なんでもない日々

葉生

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日常

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「瀬戸さん」
 高くて細い声に呼ばれて振り返る。飛紗が入社してから新入社員が配属されたのは今年度で二回目だ。営業や総務には毎年数名が配属されているが、飛紗たちの部署は中途採用はあっても新入社員はなかなか入らなかった。数ヶ月はさまざまな部署を回って研修をする。社会人の基本知識や所作を叩きこまれ、仕事の流れを理解するためあれこれと詰めこまれた最初の一年が、やはりいちばん苦しい時期だった。望んで就いた念願の職であるのに辞めたくなったことも一度や二度ではないから、向かない仕事に就いてしまった場合はどれだけの苦痛なのか、考えたくもない。
 会社内では下から数えたほうがはやいキャリアであるが、自分が新入社員だったころなどずっと前のような気がする。あまり思い出せなかった。思い出したくないと脳みそが拒否しているだけかもしれない。
「あの、すみません。前にも聞いたはずなんですけど、A3のコピー用紙がなくなっちゃって、在庫ってどこに置いてましたっけ」
 伊田はどこか自信なさげにおどおどとしたところのある子だが、怒られると思っているのかうつむきがちにちらちらと飛紗に目線を送りつつ、いつも以上に小さな声で聞いてきた。
「それやったらここ出て、右手の部屋。すぐ手前にあると思うから。わからんかったら何度でも聞いてくれていいし、ゆっくり覚えていったらええよ」
 ありがとうございます、と頭を下げて、慌てて出ていった。はっきりした物言いの人のほうが多いこの業界でつぶれたりしないだろうかと心配になる。わからないことはそのままにしないし、よく勉強もしているから徐々に慣れていってくれるとよいのだが。まだ緊張が勝っているのだろう。社内の人間の名前と役職を憶えるだけで必死のはずだ。
「瀬戸さん」
 席に戻ると、尾野と千葉がにやにやしていた。つい眉根を寄せる。席替えの指示がなかったので、今年度も向かいに尾野、隣に千葉だ。いまは研修が主のため別の席が設けられているが、尾野の隣に先ほどの新入社員が座る予定になっている。
 飛紗の場合、一人きりではなく、同期の尾野が一緒だったので心強かった面は大いにある。よく二人で飲みに行ったし、尾野の彼女と三人で遊んだこともあった。
「やっと慣れてきたやん。最初のうち呼ばれてもじゃっかん挙動不審になっとったせいで、名前間違えたんか思ってあの子びびらせとったけど」
「電話で名乗るとき毎回めっちゃ照れとったけど。かわいかったわあ」
 言い返せない内容で責めてくるのは卑怯だ。無視をして仕事に集中するに限る。年度末は新年度に向けた新しい生活や式典にあわせて、毎年のことながらジャケットなどドレス寄りの服がよく売れた。スーツの取り扱いはほとんどないが、近いもので身を固めることは可能だ。
「そういえばウエディングドレスってさあ、結局どうしたん? 買いとったんやろ?」
 視線をパソコンに向けたまま、千葉が聞いてくる。領収書を片手にちまちまと経費申請を進めていた。先月経理に「払えなくなりますよ」と脅されて、観念したようだ。
「捨てたけど」
「捨てた?」
 尾野とともに叫ばれて、オフィスの視線を集める。言葉が言葉だけに重大なミスでもしたような雰囲気になってしまう。必死で違う違うと周りに首を横に振った。雑談だと伝わったのか、視線がすぐに霧散してほっとする。騒がしい三人組と思われていることに感謝したのは初めてだ。
「一部鞄にしたとか」
「いつかの娘のために保存しておくとか」
「邪魔やろ。かさばるし。仮に娘ができてそういう話になったら自分のすきなデザイン選びたいやろうし」
