ハルヒカゲ

葉生

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一章

八話 - 三

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 祇矩藤の屋敷を兼ねている〔春日〕は広大で、いくつかの棟に分かれている。暁に最初に教えてもらった鶫の居場所は、主に使用人たちの部屋がある棟だった。何人か、休憩中や非番の使用人とすれ違い、道を譲られ頭を下げられた。知らぬ顔の人もいたが、桃色の髪を目印に仄羽だと気づいたのだろう。気まずくなりつつ、仄羽も頭を下げながら進む。基本的に目通りの叶わない威と自由に会うことができて、傍に仕えているのだから、自分のほうが立場が上だということは理屈上わかる。それでも、何かをなした覚えのない仄羽には居心地の悪い敬いだった。日々の暮らしを支えてくれている彼らのほうがよほど敬われるべきであるのに。
 足を踏み入れたことのない場所に戸惑いつつ、仄羽は進む。いや、〔春日〕においては知らない場所のほうが多いのだが、「いつもの場所」からだんだんと遠ざかる感覚が不安を煽る。棟が変わると雰囲気も変わり、まったく別のところにいるようだ。人通りが少なくなってきて、静けさが増してきているのも原因のひとつかもしれない。
 しかしさすが暁というべきか、最初に教えてもらった場所に、鶫はいた。探し回ることにならずに済んで仄羽はほっとする。仄羽がいないと立ち回らないような業務は受け持っていないとはいえ、あまり長い間持ち場を離れるのは気が引けた。どの立場からでも仄羽はまだ見習いだ。迷惑をかけるようなことは避けたい。
 庭に面した細い縁側だった。庭といっても小さなもので、使用人たちの心を慰めるためにつくられたメインの庭からは離れている。それでも手入れが行き届いていて、仄羽は思わず感嘆の息を漏らした。大きな桜の木が一本植えられているが、花はない。
 穴場、というやつだろうか。鶫は胡坐をかいて、ぼんやりと桜を眺めている。
「鶫ちゃん」
 話しかければ、ばっと勢いよく鶫が振り返った。仄羽の姿を認め、苦々しく眉根を寄せる。威も、七嶺もそうだが、うつくしい顔がゆがむとおそろしい。一瞬たじろぎ、仄羽はさりげなく深呼吸をした。とにかく怯えないようにしなければならない。
 内心ためらいつつも鶫の隣に腰かける。またどこかへ行ってしまうかもと憂慮したが、鶫は仄羽から体を離すように動いただけで、立ち去ろうとはしなかった。
「なんでここがわかったわけ」
 頬杖をつき、仄羽には視線を向けず鶫が言った。
 仄羽は鶫を見て、庭を見つめる。腰を下ろし、背筋を伸ばすと、気持ちが落ちついてきた。暖かな風が通りすぎていく。
「暁さんに聞きました」
「やっぱり。暁の奴、余計なことばっかする」
 舌を打ち、鶫はごろりと寝転がる。仄羽は桜の大樹を見上げた。ここで桜の花びらが舞っていたらきれいだろうなと思う。木にはあまり劣化が見られない。咲いていてもまったくおかしくなさそうな様相なのに、大樹にはつぼみすらなかった。
「お前、どうやって主人に取り入ったの」
「…………」
「ねえって」
 肝が据わるようになったのは、威のおかげだろうか。あるいは、どこかで無意識に威と比べていて気が楽なのかもしれなかった。何もおそれることはない。鶫は一四歳の、ただ意思の主張が露骨なだけの少年だ。
 すっと空気が体に染み渡る。
「取り入ってないよ」
 鶫は肘をつき、上体をあげて仄羽を見つめた。怪訝そうな顔つきで薄く唇を開いたが、何かを言われるよりもはやく仄羽は言葉を重ねる。
「取り入ってない」
 風が通って、仄羽と鶫、ふたりの頬をなぜた。大勢が働いているはずの〔春日〕で、互い以外の気配は感じられない。花をつけていない桜だけが場を見守っていた。
 ちっ、と鶫は再び舌を打ち、上体を床に戻した。仄羽に背を向けて体を丸める。彼の青い髪がさらりと音を立てた。
「夜空みたい」
 ぽつりと落とす。深く落ちついた色合いは、遠目で見ると黒髪と間違えそうだ。それでいて、陽に当たって透けたところは明るく輝き、きらきらとグラデーションをつくっている。
 眉根を寄せた鶫が仄羽を見る。いやな表現だっただろうかと仄羽が見つめ返すと、鶫は仄羽から目を離して嘆息した。
「三人目」
「え?」
「そういうふうに言うの、お前で三人目」
