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第一章
10 邪魔するな
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〈SORRISO〉を出た後、ケイと凪は海辺の観光地を歩いた。
提案したのは凪だ。ケイに嫌な思いをさせてしまったという自責の念から、少しでも気を紛らわせ、楽しませようと考えての事だというのはケイにもわかっていた。
互いにたわいない話をしながら、様々な店や人だかりが出来ているイベントを覗いたり、木陰でアイスクリームを食べて涼んだりと、傍から見ればデートを楽しむカップルに見えただろう。
確かにそれなりに楽しめた事には間違いなかった。しかし二人の脳裏には、常に木宮光雅がチラついた。ケイは凪の笑顔に僅かながら影が射しているのを感じたし、凪もケイから同じようなものを感じ取っただろう。
「ちょっと早いけど、今日はもう解散するか」
海辺を歩き始めてから約一時間後、凪がごく自然にそう口にした時、ケイはすんなりと受け入れ、二人揃って駅方面へ歩き出していた。
──言えなかったな。
ケイは最後まで、自分も光雅の姿を鏡に見たのだという事実を凪に伝えられなかった。凪を信用していないわけでも、話せない理由があるわけでもないのに、何故かブレーキが掛かってしまった。
やはりちゃんと説明し、情報を共有しておくべきだったのだろうか。しかし、そうしたところでどのみち解決はしなかっただろうし、むしろ凪に余計な心配をさせてしまったに違いない。
──そもそも、どうしてわたしと三塚君なの? どうしてわたしの名前を呼んでいたの?
ケイも凪も光雅とは仲が良かったが、光雅の交友範囲は広かった。ケイ以外の女子と遊びに行く事もあったようだし、凪は光雅とは別のグループとつるんでいる事が多かったように記憶している。
──まさか、目撃者は他にもいるの?
カツ、カツ、カツ、カツ。
様々な疑問について考えを巡らせるのに夢中だったケイは、危機が足音と共にすぐ後ろまで迫っている事に気付かなかった。
「邪魔するな」
突然耳元で聞こえた低い声に、ケイはハッと我に返って振り向いた。
──!?
ケイのすぐ後ろ──まるでピッタリとくっ付こうとでもしているかのようだ──に、赤いキャミソールと白地に花柄のロングスカート姿の女性が立っていた。長い黒髪はボサボサ、顔色は青白く目は虚ろで、全体的に異様さが漂っている。
ケイは一歩脇に避けた。もっとも、そんな事をしなくても充分なスペースは空いていたのだが、邪魔と言われた以上そうするしかない。
女性は、何故かケイの方へと寄って来た。
「ち、ちょっと──」
「邪魔するな」
「え──」
「邪魔するな」
その声は、凪を待っていた時に耳元で聞こえたものと同じだった。
「邪魔するな」
そして恐らくは、その言葉も。
「邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな」
壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す女の両手が、ゆっくりとケイの首元へ伸びてきた。
ケイは短い悲鳴を上げると一目散に逃げ出した。
──何なのあの人!
途中で何人かの通行人とすれ違ったが、助けを求める事は全く考え付かなかった。一秒でも早く逃げ帰りたい、その思いだけが頭にあった。
ようやくアパートが見えて来たが、その直前の横断歩道で運悪く赤信号に引っ掛かってしまった。無視して渡る事も考えたが、こんな時に限って車やバイクが多い。
カツ、カツ、カツ、カツ。
徐々に近付いて来る高めの足音に、ケイは振り返った。ぶつぶつ呟きながら早足で距離を詰めて来る女は、薄いピンク色のハイヒールを履いていた。
女の後ろから、中学生くらいの少年二人がお喋りに夢中になりながら走って来た。二人は女にぶつかる直前で器用に避け、何事もなかったかのようにケイの隣まで来ると止まった。
──見えていない……?
カツ、カツ、カツ、カツ。
「邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな」
女との距離はどんどん縮まってゆく。少年二人の会話は途切れたが、女に気付いている様子は全くない。
──あの二人には見えていないし聞こえてもいない……でもさっきは無意識に避けた……。
カツ、カツ、カツ、カツ。
──それにこの足音……まさか……!
「邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな」
信号が変わるまで待てず、ケイは車が途切れた隙に走り出した。一分もしないうちにアパートまで辿り着いたが、そのまま通り過ぎる。
── あれを家に入れちゃいけない。
急激な脇腹の痛みに、ケイの走る速度が落ちた。恐る恐る振り向くと、女は人間のものとは思えない歩速でアパートを通り過ぎるところだった。ここで捕まるわけにはいかないと自分に鞭打つと、ケイは再び走り出した。
──何とかしなきゃ、あれを……英田さんを逆恨みしている生霊を。
コンビニを通り過ぎ、左右の分かれ道まで来ると、ケイは迷わず左へ曲がった。数十メートル先に見えるのは、昨日英田が足を運んだ日出神社だ。
──英田さんは直接お祓いしてもらって、お札も持っている。だからあれはわたしを狙うんだ……神社に行くよう助言したわたしを。
まさか生霊がそこまで理解するとは。そして、元々狙われていた英田には見えなかった姿が、自分にははっきり見えた事がケイには不思議でならなかった。
──だいたい、お祓いしたのに消えてないってどういう事?
ケイは鳥居の前まで辿り着くと、脇腹を押さえ、息を切らしながら振り返った。足音は聞こえて来ない。そのまましばらく待って様子を窺ってみたが、女は姿を現さなかった。
──見失った……?
カツ、カツ、カツ、カツ。
足音は後ろから聞こえた。
カツ、カツ、カツ、カツ。
見たくない。聞きたくない。知りたくない──そんな思いに反するように、ケイの首は無意識にゆっくりと神社の方へ振り向いていた。
カツ、カツ、カツ、カツ。
石畳の上を歩いてやって来るのは、間違いなく生霊の女だった。
「そ……んな……」
カツ、カツ、カツ、カツ。
ケイは必死に考えを巡らせた。
──神社は効かない。しかも瞬間移動して先回りしてくる。他にいい場所は?
カツ、カツ、カツ、カツ。
「邪魔するな」
乱れた息は整うどころか余計に苦しく、脇腹もまだ痛む。当分は全速力で走れそうにない。
カツ、カツ、カツ、カツ。
「邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな」
──どうすればいいの!?
踵を返したケイだったが、角を曲がりかけたところで何かに足を取られ転んでしまった。小学生以来かな、とぼんやり思うだけの余裕が残っているのが自分でも意外だった。
カツ、カツ、カツ、カツ。
「あ……」
「邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな」
女はすぐそこまで迫っていた。ケイはすぐに立ち上がる事が出来ず、尻餅を突いたまま後ずさった。
「邪魔するな」
ケイの首元に、身を屈めた女の手が伸びてくる。
「邪魔するな」
ケイは絶叫した。
提案したのは凪だ。ケイに嫌な思いをさせてしまったという自責の念から、少しでも気を紛らわせ、楽しませようと考えての事だというのはケイにもわかっていた。
互いにたわいない話をしながら、様々な店や人だかりが出来ているイベントを覗いたり、木陰でアイスクリームを食べて涼んだりと、傍から見ればデートを楽しむカップルに見えただろう。
確かにそれなりに楽しめた事には間違いなかった。しかし二人の脳裏には、常に木宮光雅がチラついた。ケイは凪の笑顔に僅かながら影が射しているのを感じたし、凪もケイから同じようなものを感じ取っただろう。
「ちょっと早いけど、今日はもう解散するか」
海辺を歩き始めてから約一時間後、凪がごく自然にそう口にした時、ケイはすんなりと受け入れ、二人揃って駅方面へ歩き出していた。
──言えなかったな。
ケイは最後まで、自分も光雅の姿を鏡に見たのだという事実を凪に伝えられなかった。凪を信用していないわけでも、話せない理由があるわけでもないのに、何故かブレーキが掛かってしまった。
やはりちゃんと説明し、情報を共有しておくべきだったのだろうか。しかし、そうしたところでどのみち解決はしなかっただろうし、むしろ凪に余計な心配をさせてしまったに違いない。
──そもそも、どうしてわたしと三塚君なの? どうしてわたしの名前を呼んでいたの?
ケイも凪も光雅とは仲が良かったが、光雅の交友範囲は広かった。ケイ以外の女子と遊びに行く事もあったようだし、凪は光雅とは別のグループとつるんでいる事が多かったように記憶している。
──まさか、目撃者は他にもいるの?
カツ、カツ、カツ、カツ。
様々な疑問について考えを巡らせるのに夢中だったケイは、危機が足音と共にすぐ後ろまで迫っている事に気付かなかった。
「邪魔するな」
突然耳元で聞こえた低い声に、ケイはハッと我に返って振り向いた。
──!?
