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一章
九話 - 一
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指を想像する。暁はその高身長のため、七嶺が知る誰よりも手が大きい。男性らしくというべきか少し骨ばっているが、女性のような華奢さもある。七嶺は見るたびに不思議に思う。指に関わらず、体格や、言動のなかに性差は必ず潜んでいる。暁はその境目が曖昧だ。いや、明らかに男性であるし、暁を女性だと勘違いしたことはない。けれどもあの曖昧さが、彼の輪郭を変えて、きっと陰間として客を魅了したのだと感覚的にわかる。暁は相手に合わせて自身をかたどっていったのだろう。
花魁としての七嶺は違う。もちろんある程度相手の機嫌をとるために感情を繕ったりすることはあるけれど、基本的に七嶺は七嶺のまま、馴染みからの印象はほぼ変わらないといってよい。ほかの花魁、たとえばかつて彼女を「あね」として教育した鈴は、暁、というよりは朝月夜と同じ類だった。自然体の鈴ではなく、客が望む彼女になる。「鈴」である以上、そちらのほうが楽だと鈴は言った。いつも柔らかな笑みを浮かべ、あねとしてやさしく接してくる鈴のことが、七嶺はいまに至るまでずっと苦手だ。
いつも上から下まで真黒な服装で来るので黒衣、と花魁や新造たちの間で噂されている七嶺の馴染みは、七嶺に対してこれからも気高くあってくれ、と言う。馴染みのなかでは頭から数えたほうが付き合いの長い彼は、腕のなかにいてもまるで届かないような、その気高さのままであってくれ、と。
はあ、と七嶺の唇から震えるような吐息が漏れた。
心をまったく開いていないことを、気高さと評してくれるのは、花魁という仕事上、大変にありがたい。黒衣、もとい水口織は、七嶺を身請けしたい旨を何度も届けてくれている。そのたびに断るのだが、逆上することはない。「今回もか」とただ事実だけを受け入れているのは、織が言うところの気高さから、七嶺が返答していると考えているためだろう。織の七嶺に対する思いは間違いのないもので、家柄は申し分なく、長く花魁をしている七嶺に断る理由がほかにないからだ。
実際はまったく違う。気高さなどではなく、むしろ七嶺自身からすれば、ひとつの呪いだ。端的にいえば遊郭〔春日〕からどうしても出たくないからであり、織が理由をすべて知れば手のひらを返して嫌悪、あるいは憎悪を抱かれるのではないかと思う。
日が高く昇っているのが、障子を閉めきった状態でもよくわかる。七嶺は布団のなかで毛布にくるまっていた。いまは昼見世の時間だ。隣室からは物音ひとつ聞こえない。そして仄羽もまだ来ないはずだ。御職になる前に無理やりつけられた禿や新造は皆、好奇心が鬱陶しかった。誰もが長持ちせず、結局別の花魁につくことになっていった。主には鈴の下に。大半は〔春日〕を出ていったけれど、いまでも自分を憎々しく思っている者はいるだろう、と七嶺は思っている。しかし仄羽は、七嶺にとっての面倒を一切持ちこまない。その点は少なくとも好ましく感じていた。それに仄羽が〔春日〕に身を置くようになってから、暁が足を運んでくる回数が、明らかに増えている。
「……あ」
声は出すものではなく漏らすものである、というのは、ついた花魁に新造が最初に教わることだ。演技は簡単に見抜かれる。見抜いた客は離れていく。
基本的に鴨居よりも背の高い暁は、いつもくぐるようにして部屋に入り、そして出ていく。平均的な背丈である七嶺と並べばかなりの身長差だ。痩躯である暁であっても、やはり男女差があるので、七嶺の体は暁の体にすっぽりと入ってしまう。
襦袢の衿をずらして、七嶺は自身の手を忍ばせた。自由になった乳房がこぼれ落ちそうになる。馴染みたちの大半がよろこび、欲を持って多く触れるこの場所であるが、相手によってはあまり興味がなさそうに、あるいは一般より大きいことを苦労があるのではないかと憂慮される。暁はどうだろうか。あの大きな手でも、きっと覆いきることはできまい。
触れれば恍惚、抱けば昇天、抱かれれば陶然、話せば甘美。
おもしろがられ、誇張されているにせよ、暁が陰間としての現役時代に謳われていた言葉が頭に浮かぶ。
話せば甘美、とは思わないが、話術をもって常に上に立たれているのは、七嶺にだってわかる。甘美ではないのは、単に暁にそのつもりがないからだろう。あっさりと抵抗をあきらめ、誘いを受け入れそうになったことを思い出した。つま先がはね、七嶺は口惜しさから奥歯を噛みしめた。
触れれば恍惚、というのは、まともな判断ができるわけがないので割愛する。そのうえ暁に触れられたのは、長年の付き合いをもってしても、数えきれるくらいしかない。
抱けば昇天。暁を抱くことはないだろう。抱きたいと思ったこともない。
残りはひとつだ。抱かれれば陶然。く、と足の間に這わせていた指が奥を捉えて、七嶺は声をあげた。枕に顔をうずませる。
あの長い指なら、さらに奥に触れるだろう。どこまで暴かれてしまうのだろうか。唇を指でなぞる。先ほどの触れただけの感触が、いまも鮮やかなまま残っている。
「 」
胸と秘部とを慰める七嶺の耳元に、暁のささやきが響く。びくりと体がはねた。源氏名である「七嶺」ではなく、〔春日〕内でも威たちしか知りえない本名だ。〔春日〕に入って以降、呼ばれたことはない。もともと自分を捨てるために〔春日〕にやってきたのだ。本名で呼ばれたいなどと思った覚えは一切ないのに、七嶺が思う暁は、七嶺を本名で呼んだ。
