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虚人らのロンド1
しおりを挟む朝。
東の街。
カラン、と店の扉が開く。いらっしゃい、と肥り気味の店主が声を掛ける。
入って来た男は、何の変哲もない。
何の気なしに店内を見回す。
東の街。
バルマスカーレッド、という。
だが、誰もその名で呼ばない。
東の街、と呼ぶ。
そんじょそこらにある街ではないが、そんじょそこらにある街だった。
そして、この店は、その街の中でも、さらに、そんじょそこらにある、普通の店だった。
男はそれも分かっていた。
分かっている風だった。
火を点けて吸う安物の嗜好品を咥えていた。
席に着く、店主の正面の席だ。
そのまま苦い琥珀汁を頼む。
はいよ、と、店主は答えた。
しばらくぼっとする。
男は口の嗜好品を吸うと、吐いた。
そして、咥える。
店主が、なにか言いたげにした。
ここは禁煙なのだろうか。
実は、そんなこともない。
この街は、自由の街だ。
なので、その中にある店も、当然自由だ。
そんじょそこらにある店である、この店も、そうだ。
こと、と琥珀汁が置かれる。
男は嗜好品を指先に挟んで、琥珀汁の器を取り上げた。
汁を啜る。
いかにも苦そうな、砂糖の一個も入っていない琥珀色だ。
この店では、朝食に無償で提供している。
表の黒板にも書かれてある。
男の前に、食事が置かれた。
男は、簡単に具材を挟んだ小麦料理を手に取った。
灰を受ける皿に嗜好品が置かれている。男は、小麦料理をはむはむと美味そうにたいらげる。
いや、あまり美味そうでもないか。
一般的に洒落者が着る折り目のついた上下に黒い色付きの縁硝子。
襟元をくつろげた黒い洒落た前留めの薄手の上着は、それなりの生地で出来ている。
ここに、銀色の鎖の、ごく細い首飾りなどしている。ちんぴらもかくやだ。
実際、ちんぴらなのかもしれないが、してみると、なんでこんな朝から、この店に入って来たのか。
某、というこの店は、名前はなんだったか。
そんなものどうでもよくなるほど、目に付けるところがない。
毎朝の朝食は美味い。体験談だ。
それが唯一の美点だ。ただ、美点というほどの、いいところでもない。
男が、一つ目の小麦料理を平らげて、汁を飲み、食後の琥珀汁を頼んだ。
そこで、二つ目に手をつける。
店主が、空になった汁の器を下げた。
そこで、ふと気についたように言った。
が、実際は、気になっていた、ということだろう。
また男の胃に荒っぽそうな食べ方も気になってはいたようだ。
食中、琥珀汁で小麦料理を流し込むような真似は、感心できない。
店主が肥り気味でもあるからだろう。
「お客さん」
言った。男はん? と、応じた。指に嗜好品を挟んで、灰を受ける皿を叩いている。
灰が落ちていなかった。
「そのそいつ、火が点いていないが、点けようか?」
店主が言う。男は気づいた。
気づいて、バツの悪そうな顔をした。
そのまま、火の点いてない嗜好品を咥える。
火を点ける小さな木の棒を入れた箱を漁って、火を点ける。
嗜好品に、その火を近づけながら、ふと気づいたように言った。
「ここって禁煙?」
店主は、手をひらひらさせて答えた。
「吸って構わないところだよ、お客さん。ここは、この街じゃどこにでもある店だから、同じように」
芝居がかって言う。男はそう、と、嗜好品に火を点けて、旨そうに一服吸った。店主から顔をそむけて吐き出し、正面の卓部分に寄りかかる。
グランス・シットシュツルゥは、その一部始終を見ていた。
男が、やがて嗜好品を吸いだし、店主が興味を失ったように去っていく。
琥珀汁のいい匂いがしてきたのを見ながら、表の通りを仰いだ。
いい天気だ。
絶好の仕事日和だ。
グランスは、うん、と伸びをした。
つま先まで、大きく伸ばす。指が天をつく。
その指のひとつひとつを伸ばし終えると、やや眠気がとれた気がした。
朝の、人の少ない時間帯、丸い卓状席を独占している。
どうせすぐどくのだ、とタカをくくっている。
店主がひそかに迷惑がりながら、仕事をしているのも気づいている。
気づかないふりをした。
運ばれてきている、朝食に手を伸ばす。
朝食は、無償で提供されているものとは違い、少し重さのあるものだ。
特に名前はない。
今は春だ。
この時期に、高地から運ばれてきている、甘いシャキシャキとした葉野菜を刻んだ皿もの。
小麦粉を練ってふくらかしたものに、熱い、ほんのり熱を加えた家畜の腸詰を挟んだもの。
もちもちとした食感を、肉汁が受け止める。
それと具の極端に少ない汁物が椀に容れられている。通常より手間をかけて加工した琥珀汁に、加工品の家畜の乳を混ぜて焼けた小麦色の汁にしたものをこぢんまりとした器に容れている。
朝から、胃に負担のかかるものを、とでも言いたげに店主が顔をしていったが、力(りき)が必要だ。なにしろこれから力仕事である。
海が近いこの街は、どこにいても潮風が吹き、潮の香りもするような気がする。
連れの偏屈なのは、磯臭いと辟易する。グランスは、しかし、海が好きである。
皿ものを平らげて、腸詰も小麦粉のふくらかしたのも胃に収めてしまうと、若干の口寂しさを覚える。
それを、汁物と、小麦色の汁で落ち着ける頃には、さっきの色付きの縁硝子をかけた男は、ちょうど、店を出ていくところだった。
なんのけなしにそれを目で追いながら、グランスは、もとより、さっきからなんのけなしに気にかけていたその男について、物思いをした。
正確には、そのような顔をしただけだった。すべて無意識の行動だった。
口の油を、備え付けの木を摺った工芸品で拭うと、席を立ちあがった。
「御馳走さま」
グランスは言った。
さて、ひと仕事だ。
今日は、港へ行って、船の荷を下ろす。
冒険者らの、斡旋所で受けてきた仕事だ。人使いはおそろしく荒いが、払いは保証されている。
この街は忙しいのだ。
賃金の支払いなどは、されないことが常だ。そんなことをしている暇があったら、手を動かす。食って、寝て、起きてまた仕事を片付ける。
で、気まぐれが起きれば気が遠くなるほど安い賃金を、投げ出すように支払ってもらえる。
そんなことは頻発しているため、斡旋所がある。これが間に入る事で、賃金が、契約通りに支払われる。
賃金を支払うことで、斡旋所の信用を買う。
もっとも、この信用がくせものだった。
中身がない。
そも、斡旋所のあつかう人材に、問題がある。
もっとも、斡旋所ができる理由とは、必要とされたからだ。
誰が必要としたかは微妙で、まず冒険者である。
冒険者は素行が荒い。浮浪化して、犯罪に走ったり、犯罪に巻き込まれたりする。
余所者であるから、どれだけ死のうと関係ない。酷い目にあっても関係ない、というのが現実で、冒険者というのも、それなりの村や町から、あぶれてきた行き場のない者達だ。
浮浪者とあまり変わらない。
本来、浮浪者とあまり変わらないなら受け入れなければいい。
が、人というのはなかなか死なないので、先に言ったように、犯罪に走ったり、巻き込まれたり、利用される。これが問題だった。
東の街は、そんじょそこらにあるような街ではあるが、そんじょそこらにある街ではない。
発展している。
海沿いの交易路で、港にも適している、ということで、地方の農耕が盛んになるのと同じくして、すさまじく発展した。
東の街は、その名の通り、人間が種族として繁栄する巨大な大陸の東にあり、東の街街を象徴するほどの街である。
この点、同じ交易路の要衝に作られたものではあるが、堅固な地形的防衛上の理由と、王権の誇示のために華美に作られた王都。
これも、もとの名前はあるが、誰もそれでは呼ばない。
王都。支配者である盟主が鎮座して、軍権を握っているその中枢ということだ。
ここに今の何代か前の盟主が、自ら指導して、巨大な街を作らせた。
その後、拡張と、記念碑的な意味合いで、改修がなされていったのが今のこの王都だが、どことなく古臭い。
わざとらしいというのだろう。
政策が上手くいかないと、こういう街の繁栄は難しいが、ここ最近は、それが上手くいってないという話だ。廃れもする。
というわけで、時の勢いに乗って発展し続けたのが、東の街だ。
で、話は戻るが、発展し続けているために、人がどんどんやってくる。
人の出入りを規制しないからこその発展である。
発展のための、不利の点というところだった。
規制せずに、受け入れはするが、その個人々々についての保証などは、するはずもないし、しなくてもいい。
ところが、そういうことを繰り返していたら、犯罪は組織化した。
これが、暴力や歴としたただの詐術をもって、街のそこここに影響を及ぼしだすと、これをなんとかするものがない。
治安の悪化というやつである。
そこで、街で治安の強化に乗り出した。
冒険者の斡旋所というのは、その手段の一つで、東の街が王都に袖の下を渡して、恫喝と運動を続けて、ついに継続的に金を出させることによって実現した。
形としては、街と、王都の行政が行う共同業務である。実際の経営資金は、すべて王都側から出ている。
このため、当初の斡旋所は、非常に業務にやる気のないもので、犯罪組織とずぶずぶにもなりかけた。
改善案として出されたのが、給与の底上げと、東の街側が経営についてはすべて行うということ。
また、業務に就く人員に、資格を課した。これは、資格を得るのに見合うだけの生活水準が保証されることで、安定して実現した。
このようなことがあり今に至る。
港。
夕暮れ。
さっさと仕事を切り上げて、今日のぶんの賃金を得て帰路に着く。
冒険者は、ひとりひとりではなく、徒党を組む。グランスの場合は、三人で組んでいる。
相方の二人と共に、冒険者相手にそのような商売をする宿に常駐している。宿の名前は某という。これもどうでもいい。
冒険者を受け入れる宿は、王都と街から、認定を受け、保証を受ける制度がある。
だからといって、冒険者自身を好いている義務はない。
グランスらは、この宿に世話になりながら、東の街を拠点として活動している。
活動と言えば聞こえはいい。
食いっぱぐれているのが、一応その日暮らしをしているといったほうがいい。
宿六である。冒険者の中には、宿の手伝いをして機嫌を取る者もいるらしい。
ただ飯ぐらいである。
少なくとも、グランスらの場合はその程度に、この宿の主に認識されている。態度でなんとなくわかる。
それでも、頼めば湯の世話くらいはしてくれる。
有料である。
有名な冒険者を泊めたとか、そういう箔でもついていないかぎり、流行らなくなった宿が最後の手段に選ぶものという向きがあった。この制度は。
ともかく、湯が沸くまでのあいだ、グランスは下の卓状席の並ぶ、酒場のような設置席に腰を落ち着けた。疲れた。
「お帰り」
ローマンがいた。
グランスの仲間、あぶれ者の一人である。本を読んでいる。
傍らの陶器の容器を持ち上げている。
グランスは、気になって聞いた。
「それ、頭に入る?」
ローマンは、容器の中身を離しながら、テーブルに置いた。
「水」
「ん?」
「酒じゃない、水だ」