 微妙な数字だ。何といってよいかわからず沈黙していると、鶫は頭の後ろに手を組んで仰向けに体勢を変えた。少なくとも嫌悪感を抱かれたわけではないらしい。仄羽は鶫を観察する。言葉だけではなく、全身から意図を読みとれるように心がける。
「ばあちゃんと、主人様と。で、お前」
 足を組み、鶫は気だるそうに仄羽を指さして言った。
「お前、じゃなくて。仄羽です」
「ああーもう、うるさい! わかってる、知ってる、さっきも聞いた!」
 指摘すれば、鶫は組んだばかりの足をじたばたと動かし、頭をかきむしった。
「仄羽。仄羽でいいんでしょ」
 怨みがましい声で投げ捨てるように言われ、仄羽は微笑む。鶫は忌々しそうに仄羽を睨んだ。年下とは思えない迫力に体がすくみかけたものの、仄羽は堪えて微笑み続けた。心臓がどきどきとする。抑圧的な態度をとられると、やはり単なる少年ではなく、威のもとで交渉を一手に担う実力者であると実感した。仄羽とは場数が違う。
 ふん、と鶫は鼻を鳴らすと、足を組みなおす。
「そういうとこだって、わかってるよ」
 漏らすように、鶫は言った。
「取り入ろうとする奴とか、主人様いっちばんきらいだし」
 ひとりごとに近かった。仄羽の返答は求めていない。
 仄羽は花のない桜に目を移す。〔春日〕に到着してからこれまで、そもそも威に取り入る隙はなかった。わけもわからず犯されて、知らぬ間に気に入られて、気づけば威の傍近くにいることを受け入れている。なぜと聞かれても、仄羽にもわからない。なにひとつわからなかった。改めて言葉にしようとすれば、現状がすべて瓦解するようにも思える。足元の脆さを見ないようにしているのは仄羽自身だ。この道しかなかったわけではなく、選んできた、と確かに言えるのにも関わらず。
「鶫ちゃんは、いつから威さまの傍に仕えてるんですか?」
 通常、成人前である一四はまだ学問所に通っている年齢だ。祇矩藤家主人としての職務を全うしている威が、直属の家臣に対して学修を怠るとは思えない。〔春日〕で働く一五歳以下の新造や禿も学問所と同等、あるいはそれ以上の教育を受けているし、花魁になっても勉学は続く。春嵐の外へと出て、文化の違う町との外交を行う鶫は、おそらくはかなり優秀だ。
「ばあちゃんが死んでから」
 ためらいなく伝えられた答えに、仄羽は面喰らう。戸惑いと悲愴が顔に出たものの、鶫は仄羽を見ないまま勢いよく体を起こして、大樹を見つめる。枝についた葉がかすかに揺れていた。
「あのさ」
 悪いことを聞いてしまった、という申し訳なさを心のうちに秘めることができたあたりで、鶫に一瞥される。
「敬語とか、いらないから。気持ち悪い。別に上下関係もないし」
「え、ああ……そうですか?」
 率直すぎる感想にうろたえながら返せば、
「そうですか?」
 すぐさま顔を歪めて繰り返される。仄羽は何度か小さく頷いた。
「そう……うん。わかった。うん」
 じっと仄羽を眺めていた鶫だったが、やがて納得したのか、大樹へと視線を戻した。
 眺めていると、鶫の横顔のうつくしさに知らず目が奪われて離せない。通った鼻筋と大きな瞳、そして影ができるほど長く量の多い睫毛が、袴を穿いているにも関わらず女の子を思わせる可憐さがあった。実際に性別を間違えてしまったことは済まなく思いつつも、間違えても仕方がない、と言い訳をしたくなる。
「俺のばあちゃんはここの庭師だったんだ」
 庭師、という言葉に、仄羽は反射的に鶫と同じく大樹へ目を向ける。
「この庭もばあちゃんがつくった。いまは別の奴が手入れしてるけど、この桜もばあちゃんが植えたやつ。祇矩藤さまの敷地に自分のつくった庭があるっていうのが、ばあちゃんの自慢だった」
 そうだと首肯するように、風が吹いて枝が小さく上下した。
 ぽつぽつと鶫が言葉を紡ぐ。ごちているようで、仄羽に語りかけているのがわかった。仄羽は黙って鶫の声に耳を傾ける。このあたりは使用することがないのか、不思議と誰の足音が聞こえてくることもなかった。
