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一章
九話 - 二
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ついばむように何度も口づける。手は自然と威の体を触れ、威の指が仄羽の髪をなでる。心地よさに体から緊張が抜けていくのがわかった。威に身をゆだねていいのだと知ったからかもしれない。
「どんなふうにしてたの」
「え?」
唇が離れて、鼻を摺り合わせながら聞かれた言葉を聞き返す。
「どんなふうに暮らしてたの。四区では」
胸のなかに招かれ、仄羽は腕を威の背中に回す。柔らかな感触が、今度は額にあった。
どんなふうに、と聞かれて、少なからず仄羽は困った。話そうとすれば、それは大概貫爾との話になってしまう。しかし威は聞きたくないだろうし、仄羽としても話したくはない。威の機嫌をそこねたくないという意味でも、口にすることで思い出をちっぽけなものにしたくないという意味でも。
「一日を、どんなふうに過ごしてた?」
仄羽よりもよほど頭の回る威は、おそらくはそんなこと百も承知だ。言い回しを変えられて、仄羽は威のぬくもりを感じながら、四区では、とおそるおそる言葉を紡ぐ。
「四区では、うちは、診療所だったので。親の手伝いをしていました」
「うん」
「朝から患者さんが来て、一気にはもちろん診られませんから、待ち時間に話を聞いたり……だから、近所の噂話はよく知っていました。どこが仲良しで、どこが仲悪いかも。空き時間にはお団子を買いに行ったりして。わたしはよくわからないんですけど、患者さんが帰ると両親は医療の研究をするので、たまにお夜食つくって持っていったりとか……」
きちんと覚えているのに、なんだか遠い記憶だった。帰りたい、戻りたいとは、不思議なことに少しも思えない。四区に帰ってももはや戻らない日々であると受け入れることを拒否しているみたいだ、と自嘲する。家具や家は差押えになったのだ。あの場所は、すでに別の人たちがきっと暮らしているだろう。確認してしまえば、受け入れるしかない。父母は遠くに出かけているだけだ、と、まだどこかで信じていたかった。そんなわけはないともちろんわかっていても、思いこむふりくらいは許されたい。
貫爾はまだ同じ場所で暮らしているのだろう。きっと仄羽が帰ることのない診療所の前をすでに何度も通りすぎている。
と、考えた刹那、視界が回転した。咥内への生ぬるい侵入者と手首へのかすかな痛みを感じ、仄羽はぎゅっと瞼を閉じる。
四区での暮らしとは別に、貫爾のいまに思いを馳せそうになったのを即座に察された、とすぐに理解した。手首にかけられた力はすぐにとかれて仄羽の自由になり、無意識に威の袖を掴む。おそらくもういい、と断じられるだろう。いよいよ、と、このあとのことを思ったが、仄羽の予想とは裏腹に、威はそれで、と続きを促した。
正直なところ、拍子抜けだった。安堵というよりは困惑を持って、仄羽は威の腕に手を絡める。自分と変わらないか、あるいはそれ以上に細いのではないか、という華奢な威の腕が、なぜだか力強く感じられた。
はたして威は何が聞きたいのだろう。仄羽は必死で考えをめぐらせる。いまいち掴みきれない。本質、本質、と威に言われた言葉を頭の隅で繰り返した。
「成人するまでは学問所に通って……」
結局素直に続けてみると、顔中に降ってくる口づけの雨がやまないことで、少なくとも見当違いのことは言っていないと把握する。
「学問所では、成績は中の中で、常に可もなく不可もなく、運動以外は問題にならない代わりに褒められることもないような状態でした」
思い出をそのまま伝えようとすればやはり貫爾が出てきてしまうので、事実だけを述べるように仄羽が言えば、威がふ、と笑うのが聞こえた。
唇と唇が触れあいつつも、口づけとは言いきれない皮一枚の近さで、威の赤目が細められる。こんな至近距離で威に見つめられて、頬を染めずにいられる人がいるならば教えてほしい、と仄羽は思う。
「中の中。なんだか想像どおりだね」
「そ、そうですか?」
答える声が裏返ってしまう。威はさらに目を細めて、うん、と言いながら今度はしっかりと唇を重ねた。口づけられるたびに体から力が抜けていく気がする。
「すきなことは熱心にするけれど試験に出るわけではなく、苦手なことは苦手なまま、それでもなんとかとりあえず試験だけはそつなくこなす。そんなところかな」
図星をつかれてぐうの音も出ない。仄羽は威の背中に腕を回して、少しだけ力をこめる。もう少し近づいてほしい、と伝えるために。威はちらと仄羽を見たあと、仄羽の腕に合わせて体重をかけた。加減されてはいるものの、確かな重みが仄羽の体にのしかかる。
「なんでわかるんですか」
「見ていればわかる」
あっさりと答えられ、仄羽は瞬いた。ということは、つまり、見られている。
普段、こちらを見もしない、と思っていたのに、威にはしっかり見られていたのだ。このぶんでは仄羽さえ気づいていないさまざまなことが威には見抜かれている気がして、羞恥で背中に汗が浮く。耳まで赤くなったのが自分でもわかる。
反射的に手で顔を覆うが、即座に威にはぎとられた。顔を背ければ追いかけられ、寝返りと打とうとしてもついさっき自分が招いたために身動きがとれない。
「なに急に」
ほとんど「なに」か確信めいて、愉快そうに威が言った。
素直に答えなければ許してもらえない空気を察して、仄羽はせめてもの抵抗に目を伏せながら答える。
「は、恥ずかしい、です」
ふ、とまた、威が笑ったのがわかった。
「恥ずかしい」
威に言葉を繰り返されながら腰に手を入れられ、あっという間に帯を解かれる。慣れた手つきだ、と一瞬思い、仄羽は下唇を噛む。余計なことを考えてはいけないとわかっているのに、自分だって貫爾のことを整理しきれずにいるのに、これまでの威とその相手のことを考えて妬心がわいてきてしまう。
「んん」
「昼間も言ってたね」
噛んでいることを咎められるように唇を舐められ、力の抜けた隙間を狙って再び不躾に侵入される。先ほどとは違って丁寧に濃厚に、歯の一本一本の存在まで気づかされるように口づけられた。呼吸がしづらくて苦しい。圧迫感さえ快感になって、声が漏れる。威を押しのけるようにしてみてもびくともせず、むしろ押せば押すほど深くを暴かれ手からは力が抜けていく。びくりと仄羽の体が小さく跳ねて、やっと解放された。口の端から垂れてしまった涎を舐めとられる。
「恥ずかしいのか」