「 」
繰り返し七嶺が七嶺になる前の名を呼び、暁は七嶺をうつ伏せにさせるとうなじに唇を落とした。七嶺を抱いて衿元を開き、胸を愛撫する。高揚感が内に昂って、先端をつままれると小さく電流が走った。
胸に意識が向いているうちに裾をめくられ、太腿から臀部を暁の手がするりとなでていく。触れられているだけなのに、ぞわぞわと多幸感が七嶺を襲った。身を守ろうと体を縮める。かと思えばまた胸をもまれる。耳の近くで唇の感触と音がする。
「あ、だめ……」
腰元を軽く持ちあげられ、七嶺は抵抗するように後ろ手に振ってみるも、暁は聞いてはくれない。軽く尻を叩かれ、また体がはねる。促されているのがわかり、七嶺は荒い呼吸のまま布団に顔をうずめ、自らの秘部をさらすように、両の手で臀部を広げた。体中が熱い。先ほどまであちらこちらに散っていた愛撫がいまは一切なくなって、視線だけを感じる。着物はもはやぐしゃぐしゃで、帯のためにかろうじてまとえている状態だった。七嶺は震えた。とろりと足の間を蜜が垂れていく。
「あっ」
ぬる、と出した蜜をこすりつけるようにして、念願の場所に暁の手が入る。
「あっ、あ、あっ」
細くて長く、少し骨ばっていて、それでいて華奢な、暁の指だ。考えていたよりも激しく七嶺のなかをかき回し、七嶺が思ってもみない場所に触れて快感を引きずりだしてくる。花魁になり複数の人間と長年枕をともにして、もはや自分の体で知らぬところなどないと思っていたのに、まるでうぶな少女であるかのごとく、次々と暴かれる。
体を横にされ、上から抱きしめられる。ああ身長差のせいであまり口づけられない、体位もかぎられているのだ、と七嶺は気づく。胸をたくさんかわいがられて、暁は大きいほうがすきなのだろうか、だとしたらうれしい、と思う。
七嶺は何を返すこともできず、ひたすら顔をうずめて、押し寄せてくる波に耐える。聞こえていた音ももはやぼわぼわとしたものに変わり、何も判別できなかった。
「あ……っ、暁さま」
小さく、さらにいえばか細く、七嶺は暁の名を呼ぶ。呼んでいいのだろうか。迷いがあった。爪を噛んで、恐怖に震える。こんな思い、暁は迷惑なのではないか。名前を呼べば、暁は困ってしまうのではないか。暁の名を呼ぶとき、どうしたって色が乗る。陰間として名を馳せた暁が気づかないはずはない。応えられない思いがいかに面倒で重いものか、七嶺は重々承知だ。先ほどから流れている生理的な涙のほかに一筋、七嶺の感情をのせたしずくがこぼれていった。
しかし暁は、汗ばんでいる七嶺の額を前髪ごとそっとなでた。愛撫とは異なるやさしい手つきに、七嶺は安堵の溜息をもらす。
「 」
もう一度名を呼ばれて、七嶺は暁に手を伸ばそうとする。その手が暁に届く前に、腰から脳天に向けて、電流が駆け抜けていく。
「ああっ、あ、あ」
やがて七嶺の体が大きくはねた。
七嶺は再び布団に顔をうずめて嘆息する。毛布からもぞりと手を出してみれば、粘着性のある液体が指に絡みついていた。はあ、ともう一度嘆息し、枕に頭を預ける。手探りで枕元に置いておいた懐紙を掴み、適当にぬぐう。足の間にも入れて体液をふき取り、その懐紙をぽいと枕元に放り投げた。このままねむってしまいたい。しかし毛布にくるまる、こんな姿を仄羽や、まして暁に見られるわけにはいかなかった。きっと戻ってきたりはしないだろうと思いつつも、想定せずにはいられない。思わず引っぱたいた彼の頬が腫れてなければよいのだけれど。
すべては想像だ。
暁は七嶺の本名を呼びはしないし、安心させるように頭をなでないし、まして七嶺を抱いたりはしない。
襦袢は七嶺の妄想ほどは乱れておらず、毛布のなかで適度に衿を整える。夜見世に向けて湯舟に浸かりにいかなければ、髪を乾かすのが億劫になってしまう。
もし暁がまだ朝月夜だったとして、七嶺はきっと朝月夜から気に入られはしなかっただろう、と思った。そして七嶺も、きっと朝月夜に思いを向けることなどありはしなかった。
なぜ〔春日〕に自ら足を踏み入れたのか、その理由は常に七嶺につきまとう。それなのに暁を想像して自分を慰める浅ましさを、七嶺自身がいちばん、嫌忌していた。
仄羽さん、と呼びかけられる。その呼び方をするのは〔春日〕ではひとりしかいない。振りむけば思ったとおり初名の姿があったが、想像とは異なっていたので多少なりと驚く。初名はいつもの質素な着物ではなく、柄の大きな着物に衿を大きく抜いて、帯を柳結びにしていた。くっきりとした化粧をのせている。座敷に出るために着飾った初名を見るのは初めてだった。
体が細いために頼りなく、そのうえ小柄のために小さな子どもの仮装にでも映っておかしくなかったが、初名の姿勢のうつくしさと凛とした雰囲気がそれを許さず、まるで人形だ。仄羽は小さく息をのむ。
「仄羽さん?」
小首を傾げられ、はっとする。声音でいつもの初音だと再認識し、駆け寄る。
「初名ちゃん、きれいだね。すごく」
言いながら、そうか、夜見世の準備に入っているのかと合点がいった。座敷からは遠く離れた場所で鶫と話していたから、時間の認識が甘くなっていた。
「そうですか?」
初名は自身をきょろきょろと見た。表情に変化はないものの、どこか驚いているように仄羽には見えた。