偏屈そうに、言う。あっそ、と、グランスは返して、首を回した。
ローマンが、水で喉を湿して言ってくる。
「ご苦労様」
「皮肉っぽいな。なに」
「なんだ褒めたんだ。私にはとても真似できないからさ」
「それは気になってた」
言う。ローマンは、眉をひそめた。
「なんだい」
「いっつも何して稼いでんの。おかみさん、機嫌いいじゃん?」
「秘密」
ローマンは、そっけなく言った。「ああ~、そうかい」と、グランスも伸びをしながら返す。
こきこき、と、節々が鳴った。
グランス・シットシュツルゥが、背中に帯びている剣を見て、まともに使うものであると思う者は、まずいない。
グランスの腕が丸太のようではないからだ。また、背も高くはない。このバカでかい剣を使うにしてはということだ。
たしかに、よく鍛えられ、身体中引きしまっているのがよくわかる。
それでもその剣を扱うのには、足りない。足りるわけがない。
大の男の身の丈ほどもあり、幅広の刃を持つその大剣は、それほどばかばかしい大きさをしている。
実際、それは巨人族の使うものだった。比喩ではなく、そうだ。巨人族の使っていたものだ。
巨人族は、単に巨人と呼ばれることが多い。テナデカンズという呼び名も、記述もある。
しかし単に巨人と呼ぶ。その巨人は、まさに人間の並みの男に比べたら三倍は背丈があった。腕は丸太ではなく、年経た樫の木の幹そのものである。武勇を持って知られた。
はるか昔に、しかし、この大陸から外界へ船出した。
彼らは、この大陸に生まれていながら、彼らがこの大陸で生きるには、あまりに狭すぎたという。
そのため新天地を、外の海を渡った世界に求めた。
その後彼らがどうなったかは知らない。
外洋への航海術というものがない、人間たちには、その技術ごと海を渡っていった彼らのために失伝した、その経緯のために、それらを知るすべがなかった。
ただ、大陸に 残った巨人たちはいたということである。もう百年かそこらは前以上に絶滅した。
屈強な人に似た姿をした彼らであったが、その身体は、人間にとって様々な薬効に満ち溢れていた。
肉を食べれば美味であり、まずそのために乱獲された。
次に肝には、万病に効く精力剤の効果があった。また彼らの皮は、並の獣の毛皮よりもよほど断熱と保存、保湿にすぐれ、なめして百数十年は真新しいままだった。
また珍味でもある。巨人の男の睾丸を切り開いて取り出した精子を発酵させ、獣の乳と混ぜると、美しい色の塊が出来、肉よりよほど美味である。
脳は盲人や、耳の聴こえない者に食べさせると、効果があった。五臓六腑は、加工されて武器防具の材料になった。王都にも、いくつか保管されている備品だ。
骨も様々に用途が利いた。人間たちはこぞって巨人を狩り、もともとこじんまりとして暮らしていた、大陸に残った巨人たちは、たちまち絶滅した。
この事で重要なのは、人間たちが巨人を狩るすべを持っていたことだ。
今では、失われている。巨人がいなくなったために、技術も消滅した。
使う相手がいないのだから、知る者もいない。また、巨人の代わりになるような外敵も、いなかった。
とまれ、グランスはその巨人を思わせるようなこの剣を、よほど邪魔にならない限りは背負っている。注意されれば下ろす。今日の荷下ろしでも、親方に怒られて下ろしていた。
うまい話というのは、ないものだ。しかし、ローマンは、少しはそれをこころえていて、組んでいるグランスにも漏らさない。
オズが斡旋所に行っている、とローマンはふと言った。
ローマンが言うということは、なにか仕事を持ってくるに違いない。
オズ・ムアルトワは、グランスと組んでいる最後の一人だ。
そして、果たしてオズが帰ってきた。
まずは、仕事の話は出さずに、食卓の席に着く。
グランスが、朝、そうしていたように、彼らはこの某でいつも食事を摂るわけではない。
というか、宿に余計に金を入れていないものには、決しておかみは食事の世話などしないものだ。
グランスは入れていない。
オズは入れていた。
この男は、どこで探してくるのか、稼ぎ口に困る様子がなく、なにかにつけ要領がいい。
本人はさえない様子だ。言動も冴えない。頭の働きも鋭いとは言えない。
グランスの直感によれば、これはおそらく、人徳という。
そのオズが、おかみから食事を出してもらいながら、匙を汁に入れて言った。
オズという男は恰好も冴えない。
上下の服は、折り目もついていない重ねた布を縫っただけのようなものだ。生地が伸び、労働や運動に適している。
動きやすく上着は半そでに。その下に袖の長い布の服を着ている。このまま寝巻にもできそうな物だ。
このオズの一風変わっているのは、腰に刃物を帯びていることだ。
曲刀のような直刀のような、不可思議な片刃の刃物であった。
白刃に黒い模様をぬりぬりと流したような美しい、細身の形をしている。鍔も柄も特徴的であった。オズによると、これは鍔は金属で、柄を全て木で拵えているというが、だとするととんでもなく手の込んだ美品である。
ただ、オズは物の管理はずさんなところがあり、ローマンによく注意される。盗難を心配しているのだろう。ぱっと見、それほどの品だった。
これも、木で全て拵えてあるという、美しい刃を納める容れ物に入った刃が、二本。
これを、一風変わった剣帯で、腰に差している。食事をするときは邪魔なので、外しているが、これも置き方がまた例によって雑だ。
(生活に困ったら、これを盗んで金に換えてとんずらしよう)
グランスは、たびたびそんなことを考える。このときも、そう思いながら口を開いた。
「斡旋所に行って来たって?」
「おう、そうそう」
オズは、ぱしぱしと手を打った。埃を払うような仕草だが、どこか独特だ。
「どうだい、めぼしい仕事は?」
「草刈りが来てたぞ。そろそろ季節だからぼちぼち多い」
「いいね、明日さっそくいこうか」
「報酬の少し上がるものはあるかい」
ローマンが渋い顔で聞いた。オズは、ぱっと笑って言った。
「ははは、やっこさんはほんとにいつものことだからな。冒険者が物々しい仕事はごめんだと言うんだから、怠けものだ」
ローマンは説教顔になった。オズの言葉に乗るように言う。
「土掘りやどぶ掃除だけじゃ、干上がるよ。故郷に帰ってまともな仕事につきゃいいんじゃないか。君なら出来ると思うが」
君、と、四角張った他人の呼び方は、ローマンの癖だ。グランスは知らないふりで、水を飲んだ。料理を頼んでいないのだ。勝手に出てくるわけでもない、すでに述べた通り。今日は買い食いした、魚の白身を揚げてさくさくした衣をつけたやつを一つ食って、それで夕食は終わりだ。
東の街は不思議な街で、物の値は安いが、暮らすとなるととかく金に不自由するところだった。
たしかに実入りのいい仕事を取り付けなければ、貧していく一方だ。とはいえ、報酬がいいということはそれだけ難度も高く、相手にするものも凶悪、と言えた。
ふんか、と、グランスはすましたふうにかすかに鼻を鳴らした。がっと水を飲み干す。
おかわり、と、おかみに要求する。おかみは呆れた顔をした。
あたらしく運ばれてきた水に口をつける。
「そんなに水ばかり飲んでいると、水ばかり下からしきりだな」
ローマンは、ちょっとおかしみを感じたように言った。グランスは芝居がかって、少し酔ったような目つきでねめつけた。
「で、良い話があんの? オズよ」
オズは笑って言った。いい男だ。
「あるともよう」
と言って、オズは話した。
だが話の内容は、そんなはかばかしいものではなかった。
最初の話を聞いたとき、グランスははん、という顔で口をへの字に曲げた。
ローマンは、なんとも言わずに見ている。旨そうに話の途中で運ばれてきた料理に手を付けている。旨そうだ。肉料理だ。
この男、意外と銀の食器の類を使う様が、さまになっている。
ローマンの服装は、折り目が切れるように入っている、洒落物の着る上下、前留めの薄手の上着。これを前をくつろげて着ると、いかにも柄が悪く見えるものだが、ローマンは、この薄手の上着の襟に締めて、喉ぼとけの下に垂らす、ひょろりんとした布を締めて、薄手の上着に、金具でかるく留めている。
顔にかける飾りの硝子板も、グランスが知る限り、いつも綺麗に磨かれている。なにか小奇麗な男で、それがそれほど嫌味に映らない男なのだ。
だが女にはモテないな、とグランスは密かに断じていた。女を引き付けるには、偏屈が顔に出過ぎている男なのだ。
「まあまあ、やっぱ実入りがいいのはそうなるさ」
オズがなだめた。端的に言うと、危険な仕事である。で、危険な仕事となると調査だった。あと遠征である。
調査は人の手の入っていない、土地の様子を見回って報告する。が、人の手が入っておらず、荒くれ者の余所者に投げられるものといえば、危険な生物が棲んでいて手が付けられない。退治してどうにかしてこいという荒っぽいものだ。
もう一つの遠征も似たようなものだ。これは、調査よりだいぶ、事情が差し迫っている。
人間の生活範囲に、危険をおよぼす範囲で、凶暴な種族やら、獣のたぐいやらが群れる。これの駆除である。規模で言えば、排除になる。なにせ、冒険者に投げられるような相手となれば、繁殖期に樹木類を荒らす地這い虫というわけにはいかない。命の危機である。
命はあっても、後遺症なんてことにもなる。
無鉄砲や馬鹿と呼ばれる冒険者の輩でも、これは躊躇するし、避ける。冒険者という身であっても、命や手足は惜しい。
後遺症を負えば待っているのは、人とは認められないような生活である。避けたいと思うのは、当然と言えた。
「しかし、不思議だよ」
「何が」
ローマンは、聞き返すグランスに、首を小さく振った。
「避けたい仕事ではあるけれど、君がそれをする理由がだ。君は馬鹿でも無鉄砲でもないし、切り抜けるだろう。そういう行きかたもできるのにしないのがね」
言う。グランスはふんと、考える顔をした。しかし、とくに反論はしなかった。抗弁もしない。
事実、グランスはそういった絡みの仕事は、頑として避けていた。嫌がるならともかく、頑としてだった。
「ま、そこは持論があるんよ。ローマン」
「持論? ていうと」
「ま。ま」
グランスは言った。言う気はない、というか、今ここでは言わないと言うのか。
事実、言わない。
翌翌朝。
滞在している宿、某。
人の手が入らない場所と、危険な生物。人間の生活範囲に、危険をおよぼす範囲で凶暴な種族。繁殖期に樹木類を荒らす地這い虫というわけにはいかない、命の危機。
ナーガと、カル・ル・ラ。
前者は天の庭と言う。後者は追放者の楽園という。
カシミエシユ・リュ・ルーラ=ルーナルアという、長い言葉が、当てはめられているという。これを縮めて、カル・ル・ラと呼んだということも、文献にある。
物好きな学者や、王に仕えた官吏が遺したり、書きつないだものに記録されている。
二〇〇〇年前の言葉である。正確にはその頃には別の意味で使われている。本来の意味で使われるようになるのは、そのあと。
現在、人間種族が暮らす大陸の三分の一の範囲を指す言葉である。
残り三分の二には、人間種族は住んでいない。この範囲が天の庭である。