 鶫の両親は、母が春嵐出身、父が異人だった。春嵐出身者と、外の人間、つまり異人が子をなすと、黒以外の髪か瞳、もしくはその両方を持って生まれてくる――というのは、春嵐の者であれば常識であるが、異人にとってはそうではない。鶫の父は自分とも、鶫の母である自身の伴侶とも違う髪の色で生まれてきた鶫を拒んだ。自分の子ではないと主張して、不義であると鶫の母を責めた。彼はあとから事情を知ったものの、本質的に理解ができない。子は親の色を受け継ぎ生まれてくるのが当り前、という彼がもともと持っていた「常識」が邪魔をして、疑心が消えない。鶫の母も、鶫の父からの疑心を感じとっていただけではなく、不義となじられたことが忘れられなかった。結局鶫が生まれたときにできた溝はどんどんと深くなり、亀裂が走り、完全に二人を割ってしまった。鶫の父は春嵐を去る。鶫の母は、〔春日〕で庭師をしている自身の母、つまり鶫の祖母のもとへと鶫とともに身を寄せた。
「だから、俺は父親の顔を知らないんだ。ていうか、母親の顔もおぼろげなんだけど」
 淡々と話す鶫に、仄羽はうつむきそうになる。同じ春嵐出身者と異人の間に生まれた子で、そういったことがあるのか。自分の恵まれた境遇を考え、仄羽は頭を小さく横に振る。しあわせに暮らしてきた日々を、鶫の日々と並べる必要はない。
「だからまあ、ばあちゃんが育て親っていうか。すんごく厳しかったなあ」
 鶫の母は別れた原因であり、責められた原因である鶫を徐々に否定するようになった。ある日を境に母親の姿は消え、それからの母親の動向を鶫は知らない。
「たぶんばあちゃんが追い出したんだよね。一回だけ聞いたことあるけど、知らん、しか言わなかったし」
「……会いたいとは思わないの?」
 仄羽の質問に、鶫は「はあ?」と大きな声を出した。視線は桜に向けたまま、足を投げ出すように座る。
「ぜんぜん興味ない。調べられると思うけど、調べる気も起きない」
 どうでもいい、と鶫はなんでもないことのように言った。
 家族仲がよく、父母から大切にされていた実感もある仄羽は驚いた。いなくなった親には会いたいと思うのが普通、ではないのか。もしいま父母がどこかで生きている可能性があるとわかれば、仄羽はすべてを振り払ってでも探すだろう。
 ちらりと鶫を見る。無理をしている様子も、嘘をついている気配もない。心底からの本音であるとわかってしまって、仄羽は瞬くしかなかった。
 親の死とは、かなしむものなんですね。と、初名は仄羽に言った。
 ひとそれぞれだと思う、と仄羽は初名に返した。あのときはとっさにそう答えたけれど、実のところ、ほかに言いようがなかっただけだ。何もわかっていないのではないか。もしかすると傷つけた可能性があったのではないか。仄羽は呼吸が浅くなっているのを感じて、深く息を吸う。
「ばあちゃんが庭師だったから、俺もいずればあちゃんに弟子入りして庭師になるつもりだったんだけど」
 とにかく本を読めと祖母に教育され、ある日、〔春日〕の従業員や使用人に向けて開放されていた書庫の書物をすべて読破してしまった。きちんと一言一句読んでいたのではなく、鶫は重要な部分を抜きとって読むのがうまいのだ。そして鶫は幼いころから花魁たちの棟にも忍びこんで交流を図り、よくかわいがられていた。教養のある花魁たちの話をすぐに理解していただけではなく、自身の得た知識をおもしろおかしく披露していた。そしてその噂が、やがて威の耳に入った。
「ほら、俺、髪の色きれいでしょ」
 しれっと言われて、仄羽は笑って頷く。鶫ははあと今日何度目かの大きな溜息をついた。からかいがいのない、とぼそりと呟かれる。
「ほんとは青髪の、っていうほうが先に主人様のお耳に入ったんだと思うんだけど、まあ些末なことだからどっちでもいいよね。結果は一緒だし」
 とにかくさ、と鶫は続けた。
 とにかく鶫は緊張した。祖母からは祇矩藤家への畏怖、そして現当主である威への尊敬と感謝を毎日のように聞かされていたから、目通りができる日がくるとは思っていなかった。何より、厳しく常に凛としていた祖母がうろたえる姿を初めて見て、緊張が助長していた。祖母からいかに名誉でありがたいことかを切々と訴えられずとも、奇跡に近いことであると肌で感じとった。
「主人様の、あの、紅い瞳」
 葉桜を見つめながら、鶫はかすかに紅潮する。双眸に輝きが灯り、仄羽の存在を忘れているかのごとく、声に艶をのせて続けた。
「心奪われた」
 初めて威と対峙した鶫は、何も話せなかった。何も話せなくなった、と言ったほうが正しい。恋にも似た高揚に、鶫は目通りのことも、目通りが終わってどのように部屋に帰ったのかも覚えていない。覚えていたのは髪について「夜空みたいな色だな」と言われたことだけだ。ただひたすらに随喜の念があり、感奮があり、少しの含羞があり、それらを内包した恍惚があった。鶫はその日初めて精を吐きだした。高揚はいまも奥底で続いている。