「あたし、飛紗ちゃんのそういう妙に現実的なところむっちゃすき」
 数分もせずに飽きたのか、千葉の手がもうとまっている。数字を確認するという行為が苦痛らしい。
「式の日の夜にお風呂場で安いワインかけあって騒いで遊んで、翌日の燃えるゴミの日に捨てた」
「なんやそれ、めちゃめちゃたのしそうやんけ」
 そのとおりで、もしかするとこれまで生きてきたなかでいちばんたのしい夜だったかもしれない。そんな風に大仰に考えてしまうほど、あの日はたのしかった。うつくしいドレスが偶然だめになってしまうのはショックだが、計画して一日限りと決意してしまえば、あとは思いきるだけだった。大事にしすぎてやむなく捨ててしまうような事態になるよりよほどよい。
「いくら大切にしとっても棺桶には入れられんしなあ」
「もっぺん着るにしても若いうちやないとただ痛々しいだけになるし。絶対贅肉増えるし」
 それでも眞一はかわいいと言ってくれる気がする。と一瞬考えて、頭を小さく振る。自然とのろけてしまって恥ずかしい。うっかり口に出したりしなかっただけ幸いだ。
 しかし服とは着こなすものであって、服に着られては本末転倒である。箪笥の肥やしにしてしまうくらいならと決めたことに後悔はない。
「いつの話しとんねん」
 ぬっ、と突然現れた茂木に、びくりと肩を震わす。何度もこのパターンを踏んでいるはずなのに、いまだに律儀に驚いてしまう。
「半月前ですけど?」
「茂木さんこそいつまで嫉妬しとるんですか?」
「やかましいわ」
 決定的なことは結局一度も言われていないのだが、尾野と千葉のなかでは茂木の飛紗に対する恋慕は確定らしく、本人に対して平気で口にするので飛紗のほうがうろたえる。茂木も諦めているのか受け入れているのか否定しないので、なおさらだ。
 ふと目線が合って、かすかに茂木が双眸を細めた。
「どらやき食べる奴」
「はい」
 三人とも手を挙げて受け取る。仙台からの客だったのか、餡がずんだだった。飛紗の背中を軽くぽんとたたくと、茂木はそのままオフィスに残っている人間に配り始め、伊田にも手渡した。休憩するように促しているのだろう。どらやきを手にしたまま茂木の背中を視線だけで追いかける伊田を見て、尾野と千葉が小声で騒ぎ始める。
「これは新たなあれか? きちゃったか? 茂木さんに春が」
「安易やなあ尾野くんは。まだ何もわからへんやろ。クラッカーの準備くらいしとく?」
 社内恋愛ほど面倒なものもないと思うが、と飛紗は袋を開けてかぶりつく。通常のあんこより甘さが控えめになっていて食べやすかった。生地がふわふわとしている。ほのかな枝豆の味がやさしい。
 そこからなぜか食べるほうのクラッカーの話になり、明太子ディップやバジルバターなどつけるものを持ち寄るから新居に招け、旦那と話をさせろと押しきられた。尾野と千葉が手を組んでは敵わない。


 *


 マンションの部屋のほとんどはカーテンから光が漏れているなか、飛紗たちの家は真っ暗だった。ポストを開ければ夕刊が入っていて、階段を上がってドアノブをひねると鍵がかかっていた。眞一はまだ帰っていないらしい。新年度に入ってから、忙しさが逆転してしまった。
 ただいま、と無人の部屋に呼びかけて、電気をつける。ぽんぽんと棚に置いたぬいぐるみをなでて、鞄とコートを片した。手洗いうがいをしたらひとまず洗濯物を入れてしまう。カーテンを敷いて、服をたたんでクローゼットに仕舞い、さて冷蔵庫に何があったかと扉を開きかけたところでばたんと玄関から音がした。
「ただいま」
「おかえり。わたしもさっき帰ってきたとこ」
 眞一は一度靴を放り投げるように脱ぎ捨てたあと、しゃがみこんで揃えて置いた。まだ朝晩の風は冷たいときもあるのに、すでにコートは着ていない。邪魔くさいだけなのだそうだ。春秋に着やすいトレンチコートを冬に着ていた男であるから予想はしていたが、MA-1くらいは期待していた。今度そそのかしてみることにする。