上機嫌に再び繰り返され、仄羽は何も返せない。唾を飲みこみ、口元を指でぬぐう。浅く短く上下する胸に、仄羽の咽喉をなぞる威の指がゆっくりと近づいてくる。
「は、ずかしい、です。威さま。明かりを」
消してほしい、と頼む前に、だめ、という威の言葉が先に飛んできた。
「まだ話してる」
言いつつも口づけられ、このままでは話せない、と思う。そもそも夜目の利く威には明かりなど関係ないだろうに。威の長い睫毛が触れられる位置にあり、触れても怒られないだろうことが、ふいに不思議になる。
窓の外はまだ賑わっているが、仄羽の耳には聞こえてこない。深更の刻まであとどのくらいだろうか。町が仮初のねむりについたら、威は明かりを消してくれるだろうか。関係ないとわかりつつも考えずにはいられない。現実逃避でもしなければ、自分を保っていられる自信がなかった。
「学問所って、たのしい?」
「えっ? っあ」
思ってもみなかった質問をされて頓狂な反応をしてしまったあと、衿元に手を入れられて声に艶が乗る。片方の胸が明かりのもとに晒され、仄羽は震えた。
細く骨ばったうつくしい指が仄羽の胸を弄ぶ。触れられているだけで特別なことはされていないように思うのに、心地よさに腰がぞくぞくとした。下半身をねじるように動かそうとすれば、威の体に押さえつけられ叶わない。
「あ、あっ」
指とは明らかに違うぬるりとした温かさが、胸の先端を覆う。気づけば伊達締めも外されていて、前が完全に寛げられている。下着に指をかけられると、頭で考えるよりはやく腰を浮かせて脱がされる手助けをしてしまう。すべてが隠しようもごまかしようもなく威の瞳に映っている事実に、知らず息が荒くなる。
「が、学問所は、たのしかったです。友人も、ん、できまし、た、し」
「ふうん。たのしいところなんだ」
「あ、は、あ……っ、ん、わ、わたしは、そうでした」
内腿をなでられ、背中に炭酸が弾ける。そうか、威は学問所に行くことはありえなかったのか、と今さら思い当り、単なる興味のための質問であったのだとやっと合点がいく。
歴代の祇矩藤家当主はいざ知らず、一二の若さで当主となった威には友人もいないだろう。いちばん近いのは瑞矢であることは間違いないが、あくまで従者だ。
とはいえ仄羽も、二度と会えないと嘆く相手も嘆かれる相手も、貫爾しか思い当らない。当時貫爾以外にも仲の良い友人がいたのは確かだが、考えてみればいずれ忘れ去られるだろう程度の付き合いのほうが多い。改めてみると虚しいものの、いまの境遇を考えると案外嘆く要素が少なく済んでよかったのかもしれなかった。
「思い返してみれば、ですけど」
いやなことがなかったとは言いきれない。そのたびに貫爾が助けてくれたのはうれしかったが、貫爾が助けに入ったことでさらなる妬みを買ったこともあった。
腕を袖から抜かれ、一糸まとわぬ姿にさせられる。威は仄羽の中心線を探るように、仰向けになっている仄羽の顎から胸の間を通って腹まで、つつつ、と指でなぞっていく。体がびくりとはねて、まな板の上の鯉だ、と仄羽は思った。
「きれいだ」
落とすように言われ、軽く下腹部を押された。自分のではない手が、これまで自分でしかほとんど触っていないところを暴いていく。いや、もうそろそろ、威には何度も触れられている箇所、と訂正しなければならない。じんわりとした欲望が腹の底で威に気づいてほしいと喚いている。
「仄羽の体は」
閉じられた秘部を指で開かれ、どろりと何かが漏れるように溢れたのが仄羽にもわかった。自身の素直に反応する体も、言われた言葉も恥ずかしく、腕で顔を隠す。昼間と違ってやさしく愛撫されて、手や足の先が熱い。一つひとつの動作を感じてしまう。次はどこに触ってくれるのかと期待をしてしまう。
「あっ……!」
ひときわ大きな声が出た。ぐちゅぐちゅとした音が卑猥で、仄羽は息を詰める。自分を含め、威以外には触れられたことのない場所。仄羽の意識よりも体のほうが慣れたもので、もっともっとと勝手に奥へと招き入れようとする。
酸素を送られるように口づけられて、仄羽は胸を大きく上下させる。威の衿元に手を差し入れれば、威が心なしか驚いたように左目を開かせた気がした。
鎖骨をなぞるように表面をなでる。ほんの少し肌が荒れている気がした。あまりねむらないせいだろう、と仄羽はあたりをつけ、眉を落とす。威に限らず瑞矢も暁もそうだが、いつ札が裏になっているのかわからないような、いつまでも働いているような今の暮らしをしていては、いずれ突然倒れてしまう気がして心配である。
「威さまは、脱がないんですか」
思えば威は仄羽と肌を重ねているとき着物が乱れはしても、帯すらほどいていない。すべてを脱がされたのは仄羽も今回が初めてであるが、こういうものかと思い純粋に聞いてみれば、
「僕に全裸に包帯だけの、情けない姿になれと?」
と、左目を細められた。
笑みのなかに圧を感じつつも、仄羽はおそるおそる威の右目を覆う包帯に手を伸ばす。
「……この下がどうなっているかも、教えていただけないのですか?」
問えば威は動きをとめ、仄羽をじっと見つめた。踏みこんだことを言いすぎただろうか。以前に包帯を替えることを拒否されたように、今回も拒まれるだろうかと、仄羽は内心どきどきとする。
「…………」
無言のまま動かなくなってしまった威を見つめ返していると、またしても恥ずかしくなってきて、仄羽の頬が朱に染まる。だんだんと行為には慣れてきたが、威の顔のうつくしさにはまだ慣れることができない。
ちゅ、と音を立てて、威に触れるだけの口づけをされる。睫毛と睫毛が触れそうなほどの至近距離で、威は静かに言った。
「……右目は潰れている」
仄羽が反応するより先に、威が再び口づけた。
「幼いころに刺されて何も見えない。あとは細かな切り傷と火傷の痕だ」
だから頬の一部も覆われているのか。再び問いなおすことはできず、仄羽は包帯の上をなでる。聞いてから触れると、確かに一部おかしなくぼみがあり、なぜこれまで気づくことができなかったのだろう、と思う。
「仄羽が僕のところに来たら、見せてあげる」
「あっ」
「見てたのしいもんじゃないけどね」
愛撫が再開され、仄羽は何を言うことも許されない。
「あ、あっあっあっ」
刺された。事故ではなく、誰かからの悪意を受けた証の言葉である。誰が。なぜ。激しくなった愛撫からいまは何も聞くなと示唆されている。かといって当然、忘れることなどできるわけがない。
瑞矢は知っているのか。暁は知っているのか。鶫はどうか。
(威さまのすべてをもらったのはわたしなのに!)