「着物の力ではないでしょうか。鈴あねさまに下げていただいたものですから」
言われて改めて着物を見れば、確かに布地そのものに艶があり、帯ともども高級なものであるとわかる。しかし着物がきれいであればあるほど、着ている人物がそのうつくしさに負けてしまう可能性だってあるのだ。初名は、どう見ても着物に負けていない。
「それに、今日の昼見世でもお客様に叱られてしまいました。不気味であると」
仄羽はむっと眉根を寄せる。しかし初名のことを知らずに接すれば、そう思うのも致し方ないのかもしれない、と持ちあげた肩を落とす。表情に変化がないと感情が読みとれず、どうすればよいのかわからなくなり、徐々に不快になっていくのは、理解できなくもない。いつもにこにことしている鈴を目当てに来ている客であれば、特に好みとは合わないのだろう。
「また、花魁になるのが遅れてしまう……」
言ったあと、初名はぱっと口を隠すように手を当てた。
「すみません」
何度も瞬いて、初名自身が自分の発言に困惑しているようだった。
本来なら成人の一五を目安に、新造は花魁になる。仄羽のように遅く春霞に入ったのではなく、幼い禿の時分から身を置いている初名のような少女なら、なおさら。初名は仄羽と同じ一七だ。成人から二年。あせっていても、なんらおかしくないのだ。
春霞のことをほとんど知らずに育ち、廓でのしきたりや作法、花魁たちの感情に明るくない仄羽は、座敷に出ずに済むならそれでよいのではと思うときがある。けれどそれはつまり、身請けされる機会も、借金を返済する機会も逃していることと変わりない。初名は頭がよく、芸事も得意なので、芸者として生きていけるのではないか、とも思うが、彼女の本意はあくまで、はやく恩を返すことだ。
「ううん」
仄羽は首を横に振る。
「そういうの、いつでも言ってほしい」
初名の手を握ると、少しひんやりとしていた。初名は「そういうの」の意味がわからないのか、また何度も瞬き、たどたどしく頷いた。
はやく座敷にあがりたい、一人前に客をとれるようになりたい、という初名の思いは、仄羽にはわからない。初名を見ていると、思いもしていない人から触られ、愛撫を受け、抱かれることの意味がきちんとわかっているのだろうか。こわいことをこわいとも思えぬまま、押しつぶされてしまわないだろうか、と心配になる。花魁側が客を選ぶのだから、思いもよらない人物、というのは言いすぎにしても、選ばれるためにおとなしくしていた相手が豹変しないとはかぎらない。〔春日〕で育っている初名は仄羽が心配せずとも長く言い含められているだろうし、仄羽とは比べものにならない量の愚痴やつらさを花魁たちから受けているとわかっていても、思わずにはいられなかった。もっとも、七嶺に言わせれば「肌を許すのは、少なからずその相手がすきだから」であるのだが。
「あの、仄羽さん」
もういつもの調子を取り戻している初名が、握られた手を抵抗もせずそのままに、仄羽をまっすぐに見つめる。
「なに?」
「そろそろ、七嶺あねさまのところに行かないといけないのではないですか?」
はっとする。御職である七嶺が座敷にあがるのは花魁のなかでもほとんど最後だとしても、急がなければならない。
仄羽は初名に礼を言って、足早に行こうとした。途端、躓き、すんでのところで転倒を免れる。初名に心配されつつ、今度は慎重に足を進めた。仄羽の姿が廊下から消えたあと、初名は握られた手をじっと見つめていた。
七嶺の部屋にたどりつくと、七嶺はすでに準備を終えていた。申し訳なさに平身低頭するが、七嶺はちらと仄羽を見ただけで、そっけなく頷いた。機嫌を損ねてしまっただろうか、と仄羽は危惧する。いつもはきれいに整頓されている鏡台にも化粧品が出されたままになっていた。
干渉をきらう七嶺の傍に、用もないのに長居してはさらに気分を害させてしまうだろう。仄羽が立ち去ろうとすると、七嶺に引きとめられる。あげかけた重心をまた下げて、仄羽は七嶺に向きなおった。
「裾が乱れてたわよ」
「え、あっ」
来る途中で躓いたせいだろう。仄羽は慌てて立ちあがり、裾を整える。部屋に入ってきたときくらいしか見る隙はなかっただろうに、よく見ている。いや、見られている。
「あなた、威さまのお気に入りなのでしょう」
お気に入り。素直に頷くことはできず、仄羽は黙って腰を下ろした。暁も、瑞矢も、鶫も、威の「お気に入り」だ。もやりとした感情が内に広がっていく。
とはいえさすがに長年御職として多くと相手どってきた七嶺をごまかすことはできなかった。七嶺は薄く笑って、仄羽を見つめる。初めて七嶺を目にしたときのような妖しさに、仄羽はびくりと小さく震えた。
「いやなの?」
「いやというわけでは……」
実際、威に対しての抵抗や猜疑心は、なくなったとまではいかないもののほとんど姿を消しつつある。かといって好意だけで返せるほど単純でもない。
「気に喰わないのでしょう」
細くうつくしい指で、七嶺は自身の顎を軽やかになでた。仕種のひとつひとつが様になり、仄羽は目を奪われる。七嶺の色気にあてられて、赤面しそうになる。
「十把一絡げに、ほかのひとたちと一緒にされては、たまらないのでしょう」
仄羽の背が無意識に伸びる。