正確には分からないが、外洋への渡航技術は、先に述べた巨人の、大陸から去るときのいきさつから、失われた。
その後残っていた巨人たちは、人間種族が全滅させたわけだが、こちらから、その技術について学んだり記録した者もいなかった。
巨人を狩った人間たちは蛮人ではなかったが、文字や絵にして残したり、教えとして乞わなかったり、また、聞き出したりもしなかったあたりは、まあ、蛮人であった。
ともあれ、そのような事情から、人間、たんに人間種族でなく、人間と呼びならわす場合の、その生存範囲は、この大陸の三分の一のみとなる。
この三分の一の範囲に、人間と並んで、怪物と異種族がいる。凶暴である。たんなる獣とは区別して呼ばれる。
獣は獣で区別して語られる。これは、やはり古い文献に残された記述による。
それ以上に、実生活のうえで、そう呼ぶ。
危険である。並みの人間がころりと殺されてしまうし、飼い慣らすこともできない。
というわけで、冒険者ら、荒くれ者や、武装した人間、兵士、軍に対応が投げられる。
斡旋所もその類の仕事を、仕事として流している。
それはそれとして、朝早くに宿を出たグランスは、依頼人のもとに向かっている。
オズがいる。
前前日の会話。
「一応少し実入りのいい仕事も見繕ってもらったんだ。相手は人間だ。怪物じゃない」
ローマンとグランスのやり取りを中断させて、オズが言った。
その内容によるとこうだ。
依頼人は、街の通りからやや外れたところに建つ一軒の小麦屋。
小麦をこねてふくらかした物も店頭で販売している。
しかし、立地のためか経営が振るわず、最近ちんぴらに目を付けられたという。
このちんぴらが、雇われのようで、小麦屋に立ち退くよう要求している。
土地が欲しいらしい。
感心したやり方ではない。ただ、脅すほど土地が欲しい理由があったり、他の手段が面倒である場合には、こんなこともある。
効率である。
で、小麦屋にはこの脅しに対する手段が、自力で用意できない。
斡旋所に交渉して、金銭を用意することで、仕事として成立するようことが運んだ。
ただ、依頼の小麦屋は貧乏人である。斡旋所が用意できる報酬も、はずまない。
話を聞いてローマンは明らかに難色を示した。
「やめよう」
とはっきり言った。割に合わないというのが理由だ。
「やろう」
と言ったのがグランスだった。ほぼ、話を聞いてふたつ返事な引き受け方だ。
「やめよう」
と、ローマンは言った。しかしこれは無駄だった。
そのようないきさつで、今朝、グランスが朝早く出かけている。
小麦屋に着くと、さっそくあからさまに店の周りにたむろしているちんぴらが二人ばかりいたので、因縁をつけて追っ払った。
その後、依頼人に会った。年を取った男と、娘だと言う少女で、嫌がらせに疲れ切っているようである。
事情を聞いた後歓談していると、昼近くになって、ちんぴらたちがまたやってきた。
今度は人数を連れていた。グランスは店の外に出た。
グランスが出ていくと、いかにもちんぴら風の男が眼を飛ばしてきた。
後ろに、朝方追っ払ったちんぴらがいた。これがグランスの顔を見て、今朝のヤツと、ちんぴら風の男に言ったのだ。
ちんぴら風の男は腕っぷしに自信があるのか、外にいた連中たちからも、あてにされているようだ。
そいつが、グランスをねめつけてすごんできた。
「おうおう、どっこのシマのか、知らねえが、横からどえらいマネしてくれんじゃねえか」
グランスは、やや首を傾けて応じた。
「それほどでもない」
「ああ?」
「なんだ、あんたがここの店脅してるって連中の頭か。土地の転がしでもすんのか。そうは見えないけどな」
「なめた口きいてんじゃんねえぞ? あん、だぁっ!!」
グランスは、男の手を取って、そのまま地面に投げ落とした。もともと、男が胸ぐらをつかむ動作をしたからである。
びくともせずに言う。
「やめときなよ。冒険者とケンカして、町住みなんかしてるちんぴらが勝てるわけないじゃん」
「てっめ……」
ちんぴら風の男はまだ言ってくる。しかし、したたか路上に身体を打ったらしく、這ったままだ。
グランスは、とりあえず、定石どおり、そちらを追撃はせずに、後ろのちんぴらたちに言った。
ここで、不必要に叩きのめすと、恨みを買う。恨みを買うと、面子で仕事をしているたぐいの人間は、諦める前に落とし前をつけようとする必要がある。
落とし前を恐れていることを示しつつも、こちらの力量は見せなければならない。納得とはそんな感じで発生する。納得があれば、ことは落ち着く。
「あんたたちの頭にも言いなよ。それか依頼人に。こっちは冒険者を頼む算段をつけるだけの度胸はあるらしいし、実際ついたよってさ。奥にいる仲間は私よりか強いし」
グランスは言った。
ちんぴら連中は、ちんぴら風の男を担ぐと去っていった。
グランスとオズは依頼人に、涙ながらに何度も感謝され、斡旋所からの報酬を受け取った。その日の仕事は終わった。
その日の夕刻すぎ。
滞在している宿、某。
あのあと、夜まで店に滞在した。
ちんぴら連中の出方を見るためだ。本当に諦めたかどうかは、目で見て確かめるしかない。そのためだ。
そのため、夜が遅くなった。グランスは上機嫌で、久しぶりの、甘い果実を発酵させた刺激の強い飲み物を飲んでいた。地方の名産で、シャンバールと言うが、名前はどうでもいい。
これをぐびぐびやると、かっと頭が熱くなり、気分がいい。
かー、と、グランスは独特の臭いの移った息を吐いた。発酵物特有の、強い臭いだ。
刻んで揚げた穀物っぽい固い実の柔らかい料理をもりもり齧る。口に残るもったり感があって、腹によくたまる。
「うまーい。やっぱ金だな」
ローマンが息を吐いた。同行はしていなかったが、仕事はしていた。ローマンの前にも、同じ飲み物が置いてある。
「やれやれだ」
「おいおい、ローマン」
オズも、赤い顔をして、たしなめた。この男は、この手の刺激物に強くない。もう酔っている。
酔いながらも、いつもの、温和なとりなし顔はそのままだ。
「なんだい、ローマン。言いたそうだね?」
グランスは、けろっとして絡んだ。
オズとは逆に、非常に強い。飲み水ぐらいのものだ。
「心の底からすっきりしたようだったからだ。君は何考えているかわからないときがあるからね」
「すっきりなんかしてない。ちょっと懸念があったものでね」
「なんだ、懸念?」
ローマンは、逆に眉をひそめた。
グランスは言いたかないね、と言う顔をした。もしゃもしゃと、魚の干して強い臭いを放つようになったのを火を通しただけの、濃い風味のを齧る。何とも言えず、飲み物に合う。
「まあそれはいいさ、すっきりしていけども。何か言いたげか」
ローマンは、首を振った。
「今回の件さ。あそこに住んでいるのは父娘と言ったけど、残念、実際は情婦とその内縁の男だよ。ああ、変装はしていたようだ。数か月前から、街の組織同士が小さなトラブルを起こしていてね。あの物件はその係争の原因になっていたみたいだ。内容は、まあ話さんでもいいか。あの手の組織の喧嘩なんて。それが今度の斡旋所への依頼で、依頼者の側と対立してた側の組織の連中を首尾よく追っ払えた。向こうが雇っていた人間も、君に捻り上げられて退散したしね。相手側の組織は、面子を失ったわけでもないし、ただの意地の張り合いのために、これ以上金をかける気を無くしたらしい。依頼した側の目論見どおりに行った。泣いて喜ぶくらいの真似はしてみせてやる気になるさ」
グランスは、眉をひそめて聞いていた。つまみの、やわらかい葉野菜を千切って食べている。
つまるところ、困って貧したような様子、というより、そのようにした姿がもう演技で、内心ではこちらを笑っている事だろう、と言いたいのだろう。そういうことだ。
ローマンがここまで不機嫌そうになる理由は、そのなかには見当たらないようだが、不機嫌になるt理由はわかった。
グランスは、言う言葉を探した。
そのように見えるように、鼻先をめぐらした。一瞬、白けた目をしてから、ふんと納得した声を出した。
「まんまと騙されていたってわけか」
「そういうことだ」
ローマンは言った。オズは、苦い顔で様子を見ながら魚を齧っている。しかし、実際には内心ほど困っている様子はない。この男は、目の前の様子を見て心がとがめるタイプである。根っからの善人か、またはお人よしというべき人種だ。
グランスは、ちょっと考える目をしてから、食事に戻った。
「ふーん」
「ふーん、て?」
「ローマン、そんくらいにしとけよ、な」
オズが、とりなし顔で、ローマンに飲み物の容れ物を傾けた。東の街では、よく見かけるタイプである、泥のような色をした焼き物だ。東の街ではこのほかに、中身が透けて見える、高熱処理された鉱物を焼いて加工したやつがよく使われる。
「せこいちんぴらの争い同士に、体よく使われて、いいことしたという顔しているのがよくわからなかっただけだよ」
「しかし、あれだろ知らなかったんだから」
「まあ知らなかったな。教えてくれて、どうも、ローマン。もやもやがちょっとばかり晴れたよ」
グランスは言った。
ローマンは、目を据えて聞いている。この男、無駄に目つきが悪くなることがある。それがなければ、マシな顔だろうに。
女が寄るとしたらその女も変わり者だろう。恋ひとつするのも、この男は大変かと思うと、おかしみがあり、グランスはくすっと変な風に笑った。
笑ったついでに、口を開く。言う。
「報酬がもらえりゃあどうでもいい。そうだ、持論の話だけど」
グランスは、急に言った。ローマンは拍子抜けした顔をしている。
「いや、その話はいいか。どんな仕事も仕事ってね。クールよりなんだ、これでも。見た目よりも」
手をひらひら振って、この話題はおさらば、とでも言うようにする。
「ローマン、きっとあの依頼はほっといても誰かがやったし、怪しい話だった。だからこそふたつ返事で受けたんだよ」
グランスは言った。ローマンはいまいちわからない顔をしている。グランスは、もりもりと食べていた穀物っぽい実の料理を、呑みくだしてから言った。
「難しい話じゃないから考えなくてもいいよ。そうだな、そういう気分だったってことでどうだろう。もっとも、そういう気分でなくとも、やっぱりふたつ返事で受けたと思う。そんな感じかな」
「よくわからないけど」
ローマンは言った。
グランスは、魚にかぶりついて、口元を指で拭った。
「難しい話じゃないって言ったろ。それと高潔なような話でもないんだよ。ま、この話はそういうことで」
言いながら、飲み物で口の中の物を呑みくだす。それから、少し改まって言った。
「これが気に入らないというんなら、仕方がないけれど、そういう理由で付き合いを止めたりしたくない。ローマン、組んでくれるかい?」
ローマンは、黙って首をすくめた。が、それでは少し具合が悪いと思ったのか、付け足した。
「この話はなかったことにしよう。なんだか、妙に深刻になってしまった。君の言うことはさっぱり理解できないけど、仕事をする上ではそんなこと関係なかったな」
それでその話は終わった。オズが、微笑しながら、新しい飲み物を二人の容器に注いだ。