威にはまだたりないのだ。仄羽はもう威の傍にだけいるつもりでも、威にとっては充分ではない。だから何もかもを明かしてはくれない。口惜しさが発散の出口を求めて、顔をかきむしるように指に力が入る。涙一筋とともに拳をつよく握る。
これまでと同じく、当然とばかり威に涙をぬぐわれ、仄羽はさらにぽろぽろと涙を流す。
指先がやさしいとわかる。徐々に威がこれまでなら答えてはくれなかったことを話してくれているのがわかる。わかっているのに、自分の不甲斐なさがかなしい。もっと威のことを知りたい、もっと威に近づきたいと思うのに、焦る気持ちが先行する。かといって、貫爾のことはどうしてもすぐには捨てられなかった。そして捨ててはいけない、そうしたところで威は仄羽に幻滅するだけだとなぜだかわかる。そういったことだけはわかる。仄羽が無理に貫爾への感情を絶とうとしたとき、とめてきたのはいつも威だ。
「どうしたの」
眉根を深く寄せてみても、しずくは落ち続ける。一粒一粒をすくうようにぬぐってくれる威を見つめた。穏やかで、泣いていることを疎んだり鬱陶しがる雰囲気はない。仄羽は威の首元に手を回してぐいと引き寄せた。拙いとわかりつつ舌を絡める。主導権はすぐに威に移った。
「ん、…………」
生温かさが思考を鈍らせる。余計なことを考えないように威を求め続けた。
「……どうしたの?」
唇が離れ、妖艶に微笑まれる。
この先、髪や瞳の色が異なる誰かが現れても、ほかの女はいらない、と威は言った。
「もっと、威さまに、相応しくなりたい、のに」
かすかな嗚咽を漏らしながら言えば、威に頬をなでられた。紅い瞳にあられもない姿の自分が映っている。
「もっと」
いつの間にか窓の外が暗くなり、賑やかだった音もやんでいた。深更の刻に入ったのだ。この建物のなかでも、何人もが枕を交わしている。
今日はキスが多い、と仄羽は威の後頭部をなでながら思う。威の髪はさらさらとして手触りがよく、いつまでも触っていられるような気がした。腰がゆるゆると勝手に動き、口からは嬌声が出て、触れられているのにどう触れられているのかわからない。きもちいい、ばかりが頭に浮かんでは消えていく。唇も、胸も、臀部も、秘部も、すべてが威の掌の上だ。
「あ、あっ、あ……っ」
気持ちよさを返そうとして口づけたり、威の胸元に指を這わせてみるものの、うまくはいかなかった。
「いいの?」
意地悪く笑った威の髪が肌をなでてくすぐったい。
「僕のこと、きらいなんでしょ?」
「きらい……」
そういえばそんなことを言った。ふわふわした心地のまま、とろとろと蜜を流しつつ仄羽はぼんやりと威を見る。乱れてた髪を直したい、と思った。きっと威には無様に見えているだろう。
「きらいじゃ、ないです」
威の胸元に触れる。今度はしっとりとして、威が少し汗をかいているのがわかった。
「威さまの、ほしい、です」
昼には言えなかったことを告げる。どうしてこんなにも素直に告げられたのか不思議に思うくらいに。
何もされていないのに、腰がびくりとはねた。体は快感を予見している。威はめずらしく黙ったまま仄羽の両足を掴み、仄羽の体を折るように持ちあげた。手助けするように仄羽は自身の膕を押さえ、威を待つ。
「挿れるよ」
侵入とともに襲ってくる圧迫感が、快感に変化する。声を抑えようとしても漏れ出てしまう。羞恥のために耐えようとしてもままならない。これまでにあった痛みや異物感はほぼなく、比べものにならないほどの気持ちよさが仄羽を包んだ。
「ん、ん」
仄羽の体を気遣ってかゆっくり挿入してくれている威の厚意を無下にするように、仄羽の腰がはやくはやくと、勝手に動く。威のものを逃さないとばかり、締めつけているのが自分でわかった。
「は、すごい……」
ぽつりと威が呟いたのが聞こえた。びくびくと体が震える。威をよろこばせようと知らない自分が現れているのを感じた。
肉がぶつかる音と水音が仄羽の耳を犯す。これまでに比べれば緩慢な動きで、抜き差しされている感触をどうしても意識してしまう。
「あ、あっあっあっあっ、威さま、威さま」
全部が気持ちいい。体をねじって逃げようとしても、すぐに抑えつけられる。むしろ逃げようとすればするほど快感が襲ってくる。初めてのことに仄羽は戸惑い、威の腕を掴んだ。全身が粟立ちとまらない。
「あっ、あっ、あーっ……」
体が大きく弓なりに反ったあと、何度か小さくはねた。いつの間にか足が威の肩にのっている。どけなければと思うが動けず、仄羽はまたはねた。
「えっ、あっ、ん、ん」
一度とまった威の動きが再開され、同時に胸を愛撫される。威を引き寄せれば、肌と肌が密着して温かさが伝わってきた。ぐ、と最後に腰を押しつけられ、無意識のうち応えるように仄羽がそれを締めつける。耳元で威が一瞬息を詰めた。その息遣いに仄羽の体が呼応して震える。
目が合い、どちらからともなく口づけ、仄羽は威の右目に包帯の上から唇を押しつけた。
つながったまま、威の手がゆるやかに仄羽の全身をなでる。ぞわぞわとした性的な快感とともに心地よさがあり、浅くなっていた呼吸が深くに戻っていく。
「ん……っ」
抜かれるとひくひくと開閉するのがわかった。多幸感とともにさびしさがある。
「威さま」
威の背中に手を回して、離れるのを阻止する。体温が高くなりすぎて、自分から湯気でも出ているのではないかと錯覚しそうだった。
「威さま、もう少し……」
