虚人らのロンド

ぢぃもん

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虚人らのロンド3(終)

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 外。
 恐越公の領地内。

 某所。
 人類最強。
 そのような戯言を信じている者はどこにもいない。夢見る者ならいるだろうが。
 スィーリナァー・ハブレルフッドォードゥ。彼女もその一人である。
 護廷の騎士。
 とはいえ、二○そこそこの小娘であった。人によってはもう娘とは呼ばないだろう。
 スリーヤ。またはサリナ。
 そのような愛称が似合うほど(本名が呼びにくいためだ。実際は生国によくある、古い言葉にあやかった名だ)、可愛らしいモノとも思っていない。
 そのスリーヤが、数年前である。見いだされて、試合に出た。大陸じゅうの強者を集め、頂点に立つのは誰かを決める。スリーヤが、人類、あるいは大陸最強候補とたいそうな仇名を与えられたのは、この試合を制したためだ。
 しかし、実際は見た目だろう。
 スリーヤは参加者の中で一番若かった。そして女性であり、見た目も人並み以上ではあった。それが理由だろう。
 立ち合って勝ったのは事実である。彼女の友人である、バーミィと知り合ったのも、この試合が縁だ。彼女に勝ったのも事実ではある。だが、依然として、大陸最強候補などと信じる者はだれもいない。揶揄である。誰が信じる訳もないのだ、この若い女がそうだなどと、信じる訳もない。
 そういうわけで、スリーヤ自身もまるで信じていなかった。器の中の紅色の飲み物を飲む。向かいにいたスミスが、かりかりと頭をかいて、陶製の容器を置いた。
「すまんかった」
 スリーヤは怪訝な表情をした。
「なにがだ?」
 スリーヤは言った。それから、スミスの表情をうかがって、見当をようやくつける。
「ああ、君が先ほど私を殺しにかかったことか。すまないと言われてもなんのことかわかりかねた」
 言う。スミスは、とんとんと卓の加工された革を叩いて、怪訝のような、微妙な顔をした。スリーヤは、続けた。
「君からしたら無理もないだろう。君は恐越公からは、あまり近くない存在だし、私はそのぶん、近い立場にはいる。実際は意見できるほどでもないが。なら思わずつかみかかったのも無理はないだろう。隙を突かれた私も悪いよ」
「あー」
 スミスは、目を泳がせて、それからひねた口元を、結んだ。
「……やっぱ似てんな」
 言う。が、それから、かけていた縁つき硝子を押し上げて、すぐに続けてきた。
「まあ、落ち着いて考えれば、連中は、人数を確保出来やしなかったんだ。向こうでどうにもならないことは分かっていたんだ」
「というと?」
 スリーヤは、聞き返した。飲み物を口に運ぶ。喉の渇きを覚えたためだ。
 といって、きっかけがあるわけではない。この紅色の液体は、農産国である、西の国においては、古くから栽培されている。
 その植物を摘んで煮立たせた湯を煎れて飲むのだが、スリーヤが飲んでいるのは、加工法がそれより込み入っている。
 最初は保存の失敗から始まったと言われる、この珍奇な飲み物はそれ単体では美味いものではなく、同じく、西の国でも盛んに栽培されている植物を煮出して抽出する、粉状の甘味のあるものを混ぜて、味を誤魔化して飲んでいる。スミスは口に合わないらしく、西の国では――こちらのほうが一般的な飲み方と言える――よく飲まれる、乾燥させた加工法を使った、同じ植物のスリーヤが飲んでいるものとは、違った風味と味のものを、飲んでいる。
 知り合ったばかりの頃、スリーヤが飲んでいる方を口にする機会はあったが、よく飲めるなそんなの、と、うっかり言い、手ひどくスリーヤを激怒させたことがある。
 護廷の騎士、といえば、泣く子も黙る、と、口憚った言い方をされる護盾隊の戦闘隊長として、正統騎士団領に正式に仕える、つまり、この恐越公の領地内においては、完璧な他国者である。
 しかも、正統騎士団領から離反した、某卿の元に盟を結んだ、現在、目下対立中の、正五閣陵内における、最大勢力と目される恐越公の治める領地である。
 しかし、正統な理由により派遣されている。
 恐越公が打ち建てた、未踏破領域内の領地における、怪物への対応である。
 未踏破領域の怪物。
 それこそまさに、大陸最強候補、という話を胡散臭くさせる証拠だろう。
 正統騎士団領において、(彼女からしたら)お飾りのそれをやっている身としては、まざまざと思い知らされる。あそこで、――人間の踏みこむ領域から外れた場所に人間として存在し、生きている身として――存在して、しかも戦っていられる人間など、スリーヤの比ではない。
 領域が違う。
 臨時である。とはいえ、派遣されたら帰ってこられないということからしたら、臨時も何もない。スリーヤはこれまでは帰ってきている。生きているのだから、当然ではあるが。
 この追放者の楽園において、「内側」ということになるだろう。そこで役目に従事する彼女は、あの領域にずっと身を置き続けている者達から比べれば、ずっと生ぬるい。
 まあ、それはそれとして、正統騎士団領も、その立場上、追放者の楽園の先陣を切っている。それが不遜だろうと、傲慢だろうと、虚飾だろうと、それが剥がし切れない立ち位置というやつであるということは違いない。が、知っている。スリーヤは当然のこととして、少し話を聞く者なら、みな、何千何万という単位で、同じことを知っているのである。彼ら正統騎士団領が、恐越公の位置に立ちたがっているということは。
 強力な武力をもって、「こちら側」の、つまりは、追放者の楽園の人間が立ち入れない領域に割って入って、領地を打ち建てている。
 それは、本来正統騎士団領がやりたいことである。みじめなのだ。
 天の庭の正統なる血統を謳う彼らの「教義」としては、恐越公の存在があることで、それは虚飾になる。
 なんとかして、かの公のもつ力を手に入れたい。怪物を打倒するほどの強靭暴悪な、法術倶が。
 持っているに決まっているのである。かの公はどこからかそれを手に入れた、で、その力でもって、あの最強最悪な、怪物と言う化け物どもを、相手にして、かつ、退けてすらいる。
 そうに違いないのだ。
 もちろん、恐越公は、怪物を退ける具体的な方法を、開示も教唆もしたことはなく、いっさいが秘密である。
 だが、「そうに違いないのだ」。無理もなかった。
 で、それはそれとして、正統騎士団領としては恐越公に協力する義務がある。
 彼らの教義上、血統の本願の先頭に立っているのは恐越公だ。
 国同士の諍いの、それはそれとして、かの公に貸し与える事。
 恐越公の領地から、見出して取り立てた、それさえも、だとしても、怪物の打倒に必要だと言うなら、臨時でもなんでも、言われるままにスリーヤを派遣しなければならない。それも、正式な形で。
 しかし、もちろん、物事には裏があるものだ。何事も。
 スミスは言った。
「グランスが混じってるからだ。あいつは、正真正銘天の庭で生まれた人間だ。原生種とは数えられねえし、使えないだろうさ。……もちろん、恐越公の言う情報が確かならの話だが。確かでないなら、今頃その薬とやらになっちまってるのかもしれないな」
 思ってもいないことをわざわざ口に出すのは、スミスの悪い癖だ。まあ、恐越公が、天の庭から全てを教えられている保証などあるわけがないし、「天の庭で生まれて、そこから出て行った人間がまた戻ってきて、それは『薬』の材料となる前提としての話だった」なんて話。
 事前に予想するわけがない。だが恐越公が限りなく正確に近い情報を、しかも、つぶさに知っているだろうことは疑いない。天の庭にとっては、「こちら」の人間に頼むなど業腹だが、怪物を打倒する戦力を貸してほしいなどという、希望を、言わないことまで、わざわざ細かに揃えて、叶えてきてくれる。事態が、少なくともその『薬』を、必要とする人間にとって窮迫していて、しかも、その必要とする人間――おそらくは、天の庭にも身分のようなものがあるのだと思うが――の、周りの人間にとっては、より対応に迫られる理由。恫喝。命令。使命。まあ、なんでもいいが、そんなものになっている。
 その証拠だろう。
 まあ、もし都合のいい話ではないなら、この程度、貸し与えるまでもない。くれてやる。そう言える程度の事態が、こちらの、未踏破領域の怪物に相当する、とも思われなくもない。
 おそらくは両方だろう、鳶色の髪を弄って、スリーヤは考えた。戦うには長すぎる。そう言われることもあるが気にしていない。戦に出るときは編み込んでいる。
 今は完全に解いて流していたが、腰のあたりまであるため、言われるのも無理はない。西の国にはちょくちょく見られる、小麦色の美しい肌。
 しかし、このためか、年相応に見られない。彫りが深いこともあって、老けていると思われるのだろう。
「君と彼女はどんな関係なんだ?」 
 スリーヤは聞いた。無意識に弄っていた髪を解いている。
 スミスは、とくにこだわりもなく言った。
「義理の姉弟ってところだ。ところだもなにも、そうなんだが。もっとも、父親しか最初からいないし、その父親も死んでる」
 スミスは、縁つき硝子の端を動かした。実際に動いたわけではなく、スミスが身じろいだことにより、光の当たり具合が変わった。
 このような際どい話をしているが、ここは別に、秘密の守られた場所ではない。
 スミスが詫び代わりにと誘って、恐越公のいる屋敷から街へ出てきたところ、この街ならどこでもあるような、ただし他の国、領地には、西の国でもそうないだろう、外に開いた店だ。
 屋根はなく、布を骨、という木材の部分に張ったとばりを、各卓状の席の上に立てて、床は通りより一段高く、雑に丈夫さを重視して織られたきぬっ切れを、足元に大きく敷いている。雨の時は閉まる。ただし、外よりも狭いが、いくらかの間取りが、店としてすぐそこへ用意してあり、晴れの時はそちらを閉めて外を開放している。
 合理的とは言い難い形態だが、お洒落、ということだろう。
 幾分暮らしに余裕のある証拠だ。スミスとスリーヤが今飲んでいるような飲み物と、軽い食事を求めて、街の人間たちがいつということなく集まっている。
 恐越公の領内、特にこの王府などは、豊かさを示している。
 恐越公の持つ圧倒的武力とその証明、それを背景とした発展だ。勢いのある所に人が集まる。
 「拝謁」のことなど露知らずにだ。帰ってきた人間などいないのだから、当然だが。
「義理の父親か。私も故郷(くに)の父母や弟妹たちがどうしているかな」
「義理の父親は、名前をオフェイロンといった。が、まあ名前なんざどうだっていい。向こうも名前なんてどうでもよかっただろう」
 スミスは続けた。
「どうでもいいってことあるかい? 義理とはいえ、親子だろう」
「その親父、オフェイロンは俺たちを実験のために集めた。実験と言うよりは実証だ。それまでは、三人とも、異世界転生者の失敗例として扱われていた。それを親父が自分の目的のために引き取った」
 言う。とくに感情のこもっていない様子に見える。
「異世界転生者の失敗と言うのはなんだい?」
「前世の記憶が戻らないことかな。別にそれだけなら差し支えもなかったんだろう。異世界転生者には、法術のたぐいとは違う、とても強力な能力が与えられる。問題は、それも発現しなかったことだな」
 法術も超えた異能か。興味がある、と、他人事のようにスリーヤは一人興奮した。
 力はあればあるほどいい。ただし、自分が持つのは御免だった。もしもこう生まれていればというのも、まったく興味がない。
 ただ、力はあればあるほどいい。
「しかし、君はなにか異能を持っているということだった。確か、未来が見えるのだとか?」
 スミスは言った。
「まあそうだな。演算結果を高速で行い、かつ出力できるって言うのが仕組みだが、さっぱり興味がない。まあ、異世界転生については、いろいろと、というほどでもないが、あったんだよ。そのせいで、こういう失敗例の異世界転生者は、徹底的に一時期調べ上げられた。その成果で、俺は本来得るはずだった、らしい、そういう異能、超能力の一部のみをどうにか使えるようになった。もっともそれだけじゃ異世界転生者に望まれる役割はこなせない。結果として不要となった」
 縁つき硝子をつい、と押し上げる。他人とは違う、磨き抜かれた鉱物のように澄んだ赤色の眼。ただ、これは生身ではないそうだ。
「天の庭が望んだのは、かつてのように強力な異世界転生者だ。土の賢人と呼ばれた――今じゃ名前も記録から抹消されている異世界転生者がくるまでは、そうだったように、天の庭を文明の極点に押し上げたようなな」
 スミスは、飲み物を口に含んだ。
 ふむ、と、特に関心もなくスリーヤは聞いた。
「土の賢人?」
「そう名乗ったのさ。そいつは、異世界転生者だった。それも、異例の早さで、前世の記憶を目覚めさせた。研究者、学者たちはこれを期待した。だが、土の賢人、なにがしって名乗ったその某は、とんでもないことを言い出した」
 スミスは言った。
「それは宣告だったって、ものの記録には書かれてある。この世界で以後、異世界転生の術が成功することはない。自分の転生を以て、そう呪いをかけた。この呪いはあなたたちにはきっと解く事が出来ないだろう。一応、理由も言ってるな。一応、理由を述べておくと、あなたたちの行っている異世界転生は、いろいろな意味で外道である。これの対象となった、呼び出され側の世界に多大なる迷惑をかける可能性があるが、あなたたちが、それを考慮することはないだろう、と、私たち、多項宇宙の同盟は話し合い、今回の措置について決定した。一応、私からも一言だけあるから言っておこう。ざまあみろ、バーカ」
「それ本当にぜんぶ言ったのかい?」
「昔の話だぜ、本当のことなんて知らない」
 スリーヤはさらに聞いた。そのうちに、間に注文した、小麦の粉を加工調理して、ふくらかした、その上で、特殊な金属製の鍋類で、両面を焼いた菓子っぽいものが出てくる。
 スミスが注文したものだ。しかし、食べ始めないまま、話す。勿体ない。上に乗せた家畜の乳を発酵させたものの、切り分けたのがほかほかと、湯気で溶けている。
 ここのこの品は、周囲では評判だ。甘味と獣の乳との均衡が取れていて、ほくっとした歯触りと、食べごたえが口の中に広がる。
「私も何か注文しようかな」
「……研究者や学者たちは、最初、青ざめたりせせら笑ったりで、虚勢を張りつつも信じないと言うような態度が大勢だったが、やがて、異世界転生の術を同じように繰り返すことで、こいつの言葉が事実だったことを実証した。彼らは慌てた。土の賢人を急いで捕らえ、拷問や実験にかけたり、尋問して、あらゆる手を使って、呪いを解かせようとした。そのうち、土の賢人は死んでしまい、呪いを解く方法は謎のままになった。土の賢人の遺体は今でも一部になって保管されて、隅々まで解剖や解析にかけられたが、やはり、手がかりはない」
 スミスは言った。露骨に食欲を削ぐ内容だ。やや非難めかしく見た、スリーヤに、片目を閉じた顔を見せている。怒るなよ、と言った所か。
 スリーヤは近くの店員を呼び止めて、少量の油脂をひいて、強い火でさっと炒めた鳥の肉の料理を頼んだ。添え物に香りのする食べられる草を添えるので、とても食欲をそそる。スミスは、やや呆れた顔をした。
「失敗した異世界転生者っていうのは、……ああ、さっき言ったか」
「それだけじゃない。人の形を保持したままっていうのが、まれになった。ほとんどは、人の形もなく、異形で、意思の疎通もできないものになった。これらは暴れて手に負えないこともあったが、失敗例だ。細かく研究された。研究の結果として増殖することに着目して、それを異能として捉えた研究者もいたんで、増えた。だが結局は、それも勘違いだった。……これが密かに放棄されたのが追放者の楽園で、怪物の正体のひとつはこいつだ」
 なるほど、とスリーヤは聞いた。自分たちが相手している怪物と言うのは、そのようなものだったらしい。だが、だからどうしたというわけでもない。
 スミスも、本筋の話を進める枝葉として、この話をしたのだろう。だが、思ったのとはちょっと違う顔をしながら、スミスはとにかく、と手を振った。
「グランスは裏切り者だ。あいつは逃げ出した。だから、連れ戻さないといけない。薬なんかになられちゃあ、困るんだ」
「話を聞く限りだと、彼女も被害者だろう?」
 かちゃかちゃと、銀色の食器を使っていたスミスを見ながら、スリーヤは聞いた。スミスはほぐほぐ、と、実にうまそうに皿の料理を放り込んで咀嚼しながら、飲み物を含んで、やっと口を開いた。
「あいつは、俺達とは違う。純粋な失敗例だ。あんたもあいつを直接見ただろうが、若かっただろう? だが、あいつは見た目通りの年齢(とし)じゃない。肉体が生身じゃなくなって、もう年を取るってことも、無くなったんだろうが」
「それは、天の庭にあるという、不老不死というやつかい?」
「そうだ」
 スミスは言った。あっというまに、料理の一枚目を平らげてしまってから。おかわりした飲み物で、口を落ち着けている。
「まあ、詳しい年は知らんし、この話にはあまり関係ない。俺よりもあいつの方が義姉だと思ってもらえればいい」
「その彼女が裏切った。それも、止めを刺しただけとはいえ、君の義理の父親を殺していて、そのうえで、天の庭からも逃げた」
 スリーヤは言った。それから、ふと顔を上げる。
「彼女は何を裏切ったんだろうか。天の庭かい」
「自分のやるべき役割を放棄したんだ。裏切ったとしたら、その役割に対してだ」
 スミスははっきりと言った。縁つき硝子に隠れて、赤い目が見えなくなっている。
 とはいえ、スミスの眼は、生身ではない、というその通りなのか、どうも感情の機微がなかった。瞳から、読み取れるものがなく、人形のそれのようなのである。もちろん、人間のそれのように動き、収縮もする。義眼というなら、瞳孔までは動かないはずだが、なにかの仕掛けなのだろう。
 しかし、どこか作り物じみて冷たい。本人が非感情な人間ではない、どちらかというと、感情が豊かに現れ、それを隠さなければならない性質なのも、拍車をかけているのかもしれない。
 このときも、感情のない目のまま言った。
「役割は、親父、義理の父親が、俺達を使って実証した『時の鐘』に対応するものだ。俺もこんなものどうだっていいが、放棄するのはよくねえ。だからケジメを取らせる」
 スリーヤは、頼まれた品物を店員が、目の前の卓に並べるのを見ながら、つばを鳴らしつつ、苦笑した。
「君がそう言うと、別な意味にも聞こえてならない。具体的に言うとその筋のね。よくないやつ」
 スミスは肩をすくめた。それを背景に見ながら、うまそうにほかほかと湯気を立てる鳥の肉に、銀色の食器を突き立てる。肉汁が染み出て、なんとも言われぬ甘美な歯ごたえを舌に想像させる。
「……それで、君が言う、その『時の鐘』とやらだけど」
 いったいんなんなんだい? と、スリーヤはふと聞いた。今までも、何度かスミスは言うことがあった。
 スミスとスリーヤの初対面というのは、複雑になる。
 要するに、お互いに見知ったのはつい最近のことだ。
 だが、それより以前に顔を合わせていた。未踏破領域で、怪物、スミスの話だと、どうも天の庭が「棄てた」ようなものらしいが、しかも元は、話を総合するに天の庭の人間ということではないか、ともかく、それの相手をしていた。二人とも、臨時の際に、恐越公に招集される人員だということだった。それが、何度か顔を合わすうちに、言葉を交わすようになり、気が合った。
 いや、正確には、お互いに興味があったということらしい。
 普通、そのような場合、男女の関係に発展すると話が面白いが、この話はつまらない。残念ながら、男女の仲には発展しそうにない。お互いに、別のものにより興味がある。
 そういったわけで、会話をしたり、食事をしたりという関係性が成り立つということだった。つまりはお互いになにかがズレている人間ということだろう。スミスはどうだか知らないが、スリーヤにそれを否定する気はない。
 スリーヤは生国の領主であるが、スミスには恐越公につながる接点はない。推測はできる。
 接触したのがスミスからか、それとも恐越公からかは知らないが、なにかしらがあったのだろう。スミスにとって、怪物を片付けるのは、それなりの理由が存在しそうである(逆を言うと、本人からその理由を、スリーヤは聞いたことが無かった。この点にはまったく興味がない。男女の仲にならない秘訣のようなものだろうか)。
 不思議なのは、スリーヤには、生国に婚約者の男がいて、これが様々欲求を満たしてくれていたが、スミスにはそのような話は聞いたことがない。娼館にいいいいづけでもいるのか、でなければ、いい歳で、このような過酷な任について、平気な顔もしていないと思うのだが。
(変わった男だ)
 鳥肉にかぶりつきながら、スリーヤは思った。スミスは、質問が聞こえなかったかのような顔をして、皿の料理を平らげている。
 全体の三分の二ほどを食べ終えてから、口を開いた。
「グランスのヤツもオルグのヤツも一体何を考えているのかわかりゃしねえぜ。人間がこの世に生を受けて役割を果たすべき力を持ったんなら、それに従うのが道理も何もなく、ごく自然なことだろうが。あいつらは、だってのにほっぽって余計なことにかまけていやがる。異常だよ、全く」
(無視したか)
 スリーヤは思った。しかし、不快には感じなかった。二人の間にあるのは、実のところ、その程度のものでしかない。
 どちらが明日死んでも、素知らぬ顔はできる。惜しむことはできないだろう。お互いが、お互いを話していながら、無視し合っていた。壁に向かって話している。
 だが、ここにそれが成立しているのは、ふたりともが、壁に向かって延々話しかけても、苦にも思わない、そのようなものを持っていたということだ。これは、人間としては得体が知れない。
 いや、まっとうとした人間でないスミスにはともかく、スリーヤには異常であったかもしれない。正真正銘、まっとうな人間だからだ。
「しかし、怪物がそのような経緯のモノだったとはね。君と話していて利益になることがあるのは驚いた」
「別に、そういう経緯のが全部ってわけでもない。天の庭は不老不死の研究もしていたんだ。発展が急なぶん、やることもやらかしていたさ。まあ、俺ら――グランスとオルグと三人な、もそうだが、人体実験やらその失敗やら」
「人体実験とはなんだい?」
「医者が新しい発見やらしたいときに、死刑になった罪人の身体やらを使うって話は聞いたことがあるだろう? あれさ。たとえば病気で死んだ人間がいたらそれを解剖してくわしく調べるが、これだと、若い医者の教材や、医学においての記録にはなるんだが、一番は健康な身体の人間を使うのが、新しいことを試すのにはいい。人体実験と言うのは、生きた人間でこれをやる」
「なるほど、そういうのかい」
 スミスは、最後の一切れを頬張りながら、飲み物を口にした。口の中を潤して、続ける。
「そういう失敗したようなもんを捨てるのは都合がいいところだろ、追放者の楽園ていうのは、そういうことだろう。天の庭の連中はそうは呼ばないけどな」
 ふむふむと、鳥の肉を頬張って、スリーヤはもむもむと口を動かした。
「連中に計算外があったとしたら、追放者の楽園の環境に放ったら、すぐ死ぬと思っていたそういうもんらが、逆に適応して自ら増殖したり、より強力に自己進化したりしたことだな。――時の鐘は」
 スミスは言い掛けて、ふむ、と口ごもった。別にいいか、あれは、と、どうでもいい口調で言った。
「親父の用意した『時の鐘』に対応する「あれ」は、三人分の人格を中につぎ込んでようやく想定した力を発揮する。これには、普通に三人分では駄目で、時間をかけて『用意』を施した人間が必要になる」
 嘘かホントか、とスミスは前置きして、手を広げた。おどけた仕草に見えた。
「はるか昔、分かれる前の大陸に一人の巨人がいた。そいつはえらく長生きで、しかしついに人間の手によって首を刎ねられたんだが、この首が喋り出した。その言うことは不幸や不吉の予言で、予言はことごとく的中し、大勢の人間が死んだ。怒り狂った人間たちは、こいつの眼の神経組織と脳みその一部を抜き取って、あとは干し首にして捨ててしまった。その抜き取られた眼と脳の一部と言うのが、めぐりめぐって、昔の天の庭に伝わった。これを手に入れた親父が、三人の養子に移植した。左眼と右眼と脳の一部を。三人に分けたのは、組織が大きすぎて、一人には入りきらなかったからだそうだ。親父は狂っていた。だからこの話は当てにならない」
 スミスは、語り終えると、刺激の強い、特定のものを発酵させた飲み物を、追加で頼んだ。
 真昼間からの注文だったが、店は、すぐに注文の品を出してきた。スミスはそれを流し込むように飲んだ。
「……異世界転生の術が外道とされたのは、実際そういう理由があったからだと思われている。言われているわけじゃない」
「ふむ、君から以前にも聞いていた話をまとめると、まあ、単純な話、誘拐や拉致に思われるね。これは、法律が整備されているところでは犯罪だ。昔の存在した国も、罪としているところはある。異世界、別の世界とやらでも、人間が、ここと同じようにいるとしたら、そうであったとしても不思議じゃないか。もしくは、そういう意識があった」
 スミスは、田舎じみた茶色っぽい色のついた、鉱物の透けるやつを焼いた容器を片手に、飲み物から口をちょっと離して言った。
「異世界のされる側にとっては、出る影響は魂の循環がどうやら、埋められない空白がどうって感じで、だが、世界によってまちまちらしい。実際は、行うにあたって大量の魔力ってものが必要になる事だ。これを補うのに、当初は一〇〇人、少し先だと六○人の人間がちょうど必要になった。この必要の対象になった人間は、魔力切れということで、例外なく死んだ。つまり生け贄だな」
 スミスは言って、飲み物を口に含んだ。 



