の人間の形に変化したのを。

「凪、気を付けて! 化け物が外に出たわ!」

 凪はハッとして身構えた。「……何処だ? 見えないぞ!」

「凪の左斜め前よ!」

 雨野の体が力なく崩れ落ちた。

「雨野さん!」

 走り寄ろうとする凪に、化け物が無言で飛び掛かる。

「凪!!」

 とても届くような距離ではないとわかっていても、ケイは手を伸ばさずにはいられなかった。
 凪は誰かに突き飛ばされてアスファルトに倒れ込んだ。顔を上げると、ケイが言っていた気味の悪い色合いの化け物が自分の上にのし掛かっているのが、今度ははっきりと見えた。

「ホシイ。ホシイ」化け物はのっぺらぼうにも関わらず、はっきりと言葉を発した。「ホシイ。マミコ。ホシイ。ヨコセ」

 込み上げてきた恐怖は、想い人の叫び声によって打ち消された。

「いい加減に……しな」

 凪は落としてしまった札と矢は拾わず、パーカーのポケットから別のアイテムを取り出しみせると、化け物の前に掲げた。

 ──頼む……!



 雨野が倒れると、化け物が凪を押し倒してのし掛かった。

「凪!」

 ケイは足を止めると、リュックから素早く矢を取り出した。高校時代の体育は一部種目選択制で、ケイは一年時に仲の良い友人らと共にアーチェリーを選んだ。当時の感覚を覚えていたためか、それとも単にミニチュアサイズだからか、自然に矢を弓に番える事が出来たが、いざ構えてみると震えてしまう。

 ──落ち着け……落ち着いて狙うのよ……。

 化け物との距離は一〇メートルもないが、ケイには途方もなく遠く感じられた。
 化け物が凪に両手を伸ばした。

「やめろ化け物ぉ!」

 ケイは叫ぶと、化け物を狙って矢を放った。矢は真っ直ぐ飛んだものの、化け物の手前で力なく落下した。

 ──ああ……!

 その直後、凪がパーカーのポケットから何かを取り出し化け物に突き付けた。すると化け物の動きがピタリと止まり、小刻みに震え出したかと思うと転げ落ちるようにして凪から離れ、アスファルトを這いつくばって逃げ出した。よく見れば、化け物の体の数箇所から細い煙がくすぶっている。

「な、何……?」

「これだ」凪は立ち上がると、化け物に突き付けた物を掲げてみせた。「家から持ってきた」

 光を反射し、アスファルトに細い道筋を作り出しているそれは、折り畳み式の手鏡だった。

「それじゃあ今……光雅君が?」

 ケイが凪の元へ駆け寄り、鏡を覗き込もうとした瞬間、化け物が悲鳴を上げた。ほんの少しずつではあるが、体が蒸発するように消えてゆくのが見える。這いつくばったまま必死に前へ進もうとしているが、亀の歩みよりも遅い。

とどめを刺すぞ」

「ええ……」

 二人がつかつかと歩み寄ってしゃがむと、化け物は慌てふためき喚き散らした。
 凪はパーカーのポケットからもう一枚の札と矢を一本取り出した。

「つってもこれ、本当に効くんだろうな?」

「嫌がってたし、多分……」

「ヤメロ!」化け物は振り絞るように叫んだ。「ヤメロ! ヤメロ! コロス!」

「うるせえ」

 凪は矢を札の上部に貫通させると、そのまま化け物の背に振り下ろした。耳をつん裂くような悲鳴に、ケイも凪も顔をしかめた。

「どうやらちゃんと効いているみたいね」

 化け物の蒸発速度が上がったのは、誰が見ても明らかだった。

「わたしからもお返しよ」

 ケイも矢を振り下ろし、更に弓を右手で持ち直すと連続で殴打した。

「思いっ切り突き飛ばされたの。まだあちこち痛いんだから」

 凪はポカンとケイを見上げていた。

「ヤメロ……ヤメ……マミ……コ……」

 唯一しぶとく残っていた頭部もケイに踏み潰されると、オーラの化け物は完全に消え去った。

「……片付いたんだよな?」

「そのようね」

「あ~終わった!」

 立ち上がり、ケイに笑いかけようとした凪の表情が強張った。
 ケイはハッと振り返った。

「……雨野さん!」

 こちらに足を向けて倒れたままの雨野の元に、二人は慌てて駆け寄った。

「雨野さん! 雨野さん?」

 凪が抱え起こし、ケイが雨野の体を揺すったり頬を軽く叩いてみるが、反応はない。

「嘘……まさか……」

「大丈夫だ、息はしている」

「で、でも全然──」

 雨野の口から、微かに呻くような声がした。

「雨野さん!」

「大丈夫か!」

 ケイと凪が何度か交互に声を掛け続けると、やがて雨野はゆっくりと目を覚ました。

「あ……ううん……?」

「雨野さん! 良かった……」

「あ……え、あれ、あなた確か……」

「緋山ケイです。奏子の姪の。後ろの人はわたしの友達の三塚凪」

「ああ、この間はどうも……って、え?」

 奏子は振り向き、凪と目が合うとわけもわからず頭を下げ、それからキョロキョロと周囲を見回すと呆然とした様子で呟いた。

「何この状況……」
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