甘えるようにねだれたのは、熱に浮かされていたからだ。威の仕事の邪魔をしない、というのがこれまで第一に考えてきたことである。それなのにいまは、威への迷惑も考えず、仄羽自身の我儘を伝えている。あまり長く拘束して業務に支障が出てはいけないと承知しつつも口にした。このまま威のことで頭をいっぱいにしたかった。
「うん」
耳元で短く返事をされる。威は結局最後まで明かりを消さず、二人で唇が腫れるのではないかというほど何度も重ねた。
「おはようございます」
翌日仄羽が執務室に向かうと、瑞矢がすでに仕事を開始していた。もっとも瑞矢のことなので、昨夜から続けて業務を行っている可能性もあるのだが。いつものとおりだ。いつもと違うのは、暁の姿が見えないことだった。
「ああ、おはよう。さっそくで悪いんだが、威さまに資料を届けてくれないか」
「はい。あの、暁さんは?」
めずらしさから聞いてみる。仄羽が札を裏返しに行ったときは、暁の札は表を向いていた。
「全に呼ばれて出ていった。すぐ戻るだろう」
貫爾と〔春日〕内で会うときに見張り兼護衛としてついてくれた、七嶺の弟だ。十三天王の用事なのか、それとも設楽に関して何かわかったのか。しかし後者であるのならば、いずれ説明があるだろう。仄羽は瑞矢から資料を受け取り、執務室を出る。両手で抱きかかえなければ落としてしまいそうな、結構な厚みだ。威はこれに目を通すのだろうか。そして、瑞矢たちも頭に入れたあとなのだろうか。つくづくおそろしい業務量である。頭が上がらない。
心なし足取り軽く、威の執務室へと向かう。ごまかしようのないほど浮足立っている。昨夜のことを思い出し、廊下で一人顔を赤くした。すれ違った使用人が頭を下げつつ、不思議そうに仄羽を見る。仄羽も使用人に頭を下げ、慌てて階段を上っていく。途中で人気がなくなると一度深呼吸をし、落ちつきを取り戻そうとする。このままでは資料とともに派手に転びかねない。いや、自分ならやる、と仄羽は先ほどよりも慎重に足を進めた。
威と話がしたい。いままでのとにかく何かを知りたい、という漠然としたものから、もう少し形を持って、仄羽のなかに芽生えた欲求だった。威本人の話はもちろん、他愛のない話でも、仕事の話でも、とにかく威とたくさんの会話を交わしたい。
一旦資料を床に置き、自身も襖の前に座る。
「せ、威さま」
一言目がやや裏返り、仄羽は小さく咳払いをする。どきどきしていた。どんな顔をすればよいのか、ぎこちないはにかみになる。
しかし、返ってきたのは威とは違う声だった。
「いいよ。入って」
一瞬、部屋を間違えただろうか、と思った。
そんなはずはない。何度も来た場所であるし、あたりを見渡してみてもやはりここは威の執務室前だ。花魁の部屋と間違えたりはしていない。そもそも、「威さま」と呼びかけたのだ。この名に呼応するのはたった一人であり、春嵐町民であればありえないことである。
ほのかに熱を持っていた頬も、そわそわとしていた気持ちも、一気に失う。体に突然錘を入れられたようだった。指先が冷たい。
「仄羽」
続いて聞こえてきたのは、確かに威だった。
「仄羽。入らなくていい。あとでアカと来い」
「なぜ? いいよ、入っておいで」
暁と来い、ということは、暁の勘に合わせろということだ。つまりいまは都合が悪い、ということでもある。
何の都合が悪いのか。威ではない声は高すぎることはないが低くもなく、女性を思わせた。弾むような嬉々とした声音だ。仄羽は逡巡する。祇矩藤家当主の言うことに逆らうなど考えられないことだ。
いや、威は「入らなくていい」と言ったのであり、「入るな」とは言っていない。
仄羽は感情に任せて、襖を開く。そこには胸元を露わにした状態で威に迫る女性の姿があった。
「やあ」
真っ黒で艶のある長い髪が、彼女が首を傾げたことでさらりと音を立て流れた。病的なまでに白い肌、長い睫毛、うつくしく整った顔立ち。そして真赤な双眸が、仄羽を見つめて微笑んでいた。
身がすくむ。威と同じく浮世離れした彼女の相貌の典麗さと、この状況に。
この先、髪や瞳の色が異なる誰かが現れても、ほかの女はいらない。威はそう言い、仄羽は安堵したが、失念していたのだ。すでに威と距離の近い女性や、黒髪の女性が現れる場合もある、ということを。
「どんなふうにしてたの」
「え?」
唇が離れて、鼻を摺り合わせながら聞かれた言葉を聞き返す。
「どんなふうに暮らしてたの。四区では」
胸のなかに招かれ、仄羽は腕を威の背中に回す。柔らかな感触が、今度は額にあった。
どんなふうに、と聞かれて、少なからず仄羽は困った。話そうとすれば、それは大概貫爾との話になってしまう。しかし威は聞きたくないだろうし、仄羽としても話したくはない。威の機嫌をそこねたくないという意味でも、口にすることで思い出をちっぽけなものにしたくないという意味でも。
「一日を、どんなふうに過ごしてた?」
仄羽よりもよほど頭の回る威は、おそらくはそんなこと百も承知だ。言い回しを変えられて、仄羽は威のぬくもりを感じながら、四区では、とおそるおそる言葉を紡ぐ。
「四区では、うちは、診療所だったので。親の手伝いをしていました」
「うん」
「朝から患者さんが来て、一気にはもちろん診られませんから、待ち時間に話を聞いたり……だから、近所の噂話はよく知っていました。どこが仲良しで、どこが仲悪いかも。空き時間にはお団子を買いに行ったりして。わたしはよくわからないんですけど、患者さんが帰ると両親は医療の研究をするので、たまにお夜食つくって持っていったりとか……」