「ごめん、まだご飯何もしとらん」
「ああいいよ、昨日つくってもらったし。飛紗ちゃん先にお風呂入ってください」
 軽く口づけると、眞一がそのまま台所に足を運んだ。基本的には以前決めたとおり朝食を飛紗、夕食を眞一が担当しているが、先に飛紗が帰れば夕食は飛紗がつくるし、翌日は眞一が朝食をつくる。こだわりすぎない、役割を意識しすぎないのが話し合った結果だ。料理に関してはつくってもらったほうが皿を洗うことだけは守っているので、それもうまくいっている一つのコツなのかもしれなかった。
「あ、洗濯物もう入れてくれたんですね。ありがとう」
 二人でやると決めたことでもこうして眞一が細かく礼を言ってくれるので、感化された面もある。やって当り前、はあっても、やってもらって当り前、をつくらない。台所の入り口に鞄を置きっぱなしにすることくらいは大目に見たい。
 後ろから抱きついて、顎を肩口にのせる。眞一は動くのをやめず、冷蔵庫から取り出した野菜を洗い出した。飛紗もくっついたまま、一緒に動く。冷蔵庫から出された食材から察するに、オムレツかオムライスだろう。時間がないからきっとオムライスだ。米だけは冷凍したものが常に用意してある。
「なーんですか」
 そろそろ包丁使うから、と腰に回した手をたたかれて、反対にぎゅうと力を入れる。飛紗は細いというより薄いとは眞一の言だが、飛紗からすれば眞一こそ薄かった。薄いのにかたい。月に何回かスポーツジムで運動しているからだろうか。
「あとで一緒に入る?」
 ぽそりと耳元に落とすと、眞一は少しだけ振り向いて、飛紗の手を握りしめた。相変わらず外から帰ってきたばかりでも温かい。
「こんなに冷たいくせになに言ってるんですか」
 もう一度たたかれて、仕方なく離れる。振られてしまった。一人ずつならシャワーだ。給湯器の電源を入れて設定温度を上げる。
「週末のたのしみにします、それは」
 あっさり、小気味よくピーマンを切る音とともに告げられたので流すところだった。ふふふ、と思わず出た鼻歌とともに風呂場に向かう。結婚祝いのお礼に買っておいた入浴剤が余っているので、どれを入れるかいまから悩む。丸い形がかわいい。いや、それはそれでほんとうなのだが、包み隠さず感想を言えば、少し洗剤っぽい。そんなことを考えているといつか間違えてしまう気がして、しっかり分けて置いておく。
 シャンプーもリンスも、ボディーソープも同じなので風呂上りはほとんど同じ匂いがする。とはいえ飛紗はそこからトリートメント、洗い流すタイプのボディーローションとつけるタイプのボディーローションをするので、じゃっかん違うが、他人がわかる範囲ではないだろう。家族になったのだなあと思うのは、こういう瞬間だ。
 眞一の家ではボディーソープではなく石鹸を使っていたらしい。石鹸というと小学生のときのレモン石鹸くらいしか縁がなかったから、家々によって文化は違うものだと感心した。
 風呂からあがると、ちょうど眞一が皿とスプーンを並べてくれているところだった。やはりオムライスだ。サラダと顆粒の玉ねぎスープもある。飛紗よりも断然、眞一のほうが手際がよい。効率よく最短で調理することができる。それなのに、皿を洗って拭いて――ここまではともかく――食器棚に戻すのは苦手だ。飛紗からすれば至極簡単な作業であるのに、どこか手間取る。整理整頓が得意な飛紗と比べると、ということではあるのだが、普段の眞一を知っているとやはりどこか不思議である。効率よく片づける過程は想像できるのに、体がうまく動かないらしい。
 いただきます、と手を合わせて、スプーンで玉子の真ん中をやさしく割る。ゆっくり左右に開くと、黄色い絨毯が湯気とともにとろりと広がっていった。わあ、とはしゃいでいると、眞一はとっくに玉子を広げてケチャップライスとともに頬張っていた。