ただ、やや表情には陰があった。
仕方がない。
三日後。
街の外れ。貧民街。
「いやーつっかれたぁ」
グランスは、その日の仕事が終わったとたん、さすがに呟いた。
依頼自体はそれほどきつくない。毎年、温暖な時期になると、貧民街の下水溝は、ひどい悪臭をはなつようになる。
この対策として、街で三年前に有志を募って掃除を実施した。
しかし、仕事のきつさに人が集まらなくなった。
そこで、安い賃金を払って冒険者の斡旋所にも仕事を流した。安いのは、当然人が集まらないからだ。まともな冒険者ならまずやらない。
さらに言えば安いというのは、冒険者の仕事の目安から見てで、街では破格の額を提示している。
グランスは、普段から同じような服装ばかりしている。この日もそうだ。
まず額には布を巻いている。前髪が落ちてこないためだ。
指貫の皮をなめした手袋をしていて、これが洒落たものと、唯一言える。
上に着ているのは、上衣が一枚だ。汗を吸うための労働者が着る類のもので、これが肩の付け根辺りにまで袖を付けずに露出して、二つ繋ぎのような形である。
下は少しばかり値が張るようなものだ。とにかく頑丈で伸び縮みにも耐える、これも労働者が愛用するものだ。某とも呼ぶ念入りに折り重ねた布と、織った糸でなめし革にも並ぶほど強度がある。
もっとも、使い込んで擦り切れや色落ち、また穴あきもできており、手間と費用がかかるため、ろくな補修にも出していない。
靴は硬かった。頑丈な革で釘を打ってある。年季が入っており、靴底がすり減っている。
このような出で立ちに、さらに袖をまくった男物の上着を羽織っていた。古いものである。ボタンはついているがかけていない。
雨避けや、風避けにもなるもので、このため、膝にかかるほど裾が下りている。
これに先に述べた大剣を背負っている。
「明日は草刈か」
呟いたが、意味も無い。
らちもない。
にべもない。
希望もない。
へんに後ろ向きになりかけている。それを自覚しつつ、グランスは考えた。
冒険者らしくない仕事をしているのは分かっている。それに、自分なりに仕方のない事情があることも。しかし、それは自分の都合だ。さらにいえば、付き合う必要のない都合だ。
人が他人に付き合う、他人の都合なんて、よほどの理由でないといけない。たとえば、命の危険が迫っている。災害が起きる。自分では手の施しようのない事態が起きる。身の危険が迫っている。
そうなっただけではいけない。それはそれ、その対象となるのがあくまで他人に理由や原因のあることならば、他人を置き捨てて自分は逃げ出してよい。実際、逃げ出す。誰だって怪我も死ぬような思いも、死にたくもないからだ。
人間は自分が可愛い。誰しもがそうだ。そういう点で他者と自分とは対等で、また、生存においては、譲る必要もない。譲られる必要もない。どっちが先に置き捨てるかだ。
それが、覆るとしたら、自分も相手も、迫りくる危険に対して平等だと自覚したときだ。
しかし、人間の頭はにぶくできている。また、人間が思うほど、人間の頭はにぶいわけでもない。にぶいわけでもないから、先に述べた理屈は、言われなくても瞬時に頭が理解する。
身体が動くかどうかに個人差があるだけだ。それは身体の問題であって、頭の問題ではない。経験するのは、頭ではなく身体だ。指先をはじめとする肌と筋肉と、内臓と骨、血と脂肪だ。それと神経。
これらより人間の頭はにぶくできていて、身体はすばやく出来ている。ただし、こちらは自分で思うほど素早くはない。思うほど素早くはないから、行動は遅れる。
この身体の動きを素早くするには、何度も反復して訓練を積む。動きを身体に覚えさせるしかない。
人間は簡単に死ぬ。簡単に崩れる。
簡単に死ぬことを、簡単に死ぬ寸前になってわかる。簡単に崩れることを、簡単に崩れる寸前になってわかる。これは、とてつもない恐怖だ。
言葉で言い表す事が出来ない。この恐怖は、人の頭を麻痺させる。
錯乱する。硬直する。走り出す。隣にいる者を見つけ、助けようとする。
人が、他人の都合に付き合うのは、このときだ。
頭が麻痺したとき。言葉を失った時。蒼然としたとき。感情に流されて、利害関係を見失った時。
人間は、日常的につい自分がやっていたことをやってしまう。とりあえずで。
それを、無謀と呼び、親切と呼び、人類愛と呼び、勇気と呼び、蛮勇と呼ぶ。これは違ってても、あっていてもどちらでもいい。
とりあえず、いつもと同じことをしたら、そうなったのだから、やったことに理由はない。後付けだ。そして、後付けでいい。
そして、付き合うほどでもない他人の都合に、付き合ってしまうのも、このとりあえずであることはある。
理由はある。判断が遅い。判断が遅れる(理由があって)。置き捨てるタイミングを逃す。とりあえず、いつもと同じことをしたらそうなった。
つまり、プラスの要素があって、頭が麻痺する。それ以上の思考を放棄する。
命の危険が迫っている、つまり、切迫しているときとそうでないときと、なにも変わらない。
とりあえず、そうする。そうしてみよう。そうした。
とりあえず、いつもと同じことをしたら、そうなったのだから、やったことに理由はない。後付けだ。そして、後付けでいい。
で、ローマンは、あの場ではグランスの都合に付き合った。付き合うでもない都合に。
明かされても、その都合は、自分の身を切迫させるものではないと判断はしている。人間は、人間が思うよりは頭がよくできている。だから、グランスが考えているローマンの考えを、さらに踏み込んで考えると、そのようになる。
そのようになるのだから、そうであると言っていい。また、まるきり的外れであることもある。これは、驚くべきことだが、驚くべきことではない。人間は、人間が思うよりは頭がよくできているのだから、グランスは読み切れなかった。ローマンの頭の出来がさらに上回っていた。
あとは情報だろう。
グランスは、ローマンという男の事をほとんど知らない。
知らないが、理由がある。人に言えない理由が。だから思考を放棄して、あるいは、そこで頭が麻痺して、とりあえずで、グランスをつっぱねられないのだ。
後ろめたさとでも言おうか。グランスが思っているより、純な男であるかもしれず、または、とんでもない外道、下種のたぐいで、実はあるかもしれない。ローマンという男は。
ともかく、閑話休題。
オズはどうか。これも同じであるとグランスは見るが、頭を麻痺させている理由は、単に人の良さであるようにも思う。
ただ、オズのことも、グランスはほとんど知らない。ローマンも知らないはずだ。そう見せて、実は知っているかもしれない。
なんども言うが、人間は、人間が思っているよりも頭がよい。また、秘密というのは意外と気取られないものでもある。
頭を麻痺させるのは、思考を放棄させるのは、踏みこんで考えさせないのは、自分側に理由がある。秘密をもつグランスは、少なくともそのことはおぼろげには知っている。秘密を持っていない人間よりは。
秘密は望んでもつものではない。誰も望まない。いや欲望はある。でも、それは妄想である。妄想というのは、現実になったら実は困る事でもある。もちろん、自分がだ。
自分が、ほかの冒険者が、冒険者らしいと思うことをする、怪物たちと戦う。襲われる人々を護って、怪物と戦う。戦う力のない人々のために、怪物と戦う。
それは妄想だ。現実になれば、グランス自身が実は困ることだ。しかし、実を言えば、そこまで困る事でもない。
やろうと思えばできる、現実に限りなく近い妄想ではある。しかし、妄想だった。
起こってしまっては困ること。
それは、その夜、目の前に現れた。奇しくも妄想した通りの形となって。向こうの屋根の上に、月がかかっている。
それが、欠けていた。屋根の上に誰かがいる。その影が、月とグランスの視界の間とを遮っている。
夜目は利く。グランスはその影に目を凝らしながら近づいた。月の角度が少しずれ、影となっている人間の姿と並ぶように浮かんだ。
月は丸かった。満月ではない。だが、十分に明るい。
だから、屋根の上にいる影も、グランスの形を見て取っただろう。あるいは、先に捉えていただろう。後者だ、多分。
しばらく、じっと見る。気づけば、睨んでいる。睨んでいる、ということに気づいて、グランスは肩の力を抜いた。
気づけば、かなりの間そうしていたようだったからだ。星がすこし傾いている。
グランスは焦れた。相手は何も言わない。
「やあ、オルグ」
しかたなく、口を開いた。面倒くさくなったのだ。面倒くさくなった。これも思考を放棄する理由だろう。
「ひさしぶり」
「黙れ」
言った。屋根の上の影である。とげとげしい。
実際、グランスは、その言葉に頭に来た。感情は、思考を放棄する理由の一つだ。背をそびやかすように、落ち着いて、口を開く。
「冷たいね」
「黙ってろよ、シットシュツルゥ」
「その名前で呼ばれたくない。グランスって呼んでくれないかな? オルグ」
「俺はその名前で呼ばれたくないのさ、シットシュツルゥ。お前には、特にな」
「だーって、偽名くさいだろう? いかにも。実際、偽名だし。自分って感じがしないのよね」
「ふん」
オルグは笑っている。
嫌味な笑いだ。そして、陰気でもある。
月明かりがその姿をぼんやり映し出している。
上に着ているのは、柔だが、それなりに値の張る生地のようだ。それと揃いで同色の下衣を穿いている。靴は革で、月明かりに鈍くてかりを返しているのが見え、もっとも、これは、グランスでないと見えなかっただろう。
ライン状に、意匠を縫い上げていて、それが不思議と泥臭くないのだが、安っぽさのない使い捨て感を、感じさせる。前留めではない、金型を首もとから、腰の下あたりまで一筋に下ろして、やはり、ぶら下がった金属の装飾めいた金型をジッと、上げて前を閉じる。
寝巻にも、軽作業にも使えそうな代物だ。軽金属を混ぜて縫い込んだような、不思議なきらめきが、布地に張り付いている。
色は、闇のような黒だが。二の腕の辺りで袖を切り、上衣の下に着込んだもう一枚の上衣の袖が、こちらは手首の辺りまでおおって伸びている。
オズとすこし似ているか。何の変哲もない髪型の、何の変哲もない男(ただし、前髪が少し伸びすぎていて、目を覆っている)であるように見える。寸鉄も帯びていない。
いや、武器など持っていたら、不自然な恰好ではある。夜に、(そんなもの好きはいない。この辺りは、そんな穏やかではない地区なのだ)体力作りに広場や、公園を走っているような人間の格好だ。
それが、舐めるように光る目を動かして、鼻で笑ったのである。言う。
「あいかわらずバカみたいな恰好をしている」
いかにもわざとらしく、言う。性格が悪いのだろう。実際、性格が悪いところがあることを、グランスは知っている。
ま、知っているといえるほど、お互い長い時間を過ごしたとは言えない。
父と呼ぶ人間に預けられ、その子供として、家に暮らした。その期間を振り返れば、ほんの七、八年だろう。
「嫌味をぶつけるなら相手が違うんじゃないか」
グランスはむかついていて、よっぽどそんな皮肉をぶつけてやろうと思った。