きちんと覚えているのに、なんだか遠い記憶だった。帰りたい、戻りたいとは、不思議なことに少しも思えない。四区に帰ってももはや戻らない日々であると受け入れることを拒否しているみたいだ、と自嘲する。家具や家は差押えになったのだ。あの場所は、すでに別の人たちがきっと暮らしているだろう。確認してしまえば、受け入れるしかない。父母は遠くに出かけているだけだ、と、まだどこかで信じていたかった。そんなわけはないともちろんわかっていても、思いこむふりくらいは許されたい。
貫爾はまだ同じ場所で暮らしているのだろう。きっと仄羽が帰ることのない診療所の前をすでに何度も通りすぎている。
と、考えた刹那、視界が回転した。咥内への生ぬるい侵入者と手首へのかすかな痛みを感じ、仄羽はぎゅっと瞼を閉じる。
四区での暮らしとは別に、貫爾のいまに思いを馳せそうになったのを即座に察された、とすぐに理解した。手首にかけられた力はすぐにとかれて仄羽の自由になり、無意識に威の袖を掴む。おそらくもういい、と断じられるだろう。いよいよ、と、このあとのことを思ったが、仄羽の予想とは裏腹に、威はそれで、と続きを促した。
正直なところ、拍子抜けだった。安堵というよりは困惑を持って、仄羽は威の腕に手を絡める。自分と変わらないか、あるいはそれ以上に細いのではないか、という華奢な威の腕が、なぜだか力強く感じられた。
はたして威は何が聞きたいのだろう。仄羽は必死で考えをめぐらせる。いまいち掴みきれない。本質、本質、と威に言われた言葉を頭の隅で繰り返した。
「成人するまでは学問所に通って……」
結局素直に続けてみると、顔中に降ってくる口づけの雨がやまないことで、少なくとも見当違いのことは言っていないと把握する。
「学問所では、成績は中の中で、常に可もなく不可もなく、運動以外は問題にならない代わりに褒められることもないような状態でした」
思い出をそのまま伝えようとすればやはり貫爾が出てきてしまうので、事実だけを述べるように仄羽が言えば、威がふ、と笑うのが聞こえた。
唇と唇が触れあいつつも、口づけとは言いきれない皮一枚の近さで、威の赤目が細められる。こんな至近距離で威に見つめられて、頬を染めずにいられる人がいるならば教えてほしい、と仄羽は思う。
「中の中。なんだか想像どおりだね」
「そ、そうですか?」
答える声が裏返ってしまう。威はさらに目を細めて、うん、と言いながら今度はしっかりと唇を重ねた。口づけられるたびに体から力が抜けていく気がする。
「すきなことは熱心にするけれど試験に出るわけではなく、苦手なことは苦手なまま、それでもなんとかとりあえず試験だけはそつなくこなす。そんなところかな」
図星をつかれてぐうの音も出ない。仄羽は威の背中に腕を回して、少しだけ力をこめる。もう少し近づいてほしい、と伝えるために。威はちらと仄羽を見たあと、仄羽の腕に合わせて体重をかけた。加減されてはいるものの、確かな重みが仄羽の体にのしかかる。
「なんでわかるんですか」
「見ていればわかる」
あっさりと答えられ、仄羽は瞬いた。ということは、つまり、見られている。
普段、こちらを見もしない、と思っていたのに、威にはしっかり見られていたのだ。このぶんでは仄羽さえ気づいていないさまざまなことが威には見抜かれている気がして、羞恥で背中に汗が浮く。耳まで赤くなったのが自分でもわかる。
反射的に手で顔を覆うが、即座に威にはぎとられた。顔を背ければ追いかけられ、寝返りと打とうとしてもついさっき自分が招いたために身動きがとれない。
「なに急に」
ほとんど「なに」か確信めいて、愉快そうに威が言った。
素直に答えなければ許してもらえない空気を察して、仄羽はせめてもの抵抗に目を伏せながら答える。
「は、恥ずかしい、です」
ふ、とまた、威が笑ったのがわかった。
「恥ずかしい」
威に言葉を繰り返されながら腰に手を入れられ、あっという間に帯を解かれる。慣れた手つきだ、と一瞬思い、仄羽は下唇を噛む。余計なことを考えてはいけないとわかっているのに、自分だって貫爾のことを整理しきれずにいるのに、これまでの威とその相手のことを考えて妬心がわいてきてしまう。
「んん」
「昼間も言ってたね」
噛んでいることを咎められるように唇を舐められ、力の抜けた隙間を狙って再び不躾に侵入される。先ほどとは違って丁寧に濃厚に、歯の一本一本の存在まで気づかされるように口づけられた。呼吸がしづらくて苦しい。圧迫感さえ快感になって、声が漏れる。威を押しのけるようにしてみてもびくともせず、むしろ押せば押すほど深くを暴かれ手からは力が抜けていく。びくりと仄羽の体が小さく跳ねて、やっと解放された。口の端から垂れてしまった涎を舐めとられる。
「恥ずかしいのか」
上機嫌に再び繰り返され、仄羽は何も返せない。唾を飲みこみ、口元を指でぬぐう。浅く短く上下する胸に、仄羽の咽喉をなぞる威の指がゆっくりと近づいてくる。
「は、ずかしい、です。威さま。明かりを」
消してほしい、と頼む前に、だめ、という威の言葉が先に飛んできた。
「まだ話してる」
言いつつも口づけられ、このままでは話せない、と思う。そもそも夜目の利く威には明かりなど関係ないだろうに。威の長い睫毛が触れられる位置にあり、触れても怒られないだろうことが、ふいに不思議になる。
窓の外はまだ賑わっているが、仄羽の耳には聞こえてこない。深更の刻まであとどのくらいだろうか。町が仮初のねむりについたら、威は明かりを消してくれるだろうか。関係ないとわかりつつも考えずにはいられない。現実逃避でもしなければ、自分を保っていられる自信がなかった。
「学問所って、たのしい?」
「えっ? っあ」