 すうはあと、鶫は深呼吸をする。ふっと顔をあげたときには、もう仄羽がそれまで接した鶫の表情に戻っていた。
「その一年後くらいかな。ばあちゃんが倒れたの。で、三日後に息を引きとった」
「…………」
「庭で倒れたから本望だったと思うんだよね。死ぬまで俺が主人様に目通りされたのが誇りだって繰り返してたし、うん、俺が生まれたせいでかけた迷惑分はチャラになったね」
 倒れてからの三日間は意識があり、言葉もはっきりしていた。鶫は命じられるままに祖母の身辺整理をし、あとは鶫の今後だけが問題だった。庭師としての技術は多少教えられてはいたものの、使いものになるほどではない。使用人であった祖母がいなくなれば、鶫は〔春日〕を出ていくしかなかった。
「いま考えれば、主人様も瑞矢さまも、身寄りがなくて、しかも子どもの俺を追い出すはずないのにねえ。やっぱ思ってたより混乱してたのかな」
 鶫と鶫の祖母、ふたりでこれからどうしていくべきか悩んでいたころ、突然威が見舞いにやってきた。
「もちろんひとりじゃなくて、メメ先生も一緒だったけど」
 威を目にした祖母は驚き、感泣した。鶫は祖母が泣くのを初めて見た。けれど祖母の涙を見てしまった動揺よりも、威に再び会えた歓喜が勝っていた。心臓がはね、言葉をなくした。起きあがって顔を伏せようとする祖母を威は手で制し、柔らかい笑みとともに祖母の長年の勤労をねぎらった。そして、鶫はもらい受けるから安心するように、と伝えたのだ。
「で、いい人生だったー、って死んじゃった。ばあちゃんの誇りだったこの桜の樹の下に埋めたんだけど」
 す、と鶫の指が大樹の下を示す。
「それきり、桜は咲かなくなっちゃった。まだまだだ、もっと主人様のご迷惑ならないように役立て、って怒られてるみたいでたまんないよ」
 鶫ははあ、と仰々しく嘆息した。感傷はなさそうだ。それでも鶫が逃げる場所として、暁が真先にここをあげるくらいには、鶫の慰めになっているらしい。
 そよそよとした風になびかれ、桜の葉が揺れる。笑っているみたいだ、と仄羽は思った。
「なんか笑ってるけど」
 葉桜のことではなく、仄羽をじろりと睨んで鶫が言う。
「仄羽なんか、ばあちゃんに言わせりゃ不敬だからな」
「え?」
 唐突に槍玉にあげられて狼狽する。威に対して失礼なことをしただろうか。いや、したが、鶫に指摘されるようなことがあっただろうか。
「どうせ四区あたりの出身でしょ」
 図星である。四区は祇矩藤の威光がほかの地区と比較するとよわいほうだ。知らぬうちに一区や二区では当り前の礼儀ができていなかったとすると、さすがに仄羽も青ざめる。〔春日〕に来てから、春嵐の町民なら当然知っている遊郭の用語さえあまり知らなかったのだ。ありうる話である。
 原因がわからずに疑問符を浮かべていると、鶫は胡坐をかいて頬杖をついた。
「祇矩藤家現当主の御名前を、面して直接呼ぶとかありえないから」
 威さま、という呼び名について叱責されているらしい。考えもしなかった。この場合生まれながらの家臣である瑞矢は鶫のなかで除外されているのだろう。確かに暁は威のことを「主人」と呼んでいる。しかし初名も、七嶺も、ほかの花魁たちも、皆一様に「威さま」と言う。それとも、「面して」いる場合にのみ適用されるのだろうか。
「そう、かな」
「そう。どいつもこいつもなってない」
 立腹して腕を組んだ鶫を見て、仄羽は苦笑する。鶫もいろいろ「なってない」気がするのだが。だいいち、威がそんなことを気にしているとは思えない。
「じゃああとで、失礼かどうか聞いてみるよ」
「それはしなくていい」
 くわっ、とばかり鶫に迫られて、とうとう仄羽は吹きだした。鶫のなかでも意味のない、思ってはいるものの言いすぎだということは理解しているようだ。なにを笑ってる、とさらに腹を立てる鶫を見て、仄羽はむしろどんどんと笑った。
 胸襟を開いて話してくれたという感触があるためか、鶫は仄羽にとって「一四の少年」、そして「威の側近」でありつつ、もうただの鶫になっていた。もしかするとこれこそが鶫の交流の手腕で、仄羽はのせられただけなのかもしれないが、それでもよかった。こんなに素直に笑ったのは久々である気がした。
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