「飛紗ちゃんすきですよね、これ」
「うん、たのしい。きらきらして見える」
 家では父の和紀や弟の綺香がしっかり焼いた玉子のほうがすきだったので、オムレツだろうとオムライスだろうと半熟というのは存在せず、食べたければ自分でつくるしかなかった。しかし躍起になって主張したいほどのものでもなかったため、外食時に食べられたらラッキー、くらいに思っていた。それでも気兼ねなく家で食べられるのはうれしい。相変わらずつくってもらっているわけだけれど。自分でやるとここまでうまくできないのだ。
「あ、今度同僚二人がうちに来たいって言ってた。式にも来てくれとった二人やねんけど、眞一と話してみたいらしくて」
「飛紗ちゃんの職場からは四人来てましたよね。眼鏡かけてた男性と、緩くウェーブかかった髪の女性?」
「うん。男のほうが同期の尾野で、女性のほうが千葉さん。でもいま忙しいやんな?」
「大丈夫ですよ。すでに予定の決まっている日があるので、あとで教えます」
 案の定快諾されて、内心唸る。断ってくれてもよかった。招くのがいやなわけでも、眞一を改めて紹介するのがいやなわけでもなく、それぞれの前で自分の態度が違うことに自覚があるので気恥ずかしい。披露宴のときは場の空気や、他にたくさんの人がいたので意識が分散されていたが、今度は狭い空間に四人だ。
 サラダをもしゃもしゃとヤギのように食べながら沈思していると、ふっ、と眞一が小さく吹き出した。
「なんよ」
「いや、あまりにも考えていることが手にとるようにわかったもので……」
 くつくつと肩を震わせる眞一に、唇をとがらせる。むくんでいるとなんだかだんだんとおかしくなってきて、一緒に笑ってしまった。気のおけないひとしかいないのだから、楽にしていればよいのだ。
「けど招くのはいいですね。私も廣谷さん招きたいなあ」
 眞一から廣谷への一方的な愛情を目撃しているので、なんとも言えずにオムライスを咀嚼する。まさに偏愛。会う前はひっそり「廣谷さん」に嫉妬したりもしていたものだが、実際に目の当たりにするとそういう問題ではない気がした。何がいいのかを聞くのはこわくてまだ実行できていない。
「廣谷さん、素直に来てくれるような感じやなかったけど……」
「山宮さんを一緒に招けば万事解決です」
 確かに、廣谷は智枝子にべったりで、一緒についてきそうな感じはある。披露宴では後ろから抱きついたりもしていたが、すぐ隣にいた智枝子の恋人である綺香が「いつものこと」として平然としていたくらいだ。あれもあれでどうかと思う。眞一は廣谷に、廣谷は智枝子に、その智枝子は綺香と恋人で、おかしな四角関係である。
「飛紗ちゃん」
 食べ終わった眞一がスプーンを置いて、水を一口飲んだ。対して飛紗はまだ三分の一くらい残っている。外で食べていたときは食べるペースを合わせてくれていたのだと知ったのは一緒に暮らし始めてからだ。
「今日連絡きたんですけど、学くんがお父さんと養子縁組するみたいです」
 口に含んだスープが、ごくんと大きな音を立てて咽喉を流れていった。
「えっ、あの、まだしとらんかったん?」
「してなかったんですよね。だから菊地学だったんです」
 そういえば眞一から教えてもらったときも、本人が名乗ったときも、菊地学と言っていた。瀬戸学とは誰も言わなかった。とっくにしているものだと思っていたので、むしろ衝撃である。単なる同居人では扶養家族になれないし、いざというときの連絡ももらえず、手術の同意もできない。
「あの二人もそこそこ年齢に開きがあるので、お父さんは最初のころから薦めてたんですが、学くんが絶対にいやだったみたいで、出ていくだのなんだのという大喧嘩を二回はしたのを知ってます」