七嶺はゆっくりと瞬きをして、双眸を細めた。仄羽は口ごもる。反論が何も思い浮かばない。暁も鶫も一芸に秀でて、仄羽よりもよほど長く威の傍近くに仕えている。瑞矢に至っては幼いころから。仄羽には何もない。そんな自分が名前を並べては、瑞矢たちに対して恐れ多いことである、と、そう言えば、ひとまずこの場は無難に切り抜けられるとわかっていて、声にならなかった。
黙って何も返さない仄羽を、七嶺はじっと観察していた。視線が痛い。結局沈黙は、七嶺の言葉で破られた。
「いいのよ。それで、別に。まとめられてはたまらないわ……」
独白に近い、落とすような話し方に、仄羽は七嶺を見る。七嶺にもそんな相手がいるのだろうか、と思った。少なくとも、仄羽を肯定するために口にしたのではなさそうだった。
す、と再び目を上げた七嶺は、もう仄羽の知る、うつくしく艶やかな七嶺だった。
「けれど、周りはあなたの考えなんて汲みとってはくれないわよ」
仄羽の姿を認めるたび、次々と端に寄って頭を下げた使用人たちを思い出す。
「少なくとも、自ら伝えないかぎりは。あなたがどういうつもりでも、周りから見ればあなたは威さまのお気に入りで、わたしつきの留袖新造」
立ちあがった七嶺に、仄羽は慌てて襖までの道筋をつくる。仄羽とほとんど変わらない、あるいは仄羽よりも少し高いだけの七嶺が、ひどく遠くに見えた。
「誰が何を言うかしれない。見目くらいは、気を遣いなさい」
仄羽が襖を開けようと立ちあがると、七嶺に手で制される。彼女はしゃんとして、見とれるような所作で部屋を出ていった。部屋には、情けなく茫然と立っている仄羽だけが残された。
夜の春霞は賑やかだ。提灯に明かりが灯り、それぞれの廓で枕を交わす深更の刻まで、喧噪は続く。仄羽の部屋の窓からも様子を覗くことができた。来てばかりのころ以来に下を見つめて、ふるりと体を震わす。やはり高すぎる。せめて格子窓であればどれだけ見下ろしても柵が守ってくれるが、仄羽の運動神経では無理をするとほぼ確実に落ちてしまう。
また夜においで、と威は言った。夜とは、具体的にいつのことだろう。夜見世の始まっているいまもすでに夜といえるが、先ほど確認したところ威の札はまだ表向きに掲げられていた。いや、基本的に裏返っているところなど見たことはないのだが、とにかく仕事の邪魔はしたくない。それとも深更の刻が、いわゆる「夜」だろうか。思って、仄羽はひとり頷き、窓を閉めた。そうかもしれない。きっとそうだ。
桐箪笥の抽斗を開ける。帯飾りに結びつけられたままの桃色のトンボ玉がころりと転がってきた。仄羽は手にとって、じっと眺める。これをどうするか、そろそろ決めなければならない気がしていた。
自身のひとつにくくった髪に近づけてみる。比べてみると仄羽の髪よりもずいぶんと淡く、どちらかといえば桜のような色合いだった。
「夜に来いと言っただろう」
襖が開くと同時に声を投げられ、驚きで仄羽の体がはねた。隠す必要もないのに慌ててトンボ玉を握りしめ、手を机の下に入れる。
「威さま」
「明日にでも煙草盆を置け。自由に吸えないのはいらいらする」
声の主である威は言い放ち、仄羽を紅い瞳で見下ろした。ふん、と鼻を鳴らされる。視線は明らかに、仄羽が隠した手に向けられていた。
「あの、わたしが、行きます」
何度も威に足を運んでもらうのは憚られおそるおそる言ったものの、
「仄羽が来ないから来たんだ」
と一蹴され、もう何も返せなかった。ぐうの音も出ずに、仄羽はうつむく。煙草盆をひとつ手配してもらうしかない。
威が仄羽の隣に片足を立てて座った。仄羽は気持ち威とは逆方向に体をずらし、うつむいたまま動けなくなる。威は頬杖をついて、そんな仄羽をじろじろと見ている。
「あの、煙草盆、いただいてきます」
「いまはいい」
気まずさから発した言葉もぴしゃりと拒否されて、仄羽はうつむいたまま頷いた。すぐ近くから、威の匂いがする。意識すると恥ずかしくなってきた。威の執務室では大概文机を挟んでいるから、こんなに近いのは、行為のときくらいしか覚えがない。
仄羽はゆっくりと、握りしめた手を机の上に出す。かじかんでいるときのように覚束ない動きで指を開けば、桃色のトンボ玉が現れた。威の視線が、トンボ玉を一瞥し、また仄羽に戻ったのが、威の顔を見られない仄羽にもわかる。
「あ、あの」
先ほどから「あの」ばかりだ、と自身を叱責しながら、仄羽は勇気を持って、くっと顎を引きあげた。
「つける気にはならないんですけど、捨てる気にもなれなくて、それで……」
「うん」
威の手が、仄羽の髪に触れる。
「いいんじゃないの、別に」
え、と弾けたように仄羽は威に顔を向ける。威の視線は仄羽の髪に向けられていたので、目は合わなかった。
「いまはそのままにしておきたいってことじゃないの」
そう言われると、そうなのかもしれない。そもそも悩ませたのは威ではないかと思いつつ、あのとき、威に預けてほんとうに捨てられていたとしたら、やはり後悔した気もする。責任をほんの少し、もしかしたら威に押しつけていたかもしれない。受けとることを拒否してくれたら、捨てずにいてくれれば、と。
そして気持ちの落ちついたいま、こうして目の前に置いてみて、「捨てる気にもなれない」というのが、仄羽の答えなのだ。
「あの……」
ああまた言ってしまった、と思いつつ、仄羽は改めて体ごと威に向ける。指先から仄羽の髪を逃がした威と視線がぶつかった。すると威は柔らかく片目を細め、仄羽を見つめた。こんなにやさしい顔をする方だっただろうか。仄羽のなかで動揺が広がる。