この男は、いつもそうだ。会って一、二年もすると、グランスを毛嫌いするようになった。グランスもまた、内心はあまり好きではなかった。いや、自覚していない感情分を計算にいれるなら、はっきりと嫌っていただろう。
こいつは憎んでいる。グランスだけではない。
父を憎んでいる。元いた場所――ナーガと呼ばれた天の庭を憎んでいる。そこに棲む者達を憎んでいる。
世界を憎んでいる。それは、自分自身を拒絶して、まず、自分で自分を憎んでいるからだ。そこから始まったら、人間は、すべてを憎むようになる。呪うようになる。忌み嫌うようになる。認めない。
「ちっ」
当然、グランスもこいつを認めない。こいつ自身が、こいつ自身を認めない。そんな相手を認められる度量など、少なくともグランスにはない。
認められるようになるには、理由が必要だ。理由は、後で理由にもならない理由だったとしても、気まぐれだったとしてもいい。懐に入ってくることを、許す。近くに寄ってくることを、許す。
動物が、動物を縄張りに入れることを放置するように、『赦す』という野性的で合理的な理由であってもいい。理由の無い理由であったとしてもいい。恐怖した、だが危害は加えられないようだ、こうすれば。そういうのでもいい。
なんとなくぼんやりと、ということが出来るほど人間は存外、愚鈍には出来ていない。出来ているように思われがちだが、出来ていない。そう出来ているのでなければ困る、と思う人間がいれば、そうなることもある。
夫婦である、恋人である。血縁である、兄妹である、家族である。友人である、仲間である、協力者である。
そう出来ているのでなければ困る、と、互いが互いを思っているのなら、成り立つこともある。結局は合理的でないことの方が多い。許すということは、不合理である。
許さないということもまた、不合理であることが、多々ある。グランスはこいつに何をされたという訳でもなければ、嫌う原因になったこともない。少なくとも、そう断定できるほど、はっきりしたきっかけはない。だが、嫌っているということはそうなのだろう。なにかはあったのだろう。嫌いになるようなきっかけになることが。
思い出せないほどどうでもいいことで、また、思い出せなくても構わないほど、こいつを嫌うには、自分の理由は些細で十分であると。
グランスは、あきらめた。仲良くなる努力を、ではない。
「バカみたいってこたあないでしょ。冒険者ってのは、アピールも大事なのよ。ほら、よく鎧やら長ーい服にとんがり帽子を被って、剣やら盾やら槍やら。ちらつかせて歩いているのは、自分たちをわかりやすくするためよ。でなきゃ、あんな恰好で街の中を歩くかって、自警団に袋叩きにされたって文句は言えないよ」
グランスは意地悪く両手をひらひら振って、にやにやと笑ついた。
「それに後ろから襲われたときには盾にもなる。ま、私が相手しているのは人間だけどさ、怪物みたいに凶暴性だけで襲いかかって来るヤバいのじゃあないけれど、こっちも知恵を絞らないと、そこらへんに転がっている石が当たって倒れたり、ね」
「なんで怪物と戦わない。怖いのか?」
オルグは言った。
瞬間、グランスはかっとなった。
血が熱く沸騰した。
自分を抑えきれなくなった。
一瞬。
一瞬で起きたことは、一瞬で終わった。
本当にぶち殺してやろうか、こいつ。
思ったことは、そんなことだった。
自分で思っている以上に、自分が我を忘れて、目の前のなにかに殺意を向けており、それが夜空を暴発させた。
気がついた。
肩で荒い息をしていた。
疲労ではない。興奮でもない。
殺意でだ。殺意で、目の前が一瞬真っ白になるほど、かっとなった。自分を見失った。
「――くっそ!!」
グランスは毒づいた。
どこかでひょいと肩をすくめて言うような声がした。
実際は、そいつはにやにやと陰気に笑っていただろう。
さっき、自分自身がそいつにそうしてみせたみたいに。
嫌な笑い方で。
(してみると、まさかオルグも怒りで我を忘れかけていたのか)
口の中に、嫌な味が染み出る。共感。共鳴。
その程度の事が許せない。
最初、話すのもやっとの距離にオルグがいたのも、納得できる。
あれ以上は許せなかった。
「互いに互いを許せず、行動に出ていた」。
「お前が怪物と戦わないのも当たり前だ。お前の方がよほど怖い。怪物より。悪意のある人間の小知恵より。ああ、もちろん、お前は人間に含まれないぞ」
声は去った。
寒気がした。
夜気が身に染みた。
ふあーぁ、と、道の向こうから、気の抜けた欠伸が聞こえた。
どこかの酔っ払いかなにかか。
グランスはそちらを見た。
翌朝。
グランスはあふあふ言いながら、階下に下りてきた。そして、がっかりした。
窓の外は一面の水浸しが吹き荒れていた。安普請の宿の建物ががらがらと、雨に音を立てている。
(うっそおん)
「はぁ~~」
溜息をついて、窓の外を見やる。
窓辺では、ローマンが卓状の席で、琥珀汁を飲んでいる。
なにがあったのか、苦い顔だ。
しかし、琥珀汁が苦いということはない。ローマンは味が苦手で、特有の植物から抽出した粉状の甘いのと、家畜の乳を加工したのを入れないと飲まなかった。
これは彼の好物でもある。ローマンの前には、女性が一人座っていて、小麦色に混ぜられたまろやかな琥珀汁の飲み物を飲んでいる。
その女性が、一見してローマンの苦い顔の原因か。
グランスは邪推しながら、それはそれとして、外に目をやった。雨は風が叩きつけるように吹くのにあわせて、鳴っている。ほとんど嵐だ。
今の時期によくある長い雨だ。二、三日は降り続くかもしれない。
それはそれとしても、グランスには今日だ。雨の中でずぶ濡れになりながら、仕事にもならない仕事をやらないといけない。
「うわあ、これは風邪ひくな」
雨具の用意を思い浮かべながら、風呂の用意を頼んで置こうと、宿のおかみを見る。
そこで、ぐるりと振り返った。
視線は、ローマンの前に座っている女性に向けられている。
女性である。女性であろう。女性を主張するふくよかな胸が、薄手の繊維で温かく縫製した、首もとまで覆う上衣を押し上げていた。
黒い生地が身体の曲線をほんのり浮かび上がらせている。
下には洒落者の着るような、ぴったりとした黒の下衣を穿いていた。きっちりと折り目がついて清潔そうな生地が、通常のそれよりも身体に張り付くように縫い込まれている。
さぞ値が張るものだろう。洒落者といっても、よっぽどの者でなければ穿いていない代物だ。白い足首に、踵の高い歩きにくそうな革の靴。それと上衣の上から上着を羽織っていた。
これもいかにも、洒落を意識したもので、前留めが二重になったのを、帯状に織った丈夫な布を通して、身体を締める。袖や襟にもさり気の無い縫製が施されて、見た目が格好よく映るものだ。実際似合っている。元は外套として用いる機能性も持ち合わせていて、これも安くはないだろう。
(美人だな)
と、グランスのそのような無遠慮すれすれの視線は意に介した様子もなく、女性は、窓の外を見ている。取っ手の点いた飲み物の容器を両手で包み、ちょっと啜る仕草が、物憂げで魅力を匂わせている。
髪は短めで、わざとそのような髪型にしているらしい、と思うほどには長かった。日を透かしてきらきらと輝きそうな灰色の髪だ。今は外のどんよりとした空模様を受けて、くすんでいる。
もしかしたら湿気に弱いのかもしれない。一本一本が、絹の糸のようである。ただ外套も灰色であるためか、いまいち美観をそこねているいように、それが思えた。
女性である。
しかし、二度見した。グランスは、つまり違和感を感じとったということで、それがなにかと考えるに、それは、おそらくは場所だった。
女性の装束は、なんとはなく、旅行者を思わせた。
あるいは、それなら迷い込んだ路地でこの宿を見つけたのかもしれない。
突然の雨に降られて、避難してきたとも取れる。
たしかに、旅人、つまり旅行者、と最近は言うが旅行者が足を運ぶような所ではないが、慣れない土地で迷ったと言うならありそうなことだ。しかし、グランスは脳内でそれを否定した。女性はまったく雨から避難してきたと言う様子はなく、外套も髪も少しも濡れた様子がない。雨が降る前に来たのだろうとも思うが、外の様子だと、どうもないように思われた。今朝がた早くからすでに雨は降っていて、悪化したのだろう。
ともかく、グランスが来る前か、それ以前に外から来たと言う風が、まったくない。宿泊客だろうか。
気づかないということもありえないではないが、それも妙であるし、だいたいいつ来たのだ。
昨夜は遅くに帰ってきた。胸糞の悪い旧知との再会のあと、またさらに顔見知りに会って、話し込んだ。だから、この女が偶然この宿に泊まりに入っていても、まあ、やはり気づかないということはあるように思われた。
ほかに違和感に覚えるといったら、あとは、同じ席に座っているローマンの鬱陶しげな、(主観だ。事実ではない)表情と様子であろうか。鬱陶しげ、というのもちょっと違う気がするが、そこまでは一目ではかれないもののように思われた。
とまあ、思ったものの、そこはそれだ。
グランスは雨具の仕度をしに、部屋に戻った。そしてそのまま出かけた。
宿に帰ってきたのは昼過ぎになった。
結局、草刈りはろくな仕事にならず、斡旋所からの連絡待ちということになった。中途半端に働かされ、賃金もほぼ得られず、散々な心持ちで、グランスは宿に帰ってきた。
連絡待ちといっても、グランスが滞在する宿に、わざわざ連絡の人手をよこすわけではない。後日、指定されたおおまかな日程のみはからった時間帯に、こちらから斡旋所に出向かなければならない。
とはいえ、今回は、賃金が一部渡されただけ、タチのいい依頼人側といえるだろう。斡旋所の存在があるとはいえ、曖昧な状況が発生した場合、かこつけて報酬の取り下げや減額などを言い出す依頼人もいる。別に東の街が都会だからではなく、どこだろうが起こりそうな話であるということだ。
だがまあ、雨にずぶ濡れのグランスの様子は、傍目から見て恰好のいいものではなかった。
宿のおかみに、言うと、あらかじめ頼んでいた通り、湯を張っていた。
グランスはしばしあったまった。もちろん、別料金だ。
湯浴みは、東の街では珍しい文化ではない。
ここは、古今東西の荷馬車と、荷駄、船荷の、集まる交易点で、文化も古今東西の雑多なものが入り混じっている。人々の様子も、最先端と言える。
ただ最先端であると同時に、古今東西のいろいろなものが混じりあうから、それだけではない。
野暮ったい田舎ものから、ほとんど異国に近い肌の色の違う西国の商人。ちんどん屋、道化芝居の役者、半病人、ロクデナシ、遊び人、それらが混じりあっている。
この街では、スリを殴り、ひも付き女や店女をひきはがし、冒険者まがいのごろつきと目を合わせず、ちんぴらや詐欺師と肩を摺り合わせて歩く。
辺境での異常が、ここでの日常である。
グランスは湯で顔をざばりとやり、湯船から出て洗い場で耳の裏をこすり、濡れた髪を乾かして、あとは、上着を脱いだ上衣いちまいでほかほかしながら、脱衣場を出た。三日ぶりにさっぱりしたような心地だ。