 天の庭。と、追放者の楽園側が呼ぶ場所。実際には■■■■■。
 その内部。

 椅子に座らされていた。なんの変哲もない木の椅子だ。身じろいだりすると、ぎいぎいと、小さな音まで立てる。
 グランスは不思議を感じつつ、とはいえ、水を飲んでいた。
 水だ。ただし変な刺激臭があり、ほのかに甘い。美味いかと言われれば美味い。だが、たぶん、美味いとは言わないだろう。
 同様の感想は、並んでいるローマン、オズ、アキホらも持ったようだ。器は、グランスらも見たことのある、鉱物を焼いて透けさせた、取っ手のつけられているものによく似ていたが、こちらは磨き抜かれて曇り一つないし、透けた部分が割れそうなほど薄い。
 しかし、それでいてどれだけ力を入れても割れそうになかった。実際に試した。グランスの前にいる「警備官」の【A.S】(【A.S】が名だと言うが、それだと呼べない。アスと呼んでいいかと聞くと、なぜか嫌な顔をされた。しかたなく「エス」と呼ぶ。アスのもじりだ)――以後「エス」とする、は、妙な顔をしてそれを見た。
 そんな顔をするとは思わなかったので、グランスは不思議そうな顔をしたが、エスはなにも言わず、説明を続けた。
 割れないということを、おっかなびっくりだったローマンらに示す意味があったのだが、それを汲んだかどうかはしれない。
 ともかくエスは言った。
「なるほど、あなたは逃亡者か。シットシュツルゥと言ったな」
「悪いけれど、その名では呼ばないでちょうだい。嫌いなのよ。グランスで」
「では、グランス。きみがここに戻ってきた経緯は、……その女性に騙されたからだと」
「そうよ」
 グランスは、肯定した。アキホは弁明しない。というか。
「なるほどその『女性』を含めて、あの場には五一名がいたときみは証言するわけだ。いや、君たちか。その女性は今もこの場に?」
「いるわよ」
 グランスは言った。
 ということだ。
 走査に引っかからなかったのはグランス。最初から、いたと感知すらされていない――誰の眼にも最初から映っていなかったのが、アキホ。
 その二名をのぞいて四九名。
『機械』が検知したのは、正確な人数だった。
 いつからか、どこらへんからかは知らないが、――ついでになんとなく、予想していたようなことではあったが――アキホは存在していなかった。その上で、グランスらには見えるようにしていた。
 謀られたと言わずして何と言おう。ただし、謀ったと言って、ではなんで謀ったのか、ということが、今のところないことだ。
 それがなければ、アキホが、グランスらを謀ったとすら言えない。
 なるほど、これもアキホのやり口であるかもしれない。それもせこく巧妙な。本人が言うあるかどうかもわからない誓いとやらは破っていないことになるのだろう。
 もっとも、グランスは、それがあることを、もうなんとなく感づいてはいる。オズやローマンは知らない。だが、二人のうちどっちか一人は疑っていると言う、そんな空気がある。
 大雑把なのは、もちろん、他人の考えていることなど読めないからだ。そんなものは超能力か、魔術である。そういえば、アキホは利いていた覚えのないこと、知っているはずもないことを、すらすらと口に出していたか。
 つまるところ、グランスらは、このアキホに対して、最初っから後手後手の、不利であったわけだ。掌の上なのもうなずける。勝つべくして彼女は勝っている。
 苛立ちをかみ殺しながら、グランスはエスの続く言葉を聞いた。
「だいぶ厄介な術者のようだな。わたしたちの認識にまで入りこみながら、感知されない。現に「わたし」はその女性にまったく気がついていなかったし、今も気がついていないが、コップは人数ぶん出している。飲み物も、ごく自然にだ」
 エスは続けた。視界の端で、アキホが素知らぬ顔で、容器に口をつけている。味が気に入ったのだろうか。
「薬の生成については、さっき言った通りだ。そちらの男性は、大陸の外から来たとのことだが、感知された理由がわからない。大陸の外にはきみたちと素をまったく同じとする人間たちが存在したということだろうか。あなたに心当たりは?」
 エスはローマンに水を向けた。ローマンはいや、と、かんばしくない答えを返した。
「そういう話は聞いたことがない」
「まあ、「ここ」の外のことだ。聞かなくてもいいことなのだろう」
 エスはあっさりと言った。
 この「女性」(女性である。ただし、さきほど、『薬』の『生成室』――というらしい、で、対面したときと同じく、色気のない鎧姿だ。整った顔立ちに、白銀の髪を流している、褐色の肌の女性、というのが、見ためになるが、先に言ったように、どこか現実味がない。そもそも、髪の色から見て、年が若すぎるのだ。「髪の色が変わっている」と言ってもいいが、そのような表現に不思議となる)に案内されて、グランスらは一室に案内された。
 途中、あちこちで、何かが光り、視線を感じたり聞き耳を立てているような気配がしたが、気配だけで姿はなかった。
 それを不思議がったオズが、あたりを見回すタイミングで、振り返りもせずエスは言った。
「なるほど、あなたたちの様子はわかった。そのまま全員ついてきてくれ」
 オズは不気味そうな目をしていた。
 腕が立つ、とか、体術の心得がある、といったものとは、まったく異質のなにかが、この「女性」(もしかしたらそれも見ためだけだったり?)を取り巻いている。
 直感でそう感じとったのだろう。先ほどからだいぶ大人しい。
 グランスは和やかさを感じつつ、場違いに、内心で笑った。
 エスは気づいた様子もなく言った。
「――わかった」
 なにかと会話した、ようだ。唐突過ぎてびっくりしたが。
「失礼。さて、安心してくれ。あなたたちにはお帰りいただくことになった」
 エスは言った。グランスは拍子抜けした、という顔をしたが、エスはもう席を立ちあがっている。
 この部屋にいてくれ、と、言った。
「じき転送が始まる。あなたたちのぶんの洗浄が終わるまで、少し時間がかかる、質問でもあれば受け付けるが?」
「いいの?」
「わたしは問題ないよう、処置を施されている。といっても、私自身を■■■■■でだいぶ不便な立場に押し込めるというだけだが。しかし、立場上、原生種との接触は避けられない」
 エスは言った。オズが口を開いた。
「その原生種っていうのは、なんだい?」
 エスは、そちらに目を向けて答えた。
「■■■■■の外に放出された人間たちのことだ。原生種とは、■■■■■に棲む人間と、区別するための呼び方だ。同時に事実でもある。■■■■■に棲む人間は、新しい人間として進化し、文明の到達点に文化を築き、元からこの大陸にいたのとは、違う人間になった。決別の証として、区別してそう呼ぶ」
 エスは、特に感情を見せることなく、どこからか用意された容器に飲み物が注がれるのを見送った。
 が、オズなどは、聞いた事実に対する感情より、それに一歩引いたようだ。
 この部屋は、窓があり、外に茂みらしきものが見える。どこかの城砦の一室、を模したそれっぽいものといったものだ。窓はあるが、虫の一匹も入ってくるでもない。風が吹くでもない。しかし、部屋の温度は一定だった。扉がひとつあり、しかし、グランスらは扉を入ってきた覚えはなく、いつのまにか、ここにいた。
 なんというか、思い出そうとすると、夢のように記憶が遠ざかる。
 薬や生成室、といった部屋のことは聞かされたが、部屋の様子や、そこにいた人々はもう、欠片も思い出せなかった。
「意図的に記憶が操作されているわね。外に出たら直るのかしら、これ」
 廊下のような場所(だったと思う)を歩いてきたときに、アキホが呟いた。そのときにはなんのことだかわからなかった。ここへ来てやや経って理解した。
「そして決別と言うのは、実際、形や神話にあるようななまやさしいものではなかった。具体的だったんだ。つまるところ、進歩しすぎた文明をもったわれわれは、その進歩が急激すぎたために、この地上のあらゆるものから受け入れられなくなり、全てに対して、毒性とアレルギー反応を起こすようになった。それは、原生種とよぶ人間との接触だけでなく、それが持ち運んでくる、大陸のあらゆる痕跡、彼らが視線を向けた場所、発した言葉の音響にまで、あらわれた。わたしたちは、それを全て■■■■■の域内から、排除、洗浄し、また容れないために、あらゆる持ちうる手段をすべて使うことになった」
 エスは飲み物を口に含んだ。喉を湿すような動作だった。
 ローマンが、とっくに気づいていたことらしいのを、口にした。
「しかし、――あなたは特別なはからいを受けていると言ったけれど――ここから外に出たグランスは、それなら、どういうことになるんだ?」
 言ってから、失言じみていたとは気づいていたらしい。座りごこちの悪いような顔をした。
 グランスは表情を変えなかった。片目をゆっくりと閉じた。やや眠かったのだ。
 エスは、それにどう反応するかと思ったが、小さく笑った。
 意外に魅力的な笑顔だ。苦労しているのだろうか。
「……それに関しては回答を避けたいな。しかし、君たちの立場を考えると、ここまで来て聞いておいてもいいようなものだ」
 エスは言った。
「先に言ったことは、■■■■■の人間は心の底から信じている。生まれながらにそうである文明に根付き、文化を経営している。だから無理もないのだが、だが、本人たちが信じているだけかもしれない」
 ぼかした言い方をする。教えると言った割には、あまり丁寧ではない。
 というのも、やはり原生種といったひびきは、どこか区別的であり、差別的でもある。
 ということはだ、無理もないことだが■■■■■の人間、天の庭の人間はつまり、外の人間をやはりとことん見下しているふしがあるのだろう。
 このエスもそれは変わらないということか。いや、かなりマシなのだろうが、生まれ落ちた環境が――エスの、彼女の生い立ちなどしるよしもない。実はろくでもないのかもしれない。しかし、だったらどうという話でもない。同じ意識があるのなら、同じことだ、育んできたものは、人間に育まれる。それはとても根強い。変えるのは困難を極める。
 言葉で言うのが簡単なほどに。
(いや、待って)
 グランスは、そこで――考えていたことにも気づかなかったが、ふと気づいた。首筋を掴んでいた手をぱっと離されるように。思った。
 今のは私の考えた事じゃないでしょう?
 灯りが落ちたのは、そのときだった。唐突に暗くなる。
 エスの息遣いが聞こえた。暗闇に、周囲の動揺が伝わってくる。
「なんだ?」
 エスは言った。声は平静だった。
 しかし、次の瞬間、ひゅっと、声を呑む音がした。
 またどこかとグランスらには聞こえない声で喋った(喋ったのか? それすらもわからない、謎の様子のあれだ)のだろうが、そこで、ちょうど、部屋がぼんやりと明るくなり始めた。
「……、ばかな」
 エスが言った。
 部屋の様子に対してではない。それは、なんとなく伝わった。 
 ただ、ばかな、と言いたいのは、グランスらの立場であることは確かだった。さっきまであったものはなにひとつなかった。白い、貼りつけられたような、四角四面に白い部屋だった。グランスは座っていた。オズやローマンの位置も変わっていない。ただし、座っているものは、なにかふにょんとして、というようなフォルムをえがく白い何かだった。感触はがっしりとしていて、据わり心地はいい。
 ただし見た事もない何かなので、あまり触っていたくない気分にはなった。とりあえずなにがあったのかわからないので、グランスは飲み物を飲んだ。目の前には、置かれていた気の卓に変わって、椅子と似たふにょんとした白いなにかが置いてあった。そのうえに、飲み物はそのままで置かれていたからである。ただし容器は変わっていた。取っ手のついた中に、取っ手と、飲み物だけが、なにかに入っているようにゆれているものだった。口をつける場所は、ぼんやりと光っている。線が空中に引かれているようだ。
「何かの間違いだろう」
 エスは言った。
 その声が、恐ろしく硬直していた。
 そのとき、アキホの声が聞こえた。
「間違いではないわね。残念ながら」
 言う。エスは反応した。聞こえたということだろう。姿も見えたようだ。
「どういうことだ。何を言っている」
 さっきまで、彼女の視点ではそこにいなかったはずのアキホの姿に、驚く様子もない。もしや、こういう、人が唐突にその場にぱっと現れる、といったことに慣れているとも考えられた。
 というか、グランスが天の庭にいた頃は、何度も見た。そのときに、そのようなものを見れば、まあ、驚くことはなかっただろう。
 唐突に現れたり消えたりする、心臓の悪いアキホの出て来かたに、微塵も動揺しなかったのは実はそういうことではある。今さら誰に言うことでもないが。間抜けだし。
 アキホは、続けた。
「今――まあ、聞こえてないんだけどね。あなたが受け取った報告のとおりのことが起きているということよ。この建物、摘発にきたせいで間借りのようだけれど、あなたたちが本来仕事しているところからしたら、防御は軟いんでしょう? というよりか、私たち外の人間向けの偽装が解けているのが、なによりの証拠じゃないかしら。『時の鐘』の迎撃態勢の影響下に入ったのね、きっと」
「信じられるか!! あれが、あの奴が、「まっすぐこちらを目指して進んできている」など!!」
 エスは惑乱した様子だった。怒鳴り散らしている。凄まじい声だった。だが、それなりの人物ではあるようで、まだ冷静さを保ち、とにかく行動しようとしている。が、顔は真っ青だった。恐怖のあまり、今にも歯を鳴らして立ちすくみ始めるか。狂乱してそれとも、走り出すか。そう思われる様子だった。
「くそ!! くそ!! ばかな、ばかな、そんな、……くっ!!」
 すさまじい歯噛みの音がした。次の瞬間、何事か、エスはわめき散らした。わめき散らしてはいるが、それは的確な指示であるようだった。建物がかたかたと震えはじめた。何かが来る。
 それは、大津波のように絶望的な気配だった。地盤を翻弄する地震の予兆のようでもあった。どうしようもない壊滅の気配の。死の気配。
 オズは、顔を蒼くして立ち上がった。腰の刀に手を掛けている。
「なんだ、これ……怪物、じゃない?」
 言う。ほう。グランスは思った。
 どうも、オズはなにか特殊な感覚があるらしかった。それは、ある界隈では殺気とも呼ばれることを、グランスは聞いていた。
 呼吸、筋肉の微動。血管の流れる音。心臓の鼓動。また、周囲の、植物までも含んだものらは、そこになにかいることに、それぞれ反応を示す。空気は流れを変える。
 それら途方もなく微細なものを、感じとり、五感で見取って、総合的に、結果、姿の見えないもの。押し隠した感情を、感じとることができるのだというのだ。人間とは不思議である。すべて観察眼が成す。
 で、そのオズが顔を蒼白にするのは無理からぬことで。もしそういう感覚が存在した場合、「あれ」をどう感じるか。
 正直、グランスは想像し得ない。というか、実際知らないと言う意味で、それは純粋に想像し得ないのである。あれを直接見た事など、一度もない。
 時の鐘。
 かつて、この地に、■■■■■に、おごりたかぶることすら知らずに存在していた、文明の極点を、一度滅ぼしたもの。
 それが今、この場所に近づいている。近づいている。近づいている。
 時の鐘。
 【DEUSEXMA・CHINA】。ぜんまい仕掛けの神。あるいは水車小屋の神とも。
 機械仕掛けの神と、元あるこの言葉の世界では、言っていた。という。
 総称は、機械仕掛けの中から出てくる神。
 その意味については細かいことは、今重要ではない。
 神ではない。
 なぜなら、この大陸に神はいないからだ。いつからいないのかはわからない。
 巨人が魔法を得た時からいなかった。そう伝えられる。
 あるいは、その前からもともとおらず、巨人と言うのは、この大陸最古の種族。そして、魔法を使う最後で最初の種族である。
 そうする向きもないではない。まあ、どちらでもいいだろう。余談である、それは。
 時の鐘。まずこの言葉の語源であるが、最初、これに名はなかった。
 なにしろ名づけようがなかったからである。
 いや、■■■■■の人間たちは呼んだことは呼んだのだ。
 あれは失敗である。
 災厄である。
 世界の終わりである。
 ただし、終わる世界は、■■■■■であった。ただ、最終的には、たぶん滅ぼしただろう。
 かつての■■■■■は、つまり、魔法が確かに捨てられつつあったとはいえ、新たなる文明のもととなった、科学というもの。転生者たちが、異世界召喚されたその前の者達が、この世界にもちこんだもの。
 それらの両方において、粋を極めていた。
 時の鐘はこれを打倒したのだ。
 それは形無き者であったという。
 あるいは、その姿を目にしたある者は、それをスライム、と形容した。
 形容した、というのは、それは最初、間違いなくそのようなものだった。
 しかし、違うものになった。
 失敗と言った。
 異世界転生の術には、付け加えて言うと、実のところいくつか仕掛けがある。今いうことではないが。
 突然呼び出されたものが、大きな力を持って、それでこの世界のために協力しろと言う。しない者もいる。
 これをふせぐための安全装置のようなものだ。研究者たちに至っては、枷とそれを口汚く言ったものだと言う。
 元の世界に戻ろうと言う気を起こさせない、直接的な暗示。という、単純なものだ。実際、異世界転生者たちは、これによって、まず元の世界に戻ると言う気を起こさなかった。起こせなかったのだが、正確には。これがひとつ。
 また、転生者がこの世界にいると、場合によっては家族を持つ。
 これはよしとした。ただし、転生者がそれを望んだ場合はであった。望まない場合は、子を設けなくてもよい。
 その場合、自動的に生殖機能を封じられた。これは、科学的なものではなく、魔法的なもので行われた。
 希望すれば、科学的なもので行うことも可能である。
 とにかく、転生者の多妻多夫を恐れた。やるかやらないかではなく、それを望めば出来ると言うのが、重要であった。
 ともかく、転生者の血筋が広がるのを恐れたのだ。それも、不老不死が実現するまでだったが。
 理由はあいまいなものだ。父母の威光や、血縁を嵩にきた派閥のできるのを嫌った。恐れたと言うよりは、嫌ったと言う方が正しい。
 下手に全てを受け入れず、しかし格差はもうけるというのが、■■■■■においての距離の取り方である。
 ただし何事においても完璧はない。
 たとえば、さらなる防護措置として、基本、転生者には、一応希望すれば元の世界に還れるということにしておいた。どんな人間でも、なにかの気まぐれで故郷を望む。そのときが来た場合、摩擦が生じることを恐れた。もちろん嘘である。
 「枷」の存在から、それを望むということはありえない。ただし、例外は起きる。事実起きた事がある。この失敗例に基づいて、枷の方針はのちに変えられる。若干だが。
 で、このときはどうしたかといえば、正直に還れる方法はないが、転生者たちの協力があれば、実現の芽がある。実際、その案は出来ていると説明し、これに枷の強制力が加わって、うまいことどうにかなった。しかし、言いだされた側としては、内心大汗を掻いたことだろう。
 で、失敗。
 失敗と言うのは、厳密にいうと違う。
 確かに失敗は失敗だが、この失敗が起こったのは、すなわち、先に述べた土の賢人が訪れ、呪いをかけて、その後、解決策はなにをどうしても見つからないということに、腹を立てた■■■■■の人間たちに、腹いせにばらばらにばらされて、身体の各部になって薬液漬けにして、見せしめにされた。この土の賢人は、なので今もこの状態で生きていると言う。ときたま解析や解剖と偽って、名分のもとにさらに細切れにされて、少しづつ増殖させられて、ほとんど知性の失せた、何もできないみじめな状態にされて、なお生きている。
 この肉をちぎって遊ぶ、血塗れの研究者や貧民、富豪入り乱れての、夜会がかつて何度か催されたと言うが、冗談か本当かわからない話だ。
 それは休題として、早い話が、あきらめきれず(事実術の調整で、人の形を保っていたり、また、前世の記憶も異能も持ち合わせないが、まぎれもなく■■■■■の人間である、という転生例も生まれた。最後のひとつについては、最初の転生例において、研究者、学者たちが狂喜乱舞したし、期待もかけたと言うが、結果として何も起こらなかったため、これも鬱屈の晴らし方の対象になった)、術の実行をこころみていた途中、その内の失敗例のひとつ、その「スライムのようなもの」ができた。
 そして、こいつが三年ほどで、■■■■■を滅ぼしてしまった。
 滅びたと言うのは、存続不可能なほど、人間も文化環境も摩耗し、ものが成らなくなった状態になったことをこの場合は言った。
 ■■■■■は地獄と化した。しかし、人間側もさるもので、戦いの末に、こいつをこれ以上広がらないところまで押し込める事には成功していたのである。
 だが、そのためには、戦い続ける必要があった。厳密には、広がり続けるそれを滅し続け、それ以上広がらせないようにする、『作業』である。この作業は、最後の砦として、機能し続けた。
 希代の天才であり、後の世に不世出とされた「異世界転生者」の中でも傑出した一人、狂人オフェイロンを名乗る者を中心とした尽力によってである。
 オフェイロン(を名乗ったこの男)は、残念ながら、死んだ。鐘の病による。
 時の鐘と長くかかわり続けた者に、条件を不明として発生する。した。
 これが病と呼ぶかどうかはわからない。
 今もって、不治である。
 オフェイロンは死ぬ直前に期限を切った。
 そんぽ期限内に、異世界転生者でもなんでも、打開する方策を見つけなければ、■■■■■は今度こそ滅ぶ。
 だが、その期間内は、残ったモノから再建した文明の上、文化を経営できる安穏とした期間でもあるとも言った。
 だから、人類にはまだ選ぶことができる。
 このまま滅びるのか。
 滅ばずに、時の鐘を打開して再興を打ち建てるのか。
 人類は、滅ばずに、時の鐘を打開して再興を打ち建てる。それを選んだ。と、されている。今のところは。
 ところで、鐘の病にかかったものが何で死ぬかと言うと、簡単に言えば不老不死ではなくなるのだ。
 ■■■■■の人間は不老不死を実現した。当然、時の鐘から生き残った人々も、また不老不死だった。一見すると、だから、文明の崩壊には決して繋がらない。
 しかし、復興が出来ない。けっこう先に述べた事のとおり、このころの■■■■■の不老不死は、なにかを新しく生み出す、ことに産めや、増やせや、といったことに不向きだった。なので、不老不死の形は妥協された。現在の形になった。
 以下、現在。
 鐘の病にかかった者は不老不死でなくなる。二○○年の寿命をもつ、それまでの、普通に老いて死ぬ身体になる。理屈は分からない。今もって不明である。
 この理屈を解明する為に、時の鐘の生体組織をとる必要があるのだが、これがまずできないからだ。よって不治である。
 ある意味では病とは言えないが、不老不死がそうではなくなり、死ぬようになることにおいては、重要ではない。
 病である。
 あれは病とは呼べないかもしれない。
 あれはあなたたちを人間に戻す。ただそれまでの過程が長いほどあなたたちを苦しませる。
 老いだ。
 老いをそれに体験する。
 最後に死を体験する。
 水車小屋の神による滅茶苦茶な論理の、破滅を告げる鐘だ……。
 破滅を告げる、時の鐘。
 つまりは、そういうことだ。
 で、重要なのは……。
 今の事態だ。そう。
 なんだって? 
 その時の鐘が。
 ここを目指して進んできている。