「ん?」
礼を言おうとした口が動かず、仄羽は睫毛を震わす。そして言わなくてよかった、と思う。あのときは、などと言えば、威はたちどころに不機嫌になっていただろう。
続きを紡げず、仄羽は衝動に身を任せた。唐突に重ねた唇を威が受け入れてくれるのを知って、仄羽は自分が深く安堵するのを感じた。
花魁としての七嶺は違う。もちろんある程度相手の機嫌をとるために感情を繕ったりすることはあるけれど、基本的に七嶺は七嶺のまま、馴染みからの印象はほぼ変わらないといってよい。ほかの花魁、たとえばかつて彼女を「あね」として教育した鈴は、暁、というよりは朝月夜と同じ類だった。自然体の鈴ではなく、客が望む彼女になる。「鈴」である以上、そちらのほうが楽だと鈴は言った。いつも柔らかな笑みを浮かべ、あねとしてやさしく接してくる鈴のことが、七嶺はいまに至るまでずっと苦手だ。
いつも上から下まで真黒な服装で来るので黒衣、と花魁や新造たちの間で噂されている七嶺の馴染みは、七嶺に対してこれからも気高くあってくれ、と言う。馴染みのなかでは頭から数えたほうが付き合いの長い彼は、腕のなかにいてもまるで届かないような、その気高さのままであってくれ、と。
はあ、と七嶺の唇から震えるような吐息が漏れた。
心をまったく開いていないことを、気高さと評してくれるのは、花魁という仕事上、大変にありがたい。黒衣、もとい水口織は、七嶺を身請けしたい旨を何度も届けてくれている。そのたびに断るのだが、逆上することはない。「今回もか」とただ事実だけを受け入れているのは、織が言うところの気高さから、七嶺が返答していると考えているためだろう。織の七嶺に対する思いは間違いのないもので、家柄は申し分なく、長く花魁をしている七嶺に断る理由がほかにないからだ。
実際はまったく違う。気高さなどではなく、むしろ七嶺自身からすれば、ひとつの呪いだ。端的にいえば遊郭〔春日〕からどうしても出たくないからであり、織が理由をすべて知れば手のひらを返して嫌悪、あるいは憎悪を抱かれるのではないかと思う。
日が高く昇っているのが、障子を閉めきった状態でもよくわかる。七嶺は布団のなかで毛布にくるまっていた。いまは昼見世の時間だ。隣室からは物音ひとつ聞こえない。そして仄羽もまだ来ないはずだ。御職になる前に無理やりつけられた禿や新造は皆、好奇心が鬱陶しかった。誰もが長持ちせず、結局別の花魁につくことになっていった。主には鈴の下に。大半は〔春日〕を出ていったけれど、いまでも自分を憎々しく思っている者はいるだろう、と七嶺は思っている。しかし仄羽は、七嶺にとっての面倒を一切持ちこまない。その点は少なくとも好ましく感じていた。それに仄羽が〔春日〕に身を置くようになってから、暁が足を運んでくる回数が、明らかに増えている。
「……あ」
声は出すものではなく漏らすものである、というのは、ついた花魁に新造が最初に教わることだ。演技は簡単に見抜かれる。見抜いた客は離れていく。
基本的に鴨居よりも背の高い暁は、いつもくぐるようにして部屋に入り、そして出ていく。平均的な背丈である七嶺と並べばかなりの身長差だ。痩躯である暁であっても、やはり男女差があるので、七嶺の体は暁の体にすっぽりと入ってしまう。
襦袢の衿をずらして、七嶺は自身の手を忍ばせた。自由になった乳房がこぼれ落ちそうになる。馴染みたちの大半がよろこび、欲を持って多く触れるこの場所であるが、相手によってはあまり興味がなさそうに、あるいは一般より大きいことを苦労があるのではないかと憂慮される。暁はどうだろうか。あの大きな手でも、きっと覆いきることはできまい。
触れれば恍惚、抱けば昇天、抱かれれば陶然、話せば甘美。
おもしろがられ、誇張されているにせよ、暁が陰間としての現役時代に謳われていた言葉が頭に浮かぶ。
話せば甘美、とは思わないが、話術をもって常に上に立たれているのは、七嶺にだってわかる。甘美ではないのは、単に暁にそのつもりがないからだろう。あっさりと抵抗をあきらめ、誘いを受け入れそうになったことを思い出した。つま先がはね、七嶺は口惜しさから奥歯を噛みしめた。
触れれば恍惚、というのは、まともな判断ができるわけがないので割愛する。そのうえ暁に触れられたのは、長年の付き合いをもってしても、数えきれるくらいしかない。
抱けば昇天。暁を抱くことはないだろう。抱きたいと思ったこともない。
残りはひとつだ。抱かれれば陶然。く、と足の間に這わせていた指が奥を捉えて、七嶺は声をあげた。枕に顔をうずませる。
あの長い指なら、さらに奥に触れるだろう。どこまで暴かれてしまうのだろうか。唇を指でなぞる。先ほどの触れただけの感触が、いまも鮮やかなまま残っている。
「 」
胸と秘部とを慰める七嶺の耳元に、暁のささやきが響く。びくりと体がはねた。源氏名である「七嶺」ではなく、〔春日〕内でも威たちしか知りえない本名だ。〔春日〕に入って以降、呼ばれたことはない。もともと自分を捨てるために〔春日〕にやってきたのだ。本名で呼ばれたいなどと思った覚えは一切ないのに、七嶺が思う暁は、七嶺を本名で呼んだ。
「 」
繰り返し七嶺が七嶺になる前の名を呼び、暁は七嶺をうつ伏せにさせるとうなじに唇を落とした。七嶺を抱いて衿元を開き、胸を愛撫する。高揚感が内に昂って、先端をつままれると小さく電流が走った。