 なるほど、遺産の問題だろう。「眞一だけが受け取ればいい」とはいかにも自己犠牲の気がある学の言いそうなことだ。そして晟一が不快に思いそうな言い分である。
「親と絶縁状態とはいっても、一応戸籍をそのままにしておくのが学くんなりの意地だったから。ただ、まあ……一応先日和解というか……ふっきれたようです」
 学のなかで整理がついたのなら、よいことだ。式の日は四人で食事にも行っていたらしいし、詳しくは聞いていないがわだかまりは少しずつ融け始めたのだろう。さすがに一気に何事もなかったように、とはいかないだろうけれど、いい方向にはきっと進んでいるに違いない。
「じゃあ瀬戸学になるんや」
 戸籍だけ見ると、眞一の兄がまた増えた。最後の一口を運んで、ごちそうさまと両手を合わせる。
 皿を重ねて流しに持っていき、そのまま洗ってしまう。眞一がテーブルを拭いてくれたので、台拭きも濡らして絞る。
「学くんって、眞一にとっては感覚的にどんな感じなん? お兄さん? お父さん?」
「うーん。どちらか選べと言われたら兄ですかね。少なくとも久雄よりは」
 最後に吐き捨てられた言葉に、久雄には悪いが笑ってしまう。電話で聞いていたかぎりは憎めない感じがあったが、眞一にとっては面倒以外の何者でもないらしい。眞一のことがだいすきな心寧も、同じ伯父なのに久雄には手厳しいのもおかしかった。
 眞一がシャワーに行っている間に、明日の荷物の確認をする。テレビをつけて天気予報にチャンネルを合わせると、手足のマッサージやストレッチをしながら眺めた。花見日和と伝えている。明日はストールもなくてよさそうだ。
 あがってきた眞一が台所で水を飲んでから飛紗の隣に腰かける。まだ髪が濡れているので、肩からかけているタオルでわしゃわしゃと拭いてやる。一通り拭き終わると、ありがとう、と眞一が礼を言って、今度は飛紗の髪を乾かすべくドライヤーをとってきた。ごおお、という音がうるさいので、会話はない。学生のころに使っていたものなんかはもっと耳に響いた記憶があるので、これでも随分音は小さくなったのだろう。
 乾かし終わると、ドライヤーの代わりに仕事を持ってきて広げ、眼鏡をかけた眞一に寄りかかりながら、続きになっているエッセイをめくる。眞一の本棚から文字通り勝手に拾ってきた本なのだが、この作者は動物に対しては慈悲深いところが垣間見えるのに、ヤモリにだけはどれだけの怨みがあるのか、やたらと描写が冷酷だ。ヤモリが作者にいったい何をしたのか気になってくる。
 かたかたとキーボードの打つ音と、かつかつとテーブルをたたくようなペンの音がそれぞれリズムよく聞こえて心地よい。眞一がいったいどんな研究をしているのか、かつて一度大学で講義をとっていたにも関わらず歴史学ということ以外いまだによくわからないが、真剣に考えている眞一の横顔はすきだ。いつまででも眺めていられるような気になる。
 ふと目があって、薄く微笑まれた。どきりとする。恋愛は幻想、結婚してからが現実だといろいろな人に脅されたけれど、いまのところ生活に不満はない。熱っぽかった思いは落ち着きはしたけれどなくなったわけではなく、形を変えてきちんと飛紗のなかにある。ひとりで悩んだり、落ちこんだりすることはもうないのだ。
 そろそろ寝ましょうか、と言われて、頷いた。本にしおりを挟んで、いつもの場所に戻す。
 ベッドに入ると、足が冷たい、と絡められた。
「飛紗ちゃん、運動不足もあるんじゃないですか」
「う、それを言われるとつらい。荷物とかは運んどるけど、運動ではないもんなあ」
 暗闇のなかでも、眞一がどんな顔をしているのかわかる。頬に触れた手に身を任せると、静かに口づけられた。あたたかい。足だけではなく、体を寄せて抱きしめる。
 お互いの左手が重なって、薬指の指輪がかちりと音を立てた。
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