 ■■■■■の一室。もう、天の庭でいいだろうか。
 どちらでもいい。時間は経っていない。

 グランスは長い回想から目覚めたように、目の前の光景をとりあえず見た。視線の先にはまずエスがいる。
「ねえ」
 エスは無視した。相変わらず、緊迫した、といういよりほとんど恐慌した様子だ。どこかとしきりに指示を繋げている。グランスは理由もなく、むっとした。
「おい」
 エスは答えた。
「それどころじゃない」
 相変わらずと言ったが、時間は一秒たりとも進んではいない。それが今は救いであるかのようにも。刻一刻と破滅の時が迫っているのだ。
 エスはとにかく、聞く耳持たない様子だった。しかし、苛ついているグランスとしては、それに配慮するわけにもいかない。
「そもそもここはどこだかまだ聞いていないんだけど、どこなの、天の庭の東? 西? はしっこ? ど真ん中か」
「やや西だ!! われわれは違法薬の生成の現場に踏み込んだ。治安維持の名目だ! 「あなた」は知らないかもしれないが、その生成法から鐘の病に対する『病の進行をただ抑えるだけの薬』は、とっくに違法と定められた! 使い込む犠牲の人数がやたら多い上にたかだか少し寿命が延びて若返ると言うだけの代物など、薬とは言えないからだ! 分かったか! 少し黙っていてくれ!!」
「よくわかったわ。じゃあここに時の鐘が踏みこんできてもせいぜい、ここの人間が取り込まれるだけで済むのね」
 時の鐘の性質として、ただひとつのものがある。それが溶かして飲みこむことだ。ただ、これが規模が無くて、あらゆるものに及ぶ。そして止める手段が、増え続ける文字通り、スライムのような、性質を持ったその肉体を滅し続けるしかない。
 これだけで、前の天の庭は滅びた。
 もちろん、それだけでもない。取り込んだものから、時の鐘はなにかしらを学習するらしい。
 また、取り込んだものの性質を、自分にプラスする。時の鐘は、これに終わりがない。
 なんというか、捕食でも、攻撃行動でも、自衛手段でもない。『ただ取り込み、自分の一部としつづけ、それを繰り返して増える』。
 そして、弱点には決してならない。一度取り込んだものはである。そして、どうも取り込まれた者達はみな生きているらしい。意思としては単体。生物としても単体。だが、群体でもある。
 そもそも意思というような明確なものがあれにあるのかどうか。行動パターンをかつて分析した結果が出た事はある。それによると、あれは蟲以下の、いわゆる単細胞で生きる生物で、知能は持ち合わせていないと推測されている。
 ただ、もともとは、異世界転生者である。
 呪いのせいで、人の形も前世の記憶も消失したとして……持っているのが、たとえば『異能』でない、とは言い切れない。
 魔法に通じた者達は、あれに記憶と知性があると唱えた。不謹慎な者達だということで、棄却され、追放された。追放と言っても貴重な天の庭の生き残りである。
 殺すことは、ましてや、何かしら減らすような真似をすることはできない。冷凍睡眠にかけられ、封印された。
 それほど天の庭は、弱っていた。弱体化していた。
 記憶はともかく、知性とよばれるものが、時の鐘にある。
 まず、吸収、あえて、取り込んだ、というが、そこから、特性を吸収する。身に着ける際に、不老不死は取りこんでも、必要以上の知性を得ようとしない。
 魔法も得ようとしなかった。科学も、削ぎ落された。ただ、なにが危険か、魔法の、科学のなにが脅威となるかは身に着けていたという行動が確認できた。
 そうして、こちらのあらゆる手に対応してきた。分子でさえも、そして取り込んだ。身に触れるものは毒物だろうが、ただの酸素と二酸化炭素、水素の混合物だったとしても、取り込んだ。
 多くの人間も取り込んだ。というより、天の庭の古い頃の人間たちも、やはり人間皆不老不死である。殺されるということがないから、当然喪われたと言うのは、これに取り込まれた。全てである。
 つまり、それだけの人間を。
 というより、人間を取り込んだ時点で、その把握は、人間の知性そのものによって、隅々まで及んだはずである。それでいて、なおも、その特性が大きく変化することはなく。それでいて、外部からの刺激には、どんどん柔軟で臨機応変な、無敵さと万能さを手に入れ、栄華を誇った文明を地上から消し去った。
 すべて、溶かして飲み込んだ。
 以上のことから、時の鐘に知性は存在した。そう言うのである。
 また、大したことではないが、そのころ星間を飛んでいた者達も、天の庭の風説どおりに存在したが、これも同じであった。最初、反撃が可能となったのは、この外部、つまり宇宙からの手出しがあったためと言うことになる。
 だが全滅した。
 救けに来た者ばかりではない。外に出ていた者達は、その後能動的に滅ぼされた。時の鐘の手は、いかなる手段をもってか、星の海のはるか向こうまでも、届いたのだ。
 これは記録が残されていないから、それがどのようにして行われたかはわからない。
 とにかく、星の外に出た天の庭の者達は、今そこに一人も残っていない。反応が確認されない。
 すべて、時の鐘の内部、生き物で言うなら内腑、とでもいうのだろうか。そこにある。
 反応が確認される。
 「溶かして」飲み込むというのは、完全に溶かすわけではない。また、溶かすわけでもない。ただ、飲み込みやすいようにする、予備消化の意味があるらしい。唾液、の役割。そんなところだろう。
 事態はひっ迫していた。
「それだけではすまない。今、ここには、四九名の原生種がいる。これが取り込まれれば、この天の庭の外に人間がいることがばれる。そうなれば、時の鐘は、ここを出て外へ向かう。天の庭の外へ出て、その全てを飲み込むだろう。かつてのここと同じように」
 グランスは眉をひそめた。
「待って。なんでそうなる?」
「ああ、時の鐘はここのかつての人間等も、星の外の者らもぜんぶ取り込んだ。なら、天の庭の外に人間がいて世界があることはとっくに知っているはずだ。だが、残留物からかろうじて分析したところによると、あれは知らない。いや、ここと星の外にのみ世界があり、人がいると思っている」
 エスは言った。
「なぜなら、それ以外は人がいるとも、世界とも認識していないからだ。天の庭の、きみらが未踏破領域と呼ぶ枠の外には、人や世界と「認められる」ものは「ない」、と、そう信じ込んでいる。決め込んでいるといったほうがいいか。これは、古い天の庭に生きる人間等の共通の意識だった。あれはそれに染まった」
 時の鐘は、自分の行動を阻害するものを知性をもって選別しているらしい。
 あるいは、人間を最初に取り込んだそのときに、知性を得たか。どちらでもいい、今となっては。
 グランスは言った。
「話はわかるわ。でも、それってあえて手を出していないだけではないの? あなたがたの分析っていうのが間違っていたりしないの?」
「それはない。なぜか、どうしてか、その理由は、解明できなかった。だが、そのような理由で、あれは今の天の庭の外へ出て行かない」
 グランスは、手を振った。
「よろしい、ならよしとしましょう。追放者の楽園の人間が、まだ一人も退去されていない理由は? 来るまでに間に合わないの?」
「摘発は急だった。そもそも、今まで尻尾を掴めていないほど巧妙なやり口でこの生成は行われてきた。わたしたち追いかける側の技術が、この天の庭の内部のものだとするなら、向こうもまたそれと同じ技術を使い、隠ぺいする。簡単ではなかった。だから、あなたたちをいざ退去させるにしても用意と、そもそも、退去の実例自体、なく、経験がない」
 エスはふと気づくと、声音の様子が変わっていた。
 一変していたのだ。
 ひどく冷静だった。
 取り乱した様子がない。
 しかし、この様子を、グランスはよく知っていた。
 だがエスがそれを浮かべるところは想像できなかった。
 それは、彼女が天の庭の人間だからである。 
 エスは、ゆっくりと言った。
「それに間に合うかと言ったが、もう数分も前から、時の鐘はここに着いている」
 めし、みし、という、すさまじく不快な音がした。
 ばきり、めきり、みきり、みき、み、き、と、と。
 と。
 まさに、怪音。
 すべてが暗くなった。