胸に意識が向いているうちに裾をめくられ、太腿から臀部を暁の手がするりとなでていく。触れられているだけなのに、ぞわぞわと多幸感が七嶺を襲った。身を守ろうと体を縮める。かと思えばまた胸をもまれる。耳の近くで唇の感触と音がする。
「あ、だめ……」
腰元を軽く持ちあげられ、七嶺は抵抗するように後ろ手に振ってみるも、暁は聞いてはくれない。軽く尻を叩かれ、また体がはねる。促されているのがわかり、七嶺は荒い呼吸のまま布団に顔をうずめ、自らの秘部をさらすように、両の手で臀部を広げた。体中が熱い。先ほどまであちらこちらに散っていた愛撫がいまは一切なくなって、視線だけを感じる。着物はもはやぐしゃぐしゃで、帯のためにかろうじてまとえている状態だった。七嶺は震えた。とろりと足の間を蜜が垂れていく。
「あっ」
ぬる、と出した蜜をこすりつけるようにして、念願の場所に暁の手が入る。
「あっ、あ、あっ」
細くて長く、少し骨ばっていて、それでいて華奢な、暁の指だ。考えていたよりも激しく七嶺のなかをかき回し、七嶺が思ってもみない場所に触れて快感を引きずりだしてくる。花魁になり複数の人間と長年枕をともにして、もはや自分の体で知らぬところなどないと思っていたのに、まるでうぶな少女であるかのごとく、次々と暴かれる。
体を横にされ、上から抱きしめられる。ああ身長差のせいであまり口づけられない、体位もかぎられているのだ、と七嶺は気づく。胸をたくさんかわいがられて、暁は大きいほうがすきなのだろうか、だとしたらうれしい、と思う。
七嶺は何を返すこともできず、ひたすら顔をうずめて、押し寄せてくる波に耐える。聞こえていた音ももはやぼわぼわとしたものに変わり、何も判別できなかった。
「あ……っ、暁さま」
小さく、さらにいえばか細く、七嶺は暁の名を呼ぶ。呼んでいいのだろうか。迷いがあった。爪を噛んで、恐怖に震える。こんな思い、暁は迷惑なのではないか。名前を呼べば、暁は困ってしまうのではないか。暁の名を呼ぶとき、どうしたって色が乗る。陰間として名を馳せた暁が気づかないはずはない。応えられない思いがいかに面倒で重いものか、七嶺は重々承知だ。先ほどから流れている生理的な涙のほかに一筋、七嶺の感情をのせたしずくがこぼれていった。
しかし暁は、汗ばんでいる七嶺の額を前髪ごとそっとなでた。愛撫とは異なるやさしい手つきに、七嶺は安堵の溜息をもらす。
「 」
もう一度名を呼ばれて、七嶺は暁に手を伸ばそうとする。その手が暁に届く前に、腰から脳天に向けて、電流が駆け抜けていく。
「ああっ、あ、あ」
やがて七嶺の体が大きくはねた。
七嶺は再び布団に顔をうずめて嘆息する。毛布からもぞりと手を出してみれば、粘着性のある液体が指に絡みついていた。はあ、ともう一度嘆息し、枕に頭を預ける。手探りで枕元に置いておいた懐紙を掴み、適当にぬぐう。足の間にも入れて体液をふき取り、その懐紙をぽいと枕元に放り投げた。このままねむってしまいたい。しかし毛布にくるまる、こんな姿を仄羽や、まして暁に見られるわけにはいかなかった。きっと戻ってきたりはしないだろうと思いつつも、想定せずにはいられない。思わず引っぱたいた彼の頬が腫れてなければよいのだけれど。
すべては想像だ。
暁は七嶺の本名を呼びはしないし、安心させるように頭をなでないし、まして七嶺を抱いたりはしない。
襦袢は七嶺の妄想ほどは乱れておらず、毛布のなかで適度に衿を整える。夜見世に向けて湯舟に浸かりにいかなければ、髪を乾かすのが億劫になってしまう。
もし暁がまだ朝月夜だったとして、七嶺はきっと朝月夜から気に入られはしなかっただろう、と思った。そして七嶺も、きっと朝月夜に思いを向けることなどありはしなかった。
なぜ〔春日〕に自ら足を踏み入れたのか、その理由は常に七嶺につきまとう。それなのに暁を想像して自分を慰める浅ましさを、七嶺自身がいちばん、嫌忌していた。
仄羽さん、と呼びかけられる。その呼び方をするのは〔春日〕ではひとりしかいない。振りむけば思ったとおり初名の姿があったが、想像とは異なっていたので多少なりと驚く。初名はいつもの質素な着物ではなく、柄の大きな着物に衿を大きく抜いて、帯を柳結びにしていた。くっきりとした化粧をのせている。座敷に出るために着飾った初名を見るのは初めてだった。
体が細いために頼りなく、そのうえ小柄のために小さな子どもの仮装にでも映っておかしくなかったが、初名の姿勢のうつくしさと凛とした雰囲気がそれを許さず、まるで人形だ。仄羽は小さく息をのむ。
「仄羽さん?」
小首を傾げられ、はっとする。声音でいつもの初音だと再認識し、駆け寄る。
「初名ちゃん、きれいだね。すごく」
言いながら、そうか、夜見世の準備に入っているのかと合点がいった。座敷からは遠く離れた場所で鶫と話していたから、時間の認識が甘くなっていた。
「そうですか?」
初名は自身をきょろきょろと見た。表情に変化はないものの、どこか驚いているように仄羽には見えた。
「着物の力ではないでしょうか。鈴あねさまに下げていただいたものですから」
言われて改めて着物を見れば、確かに布地そのものに艶があり、帯ともども高級なものであるとわかる。しかし着物がきれいであればあるほど、着ている人物がそのうつくしさに負けてしまう可能性だってあるのだ。初名は、どう見ても着物に負けていない。
「それに、今日の昼見世でもお客様に叱られてしまいました。不気味であると」