思ってもみなかった質問をされて頓狂な反応をしてしまったあと、衿元に手を入れられて声に艶が乗る。片方の胸が明かりのもとに晒され、仄羽は震えた。
細く骨ばったうつくしい指が仄羽の胸を弄ぶ。触れられているだけで特別なことはされていないように思うのに、心地よさに腰がぞくぞくとした。下半身をねじるように動かそうとすれば、威の体に押さえつけられ叶わない。
「あ、あっ」
指とは明らかに違うぬるりとした温かさが、胸の先端を覆う。気づけば伊達締めも外されていて、前が完全に寛げられている。下着に指をかけられると、頭で考えるよりはやく腰を浮かせて脱がされる手助けをしてしまう。すべてが隠しようもごまかしようもなく威の瞳に映っている事実に、知らず息が荒くなる。
「が、学問所は、たのしかったです。友人も、ん、できまし、た、し」
「ふうん。たのしいところなんだ」
「あ、は、あ……っ、ん、わ、わたしは、そうでした」
内腿をなでられ、背中に炭酸が弾ける。そうか、威は学問所に行くことはありえなかったのか、と今さら思い当り、単なる興味のための質問であったのだとやっと合点がいく。
歴代の祇矩藤家当主はいざ知らず、一二の若さで当主となった威には友人もいないだろう。いちばん近いのは瑞矢であることは間違いないが、あくまで従者だ。
とはいえ仄羽も、二度と会えないと嘆く相手も嘆かれる相手も、貫爾しか思い当らない。当時貫爾以外にも仲の良い友人がいたのは確かだが、考えてみればいずれ忘れ去られるだろう程度の付き合いのほうが多い。改めてみると虚しいものの、いまの境遇を考えると案外嘆く要素が少なく済んでよかったのかもしれなかった。
「思い返してみれば、ですけど」
いやなことがなかったとは言いきれない。そのたびに貫爾が助けてくれたのはうれしかったが、貫爾が助けに入ったことでさらなる妬みを買ったこともあった。
腕を袖から抜かれ、一糸まとわぬ姿にさせられる。威は仄羽の中心線を探るように、仰向けになっている仄羽の顎から胸の間を通って腹まで、つつつ、と指でなぞっていく。体がびくりとはねて、まな板の上の鯉だ、と仄羽は思った。
「きれいだ」
落とすように言われ、軽く下腹部を押された。自分のではない手が、これまで自分でしかほとんど触っていないところを暴いていく。いや、もうそろそろ、威には何度も触れられている箇所、と訂正しなければならない。じんわりとした欲望が腹の底で威に気づいてほしいと喚いている。
「仄羽の体は」
閉じられた秘部を指で開かれ、どろりと何かが漏れるように溢れたのが仄羽にもわかった。自身の素直に反応する体も、言われた言葉も恥ずかしく、腕で顔を隠す。昼間と違ってやさしく愛撫されて、手や足の先が熱い。一つひとつの動作を感じてしまう。次はどこに触ってくれるのかと期待をしてしまう。
「あっ……!」
ひときわ大きな声が出た。ぐちゅぐちゅとした音が卑猥で、仄羽は息を詰める。自分を含め、威以外には触れられたことのない場所。仄羽の意識よりも体のほうが慣れたもので、もっともっとと勝手に奥へと招き入れようとする。
酸素を送られるように口づけられて、仄羽は胸を大きく上下させる。威の衿元に手を差し入れれば、威が心なしか驚いたように左目を開かせた気がした。
鎖骨をなぞるように表面をなでる。ほんの少し肌が荒れている気がした。あまりねむらないせいだろう、と仄羽はあたりをつけ、眉を落とす。威に限らず瑞矢も暁もそうだが、いつ札が裏になっているのかわからないような、いつまでも働いているような今の暮らしをしていては、いずれ突然倒れてしまう気がして心配である。
「威さまは、脱がないんですか」
思えば威は仄羽と肌を重ねているとき着物が乱れはしても、帯すらほどいていない。すべてを脱がされたのは仄羽も今回が初めてであるが、こういうものかと思い純粋に聞いてみれば、
「僕に全裸に包帯だけの、情けない姿になれと?」
と、左目を細められた。
笑みのなかに圧を感じつつも、仄羽はおそるおそる威の右目を覆う包帯に手を伸ばす。
「……この下がどうなっているかも、教えていただけないのですか?」
問えば威は動きをとめ、仄羽をじっと見つめた。踏みこんだことを言いすぎただろうか。以前に包帯を替えることを拒否されたように、今回も拒まれるだろうかと、仄羽は内心どきどきとする。
「…………」
無言のまま動かなくなってしまった威を見つめ返していると、またしても恥ずかしくなってきて、仄羽の頬が朱に染まる。だんだんと行為には慣れてきたが、威の顔のうつくしさにはまだ慣れることができない。
ちゅ、と音を立てて、威に触れるだけの口づけをされる。睫毛と睫毛が触れそうなほどの至近距離で、威は静かに言った。
「……右目は潰れている」
仄羽が反応するより先に、威が再び口づけた。
「幼いころに刺されて何も見えない。あとは細かな切り傷と火傷の痕だ」
だから頬の一部も覆われているのか。再び問いなおすことはできず、仄羽は包帯の上をなでる。聞いてから触れると、確かに一部おかしなくぼみがあり、なぜこれまで気づくことができなかったのだろう、と思う。
「仄羽が僕のところに来たら、見せてあげる」
「あっ」
「見てたのしいもんじゃないけどね」
愛撫が再開され、仄羽は何を言うことも許されない。
「あ、あっあっあっ」
刺された。事故ではなく、誰かからの悪意を受けた証の言葉である。誰が。なぜ。激しくなった愛撫からいまは何も聞くなと示唆されている。かといって当然、忘れることなどできるわけがない。
瑞矢は知っているのか。暁は知っているのか。鶫はどうか。
(威さまのすべてをもらったのはわたしなのに!)