 未踏破領域。

 恐越公領地内。『碑』。
 異変が起きたようだ、として招集された。
 スリーヤ。それと護盾隊。
 護盾隊は、盾にて護るとついているだけで、内実は、盾となり護るとなる。その理念のもと、破壊に特化した、人類のきわもの連中が集められ、組織化に堪えうる人材だけがそこから選り分けられた。彼らはスリーヤを立てる。
 スリーヤが護盾隊のきわものを全員相手どっても、さらに勝ることもある。
 実際、それが殺し合いであれば、スリーヤは、一度に彼らが組織だって自分を降しにかかっても、全員を行動不能にして立つことができる。
 しかし、彼女にとって、勝てる勝負は、明日の天気ほどにも関心がない。自分の中での比重も恐ろしく軽かった。なぜなら、スリーヤにとって、もっとも軽いものは自分の命で、次がそれ以外である。
 たまにそれ以外を抜いて ぐんと重たくなるものがある。それをのみ、スリーヤは命をかけて護る。
 ただし、それも天秤の話である。要はどちらが軽いかだ。
 彼女の中には秤があって、すべてに平等であるなら、それは、どれもなんら変わりないということかもしれない。
 で、隣にスミスがいた。
 スミスの実力はさほどでない。異能がなければ弱い。
 だが命をかけたことなら、時にスリーヤも殺しうる。行動不能にすることはできないが、それだけならできるという男だった。
 もっとも、この男が殺し屋のような人格破綻者ということでもない。
 その殺し屋じみた男は、碑から未踏破領域の光景を見回して、拍子抜けしたのか、ほほをかいた。かゆかったらしい。
 口は別の事を言う。
「領主のやつが外したかな。転送の法術は貴重だってのに……俺が言えた義理じゃねえけど」
 それを言うなら、バーミィはもっと言えない。
 あのオズと言う、刃物のような男を追っかけてくるのに、その貴重な法術倶を使用している。スミスはそれで戻ってきた。で、緊急事態だと、スリーヤの元にやってきた。
 そのバーミィもこの厄介に巻き込まれたようだ。
 東の国で冒険者などにうつつを抜かしている罰、と、誰かが陰口を叩いたが、どうやってかこちらに帰国していることを、領主に知られたようだ。
 臨時の人間として、未踏破領域に派遣された。もっとも、彼女は予備員だ。怪物と直接相対すうr役目ではない。それは彼女の強さでは任せられないと判断されている。
 まあ、それでどうかなる人間ではない。
 いや、内心がどうかなど知る由もない。バーミィはスリーヤの知り合いとしては、些少、その比重が他の者より重いようではあるが、それだけだ。心も感じとれない。
 しかし、輝くような意思を感じる。それは、折れて曲がっても「ぐにゃり」と、叩きあげた鉄のように形を立て直す。
 それはスミスにもないものだ。スミスは、スリーヤに少し近い。
 バーミィはそこから離れた、……そう、人間だ。強い人間だ。
 人間か。
「おい、気をつけろ」
 スミスがふと言った。こめかみを指で叩いている。頭痛でもしたような仕草で。眉をひそめて、眉間にしわが刻まれている。
 険しい顔、と言ったところだ。
「予知?」
 スミスは、首を振った。が、口では肯定した。
「そうだな、今しがた見えた。もっとも、情報を聞いたところだと、気をつけなくてもいいとか言うことだ」
 ふむ、とスリーヤは大真面目に頷いた。
「全然わからない」
 未来が見える、演算結果がどうでどうとか、本人は言っていたが、興味はない。
 その未来が見えるのは、スミスの意思で行うことができないらしい。よほどの「力」を何かこめれば、一瞬だけ、もっとも自分の意思で行う事が出来るらしいが、すさまじく消耗する。三日は寝こむと言う。
 父親の下で訓練を積んだおかげで、すこしづつ消耗することで、より多くの結果が届くようになった。これは慣れであるそうだが、それなりに疲れる。ついさっき、話している最中も、飯を食べている最中も、実はこれは行っていた。
「俺にも分からんが、気をつけろとは出ているんだから、従ってみようぜ。それにどうやら、いや、待てよ、それならそうか。だとすると、どうだ? いや、そもそも、なんだ、これは?」
 ぴしぴしという緊張感が、どこかから吹いてきた。
 護盾隊には何人か感じとれる者がいたようで、気配に緊張がみなぎった。
 スリーヤは、隣で一人ぶつぶつ言っているポンコツ頭を、叩いた。いて、とスミスが言う。なにか腹が立っただけだが、スミスは非難がましく、ちらと見てきた。
「一人でぶつぶつ言っているんじゃないよ。周りが気にするだろう? 何か気を取られる事でも?」
 言う。スミスは言、おうとして、やめた。というような感じで、口ごもった。そのまま言う。
「恐越公の情報はハズレじゃない。当然か。それはともかくとして、こいつは異変じゃないぜ。世界が滅ぶ瀬戸際が今から起きる。……そしてそれには「お前」の重大な人物二人が関わっている」
 最後だけ、別人のような声で、スミスは言った。
 そして、口を押えた。気味悪そうに。スリーヤは言った。
「お前って、私?」
「俺のことだ。ときどき、これをやると、変な風になることはある。口が勝手に動いて、俺のものじゃない声で語る。たいていは不吉や不幸の予言だ。それは必ず当たる」
 どこかで、つい最近聞いた話だ。
 ともかく、スリーヤは護盾隊の面々を向いて、警戒態勢、とだけ短く言った。統率の取れた動きで、それらが散らばっていくのを見つつ、スミスが見ている方向に目を凝らす。異変はその時に起きた。
 空気が震えた。時間、と、そのようなことがあるかどうかわからないが、あったとしたら、そうだ。そのような表現で、悲鳴を上げるのが見えた。
 星が瞬いた。怯えるようだった。
 もっとも、昼日中だ。まだ星は見えない。
 そういえば、怪物の姿も見えない。恐れを為して逃げるということのない、あれらがである。が、これはそういうことだから、単に近くにいなかったのだろう。
 碑から向こうを見渡す、未踏破領域は限りなく殺風景だ。見渡す限り、砂漠と、その向こうにある、天の大きな人がふざけて手でこさえたような、ここからは岸壁が見える。これが崖であることもあるらしいが、碑から見えるのは、切り立った山塊の方である。
 それが、煙を上げて割れた。
 崩れ去った、というのか。
 現実離れがした光景だった。ざわめく間もない。山塊に当たる、壁と突き立ったのの、はるか空の頂である。あの部分になると、ほぼ人間は息が出来ない。
 その辺りから、たとえば砂埃が上がるような。そんな気楽さで、岩塊が崩れていく。それがゆっくりと、というほどではなく。見える……。
 さすがに息もできなかった。
「嘘だろ?」
 向こうを見ていたスミスが言った。声が震えている。
「時の鐘……世界が滅びる」
 言う。
 そのとき、光が射した。
 岩塊の崩れ去る向こうに、なにかが、ぬう、と現れている。
 それは大きな雲のような形をしていた。血がざわめく。スリーヤは、血が黒くなるような凍り付いた空気の中で、思った。
 あれを。
 あれを、滅したい。
 心がどうしようもなく憧憬を訴えている。
 この世を終わらせる力。
 逆らえない災厄。
 つまりは、この私が倒すべき究極のもの。
 差した光が、びゅお、と、点のように回った。そこで、そうやらそれが空を飛んでいるらしいのが分かった。




 実は数分ほど戻る。天の庭。

 やや西。
 去る富んだ民の邸内。もっとも、その富んだ民は。違法の薬に手を出して、やってきた摘発の者達に拘束されているらしい。
 どのような措置になるかは少し興味があった。富んだ民とやらは、鐘の病で死にかけている。しかし、今はそれどころではない。らしい。
「さて」
 怪音。
 鳴り響いた後にも、まだグランスたちは全員無事のようだ。ただ、灯りは相変わらず落ちている。
 闇の中で、手をひとつ叩いて、アキホは言った。
「世界の危機らしいのはわかったでしょう。動くときじゃないかしら、グランス」
 親しげに言う。ほう、と、グランスはため息をついた。
「やっぱりあんたが何かやっていたの」
 エスが、といっても姿は見えないが、激しくそれに反応したのが感じられた。
「なんだと!?」
「おい、待てよ! またあんたなのか!? これも!?」
 オズが言うのはだいたい同時だった。
 アキホはどう反応したかわからない。
「いや、さすがに私の仕業じゃないわよ。ただ何をするかは知っているし聞いていると言うか」
 最悪だな、こいつ、と、グランスはぽつりと思った。
「オルグ?」
 おお、と、アキホは意表を突かれる声を出した。
「何でわかったの?」
「本当なんだ」
 なんだ、適当か、と、アキホは興をちょっと醒ました。
 激昂したのはエスである。
「なんだと!? おい、何言っているんだ!? さっきの思わせぶりな――」
 エスは言ってから、言葉が果てた。おそらく、気が遠くなりかけたのだろう。
「おい、嘘だろう。あんた、知らないのか! まさか、世界が滅ぶって言っただろう、天の庭の実情も、あれの可能性も知らずにやったのか? なにをやったか知らないが、嘘だろう!?」
 エスは言った。
「あれは滅ぼすんだよ!! 文字通り!! 世界を!! 星の海も飲み込むんだ、げんにあれのせいで、もういくつか、古い天の庭の民が入植した惑星が取り込まれている!! 異種族って知っているだろう、あれはこの大陸特有のものだ、あれはその子らだ、取り込んだ星に棲んでいた生物や、知的な生命体だのの格好が、土を通して、天の庭の外にしみ出している、その影響で生まれたのがあれらだ!! もともと異種族なんてもの、この大陸にはいなかったんだよ!!」
 エスは惑乱していた。混乱しすぎて、さすがに何をしゃべっているのかわからないようだ。
 アキホは持て余した、のかは、まあ引き続きわからないが、相手にはしなかったようだ。しかし、答えは言った。
「天の庭の内情なら知っているわよ? その上で、今回の騒ぎは起きているの」
「エス。時の鐘は、オフェイロンの布いた包囲から出られないでしょう?」
「出られない。だが、外から意図的に誰かが手引きしたとなれば、そういうことは起きるはずだ。もっとも、天の庭の中で今までそれをやった者はいない。だいたい、手引きしようにも、あのオフェイロンが布いた包囲は、それを許さないんだ。あれ以上の形を動かすなんて、オフェイロンと同等ほどの者か、それとも本人ならあるいはできる。だがオフェイロンは死んでいる。オフェイロン以上の者など天の庭にもいない」
 ふう、と、グランスはため息をついた。
 あの糞親父め。
 なにか仕掛けたのだ。余人にはわからない途方もない何かを、自分ら子供を、あるいは、オルグ一人のみを使って。
 考えられなかったし、エスの話の中からも考えるに値しない。だが現実に目の前で起きた事を考えるならば。
「もし仮に出られたとして――いや、具体的な話だ! くそ、脳が回っていない。私もどうかしているな」
 エスは言った。
「とにかく、今ここへ来ているのは、時の鐘のささいな一部分だ。だがそれは時の鐘にとって、ささいな問題だ。その一部分でさえ肉体を滅する手段が私たちにはない。今この場にいる手段では。オフェイロンの包囲から回すことはできない。そもそも、何者も、いまだあれに手を加えられる者はいない。戦力は回ってこない。現在のそれ以外の総戦力の八割ほどで、今来た部分に、対応することは可能になるだろう。だが、揃える時間がない。外では攻撃が始まっている、必要の八割には三割程度しか及ばない戦力で――」
 つまり手詰まりってことよ、と、アキホは言った。
「そのとおり、オルグに先導された時の鐘は、ここへ来て、その一部からここを取り込んで増殖し、本体と繋がって、一気に膨れ上がり、星の海もなにもかも飲み込むでしょう。さっき話した通りね。それがあれの役割のようなのだもの。さあ、そこでグランス、あなたよ。あなたはあれに対抗できる力をオフェイロンから貰っているわね。それをここで見せる時でしょう? 見せて」
「ま、正しくは対応する力だけどね」
「な、なに?」
 エスは言った。こちらへ来る気配がする。
「それが本当なら」
「嫌よ」
 グランスは言った。
 エスの言葉を遮って。
 怪音は、まだ続いている。
 アキホが反応する様子が感じとれた。
 その前に、エスが言った。
「……え?」
「グランス?」
 これはアキホである。
 グランスは言った。
「断る。と言った」
 怪音が続いている。
 反応はなかった。顔が見えないのがじれったいことだ。
 誰からも、今の言葉に対する反応がない。
 それに不満を感じながら、グランスは言った。
「嫌に決まっているでしょう。あれを使ったら、私はこのあと永久に兵器になって、あのぐにゃぐにゃしたなんだかわからないもんな、時の鐘と戦うんだ。オフェイロンがそう確約したからね。王撃限定廷装は組み込んだみっつの人格をひとつに統合して戦うことで、対世界戦力として、時の鐘の包囲に加わる。つまり、オフェイロンが設定した年数を、戦い続けてあとは塵も残らない。時の鐘を抑えられなくなるってことは、用済みってことだからね。そのようにして、包囲の中の連中は戦っている。それに加われって言うのは、これはちょっと冗談じゃないわ」
 よしんば、と、グランスは続けた。アキホかエスか、なにか言う気配がしたからだ。先を制して言う。
「世界が滅ぶっても、私、それで惜しいものとかないし、怖いことは怖いけど、まあ、成り行きよね。仕方ないんじゃない? どうせ滅ぶなら、私は戦わない。だいたい、絶好の好機であると思わない? 主にみっつくらいの意味で」
 言う。
「いい? 私は、この天の庭ってくそったれな所に身体も人生もめちゃくちゃにされたのよ。怨みがある」
 言う。
「そこの連中が、困っている。大変だ。自分たちが滅びる。いや、滅びるのは世界だけど。それで死にたくないと言っているの。これ、ざまあみろでしょ。バーカって」
 言う。
 無言だ。
「それがひとつ。もうひとつはあんたよ、アキホ」
「私?」
 とは言わなかったが、グランスは構わずに言った。
「あなた――」
「そうそう、それ。あんたの、絶句した顔が見たかった。私にノーって言われてね」
 グランスは笑い出した。
「あははははは! 予想通り。いい気持ち! 顔が見えないのが残念だけど!」
 そして。
 怪音がひときわおおきくなった。部屋のどこかが壊れた。
 なんてね、と、グランスは、小さく呟いた。
 大剣を引き抜き、地面に突き立てる。
 大剣の先は、固いような柔らかいような床に当た――らなかった。
 刺さるように、なにかに突き立った。それは、柄を、柄に当たる部分を。グランスの両手が握りしめ、やがて、光が放たれた。
 闇の中に浮かぶ白い炎である。それらが鱗粉を撒くように、部屋の中を舞った。それが、エスを、アキホを、グランスを、ローマンを、オズを、順繰りに照らすように、顔を映し出す。
 気づけば大剣は、何かに先を覆われている。それは岩だった。正確には、岩のような何かだった。それは硬く、白く、輝きをほのかにはなつような。
 そのような意匠で、剣を包みこんだ。それはせり上がっていた。
 まるで鍵を回すように。
 がりゃりと、グランスが剣を回す。
 それは正しく鍵のように。
 正しき所に、正しきものがはめ込まれたのを感知して、鍵が、中の金属を上げるように。決められた金型にそって、決められた金型が回ったようにして。
 それは、動き出した。
 炎を散らして。
 黒い炎と白い炎。そして、炎。赤い炎。
 その三色が入り混じり。
 やがて、白がそれを、蚕食した。光喜。
 光あれる喜び。
 その大いなる創生と、目覚めを!!
 グランスは呟いた。
 そして、その言葉と共に飛び立った。その場に、捨て置かれた人間らを残して。
 その言葉は、このようだった。
「【BRIGHT・△ND・TENDER・FR△ME】」