仄羽はむっと眉根を寄せる。しかし初名のことを知らずに接すれば、そう思うのも致し方ないのかもしれない、と持ちあげた肩を落とす。表情に変化がないと感情が読みとれず、どうすればよいのかわからなくなり、徐々に不快になっていくのは、理解できなくもない。いつもにこにことしている鈴を目当てに来ている客であれば、特に好みとは合わないのだろう。
「また、花魁になるのが遅れてしまう……」
言ったあと、初名はぱっと口を隠すように手を当てた。
「すみません」
何度も瞬いて、初名自身が自分の発言に困惑しているようだった。
本来なら成人の一五を目安に、新造は花魁になる。仄羽のように遅く春霞に入ったのではなく、幼い禿の時分から身を置いている初名のような少女なら、なおさら。初名は仄羽と同じ一七だ。成人から二年。あせっていても、なんらおかしくないのだ。
春霞のことをほとんど知らずに育ち、廓でのしきたりや作法、花魁たちの感情に明るくない仄羽は、座敷に出ずに済むならそれでよいのではと思うときがある。けれどそれはつまり、身請けされる機会も、借金を返済する機会も逃していることと変わりない。初名は頭がよく、芸事も得意なので、芸者として生きていけるのではないか、とも思うが、彼女の本意はあくまで、はやく恩を返すことだ。
「ううん」
仄羽は首を横に振る。
「そういうの、いつでも言ってほしい」
初名の手を握ると、少しひんやりとしていた。初名は「そういうの」の意味がわからないのか、また何度も瞬き、たどたどしく頷いた。
はやく座敷にあがりたい、一人前に客をとれるようになりたい、という初名の思いは、仄羽にはわからない。初名を見ていると、思いもしていない人から触られ、愛撫を受け、抱かれることの意味がきちんとわかっているのだろうか。こわいことをこわいとも思えぬまま、押しつぶされてしまわないだろうか、と心配になる。花魁側が客を選ぶのだから、思いもよらない人物、というのは言いすぎにしても、選ばれるためにおとなしくしていた相手が豹変しないとはかぎらない。〔春日〕で育っている初名は仄羽が心配せずとも長く言い含められているだろうし、仄羽とは比べものにならない量の愚痴やつらさを花魁たちから受けているとわかっていても、思わずにはいられなかった。もっとも、七嶺に言わせれば「肌を許すのは、少なからずその相手がすきだから」であるのだが。
「あの、仄羽さん」
もういつもの調子を取り戻している初名が、握られた手を抵抗もせずそのままに、仄羽をまっすぐに見つめる。
「なに?」
「そろそろ、七嶺あねさまのところに行かないといけないのではないですか?」
はっとする。御職である七嶺が座敷にあがるのは花魁のなかでもほとんど最後だとしても、急がなければならない。
仄羽は初名に礼を言って、足早に行こうとした。途端、躓き、すんでのところで転倒を免れる。初名に心配されつつ、今度は慎重に足を進めた。仄羽の姿が廊下から消えたあと、初名は握られた手をじっと見つめていた。
七嶺の部屋にたどりつくと、七嶺はすでに準備を終えていた。申し訳なさに平身低頭するが、七嶺はちらと仄羽を見ただけで、そっけなく頷いた。機嫌を損ねてしまっただろうか、と仄羽は危惧する。いつもはきれいに整頓されている鏡台にも化粧品が出されたままになっていた。
干渉をきらう七嶺の傍に、用もないのに長居してはさらに気分を害させてしまうだろう。仄羽が立ち去ろうとすると、七嶺に引きとめられる。あげかけた重心をまた下げて、仄羽は七嶺に向きなおった。
「裾が乱れてたわよ」
「え、あっ」
来る途中で躓いたせいだろう。仄羽は慌てて立ちあがり、裾を整える。部屋に入ってきたときくらいしか見る隙はなかっただろうに、よく見ている。いや、見られている。
「あなた、威さまのお気に入りなのでしょう」
お気に入り。素直に頷くことはできず、仄羽は黙って腰を下ろした。暁も、瑞矢も、鶫も、威の「お気に入り」だ。もやりとした感情が内に広がっていく。
とはいえさすがに長年御職として多くと相手どってきた七嶺をごまかすことはできなかった。七嶺は薄く笑って、仄羽を見つめる。初めて七嶺を目にしたときのような妖しさに、仄羽はびくりと小さく震えた。
「いやなの?」
「いやというわけでは……」
実際、威に対しての抵抗や猜疑心は、なくなったとまではいかないもののほとんど姿を消しつつある。かといって好意だけで返せるほど単純でもない。
「気に喰わないのでしょう」
細くうつくしい指で、七嶺は自身の顎を軽やかになでた。仕種のひとつひとつが様になり、仄羽は目を奪われる。七嶺の色気にあてられて、赤面しそうになる。
「十把一絡げに、ほかのひとたちと一緒にされては、たまらないのでしょう」
仄羽の背が無意識に伸びる。
七嶺はゆっくりと瞬きをして、双眸を細めた。仄羽は口ごもる。反論が何も思い浮かばない。暁も鶫も一芸に秀でて、仄羽よりもよほど長く威の傍近くに仕えている。瑞矢に至っては幼いころから。仄羽には何もない。そんな自分が名前を並べては、瑞矢たちに対して恐れ多いことである、と、そう言えば、ひとまずこの場は無難に切り抜けられるとわかっていて、声にならなかった。
黙って何も返さない仄羽を、七嶺はじっと観察していた。視線が痛い。結局沈黙は、七嶺の言葉で破られた。
「いいのよ。それで、別に。まとめられてはたまらないわ……」