威にはまだたりないのだ。仄羽はもう威の傍にだけいるつもりでも、威にとっては充分ではない。だから何もかもを明かしてはくれない。口惜しさが発散の出口を求めて、顔をかきむしるように指に力が入る。涙一筋とともに拳をつよく握る。
これまでと同じく、当然とばかり威に涙をぬぐわれ、仄羽はさらにぽろぽろと涙を流す。
指先がやさしいとわかる。徐々に威がこれまでなら答えてはくれなかったことを話してくれているのがわかる。わかっているのに、自分の不甲斐なさがかなしい。もっと威のことを知りたい、もっと威に近づきたいと思うのに、焦る気持ちが先行する。かといって、貫爾のことはどうしてもすぐには捨てられなかった。そして捨ててはいけない、そうしたところで威は仄羽に幻滅するだけだとなぜだかわかる。そういったことだけはわかる。仄羽が無理に貫爾への感情を絶とうとしたとき、とめてきたのはいつも威だ。
「どうしたの」
眉根を深く寄せてみても、しずくは落ち続ける。一粒一粒をすくうようにぬぐってくれる威を見つめた。穏やかで、泣いていることを疎んだり鬱陶しがる雰囲気はない。仄羽は威の首元に手を回してぐいと引き寄せた。拙いとわかりつつ舌を絡める。主導権はすぐに威に移った。
「ん、…………」
生温かさが思考を鈍らせる。余計なことを考えないように威を求め続けた。
「……どうしたの?」
唇が離れ、妖艶に微笑まれる。
この先、髪や瞳の色が異なる誰かが現れても、ほかの女はいらない、と威は言った。
「もっと、威さまに、相応しくなりたい、のに」
かすかな嗚咽を漏らしながら言えば、威に頬をなでられた。紅い瞳にあられもない姿の自分が映っている。
「もっと」
いつの間にか窓の外が暗くなり、賑やかだった音もやんでいた。深更の刻に入ったのだ。この建物のなかでも、何人もが枕を交わしている。
今日はキスが多い、と仄羽は威の後頭部をなでながら思う。威の髪はさらさらとして手触りがよく、いつまでも触っていられるような気がした。腰がゆるゆると勝手に動き、口からは嬌声が出て、触れられているのにどう触れられているのかわからない。きもちいい、ばかりが頭に浮かんでは消えていく。唇も、胸も、臀部も、秘部も、すべてが威の掌の上だ。
「あ、あっ、あ……っ」
気持ちよさを返そうとして口づけたり、威の胸元に指を這わせてみるものの、うまくはいかなかった。
「いいの?」
意地悪く笑った威の髪が肌をなでてくすぐったい。
「僕のこと、きらいなんでしょ?」
「きらい……」
そういえばそんなことを言った。ふわふわした心地のまま、とろとろと蜜を流しつつ仄羽はぼんやりと威を見る。乱れてた髪を直したい、と思った。きっと威には無様に見えているだろう。
「きらいじゃ、ないです」
威の胸元に触れる。今度はしっとりとして、威が少し汗をかいているのがわかった。
「威さまの、ほしい、です」
昼には言えなかったことを告げる。どうしてこんなにも素直に告げられたのか不思議に思うくらいに。
何もされていないのに、腰がびくりとはねた。体は快感を予見している。威はめずらしく黙ったまま仄羽の両足を掴み、仄羽の体を折るように持ちあげた。手助けするように仄羽は自身の膕を押さえ、威を待つ。
「挿れるよ」
侵入とともに襲ってくる圧迫感が、快感に変化する。声を抑えようとしても漏れ出てしまう。羞恥のために耐えようとしてもままならない。これまでにあった痛みや異物感はほぼなく、比べものにならないほどの気持ちよさが仄羽を包んだ。
「ん、ん」
仄羽の体を気遣ってかゆっくり挿入してくれている威の厚意を無下にするように、仄羽の腰がはやくはやくと、勝手に動く。威のものを逃さないとばかり、締めつけているのが自分でわかった。
「は、すごい……」
ぽつりと威が呟いたのが聞こえた。びくびくと体が震える。威をよろこばせようと知らない自分が現れているのを感じた。
肉がぶつかる音と水音が仄羽の耳を犯す。これまでに比べれば緩慢な動きで、抜き差しされている感触をどうしても意識してしまう。
「あ、あっあっあっあっ、威さま、威さま」
全部が気持ちいい。体をねじって逃げようとしても、すぐに抑えつけられる。むしろ逃げようとすればするほど快感が襲ってくる。初めてのことに仄羽は戸惑い、威の腕を掴んだ。全身が粟立ちとまらない。
「あっ、あっ、あーっ……」
体が大きく弓なりに反ったあと、何度か小さくはねた。いつの間にか足が威の肩にのっている。どけなければと思うが動けず、仄羽はまたはねた。
「えっ、あっ、ん、ん」
一度とまった威の動きが再開され、同時に胸を愛撫される。威を引き寄せれば、肌と肌が密着して温かさが伝わってきた。ぐ、と最後に腰を押しつけられ、無意識のうち応えるように仄羽がそれを締めつける。耳元で威が一瞬息を詰めた。その息遣いに仄羽の体が呼応して震える。
目が合い、どちらからともなく口づけ、仄羽は威の右目に包帯の上から唇を押しつけた。