実際、グランスに湯に入る習慣はなくて、しかし、一度体験するとなかなかに気持ちのいいものだった。暑いのには辟易するが。
手ぬぐいのふわふわした布を首から下げて、だらしない恰好で出てきた。
ここのおかみは、金さえ払えばうるさく言わない。
というよりか、何度か言ったが、冒険者とはろくでなしの集団だ。一般的な感覚では。
ついでに田舎ものでもある。都会に来て食い詰めるのは、田舎ものの役目だ。
この役目から抜けだすのには、大金と年月がいる。大金はすべての人間が持てる者ではない。よって、田舎ものの役目とは、ごろつきかちんぴらか、ヤクザの使い走りである。たまに、逆噴射したような根性を見せて田舎に帰るべく街を出る者もいる。が、都会とは田舎から離れている。
田舎がなぜ田舎かというと、人がいなくて、周囲の危険から身が守れないからだ。里の中に居ても、安全ということがないということから、人が棲めない。よって、田舎だ。
なので帰り着く前に、山賊に攫われたり殺されたりする。山賊や、盗賊と言うものはそれを目当てにその場所で賊をやっている。
また野生動物、それよりも危険な怪物の類、凶悪な異種族の類に殺されたり食われたりということもある。
そういう目に遭ってまで、命からがら、運よく田舎に帰り着けたとする。
その先は、貧しい暮らしである。
ひと昔前は、王権がよっぽどの善政を行わない限り、餓死者が出るほど、田舎と発展した場との格差はあった。
これは、王権を責めるのは、気の毒やすじ違いも感じるほどのものだったが、このあたりの歴史は、敗残者にとても厳しく、善政をよっぽど行った一人二人の王を除いて、全て悪王と言われている。
西より、東の街を通して新しい文化が流れ込むようになると、格差は改善された。今なら田舎で暮らしていても、飢えずに食っていける。鉄の農器と発展した農作法のたまものだ。
しかし、田舎にいても若者が尊厳を持てるほどには至っていない。
田舎で尊厳を得られない者は、外の世界に尊厳を求める。外の世界とは、東の街のような都会だ。あるいは船で渡った西の地だ。
西の地というのは、基本的に東よりも発展している。よって、東の街からも人が流れる。
グランスは、湯浴みから上がってきて、いい気分で卓状の席のひとつに着いていると、窓辺にふと目をやった。
相変わらず、激しい雨が窓を叩いている。さっき、おかみに琥珀汁を注文したときも、雨の音がうるさかった。風がごうごう吹いているのだ。
グランスが帰ってきたとき、下のスペースには、一人も人がいなかった。
それが今はいた。
朝、出ていくときに見かけた女だ。
ローマンはいない。
というのも、朝見かけたのと、同じ位置、同じ席にいたからだ。今度も琥珀汁を飲んでいる、と思ったが、水だった。容器でわかる。
雨の音がうるさい。グランスとは、離れた位置に女がいるため、声を掛けるのには、席を立って行かなければならない様子だ。
しかし、今は立つ気が起きない。昼時とはいえ、ひと仕事を終えて戻ってきた。それで湯浴みまでしてしまった。贅沢である。贅沢だが、ぬれ鼠でいるわけにもいくまい。そこらへんは、かねあいが難しい。
それで、立つべきか立たないべきか迷っていると、席の少し向こうになる階段から降りてくる足音がした。そちらを横目で見やると、ローマンだ。目でグランスがいるのには気づいている、というそぶりを(というよりは、目が合ったのだ、たんに)しながらも、視線を外した。
おや、とグランスは思った。
しかし意味は汲んだ。汲めと言われたわけでもないが。つまり、ローマンは今なんらかの為があって、それで不機嫌か何かで、話す気分がしない。
偏屈な所があるのはすでに述べた。付き合って悪い男というわけではないが、そこはよくないだろう。
とにかく気疲れしているかなにか、と言った様子だ。
理由は、まだ邪推するしかないが。
なので、なにも言わずに、注文していた琥珀汁が来るのを受け取って飲むと、黙って座っていた。
ローマンは、その後ゆっくりと歩いて、女が着いている卓状の席に、また朝と同じ位置取りでついたようである。
しかししゃべる様子もない。口を開く様子もない。
口を開くのが、気が億劫でならない。そんな感じ。だろうか。
なにかきっかけがあればと思うが、今日はまだオズは出払っている。さっき二階にも行ったが、いなかった。仕事か何かだろう。グランスも、あの男が何をしているというのは、いちいちは把握していない。
ただ、グランスと違い、怪物や異種族が絡む依頼に出かけているようだ。なぜわかるかというと、そういう仕事をしてくるようなときは、いっさいグランスにははばかるからだ。
どうも、気を遣っている、といった風である。
そういう見方は、都合がいい。
グランスの見た所怪しい所だ。
悪い男ではない。ただ、隠し事がある。
グランスらに(聞いたところだと、ローマンにも言わないらしい)言わないのも、ローマンとグランスらへの気遣いにかこつけて、悪く言えば、自分の都合を棚にあげているようでもある。そういう風にも取れるということだが。
まあ、悪いほうに取るべきではない。グランスの見た所、くり返すが悪い男ではない。純粋な気遣いだろう。
ともあれ。
グランスはローマンに声を掛けないのも気づまりであるし、部屋に戻ろうかどうか迷ったが、結局話しかけた。
「おかえり」
ローマンは短くぼそっと言った。こいつも悪い男ではない。
話しかけた以上は、と思い、グランスは同じ卓状の席についている女性に目を向け、「どちらさん?」と、ローマンに、そのように言った。
ローマンも、すさまじく気が進まない様子ではあった。
しかし、どっちにしろ、グランスを無視するつもりはなかったらしい。
が、女性が先に口を開いた。
「こんにちは」
女性はにこやかに言った。美人だ。それも人馴れした美人ということである。
これはなかなか、と思い、グランスは「やあ、どうも」と、これも無難に返した。
ローマンは視界の端っぱにいたが、どうも話すのをあきらめた風だ。
なるほど、どうやらこの女性が苦手であるらしい。さらに知り合いである。どの程度かは知らないが、ローマンのことについては、東の街の人間ではないということしか、そもそも知らない。
女性は名乗った。
「アキホ・イナーヴィア」
というのが、名前であるらしい。
聞かない名前だ。
「あなたがグランスさん?」
アキホは言った。グランスはええ、と返した。
「はじめまして。こうしてお会いするのは初めてね。となると、初めましてってのも変か。あなたのことはずっと見てたしね。あなたってより、あなたたちか。もちろん、あのオズって人も知っているわよ」
言う。琥珀汁を飲みながらだが、さらっと、どうも容易ならないことを言った。
グランスは、はあ、と、どういうことだという顔をした。
アキホは容器から口を離すと、ぱたぱたと手を振った。
「ああ、構えた言い方になってしまったわね。どうぞお楽になさって?」
おどけた言い方で言う。
黒い上質な手袋をしていて、それと、上着の袖との間から、透けるような白い手首が覗いている。
それで気づいたのだが、どうも足は素足のようにも見えたが、ごくごく薄い透明さと伸縮性を備えた、靴下の一種である女性用の繊維質を着用しているようだった。
これは西で開発されたものということで、こちらでは相当に値が張る。それも伝線しやすいうえに、手入れにも相当苦労が要るという代物だ。
グランスが驚いたのは、一見、旅行者の体である彼女が、厚手のものではなく、ごく薄手の完全な、洒落用のものを身に着けていたということだ。もちろん、旅行者も身一つではなく、服を替えて街歩きをするだろうから不思議ではないが。
ただこの場にはそぐわない。
なにか異質な、そのようなものを感じたのだ。
しかし、グランスもうかつながら、ここで何かボロを見せるようなお人好しでもない。
それに、どうもこの場合女に喋らせるということにこだわりたかった。
単刀直入に聞かないことにまったく意味のない対応をした。
「お楽にってのもな。でも、そういうことなら、なにか私と話したい用事が? それとも、私らとか?」
ふうん、と、アキホと名乗った女性が真顔でまじまじ見るので、グランスは、「なにか?」と、言った。
「ああ。違う違う。気を悪くなさったらごめんなさいね。ううん、(咳払いだ)失礼。こうして、お会いしに姿を見せたのは、けっして悪意からのものではないのよ。あ、ちなみに、私、彼とは面識があるから。どんな関係? 元恋人よ。あら驚いた。失礼?」
女性はぺらぺらと言う。
どうも、癖のある喋り方だ。
わざとやっているのか、素でそうなのか。それは判断がつかない。
が、まずは「恋人?」と、半分本気で聞き返した。ローマンにである。聞かれたローマンは、うろたえなかった。ただし、言われたことを事実と言っているようには見えない。
しかし、否定もしなかった。おそらく、半分事実なのだろう。
そのような複雑さが読み取れる。苦い顔をしながら、琥珀汁を啜る。
その様子を見て、不謹慎ながらグランスは可笑しみを覚えた。
なにやら恋人が、それも元である、という俗っぽいことが事実だとわかったことで、ローマンへの見方が、グランスの中で意図せず変わったようだ。
そのことを可笑しみといったのだが、それはそれながら、アキホと名乗った女性を見た。
また喋りはじめたからだ。
「一応言っておこうと思っただけだけれど。まあ、あまり意味はないかな。なかったか。ごめんなさいね。話を元に戻すわね。そう、けっして悪意からこうして話しに来たわけではない」
アキホは片目を瞑った。ゆっくりとだから、ウインクともいいがたい。
「儲け話、興味ないかしら。もちろん、冒険者としてのあなたたちにとってのね」
夕方。
それなら、三人揃って話を聞くのがいい。
グランスは即座にそう提案した。本当は逆である。
生の話というのは、それだけ騙されやすい。
みんなそろって聞く方が手間が省けると言うのは、あれは嘘である。もちろん、本当には嘘ではない。
ただ、生の印象を通して話をする方が、相手をのせようと思っている場合、そうしやすいのだ。そのための方便として相手が揃ったところで話をすると言う。大袈裟な話ではない、ただのいち側面のことにすぎない。
それにそれほど効果がてきめんというわけでもないのだ。たくみな話術が必要になるからだ。へたな話は本当に誰も聞かない。聞いてみればわかる。聞いてられない。
とはいえ、はたまた。みながそんながりがりの亡者ではない。それに、今回の場合、提案したのはアキホ側ではなく、グランス側である。
最初から道理の逆に飛び込んでいる。
とくに道理が必要とも思えなかった。
アキホはまず旅行者だと名乗った。西から船に乗ってこの街へ来た。
「天の庭」
と、アキホは言った。
天の庭。先に述べたナーガとカル・ル・ラ、追放者の楽園という。
カシミエシユ・リュ・ルーラ=ルーナルア。そのもう一方だ。
ナーガは、ネルラージア=グラスゴーソン。
略してナーガと呼んでいる。天の庭と呼ばれる。
カル・ル・ラは二〇〇〇年前にさかのぼる言葉と言われるが、ナーガもまた、その同じ時代の言葉としてある。