独白に近い、落とすような話し方に、仄羽は七嶺を見る。七嶺にもそんな相手がいるのだろうか、と思った。少なくとも、仄羽を肯定するために口にしたのではなさそうだった。
す、と再び目を上げた七嶺は、もう仄羽の知る、うつくしく艶やかな七嶺だった。
「けれど、周りはあなたの考えなんて汲みとってはくれないわよ」
仄羽の姿を認めるたび、次々と端に寄って頭を下げた使用人たちを思い出す。
「少なくとも、自ら伝えないかぎりは。あなたがどういうつもりでも、周りから見ればあなたは威さまのお気に入りで、わたしつきの留袖新造」
立ちあがった七嶺に、仄羽は慌てて襖までの道筋をつくる。仄羽とほとんど変わらない、あるいは仄羽よりも少し高いだけの七嶺が、ひどく遠くに見えた。
「誰が何を言うかしれない。見目くらいは、気を遣いなさい」
仄羽が襖を開けようと立ちあがると、七嶺に手で制される。彼女はしゃんとして、見とれるような所作で部屋を出ていった。部屋には、情けなく茫然と立っている仄羽だけが残された。
夜の春霞は賑やかだ。提灯に明かりが灯り、それぞれの廓で枕を交わす深更の刻まで、喧噪は続く。仄羽の部屋の窓からも様子を覗くことができた。来てばかりのころ以来に下を見つめて、ふるりと体を震わす。やはり高すぎる。せめて格子窓であればどれだけ見下ろしても柵が守ってくれるが、仄羽の運動神経では無理をするとほぼ確実に落ちてしまう。
また夜においで、と威は言った。夜とは、具体的にいつのことだろう。夜見世の始まっているいまもすでに夜といえるが、先ほど確認したところ威の札はまだ表向きに掲げられていた。いや、基本的に裏返っているところなど見たことはないのだが、とにかく仕事の邪魔はしたくない。それとも深更の刻が、いわゆる「夜」だろうか。思って、仄羽はひとり頷き、窓を閉めた。そうかもしれない。きっとそうだ。
桐箪笥の抽斗を開ける。帯飾りに結びつけられたままの桃色のトンボ玉がころりと転がってきた。仄羽は手にとって、じっと眺める。これをどうするか、そろそろ決めなければならない気がしていた。
自身のひとつにくくった髪に近づけてみる。比べてみると仄羽の髪よりもずいぶんと淡く、どちらかといえば桜のような色合いだった。
「夜に来いと言っただろう」
襖が開くと同時に声を投げられ、驚きで仄羽の体がはねた。隠す必要もないのに慌ててトンボ玉を握りしめ、手を机の下に入れる。
「威さま」
「明日にでも煙草盆を置け。自由に吸えないのはいらいらする」
声の主である威は言い放ち、仄羽を紅い瞳で見下ろした。ふん、と鼻を鳴らされる。視線は明らかに、仄羽が隠した手に向けられていた。
「あの、わたしが、行きます」
何度も威に足を運んでもらうのは憚られおそるおそる言ったものの、
「仄羽が来ないから来たんだ」
と一蹴され、もう何も返せなかった。ぐうの音も出ずに、仄羽はうつむく。煙草盆をひとつ手配してもらうしかない。
威が仄羽の隣に片足を立てて座った。仄羽は気持ち威とは逆方向に体をずらし、うつむいたまま動けなくなる。威は頬杖をついて、そんな仄羽をじろじろと見ている。
「あの、煙草盆、いただいてきます」
「いまはいい」
気まずさから発した言葉もぴしゃりと拒否されて、仄羽はうつむいたまま頷いた。すぐ近くから、威の匂いがする。意識すると恥ずかしくなってきた。威の執務室では大概文机を挟んでいるから、こんなに近いのは、行為のときくらいしか覚えがない。
仄羽はゆっくりと、握りしめた手を机の上に出す。かじかんでいるときのように覚束ない動きで指を開けば、桃色のトンボ玉が現れた。威の視線が、トンボ玉を一瞥し、また仄羽に戻ったのが、威の顔を見られない仄羽にもわかる。
「あ、あの」
先ほどから「あの」ばかりだ、と自身を叱責しながら、仄羽は勇気を持って、くっと顎を引きあげた。
「つける気にはならないんですけど、捨てる気にもなれなくて、それで……」
「うん」
威の手が、仄羽の髪に触れる。
「いいんじゃないの、別に」
え、と弾けたように仄羽は威に顔を向ける。威の視線は仄羽の髪に向けられていたので、目は合わなかった。
「いまはそのままにしておきたいってことじゃないの」
そう言われると、そうなのかもしれない。そもそも悩ませたのは威ではないかと思いつつ、あのとき、威に預けてほんとうに捨てられていたとしたら、やはり後悔した気もする。責任をほんの少し、もしかしたら威に押しつけていたかもしれない。受けとることを拒否してくれたら、捨てずにいてくれれば、と。
そして気持ちの落ちついたいま、こうして目の前に置いてみて、「捨てる気にもなれない」というのが、仄羽の答えなのだ。
「あの……」
ああまた言ってしまった、と思いつつ、仄羽は改めて体ごと威に向ける。指先から仄羽の髪を逃がした威と視線がぶつかった。すると威は柔らかく片目を細め、仄羽を見つめた。こんなにやさしい顔をする方だっただろうか。仄羽のなかで動揺が広がる。
「ん?」
礼を言おうとした口が動かず、仄羽は睫毛を震わす。そして言わなくてよかった、と思う。あのときは、などと言えば、威はたちどころに不機嫌になっていただろう。
続きを紡げず、仄羽は衝動に身を任せた。唐突に重ねた唇を威が受け入れてくれるのを知って、仄羽は自分が深く安堵するのを感じた。
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