「音紋照合。魔錠確認。魔錠・開廷。【取り急ぎ判決を下す。時の鐘よ、去れ】」

 天の庭について語ろう。
 破滅した天の庭は、やり直す時に、前回の反省を踏まえ、最初均一に標準化することを目指した。それがより高い文明として維持する為に必要な結論と考えた。
 が、結局、やり直してもハイテクを受け入れていく者らと一定以下のローテクを必要とする者らに分かれた。前回ではこれらの人間は切り捨てられたが、今度はそれらを維持することにした。それが、より高い文明として人間がやっていく為に必要な結論と考えた。
 そのため、ほぼ全ての人間が、天の庭における情報の約九九.八一九パーセントを把握して、アップデートし続けている状態である。残りのものは機密と、このハイテクまたは文明に賛同しない、そういう者らの個人情報などだ。
 余談ではあるが、この残りの隙間を縫う形で、薬の生成は行われていた。しかしながら、これも受け入れるべき少数である。そう判断されている。
 最初目指した彼らにとって、天の庭の文明は理想としたものではなくなった。そしてここに鐘の病と言う要素が入り込み、今に至るのは今更言うことでもない。
 このことからも、時の鐘を機械仕掛けの神、【DEUSEX・MACHINA】と呼ぶ。呼んだ。

「魔【杖】の展開により、現惑星の周回軌道上より展開者へ向けて王撃限定廷装の発射を実行しました。蒸着は三秒で完了。蒸着。廷装の完成に足りません、失敗。【差異を修正】宜しい、存分に最終命令を実行しなさい、【BRIGHT・△ND・TENDER・FR△ME】。世界に未来を」