元は山脈であった。そんなに高い山ではない。
ここに大勢の奴隷と、それを養う食糧と家畜、土木の技術をもった王様があるときひょっこりやってきた。
正確には語られない。それほどの昔だ。
神話のひとつとも思われていた。のちに発見された。
その天の庭は、その語られる王が、常識を超えた山の上に都を打ち建てたというものだ。
これには一五〇〇〇人の奴隷と五〇〇〇頭の家畜が犠牲になり、三〇〇年の年月を費やしたと言うが、その時代、人の寿命は長くて、都の完成から二年後にこの王は死んでいると記述にある。
眉唾物である。
人がそんなに長く生きるはずがない。
しかし四〇〇年前に、学者がその証拠となる山の上の廃墟を発見した。巨大だった。
これはまさに天の庭だと、学者は主張したが、信じられず、証明されないまま五〇年後にこの学者は死んだ。
発見されてから一二五年後、ようやく、この発見が認められた。良くある話だ。
そして、この時期までは、人間はこのあたりまで勢力を伸ばし、棲んでいた。
この後に分断が起こった。
正確な記録は残っていない。
少なくとも、カル・ル・ラに棲むことになった人間たち、異種族たち、知恵ある者たちのなかで、分断の時期の正確なことを知っている者はいないとされる。また、おそらくいない。事実である。
本来記録も残そうとされていたらしいが、何者かに抹消されて塵一つ残っていない。誰がやったかもわからない。わからないが、そんなことができるのは天の庭に棲む者達しかいない、と言われている。憶測である。
分断とは言うが、カル・ル・ラを追放者の楽園と言うだけあって、大陸の三分の二を占める文明からの、のちに追放者となる者らへの、締め出しだった。
なぜ締め出しなどして、わざわざ棲むところを残すような真似をしたのかは、納得できる理由を説明できる者はいない。しかし、おそらくは追放された者達をながめて笑うためだろうと邪推すれば、そうなるとされている。
アキホは言った。
「三分の二を占めた文明は、口伝によると、文明の凍土とも呼べる、この星の、この大陸できわめて高度に発達した一大文明社会であったと言われているわ。彼らは星へ届き、時を渡り、海をも制覇せしめた。人間が社会生活を営む上での資源問題を解決し、寿命を超越し、不老不死を実現した。また人間の手で生み出す新たな第三の生命をも誕生させ、その力は魂までも解明して創り出した。言ってみれば、人間みな神様という世界を、あそこに造り上げたのよ」
グランスらは黙って聞いている。半分以上頭に入っていない。
だいたい天の庭にはどうあっても入れないというのは、こちら側に棲む楽園の『追放者』たるグランスたちの共通の認識である。誰もが知っていた。
天の庭と、追放者の楽園を隔てているのは、深い谷だったり、壁のような断崖絶壁を超えた、異常に切り立って、なかば追放者の楽園側にはみ出している山塊の群れといったようなもので、こちらの人間の力では踏破は不可能である。
山脈だけでなく、深い谷というのも、底が見えないほど落ち込んでおり、向こう岸は「確認できない」というあほらしい場所だ。どこで谷が終わっているのか見えないのである。どういう構造かも計り知れない。
冒険者の中には、これを越える方法を探す者もいるが、あくまで少数である。
みな妄言家扱いされて、社会的に死にたくないという想いのあらわれだろう。実際、公言している人間は、みな例外なく社会的に殺されている。
「天の庭に棲む人間たちにできないことはない。そんなもの、人間と呼ぶのかも怪しいけどね。まあ、それは話のマクラ」
アキホは、切り上げた。語ることのバカバカしさを悟っているのだろう。
「要するに、その天の庭に行けってこと?」
オズが言った。少々軽躁だった。なにか、嫌なことでもあったのか、珍しくあまり人当たりがよくない。
帰ってきてからも、さえない顔色をしていて、グランスは思わずアキホの件も忘れて本気でどうかしたのか、聞いたほどだ。が、言わない。
オズの言うのに、アキホは軽く笑った。ほほえむという表現が正しい。ただ、美人であるのに、オズは苦手そうだった。こう見えて、人より女好きで、さすがに斡旋所に出入りするような冒険者まがいの女には声を掛けないが、定期的に、娼館に通っている。
なじみの娘がいるようだ。
しかし、アキホに対しては冷たい。醒めている。
「天の庭にいける人間はいないわ。向こうからも来れない。来ることはあるけれど。追放者の仲間入りをする人が」
「しかし、アキホ。君はなんでそんなことを知っているんだ」
ローマンが口を開いた。
明確に、アキホに物を言うのは、この両人が、そろってるところを見てから、グランスには初めてだった。
ふむふむ、と、グランスは二人に男女の機微というのを感じとろうとした。感じとろうとしてから、自分はそういうのにうといのを思い出して、ちょっと照れた。
「それは秘密だけどね。あなたも知りたくないでしょ? ローマン」
「そりゃあ」
ローマンは言ってから、「まあいい」と、言い直して続きを促した。
「話の腰を折ってすまない。続けてくれ」
アキホはウインクするように片目を閉じた。
よく意味はわからない動作だった。
「ありがとう。あなたのそういうところ好きよ、ローマン」
「そうかい、ありがとう」
「どういたしまして。それで、話は――ええと、どこまで話したんだったか」
指を立てる。
「天の庭にいける人間はいないわ。向こうからも来れない。来ることはあるけれど。追放者の仲間入りをする人が」
「断る」
そのときだった。
グランスは言った。
言ってから、やや驚いた。
オズがまず見た。びっくりした目だ。ただし、どこかほっとしている。アキホの話になにかうんざりするところがあったのか、ちょっとだが。
ローマンはさらに驚いていた。ただ、否定的な目ではなかった。
どちらかというと、いままで見た事のないものに対する探究心というか。
そういえばこの男は学者っぽい。
つねづね、うっすら思ってはいたが、実は学者か、さもなくば、学者くずれというていどなのかもしれない。それは知らない。
一番、動じていないのはアキホだった。
まるで予想していた反応を見たかのような。グランスは内心で舌打ちした。
「断る。悪いけど、レディー。この話はなかったことにしてくれ」
グランスは言った。
アキホは、諦める様子はなかった。
「まだ話が途中よ?」
「ああ。途中だ。でも、断る。その話の続きも、だから聞かないよ」
グランスは言った。
「それは、あなたがもしかして――」
アキホは容易ならざることを言った。
グランスは、おかみを呼んだ。その先に続く言葉を、ちょうどかぶせる形で。
「私のありったけの金を与えるから、このお嬢さんにいい酒とおいしいものを振舞ってあげて」
話は終わり、といって、グランスは席を立った。
無礼とも呼べる態度だった。相手が激怒しても仕方がない。
が、アキホは怒らなかった。しょうがないわね、という顔で、虚空を見て、口を閉じている。
いや、希望的観測であったかもしれない。とにかく、世の中には、さまざまな怒りの形があるから。
簡単には怒らない人物もいる。簡単には怒らない女もいる。
しかし、女というのは男とは別の生き物だ。別の生き物だ、と、少なくとも何人かはそういう感想を抱く。
それは諦観であったかもしれない。分かりあう事への拒否である。人間は男女でなくともそれをする。男女だとなおする。
相手をものにすることに失敗し、屈辱を与えられたと感じる。そのうえで自分は正しいのだと外に訴えたいときに、そんな言葉として現れるかもしれない。
であるから的外れかも。ただし、まったく参考にならないわけでもないかも。
で、その言によると、まあ、もともと人は感情で生きる生き物だ。
その生き物として、女は例外ではない。むしろ感情しかないといっていいかもしれない。
つまり、怒ったら怒る。怒ったら怒らないのは、それは女として嘘をついている。
つまりアキホは嘘をついている。
あるいは、嘘をつくのがうまい。それとおしゃべりである。
「それなら信用なんてしなくていいよね」
(ただし、そういう人間は嘘をつくのがうまいから、取引になったら一筋縄じゃあいかないんだけどね。ようは、諦めないってことかな)
さっさと二階に上がる。
ただし、アキホは諦めなかった。
翌日、いきなり接触してきた。
グランスはそのとき仕事場にいた。
草刈りの件が、天気でお流れになったあと、斡旋所へ寄っていたが、そのときに、ちょうど埋め合わせの形で仕事を貰っていたからだ。
先に述べたように、グランスは怪物や異種族がからむ探検や冒険と言ったものはことごとく避ける。
その代り、土地の争いのような、たとえばあとで地元のならずものが関わっていた、嘘をつかれていた、という。バカを見るような仕事には率先して飛びついた。
グランスの、つまり、仕事のやり方というのは、つまりこうだ。バカだ間抜けだと、率先して言われるほうへ、いちはやく飛び込んでいく。
これについては、オズとローマンが、踏みこんで言わないことだ。だって、そういうことを自分から、わざと、やっている人間がいるとしたら、指摘するのは「お前とこれ以上やっていくことはできない」というときだけだ。
言うに等しい。
だが、実際はそうである。
「やっほ」
アキホは言った。さすがににこにことはいかなかった。そこらへん、話は分かる人間なのだろう。
オズかローマンからでも聞いたか。グランスは、嫌そうな様子を隠さずに、嫌そうな顔をした。
「あなた、転生者でしょう?」
アキホは言った。
いきなりそれを言うか、と思ったが、前回の話の続きということなのだろう。
グランスはだるんと少し開いていた唇を閉じた。
とにかく、仕事はひと段落つこうとしている。
今日の依頼は、街の一角にある貧しそうな民家夫婦だ。
借金があるらしい。で、ちんぴらどもに悩まされていた。
それを排除するべく、斡旋所に行った結果、なけなしの金で依頼を提示してもらう事が出来た。
斡旋所の新米係員が、同情したようだ。もっとも、冒険者が相手にする金額ではなかった。なので、グランスはすぐにこれに飛びついて、その日のうちに、民家へと足を運んだ。
民家の前には、まだ日も昇って間もないのに、ちんぴらがいた。一言二言話し合いをしたが、結局、殴り合いになった。
ちょっとした冒険者なら、多対一だろうと、ちんぴら相手は弱い者いじめである。
掴んでいた胸ぐらを離し、顔を腫らしたちんぴらを解放する。
一言脅しの言葉をかけてやると、離散した。グランスのそばに民家の貧乏夫婦がよってきた。
「じゃあ、お茶にしましょうか。ああ、大丈夫。お茶菓子は買ってきてあるわ。そこのおじさまとおばさま、この冒険者の知り合いの者なので、台所をお借りしますわね」
「どうぞどうぞ」
人の好さそうな民家の妻が言った。なんの疑いもない。
入る義理も無かったのだが、グランスは民家に入った。せっかくだから茶菓子をご馳走になることにした。収入の関係で甘いものは滅多に食べられない。