ケイのすぐ後ろ──まるでピッタリとくっ付こうとでもしているかのようだ──に、赤いキャミソールと白地に花柄のロングスカート姿の女性が立っていた。長い黒髪はボサボサ、顔色は青白く目は虚ろで、全体的に異様さが漂っている。
ケイは一歩脇に避けた。もっとも、そんな事をしなくても充分なスペースは空いていたのだが、邪魔と言われた以上そうするしかない。
女性は、何故かケイの方へと寄って来た。
「ち、ちょっと──」
「邪魔するな」
「え──」
「邪魔するな」
その声は、凪を待っていた時に耳元で聞こえたものと同じだった。
「邪魔するな」
そして恐らくは、その言葉も。
「邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな」
壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す女の両手が、ゆっくりとケイの首元へ伸びてきた。
ケイは短い悲鳴を上げると一目散に逃げ出した。
──何なのあの人!
途中で何人かの通行人とすれ違ったが、助けを求める事は全く考え付かなかった。一秒でも早く逃げ帰りたい、その思いだけが頭にあった。
ようやくアパートが見えて来たが、その直前の横断歩道で運悪く赤信号に引っ掛かってしまった。無視して渡る事も考えたが、こんな時に限って車やバイクが多い。
カツ、カツ、カツ、カツ。
徐々に近付いて来る高めの足音に、ケイは振り返った。ぶつぶつ呟きながら早足で距離を詰めて来る女は、薄いピンク色のハイヒールを履いていた。
女の後ろから、中学生くらいの少年二人がお喋りに夢中になりながら走って来た。二人は女にぶつかる直前で器用に避け、何事もなかったかのようにケイの隣まで来ると止まった。
──見えていない……?
カツ、カツ、カツ、カツ。
「邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな」
女との距離はどんどん縮まってゆく。少年二人の会話は途切れたが、女に気付いている様子は全くない。
──あの二人には見えていないし聞こえてもいない……でもさっきは無意識に避けた……。
カツ、カツ、カツ、カツ。
──それにこの足音……まさか……!
「邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな」
信号が変わるまで待てず、ケイは車が途切れた隙に走り出した。一分もしないうちにアパートまで辿り着いたが、そのまま通り過ぎる。
── あれを家に入れちゃいけない。
急激な脇腹の痛みに、ケイの走る速度が落ちた。恐る恐る振り向くと、女は人間のものとは思えない歩速でアパートを通り過ぎるところだった。ここで捕まるわけにはいかないと自分に鞭打つと、ケイは再び走り出した。
──何とかしなきゃ、あれを……英田さんを逆恨みしている生霊を。
コンビニを通り過ぎ、左右の分かれ道まで来ると、ケイは迷わず左へ曲がった。数十メートル先に見えるのは、昨日英田が足を運んだ日出神社だ。
──英田さんは直接お祓いしてもらって、お札も持っている。だからあれはわたしを狙うんだ……神社に行くよう助言したわたしを。
まさか生霊がそこまで理解するとは。そして、元々狙われていた英田には見えなかった姿が、自分にははっきり見えた事がケイには不思議でならなかった。
──だいたい、お祓いしたのに消えてないってどういう事?
ケイは鳥居の前まで辿り着くと、脇腹を押さえ、息を切らしながら振り返った。足音は聞こえて来ない。そのまましばらく待って様子を窺ってみたが、女は姿を現さなかった。
──見失った……?
カツ、カツ、カツ、カツ。
足音は後ろから聞こえた。
カツ、カツ、カツ、カツ。
見たくない。聞きたくない。知りたくない──そんな思いに反するように、ケイの首は無意識にゆっくりと神社の方へ振り向いていた。
カツ、カツ、カツ、カツ。
石畳の上を歩いてやって来るのは、間違いなく生霊の女だった。
「そ……んな……」
カツ、カツ、カツ、カツ。
ケイは必死に考えを巡らせた。
──神社は効かない。しかも瞬間移動して先回りしてくる。他にいい場所は?
カツ、カツ、カツ、カツ。
「邪魔するな」
乱れた息は整うどころか余計に苦しく、脇腹もまだ痛む。当分は全速力で走れそうにない。
カツ、カツ、カツ、カツ。
「邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな」
──どうすればいいの!?
踵を返したケイだったが、角を曲がりかけたところで何かに足を取られ転んでしまった。小学生以来かな、とぼんやり思うだけの余裕が残っているのが自分でも意外だった。
カツ、カツ、カツ、カツ。
「あ……」
「邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな。邪魔するな」
女はすぐそこまで迫っていた。ケイはすぐに立ち上がる事が出来ず、尻餅を突いたまま後ずさった。
「邪魔するな」
ケイの首元に、身を屈めた女の手が伸びてくる。
「邪魔するな」
ケイは絶叫した。
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