 要するに、音紋照合も、自動音声が流れるアナログチックな仕掛けも、一定以下のローテクを必要とする者らを切り捨てなかった名残である。
 廷装の装着は特に音もなく行われた。衝撃もない。でなければ、あの場所で解放はしない。
 これに本来込められたエネルギー、というか、そう表現するしかないような、膨大な力は、惑星系での使用が危ぶまれる。
 簡単に星を割る。星が割れれば世界もクソもなくすべて吹き飛ぶ。
 しかし、時の鐘は死ぬことはないのだ。
 結局あれは、星の海から降り来た古い天の庭の人間たちとの戦い。それを通して、いろいろなものを取り込み、その結果として他所の星までも手を伸ばした。そのときに他所の星と言う概念を知った。
 というか、いくつか惑星を飲み込んだ。それは、エスの言ったとおりである。
 つまりこのちっぽけなオフェイロンの包囲と言う中に、時の鐘はいるが、そうでなければ、銀河級の大きさは擁していた。かつて取りこんだからである。
 銀河系を取り込んだ時の鐘は、銀河を理解した。つまり、他の銀河も飲み込まれた。
 今のところ、取り込まれたと思われる知性体の理解していた銀河のみに、これはとどまっている。
 しかし、時の鐘はその程度の規模をすでに有している。
 追放者の楽園と、天の庭が残っている理由はなにもない。
 しかし、なぜかとどまっている時の鐘により取り込まれていないのも事実である。
 宇宙はなく、太陽はなく、惑星系もない。そのなかで、追放者の楽園と天の庭、そしてこの惑星の多くの部分において、いまだ現存している。
 これは天の庭が行った幻像が、そのように見せている。また、維持もその魔法と科学が請け負った。
 この状態をどういうかは知らない。
 しかし、天の庭が請け負った維持は、すでに存在しないものと成り果てた。
 グランスは、ひとり眉をひそめた。
 要は。
 要は、この世界はすでに滅びている。
 時の鐘を滅した程度ではなにも変わるまい。
 時の鐘のような超自然的なものが、もうひとついたとしよう。
 そうすれば、この状態は解決できるかもしれない。
 ……そのためにこそ、今も行われている、天の庭の異世界転生の術であり、その犠牲である。もっとも、犠牲とそれは言えるのかどうか。
 すでに多年に渡る失敗の積み重ねである。
 天の庭に残る人口は、一言で言って減らしがたい。
 そうなると、結論はひとつである。
 この犠牲を負担する為に特化したものが必要だ。
 人造生命。
 無難な結論だ。魔法がいまだに存在するための、異世界転生の実行に次ぐ、もうひとつの理由でもある。
 エスは異種族をあのように言った。人造生命の完成、または製造には、いまだに失敗作が付きまとう。魔法の悪い癖だ。ムラがある。
 失敗作は捨てられ、予想をまた裏切って強靭に増える個体も出た。
 これが異種族のもうひとつの根っこである。
 包囲が完了した。
 時の鐘の現在の位置は、天の庭のやや西よりの一角に当たる。
 そのちっぽけな一角を、今まさに全て飲み込まんとしている。さすがの早さだ。
 グランスは舌を巻きつつも、包囲にねじ込むことで、時の鐘の増殖が停止したのを確認した。
 B包囲完了。命令。当該包囲における戦闘の勝率ありません。
 時間。計算中。数年。
 警告。
 このB包囲において、時の鐘の完全殲滅なりません。B包囲を続けることに意義を見出せません。撤退を推奨。遺憾。【BRIGHT・△ND・TENDER・FR△ME】寿命計測を開始。
 警告。遺憾。警告を中止します。以後、この音声は流れません。戦闘続行。
【BRIGHT・△ND・TENDER・FR△ME】。
 無意味な単語の羅列であるが、これはあえてそうしているとされる。
 敵にとっても自分らにとっても、この名前を付けることに意義を見出してはならない、というのがオフェイロンの説明だった。
 どうでもいい。外郭を展開する。
 要するに、王撃限定廷装とは、星であり、銀河である。いくつも重ねた鎧である。
 かつてオフェイロンに見せられた外観は、どう見ようと、恰好のいいものではなかった。しかし、恰好は関係ないことだ。グランスは当時からそう思い、それ以外で捉えなかった。
 花から頭だけを出した、蓑虫に似ている。すると、花ではなく蓑というやつか、あれは。
 蓑は特定の繊維質をもったちくちくした植物を刈り取って加工する。
 これをつけた人に似ている。
 しかし手足はない。
 ずんぐりむっくりとした体じみたものが蓑の下にはある。
 これは白い荘厳な鎧を身体中におおった、へんてこなものであった。そうとしか表現出来ない。
 最大の攻撃は、体当たりになる。これだけで、星の数個は消滅するとか。
 魔法と科学の融合でできている。どこがどうしてどう作られているかを、全てグランスは説明を受け、完全に理解していたが、ぜんぶ意図的に無視していた。意味がないからだ。癪なことだがオフェイロンもそう言った。
 同化し、誰よりも近しいものとなるのだ、オフェイロンの言によれば、これは肉の一つもないのだが、生命でもあると言う。この矛盾した在り方は、魔法が可能にする。巨人の使う魔法だ。
 これは干し首だとも、オフェイロンは言った。
 いち惑星の、いち生命でしかない、あの巨人。かつて長く生き、人間に果ては首を刎ねられたというあの巨人。
 目と脳の一部を抜かれ、干し首にされたと言うあの巨人。
 王撃限定廷装は、これを模した。
 模すことでそれそのものであろうとした。
 これは、神である(便宜上であり、神と自分で名乗ったこともない)時の鐘に、対抗し得るのが、この星で、その巨人の存在だけだったのが理由とされる。
 神。
 神がこの世界にいたことはかつてないという。
 これには奇説というか、おおむね、公式の歴史として見られる話があり、神の対となる存在として悪魔がいる。
 異世界の話だ。こちらでは、神とは、信仰の対象として設定されるもので、神を起点に、譬えや比喩を用いて、人に生き方の指針を示す、という理想のもとに語られる。これを神話や、故き事と呼び、時には書も散見する。
 追放者の楽園について、すこし語ろう。
 天の庭と追放者の楽園の境目に当たる、未踏破領域。自然の要害だけでなく、ここをうろつく怪物がおり、いわく、台地より巨大で、人の手を以てして討たれることがない。真なる「怪物領域種」。
 そのように言われていた頃、大陸、もしくは追放者の楽園に、一定以前の遺跡・建造物がないことがすでに確認されている。
 これは通常ありえないことだ。よって、人為的に撤去されたと結論づけられ、一笑に付された。
 未踏破領域と言う、絶望的な、しかし奇跡の産物を目にしても、容易に人の眼は信じさせられなかった。
 彼らがこの世界は終わっていると言う事実を突きつけられたとする。だが、誰も信じないだろう。同じように笑うだろう。
 世界の果てとは、終わりとはつまりそのようなもの。
 終わっていると言う事実が、つまりあるだけで、しかし、人の生が変わることはなく。この世から絶望は取り払われまい。
 業のふかい生き物。
 であるからして、そこに真正面から突っ込む馬鹿が一人いてもいいだろう。グランスとしてはその馬鹿になりに来た。
 体当たり、は知覚できない。
 これは、まず時の鐘の体表数センチほどを削った。と、計算に出た。
 やはり威力が足りない。
 そも、時の鐘には取り込んだと言う、数個分の銀河を併せた耐久力がある。
 おそらく攻勢に出た威力は、その数倍をゆうに上回るとされるが、計測されたことはない。時の鐘が攻勢に出るのは脅威と見なしたものが現れた時のみである。
 脅威でないものは、捕食・誘引の対象であるから、そのようにしてくるし、そのようにしかしてこない。
 それだけでも、こちらにとり、命がけとなる。
 抗う事が出来ない災害。これは死と意味が同じくなる。結果もまた同じ。
 王撃限定廷装を纏ったグランスは、少し結果が伸びるだけに過ぎない。
 盛り上がった時の鐘の肉体が、ゆっくりと対象を圧し包む動きに移るのを計測しつつ、出力した動きに、鎧が開く。
 花と譬えたのは、この動きのためだ。外郭、と呼ぶ、鎧の一枚、二枚目がまさしく花びら状に展開するようになっている。ここから無数の触手が出る。触手、とたとえはしたが、実体がほとんどなく迅い。
 ただ、時の鐘の動きは、人間が技術の粋を絞っても、到底及ばないほど速い。
 また、あらゆるものを取り込み、そうできないものはない。触手もそのうちになる。
 ただこの触手の数は無数であり、無限でもある。再生する。自ら切り落とす。
 速さがかろうじて拮抗する。この隙を攻撃に当てる。もっとも、不完全な廷装の威力をもっては、弱々しい自衛である。
 この触手を大雑把に解説すると、一つ一つは眼に見えない細さである。微少生物を顕ずる鏡の、現界の域の精度を以て、ようやく細い何かが見える。
 これが無限に伸びる性質を持つ。また銀河一つ分に相当する硬度がある。
 それでも、簡単に時の鐘には触れられる。であるから、触れた所から、硬度と速度を以て切り裂く。
 攻撃方法は、ほぼこれ一つである。だが、これだけでも、押されながらも拮抗はできる。
 で、最大の特徴が、包囲。B包囲などと音声は言うが、どうでもいい。
 これが、時の鐘のそれ以上の増殖を止める。
 不完全な廷装の現状で、もっとも発揮できるのは、これが一番である。
 先述の通り、戦いにはならない。
 想定した年数も稼げない。
 が、数年もてば、満足だ。
 こちらに割かれる包囲の戦力が、このぶんを排除するかどうかはどれほどの確率か計算できなくもないが、しない。
 じゅう、と、肌が泡を立てて焼けた。
 廷装への攻撃が、還元されて、肉体に影響をもたらしている。
 もちろんのこと、すでにグランスの肉体は、廷装である。
 だが、ここにもう一人のグランスとも言うべき人格が、接続されて出来上がっている。
 ハイテクを受け入れられない者への、一定以下のローテク。これもそのようなものだ。
 それが悲鳴を上げている。
 時の鐘との包囲に足を突っ込むということは、このようなことであることも、グランスには分かっていた。
 それにしても、オルグはどこへ。
 行った。
 のか?
 妙な分断を感じた。
 接続した意識の側へだ。
 なにかが侵入してこようとしている?
 いや。
 これは。
「ひ――」
 オルグ。いや。
 それだけではない。
 外と、内側から。
 同時に、なんだこれは。
 二か所から、前後から同時に貫かれるような傷み。これは、しかし。
 頭は痛みを訴えていた。しかし、感じられないほどだ。快楽にも似ている。いや、似ているではない。
 感じているのだ。実際に。身体が。
 廷装と化した身体。接続したローテクの身体。それと意識が形作る身体。
 そのいくつもが、いくつもの感覚を感じているのだ!
「ぐ。あ――!? ひ」
 グランスは、ため息を漏らした。悲鳴を漏らした。嗚咽を漏らした。一度、いや、何度も味わったかのような感覚。それでいて――。
 まるで、未知のような感覚。
 緊急事態を伝える精神。
 が。
 グランスは、瞬時に平衡を取り戻した。
 相変わらず、身体をまさぐっているような感覚に、棘を刺すように呆れた言葉を投げる。
「オルグ?」
 オルグは言った。
「いいや」
「?」
 オルグは言う。
「私だよ」
 ……。
 無音。
 無音。
 グランスはかっと目を見開いて、恐怖に引きつった表情をした。
 すべての理解が強引に流れ込んできたからだ。
 その隙に、肉体の、廷装の――支配権が犯される。
 身体が、冒される。
 グランスは無意識に抵抗した。だが腕が曲がる。足が圧し折れる。腹の肉が捩じれて、憎しみが肋骨と共に開いて飛び出す。
 体中に絡みついた触手のように、全身が犯される。穴と言う穴から、血が噴き出た。
 これはすべて、肉体の形を保った方で起こった。
 依然として、天を地を抉る廷装体と化したグランスは、戦いを続けている。
 かっと見開かれた眼に、血が滴った。
「お父さま……!!」
 グランスは言った。
「『お父さま』なのですね、ああ、でもなぜなのですか、なぜなのですか」
 精神がねじれ、言葉が吐き出される。口元は歪んで笑いの形になっている。グランスは微笑んでいた。唇が無残に化粧された。
「そうだ、私だよ、わが娘」
 オフェイロンは言った。――オルグの中にずっといて、その力で廷装に侵食してきた。
 そして、グランスの中にもいたオフェイロンが言う。
「だがなぜとは、またなんでそんなことを聞くのだね」
 ごごん、と、すさまじい振動が、肉体の方まで響いた。
 今のは、廷装が、外にいる廷装体が、受けた衝撃。
「緊急。緊急。寿命係数変動、ゼロ地点まで、あと五分」
 このクソ親父、と思いながら、グランスは答えた。
 要は、ずっと騙されていたのだ。
 オフェイロンは、肉体として死んだとき、グランス、オルグ、スミスの三人に仕掛けていたあるものが作動するのを知っていた。
 彼はごくまっとうな異世界転生者であった。