つながったまま、威の手がゆるやかに仄羽の全身をなでる。ぞわぞわとした性的な快感とともに心地よさがあり、浅くなっていた呼吸が深くに戻っていく。
「ん……っ」
抜かれるとひくひくと開閉するのがわかった。多幸感とともにさびしさがある。
「威さま」
威の背中に手を回して、離れるのを阻止する。体温が高くなりすぎて、自分から湯気でも出ているのではないかと錯覚しそうだった。
「威さま、もう少し……」
甘えるようにねだれたのは、熱に浮かされていたからだ。威の仕事の邪魔をしない、というのがこれまで第一に考えてきたことである。それなのにいまは、威への迷惑も考えず、仄羽自身の我儘を伝えている。あまり長く拘束して業務に支障が出てはいけないと承知しつつも口にした。このまま威のことで頭をいっぱいにしたかった。
「うん」
耳元で短く返事をされる。威は結局最後まで明かりを消さず、二人で唇が腫れるのではないかというほど何度も重ねた。
「おはようございます」
翌日仄羽が執務室に向かうと、瑞矢がすでに仕事を開始していた。もっとも瑞矢のことなので、昨夜から続けて業務を行っている可能性もあるのだが。いつものとおりだ。いつもと違うのは、暁の姿が見えないことだった。
「ああ、おはよう。さっそくで悪いんだが、威さまに資料を届けてくれないか」
「はい。あの、暁さんは?」
めずらしさから聞いてみる。仄羽が札を裏返しに行ったときは、暁の札は表を向いていた。
「全に呼ばれて出ていった。すぐ戻るだろう」
貫爾と〔春日〕内で会うときに見張り兼護衛としてついてくれた、七嶺の弟だ。十三天王の用事なのか、それとも設楽に関して何かわかったのか。しかし後者であるのならば、いずれ説明があるだろう。仄羽は瑞矢から資料を受け取り、執務室を出る。両手で抱きかかえなければ落としてしまいそうな、結構な厚みだ。威はこれに目を通すのだろうか。そして、瑞矢たちも頭に入れたあとなのだろうか。つくづくおそろしい業務量である。頭が上がらない。
心なし足取り軽く、威の執務室へと向かう。ごまかしようのないほど浮足立っている。昨夜のことを思い出し、廊下で一人顔を赤くした。すれ違った使用人が頭を下げつつ、不思議そうに仄羽を見る。仄羽も使用人に頭を下げ、慌てて階段を上っていく。途中で人気がなくなると一度深呼吸をし、落ちつきを取り戻そうとする。このままでは資料とともに派手に転びかねない。いや、自分ならやる、と仄羽は先ほどよりも慎重に足を進めた。
威と話がしたい。いままでのとにかく何かを知りたい、という漠然としたものから、もう少し形を持って、仄羽のなかに芽生えた欲求だった。威本人の話はもちろん、他愛のない話でも、仕事の話でも、とにかく威とたくさんの会話を交わしたい。
一旦資料を床に置き、自身も襖の前に座る。
「せ、威さま」
一言目がやや裏返り、仄羽は小さく咳払いをする。どきどきしていた。どんな顔をすればよいのか、ぎこちないはにかみになる。
しかし、返ってきたのは威とは違う声だった。
「いいよ。入って」
一瞬、部屋を間違えただろうか、と思った。
そんなはずはない。何度も来た場所であるし、あたりを見渡してみてもやはりここは威の執務室前だ。花魁の部屋と間違えたりはしていない。そもそも、「威さま」と呼びかけたのだ。この名に呼応するのはたった一人であり、春嵐町民であればありえないことである。
ほのかに熱を持っていた頬も、そわそわとしていた気持ちも、一気に失う。体に突然錘を入れられたようだった。指先が冷たい。
「仄羽」
続いて聞こえてきたのは、確かに威だった。
「仄羽。入らなくていい。あとでアカと来い」
「なぜ? いいよ、入っておいで」
暁と来い、ということは、暁の勘に合わせろということだ。つまりいまは都合が悪い、ということでもある。
何の都合が悪いのか。威ではない声は高すぎることはないが低くもなく、女性を思わせた。弾むような嬉々とした声音だ。仄羽は逡巡する。祇矩藤家当主の言うことに逆らうなど考えられないことだ。
いや、威は「入らなくていい」と言ったのであり、「入るな」とは言っていない。
仄羽は感情に任せて、襖を開く。そこには胸元を露わにした状態で威に迫る女性の姿があった。
「やあ」
真っ黒で艶のある長い髪が、彼女が首を傾げたことでさらりと音を立て流れた。病的なまでに白い肌、長い睫毛、うつくしく整った顔立ち。そして真赤な双眸が、仄羽を見つめて微笑んでいた。
身がすくむ。威と同じく浮世離れした彼女の相貌の典麗さと、この状況に。
この先、髪や瞳の色が異なる誰かが現れても、ほかの女はいらない。威はそう言い、仄羽は安堵したが、失念していたのだ。すでに威と距離の近い女性や、黒髪の女性が現れる場合もある、ということを。
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