 その証として、ちょっとした異能も持っていた。ただしこれは転生者たちの間では、低能である。
 魂を二つ持っていたという。
 意外にも霊魂の存在について、天の庭では、肯定的でなかった。
 魔法と科学の融合により、あるいは合祀により誕生する生命は、生物の増加現象に寄りそう。
 魂などという不確かなものはあってない。
 ただし、オフェイロンは少し違う。研究者らから離れようが、彼が天才であったのには変わりなく、それ以上に転生者であった。自分の二つの霊魂というものについて、徹底的にその利用の仕方を知っていた。
 それは肉体が滅びても、もう一度の生を保証するというものだ。
 それはすなわち彼が集めた三人の子供たちにより達成された。
 彼は生きていた。三人の子供たちの、肉体の、意識の、すべてに少しづつ宿る血肉として人格を以て!
 なんという悪趣味か。
「このままでは世界が滅びます。私が数年でもここで耐久しなければ」
「グランス、我が娘。君は私を殺したね。その報復は当然なされるべきだ。遺恨だよ。これが私の人間らしいことを顕す証明だ。見たまえ、私は人間だった」
 いつも通りぶっ飛んでんじゃないわよ、クソ親父と思いつつ、グランスは訴えた。
「あんたが苦労してこしらえた包囲もぶち壊しになるって言ってんのよ、クソ親父」
「我が娘」
 オフェイロンは言った。
「よくそこまで成長したね。父親として嬉しい。義理だがね。しかしながら、人間にはこのような命題をもつ人間もいる。すなわち、自分が丹念に作り上げ、拵え、今日まで長らえさせたものを、予定通りのプランで、一気にすべてを台無しにする。これで、私は望んだものを手に入れる。なにとは決まっていいがたいが、たしかに形ある何かを……」
 オフェイロンは言った。うっとりしながら。
「素晴らしい充足感だ。充実だ。私以外には、私に用意できなかった。見せることも」
 おお、神よ。
「寿命係数更に変動。再計算……ゼロまであと三秒!」
 グランスは何か言おうとした。
 だが何かが前後から腰を押さえつけて離さない。下腹部から恐ろしいまでの感覚がする。
 胸に気付くと何かが生えてきた。
 それは振るってきた、この手にいつもあった、グランスの魔杖だった。貫通している。口の端から、おびただしい血がだらだらと下へ流れた。
「さようなら我が娘。最後まで哀れに死にたまえ」
 グランスは不意に、恐ろしい想像をした。それは喪失感だった。
 足が、腕が、自分のものではなくなっていく。
 ぐう、と、呻いても止まらない。ぐるぐると感覚が廻り、勝手に呼吸が止まり、地獄のような苦しみが無くなり――。
「あっ……あ――、ああ――、――! ああっ!!」
 何を言っているのか。
 そう、端的に言って。わからなかった。
 乗っ取られる。いや。
 このままだと時の鐘に取り込まれるのが先か。
 それとも、今がそのときであるのか。
 実際外の肉体は、すでに時の鐘に取りつかれ、溶け始める。
 それが分かった。
「ところで、【DEUSEX・MACHINA】の由来のことだけど、どのようか、わかる?」
 アキホが言った。グランスは、答えた。目をぱちくりさせて。
「へ? ああ、あれでしょ? その言葉が出来た頃、すでにこの言葉が使われるきっかけとなった演劇の舞台では、役者をクレーンのような仕掛けで、舞台に送り込む、登場させるってことができていたのだけれど、このクレーン上のものなんかを機械仕掛けと呼んだのよね? それでディー・エクス・マーキナー、機械仕掛けから出てくる神様の役の役者っていう……」
 そこまで言って。
 グランスは身体が元通りになってることに気付いた。
 辺りを見回す。しかし、誰の姿もない。
 この場所は、当然、廷装に接続された人格の置き場所なのだから、それはその通りだ。
 しかし、声が聞こえた。
 どこからだ。
 声が、その時聞こえた。
「そうそう、この世界に神はいない、の続きだけれど、異世界ではだいたい神がいたら、悪魔と天使、もしくは悪魔がいたりなんかするけれど、この大陸にはどちらもいない。なんでかというと、人間、人類がそれに該当するからよ。まあ、巨人を狩り尽して食って、魔法って技術も根こそぎ奪うなんてことしたら、そうもなるわよねえ。あ、行動にともなう結果じゃなくて、悪魔だからそういうことするってことでね」
 アキホの声だ。姿は見えない。
 次に、オフェイロンの苦鳴じみた、少し笑った声が聞こえた。
「誰かな」
「初めまして、こんにちは、異郷の偉大なる人。私は異郷の魔術師、アキホ・イナーヴィアと申します。魔女です」
 アキホは言った。ぎしぎしと、グランスのいるところは撓み、今にも四散し、どろどろの肉になりそうだ。
 ふと気づいた。
 胸を刺していた魔杖がない。下腹部の感覚もない。
 下腹部の感覚については、覚えがある。
 オフェイロンは下腹に、「なにか」を埋めこんだ。そしてそれがなにかをグランスには知らせなかった。
 それどころではない。いや、あるいはそれどころか。
 廷装がもう持たない。反復して、音声が鳴っている。
 いや。
 途切れていた。
「そんなものは聞こえていない」。
「おお……おお」
 オフェイロンは呻いた。
 余談だがオフェイロンの名前の基となった狂人は、狂人ではない。
 この世界に、数々の使えない設計図と知識を残したうらぶれた某――その名がオフェイロン。
 後日、その死んだ後に異世界よりこの世界にもたらされた人間たちが、次々とそれを形にし、基礎のひとつとした世界の基。予言の道化師。
 だが、それは故き天の庭を作り出した。
 そのため、評価はされず、名も伝わらない。
 その知識が今、グランスの脳にある。なぜか。
「?」
「何処のものとも知れぬお嬢さんよ。姿も見えないから、どの程度かもわからないが」
「姿としては、見ない方がいいtぽいったところね。そこの死にかけていた娘さんと見た目は同じくらいよ」
「そこのそれは、見た目通りの年ではない。だが、だが、……不可解だ。どうして邪魔をするのかね? 縁もゆかりもないだろうに。そこの我が娘への、同情か。憐憫か。感情か」
 ははは、と、アキホが、楽しそうに笑った。何笑ってんのよ、と、グランスは思った。
 指先を動かす。もう身体は自由であるようだ。
 しかし、肝心の廷装がボロボロである。ここから挽回できるだろうか。
 もう身体は自由であったが、消えかけている。修復機能があるから、持ってはいるが、再生するほどには追い付いていない。
「やっぱり、人数が足りないか」
 アキホが言った。しかし、この女は何でも知っている。不自然なほどだが。
「根源を覗く権利が与えられているからよ。魔女の誓いと引き換えに」 
「根源って、……なに?」
「アカシックレコードとか呼ばれてもいるものね。これを閲覧できれば、全ての物事が目に見える。過去、現在。それに未来もね。ここから隠蔽できる事実はないから、科学的に積み重ねられたものも取得が可能よ。まあ、一生に一回覗いたらあとは終わりみたいなもんだけど。私は消滅と生成を繰り返すことで知っているかな。あんまりやりたくないので、ちゃんと自分でできるかぎりの情報は、集めているけれど」
「アカシックレコードなど、科学的には存在を否定されているものだ。だがそれを退けるほど魔術に酔う者になら、閲覧を開くこともあろう」
 オフェイロンは言った。
 声が消えかかっている。
「お嬢さんよ。懇願だ。私は今本懐を遂げる最中だ。年寄りの最後の冷や水と、聞き流してはくれまいか?」
 オフェイロンは言った。
「駄目よ」
 アキホは言った。
「私の目的を遂げるほうが優先だもの。何のために最期の権限まで使ってきたと思っているの。これを最後に、私消滅するので、生成も出来ない状態で。魔女は魔女の誓い有ればこそ、何度でもこの世に精神を形作れる。そのズルがばれたので。多くやりすぎて」
「私の目的より優先されるとは思えないのだが」
「思えるわよ。私魔女だもの。魔女には自分の目的より優先されるものはこの世に存在しないのよ。それはそれとして、欲は捨てず、食らうことを止めず、飲むことを止めず、抱くことを止めない享楽の消費者。悪辣。残虐。非道」
 オフェイロンはうなずいたかのように、それに向けて言った。
「最期にあなたのような面白いお嬢さんに会えてよかったよ、異「教」の魔女よ」
「こちらこそ、異教の人。あなたはつまらない人間だったけれどね」
 アキホは言った。
 すっと、オフェイロンの気配が消える。
 いや、そのように感じたと言うだけだ。
 だが、圧迫が唐突になくなった。
「さてと、これでオルグという彼も真の名前を取り戻したはず」
「【TIME】……」
 グランスは言った。溜息をつく。
 オフェイロンによって隠蔽されていた、正確には、グランスの中にあったオフェイロンにより、隠蔽されていた。
 スミスも今頃は思い出しているだろう。
 オルグ自身も。
「で、これでオルグってのは用済みだから捨てるわね」
「あん?」
 グランスは言った。アキホは言う。
「外にスミスって言うのが来ているから、そっちが受け取るはずよ。オルグの異能は感応だったようね。しかも物理的にも精神的にも行える、溶け込む能力か。これで時の鐘を操ったか。まあ、無茶な能力の引きだし方をされて、二度と使えないようだけれど」
「……オフェイロンが真名も、記憶も秘匿したのは、私たち身内に悟られないようことを進めるためだった。どれだけ考えてもわからないように。オルグは「別の力を持っていたのだから、できるわけがない」」
「いいのよ、これで三人分揃ったもの。あなたとわたしと、さっき自我を喪失したオフェイロン」
「復帰。再計算。寿命係数の計測を開始。ようこそ新しい命。失敗。【ですがまだ、合一化を果たしていません】【合一化を行いなさい】寿命係数の再計算開始。勝率の再計算開始」
 音声が言う。アキホは言った。
 そのまえに、するりとなにかがそばに下りてきて腕を絡める。抱きしめる。
「ふう、これがあなたの生身のぬくもりか。いいものね、身体があるというのは。いろいろできるから」
「これに乗るつもり? あなた、資格を持っていないでしょうに」
「大丈夫よ、オフェイロンのを借りるから。あのおじさん、これに乗るつもりだったみたいよ?」
「……」
(私を排除したあと、これに乗って戦うつもりだった?)
「自分で狂人を自称してたのでしょう? 狂人っていうのは……気まぐれなもんよ」
 気づくと、アキホの肌を感じる。滑らかな肌だ。鼓動も感じる。血の巡りも、神経を伝達する命令も、青白い迸りとなって、見える。
「同調を確認」
「ようこそ、【TAMER・MAGNETITE・DREAMER】、【PRIDE・●F・LI●N・RITT・IN・MARS・RIM】。変更、新規登録名。認められません。仕様を変更。認めました。【LIONEL・TOMAS・GREENWICH・BALDR・IMAG「INES」】。前回の登録名は何かの間違いだったということで棄却します。三者の合一を確認しました。王撃限定廷装、臨界。臨界。臨界」
 急激な力の流れの変化が起こる。それは廷装にも変化をもたらした。
 腕が生える。それは六本ほど。足がないずんぐりの体躯は変わりがないが。
 そう、体躯。
 今。
 これは完全な一個の生命として動き出した。
 自我を持つグランスは、やがて、自分の身体が消滅しているのを感じた。一定以下のローテクである。
 それはもう必要がないからだろう。代わりにバックアップの人格が、何億パターンにも渡って、ファイルにカバーされていく。
 みっつでありひとつ。
 認識であり、認識。
 全てが型に収まった。
 再計算された寿命係数は約一〇〇年。
 包囲の中にある天の庭は、その年数で、ようやく完全に消滅できる。
 この領域に他の応援は入り込むことができないが。
 それも強化された包囲のためだ。
 内側からも外側からも出られない。
「外郭再生。本来の速度を使用します。本来の威力を使用します。勝率は一二〇パーセント。誤算。一〇〇パーセント。【取り急ぎ判決を下す。時の鐘よ、去れ】宜しい、存分に最終命令を実行しなさい、【■■■■】。世界に未来を」
 いくばくかの。と、付け足して、そういえば、とグランスは聞いた。
「あなた身体が欲しかったんじゃなかったの?」
「今手に入れたでしょう? それで目的は達せられたから、ここからは、余分よ」
「余分?」
「ほら、私にも少しは人間らしい部分があるのよね」
「はあ」
 それに。
 アキホが言うのが聞こえた。
 肉体を手に入れた事には変わりない、と。
 それが役目を背負ったなんであれ、肉体は肉体である。もう一度肉体を手に入れるのが目的。
 それが魔女の誓い。
 魔女の誓いは果たされた。
 これは、人間らしい部分。
 感傷である。
 もうひとつの疑似人格のベースとなった、オフェイロンだったものはなにも喋らない。まあ当然だが。
「まあいっか」
 そう言って、グランスは、考えるということをやめた。
 以後一〇〇年先まで、記録はなくなる。




 後日(こうじつ)。

 追放者の楽園。
 恐越公の領地。王府ラーディスカル。
 空は素晴らしく晴れている。
 ここ数日、天候にも影響が出ていたが、天の庭の調整とやらが完了したのだろう。
 というわけで、このような、表に開けた、この街によくある店も、外に席を出して営業している。
 その一角に、ローマンはいた。
「おい、話を聞いているのか?」
 聞いていなかった。ローマンは不覚を悟りながら、意識を戻した。
 アキホが精神から離れてからと言うもの、どことなくまだ慣れない状態が続いている。
 エスは親切に、天の庭での詳しい検査を申し出た。まあ、その程度のことは、簡易ですませられるのが天の庭であることと、あの悪辣な魔女と最後まで結び付いていた人間である。
 なにかしかけがありはしないかと思われたのだろう。
 結果として、三分の一程精神が欠落していると、想像だにもしない話を告げられた。
 アキホが離れるとき持って行ったようだ。よってしばらくは忘我にふけることが多くなるだろう。
 そう言われても、まあ、困るとだけ思った。
 困るとは生活の上で不便だということだ。
「商売もしばらくお預けだな」
「重症だな」
「それで、用は済んだようだけれど、なんで貴女がここに?」
 ローマンは言った。
 向かいでこの地方、一般的な、紅い色が特徴的な飲み物を飲んでいる、エスが言う。
「やっぱりこれ、あまり美味しくないな」
「好みがあるらしいよ」
 ローマンは短く言った。ふむ、と言うエスは、長かった髪が短く綺麗に揃えられている。髪の色が白銀から赤っぽい鳶色に変わっていた。褐色の肌は変わらず。
 鳶色の凛々しいような、とろんとした目とはよくあっている、とローマンには見受けられるが、人それぞれかもしれない。男好きがする見た目だから、もう少し注意させたほうがいいかもな、とオズが冗談めかして言っていた。
 最初会った時は実に厳しい、針のようなまなざしだと思ったのだが、なにか心境や環境の変化があったのか。環境の変化ならある。
 ローマンの定期的な監視のために、追放者の楽園に下りてきている。
 姿は偽装だとローマンに言った。
 偽装でそれなのかとローマンは、一度言ったが、難渋した顔をした。
 どうも、なかなか変えられないものらしいのだ。
 今、天の庭は、新たに出来た包囲の影響で、その管理するものに影響がでているらしい。よくない影響だという。
 事実としては、外にエスを派遣するような余力はない。
 それを行うということは、なにか、あまり座視できない問題でもあるのだろう。
 とはいえ、ローマンもおぼろげながら見当はつけていた。
 が、エスの口からは聞いていない。
 あの騒動から数週間たち、ひと月がそろそろ過ぎる。
 よくわからないが、事態としては、おさまったようだ。
 グランスによって形成された包囲は、あと一〇〇年かそこらもすれば、あそこに突出した時の鐘の一部と共に消え去り、あの、何か白い塊のようなものは、次の場所へと行くことだろう。
 新しい包囲の戦力となり、戦い続ける。それがあれに課せられた役割だと、エスは教えた。
 まあ、全部が本当かはわからないが、奥底に興味はない。
 スミスは、あれを救うつもりらしい。
 どうやってと思うが、不可能はないような顔をしていた。若いのだろう。
 オルグという男はどうするのだか知らない。というよりか、経過観察の対象のはずである。
 スミスもだ。よって、エスはあの男の話になると、疲れた顔をする。どうやら対象を任されているらしい。
 騒動が収まった後、まず帰ってきた恐越公の領地で、関係者は集められた。ローマン、オズ、オルグ、スミスと対面したのはそのときだ。
 エスが状況説明を行った。全員に協力をうながすと。
 ローマンはしぶしぶ頷いた。オズは黙っていたが異存はないようだ。
 オルグは気絶していた。スミスは特段返事をしなかったが、その直後にどこかに姿を消した。
「こちらに駐在することになってね」
 ほかにも何人かくるが、と、エスは付け加えた。
 特に前触れもなく、硬く焼きふくらかした、小麦の焼き菓子を齧っている。
 こちらもあまりお気に召さなかったという。どうも、甘味が強すぎるのだというそうだ。
 なんとなく、観察したぶんだと、たぶん、エスは、というより天の庭の人間は強い刺激物に弱いようだ。もちろん、こちら、追放者の楽園においての、ということだが。
「駐在と言うと」
 しかし、その味が今は気に入ったのか、何度かの頻度で食べている。
「その菓子は、苦手って言わなかったっけ?」
 ローマンは聞いてみた。
「苦手だが、こちらの味に慣れる必要があってね。しかし、今から不安はある。食べ物があわないと人は変調をきたすと言う」
 エスは今から疲れた顔をしている。
 どうも、天の庭で恵まれた文明の恩恵を受けてきたという割には、苦労性っぽい。
 これはグランスも同じ感想を持っていたようだ。まあ、話し合う機会はなかったが。
 グランスは今も向こうで戦い続けているらしい。正確にはそのような、なんだかの身体になり、戦い続けている。アキホがどこにいったのかは知らないが、エスはその内容について秘匿している。
「刺激物に慣れると言うのもある。天の庭で暮らした人間と言うのは、こちらにくると、どうも虚弱なようだ。まあ、頑丈ではあるのだが、精神性のちがいはどうしようもないか」
 エスは言って、頬杖をついた。その前に、彼女が注文した家畜の肉の切り分けたのが置かれる。
 これは、生の生肉を燻して加工したもので、風味豊かさと、保存性に少し優れている。
 エスは黙ってそれにかぶりついた。
 食べっぷりは見ていて気持ちがいいというか、基本そのような女性であるらしい。
 ただ、不味い場合はいっさい味の感想を表に出さなかった。
 ということは……今は旨いということだろうか? 聞いてみる。
「これはいける」
 で、駐在というと? と、ローマンは聞いた。
 もきゅ、もきゅ、と口を動かしていたエスは、飲み物で流しながら答えた。
「そうか、この不味い液体は、脂がありすぎるのを食べるときに食すと、後味が消えるのだな」
「そんな感じだな」
「それ以外に役割はなさそうだ。駐在の話だが、用はこちらに、こちらの人間として居着くということだ」
「その恰好は、そのために?」
 今は、夏に入りはじめている。
 簡単な恰好をエスはしていた。あまりそれで街を歩く人間はいないだろう。
 だらしないとは思われる。
 やや厚い生地の、半袖の上衣に、下は作業で用いるような、布を丹念に織り合わせた頑丈な下衣。
 グランスがよく穿いていたようなやつだ。
「服に関しては、これから調整していく予定だが、君には色々教えてもらいたいと思う」
「俺が面倒みるのかい?」
 ローマンは言った。エスは言った。
「こちらで頼る人間がいなくてね。自由に動ける職業として、とりあえず、冒険者をやるようなつもりでいる。オズと君にはこれから世話になるだろう」
「なるだろうって確定?」
「さて」
 エスは、言い、不味いと言いながら飲み物を啜った。
「なにせ前例がないからな。とにかく、まだ解決していないのは、恐越公の一件だ。天の庭が対応に当たっているが、クセの強い人物のようで、こちらが手玉に取られている。私は、正面からでなく、その裏から行くという事らしいが、はて、どこまで効果があるか」
 ははあ、と、ローマンは言った。
 西の国を騒がせている人物、というのは知っていたが、どうも、うわさより強かであるそうだ。
「こちらが摘発した薬の一件以外にも、こちらに出資者を抱えているようだしな……食えない人物だ」
 ともかく、とエスは言った。
「協力が欲しいな。いや、はっきりと言ってしまうとだ、天の庭としては、君を脅迫したいところだろう。操られたとはいえ、――半ばだが、責任性は問いたいという事らしい。正直、どこまで行っても追いかけてくる覚悟ではないだろうか」
「悪辣だなあ」
「ひとつだけ聞きたいんだが」
 エスはちょっとした疑問のように言った。しかし、目はあいかわらず針のようだ。
「君は望んで協力していたのか? そもそもの関係は、元恋人と言う話だが。それはアキホ・イナーヴィアが言ったことだが、君は否定しなかったと言う」
「俺も一つ聞きたいんだが、いいかい?」
 なんだ、と、エスは言った。
「ひょっとして君は異世界転生者?」
「アキホに聞いたのか?」
「いや、ただの勘だし、あんまり興味もない」
「そうだ」
 エスは頷いた。ローマンは、飲み物を口に含んだ。
 エスは言うべきことを探したようにしたが、言った。
「グランス・シットシュツルゥとは同じ頃の施術者になる。私は成功例、彼女は失敗例ということになるか。土の賢人が現れるより前だ」
「呪いだか、……がかけられるより前ってこと?」
「その頃にも失敗例はあった。ほとんど完璧に近い術となってはいたが、術のたぐいは、やはりムラがどうしても消せなかった。……というよりは。科学も失敗の確率で言ったらそれほど変わりはしないのだが、実のところ。安定した結果が得られるものだけを言うのなら、それは工業と言う」
 あるいは商業かな、とエスは付け加えた。
 ローマンは言った。
「転生者である君がこういう仕事を?」
「仕事に貴賤はないよ」
 エスは、めずらしく笑ったが、一応付け加えた。
「見た目より難しい仕事だろう? 転生者だからできるというのも少しはある。あるいは、転生者はやはり天の庭では差別化されるものだ」
「こっちで暮らすのに偽名でも使うのかい?」
「レジィーナ・ティマーハットと名乗る」
「それってこの場所でしていい話?」
「どうかな」
 エスは言った。
「まだ質問に答えていないようだが」
「もうひとつだけ。ティマーハットってなんだい? 天の庭の言葉?」
「義足という意味だよ。深い意味はない」
 それじゃあ、もうひとつだけ、と、ローマンは言った。エスは眉をひそめたが、ローマンは肩をすくめた。
「俺のお世話になるんだろう。いろいろと知りたいこともあるし、こういうやり取りにも慣れておいてほしい。俺はこういうやつだからね」
「そうか、わかった」
「シットシュツルゥというのは、どういう意味なんだい?」
 エスは、一拍置いて、答えた。
「祝福された光という意味だ」
 エスは言った。
「グランス・シットシュツルゥが施術されて、天の庭に産まれた時、身体を走査した科学者達が、それが素質の塊であると判断したらしい。そのため、そんな名がつけられた。転生者にとって、姓は家としての姓ではなく、個人を示すものだ」
 そうか、とローマンは言った。
 答えを催促してくるエスを、次はどうはぐらかそうかと、空を見やる。
 雲一つない。

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