琥珀汁にも入れて使う、植物類を煮詰めて抽出した、精粉類には、動物由来のものと違って、依存性がある、と、暇人の冒険者たちが警告している。
他国者を、国の枢軸近くに据えるには、冒険者というのは都合がいい身分だ。それを利用して、冒険者あがりの学者、学人を名乗る輩が出世する例がある。
彼らは豊富な資金源と、使い捨てのきく人材を使って成りあがった。冒険者あがりといっても、スタート時点が違い、豪商や富農の次男、三男であったりする。
これらは家を継ぐことができず、かといって気概を捨てられない。それがいい方向かはわからないが、野心に向いた例である。放蕩息子にならないだけまし、と、貧乏人は言う。
彼らは実家の権力や資産をいいように濫用して、結局実家の名誉をおとしめる、と金持ちは嘆く。
人がなにかする、というにあたって、迷惑をかけないというのはありえないことである、という一例である。
貧しい民家に入り、おんぼろの机を囲んで、グランスは座った。正面にはアキホが座る。
茶菓子は、焼き菓子の一種だった。小麦粉と家畜の鳥の卵を、土と泥、薪で形成した高温の調理器具で加工し、ふんわりとした弾力のある不思議な生地に仕上げたのに、獣の乳を溶いた加工製品やら、旬の野菜やらで飾り付けるように仕上げたものだ。
超高級品と言っていい。
グランスは思わずつばが鳴った。
アキホはにこにこするまでもなく、琥珀汁でなく、特定の植物の葉を使った、濾した飲み物を啜り、焼き菓子を食べている。感慨もない。いかにも慣れていると言った様子で、あまり虫が好かない。
まあ、最初から好きではないが。いろいろ置いといて、グランスは手づかみでそれを食べ、飲み物を啜った。
胃に収めると、ほっと幸せそうに息をつく。
四角い卓状の家具の上には、酸っぱくした発酵品の、刻んだ葉野菜のものがちょこんと置いてある。
グランスはフォークでそれを取り皿に取りつつ、二、三口食べて飲み物を啜った。いい味が出ている。
「で、そろそろ話題だけど」
「おいしい」
「それはどうも。選んだ甲斐がありますわね」
「お金持ちなんだ」
言われ、アキホは笑った。
「そうね、まあまあの金持ちよ」
「まあまあねえ。私から見れば相当謙遜しているね。いったいどこから来たのだか、知らないけれど、あんたは大した旅行者だな」
「それで」
アキホは、取り合わず言った。グランスは「ああ」と、言われる前に行った。
「天の庭の話」
「ん?」
グランスはん? と、とぼけてみせた。飲み物に口をつける。そこらの民家なのに、容器はきれいに磨いてあり、取っ手も感性が良い。
子供からの贈り物か何かか。ともかく、音も立てずに飲む、ふりをしながら、グランスは言った。
「あんたが言ったんでしょう、天の庭について話がしたいってね。私から、それともなにか言ったか」
「そうだった、かなあ?」
アキホは言ってみせた。首をかしげている。
どうも、あの短いやり取りで、打ち解けたつもりのようだ。少なくとも、アキホの側からはそのように接してくる。つもりらしい。
アキホはさらに言った。
「いや、まあ当然違うけどね。どうしてあなたがしらを切るのか私にはわからないけれど」
グランスは言った。容器を置きながら。
「しらを切るもなにもないね」
「だってあなたは――」
「だいたいそのなんだっけ。なんとか? だって、いきなり言われてもね。なんだい、それっていう。あなたはそれを探しているのかな、レディー」
アキホはうーん、と考えた。
こんな場所で話すことかどうか、というよりか。
(気分が乗らないってツラだな)
グランスは思った。
アキホは考えるそぶりだった。といっても、ゆっくりまたたきを何度かしたか。濃い灰色の瞳は、長いまつ毛に雪のように彩られて、美しい。
(綺麗なものにはだいたい毒があるってね。食べないための目印なんだったか、毒茸っていうのは)
グランスの見た所。
おそらく、この女は毒茸の類だ。
そういう目をしている。なんか陳腐な言い方だ。
正確には、目の動きである。
ぎょろぎょろと油断なく動く、手足のない地面を這いずって生きる生き物の目をしている。
外見だけの判断だ。
馬鹿にしていい。
しかし、馬鹿にはならないこともある。
なにせ、冒険者というのが、なにに端を発するかといえば、それは貧乏人である。なぜ貧乏か。
資産になるものを持っていない。後ろ盾を持っていない。おもにこの点か。
先に言ったように、後ろ盾を持っていることもある。裕福な家庭の次男や三男といった連中である。
そうでないものは、身一つである。商人なら職場を持っている。工人なら技術を持っている。農家なら田畑を持っている。
それらがないということは、これはただの人間一匹だ。社会的に死んでいる。このままなにもしなければの話だが。
なにかしなければならない。
それには世渡りが必要になる。世渡りに必要なのは、まず何よりも目、そして耳。
勘や学といったかたちで、表現する、活かすのはそれぞれだが、方法は多くない。
そして基本ではまず見て、そして聞く。これを間違えると、身一つの社会に生きていない人間は、同じく身一つで払わされる。
立ち寄った街の決まり、村の定め、集団の慣例、または、これはあまりあてにはならないが法といったものが、当てになる場合もあるが、これは少数だ。
この後ろ盾がないと、なにをされても文句は言えない。というわけで、冒険者の目と耳を頼るところの大きさは、計り知れない。グランスも例外ではない。
まず第一はこの女が自分を殺すか、殺さないかということだ。
次にだますか、だまさないかを考える。
一番最初に来るのは、やはり命にかかわる問題だ。
貧富の差というのができると、直接命にかかわることを、まず第一に考えない人間というのが出てくる。で、考える人間と考えない人間が出来る。
人間社会におけるこれの意味なんかは、グランスは少なくとも知らない。
しかし、命の危機が身近になる人間というのは、みじめであわれなものである。明日の糧にも事欠くということだから。
不幸かどうかはおいといて、多数的には不幸な人間ということになるだろう。
で、不幸にも命のことを一番に考えた時に、このアキホという人間は、グランスをすぐには殺さないだろう、と、グランス自身は見た。
状況次第でそうするだろう。これは長く関わるのは危険である。
次にだますかだまさないか、を考える。おそらく今は、だますつもりはない、とグランスは見た。
しかし、状況次第で、これも変わる。その場合は、だます。
やはり関わってはいけない人間である。
グランスは、指でこつこつと木の板を叩いた。座っている四角い卓状の席は、年季が入っているが、強度は十分に思う。
(やっぱりこいつとかかわるのって危険だろうなあ)
声に出さずに、感想を繰り返す。関わるのが危険なら、結論は簡単だ。関わらない。しかし、それをどうするか。
簡単なのは相手を殺すことだ。しかし、それが可能かどうかは微妙なところだ。
次に逃げることだ。ただし、即座に居場所を特定されそうだ。
ローマンやオズは、「おそらくは」口を割るような事はしないだろう。こう言ったのは、グランスにとって都合の悪いことで、逃げるような場所は、あの二人なら予想がつく場所でしかないことである。
別に奇妙なことではない。立場が同じなのだから、ちょっと考えれば、逃げるとしたらそこそこしかないということを、同業者どうし察することができる。実際、グランスが逆の立場でも、オズかローマンが逃げるような場所は知れるだろう。
特別な事でもない。たんに、彼らには選択肢がないだけだ。
であれば、アキホは突き止めてくるだろう。まだ、どのような人間かははかりかねる段階にある。しかし、人間以前の問題として、誰でもできることが問題だ。
となれば。
「いいわ。天の庭について聞きたいんだったわね。あなたが知らないと言っているそれのことについても、流れで教えられるから、話すわ」
アキホは言った。
じたばたするかはともかくとして、成り行きに任せるしかない。
グランスは情けなくも、そう認めた。
さて。
天の庭。
先に述べたように、元は違う意味だった。
あとからそれが、今の大陸の三分の二を覆う、台地のことを指すようになった。
言葉に大した意味はなく、深読みも必要にならない。
その場所は、もともと大陸にあって、今も位置は変わっていない。ある時期を境に、大陸を占有するような形で、存在するようになった。
もともと大陸にあった場所である。ここに棲んでいる人々も、特殊ではない。人間である。追放者の楽園に棲む者たちと根っこはまったく同じであった。
この一部が集団となって、ある時期から、高い文明を持つようになった。
文明というものが発展する、または発達する理由は、あまり多くない。まず食糧事情、次に燃料。
水も重要である。それと、衛生。
要は人間が長く安定して生き、増える環境ができることが文明の発達であり、発展である。
これら種々の、延命的技術が得られることが、また同意義。で、どこから得るか。
これは実学ときっかけ、というほかない。
実学は積み重ねである。きっかけは偶然である。
偶然は明日起こるか、百年後に起こるか。どちらにせよ長い時間がかかる。
天の庭に棲む人々は、これをある日得た、といえる。
しかも、得た、だけでは、これは進歩にはなっても、隔絶した差を生むほどには、ましてや今のようなとんちきな断絶状態を生むほどには至らない。
アキホはそのへんをぼかした。
ただ、彼らの得た技術は、外から得たもので、それはあり得ないほどに進んでいた。
このことで発達したのだ。本来、事象としてあありえないほどに急激に変化した。
急激な変化には、人体はついていけない。これは、逆に人を殺してしまう毒となる。
「だが、天の庭に起きた『それ』はことごとく毒とはならなかった。正確には、毒になるはずのことをクリアしていった」。だから、毒になる暇もなかった。
天の庭に棲む人々は、急激な変化に適応した。そうするよう、処置された。そして、今に至る高い文明を得た。
しかし、それは実のところ、理想としていた彼らの文明像とはかけ離れていた、と、アキホは言う。
その言葉の指すところはわからないが、黙ってグランスは聞いた。
追放者の楽園にも、元は今の天の庭に棲む者たちの同族が暮らしていた。それはいっさい棲んでいたところを引き払って、天の庭へ行ってしまった。
彼らの残していったのは、なにもない。有用なものはもちろん、無用なものまでも、追放者たちにはいっさい与えまいとした。実際そのつもりだった。
しかし、時が経るにつれて彼らもたるんだ。
気のゆるみから、こちらにゴミを落とすこともあった。そのゴミは、今では法術葬『装』と呼ばれ、追放者たちの楽園でありがたがられたり、大金のもとになったり、人殺しのタネになったりしている。
それら余談は置いておくとして、そもそも、なぜそのような進化が始まったのか。最初は魔法からだった、とアキホは言う。
「魔法って、あの、まほう?」
グランスは言った。アキホは、大真面目に頷いた。いや、頷く動作自体は軽かった。
で、言った。
「魔法、または魔術とか……まあ、呼び方はさまざまよね。かつてこの大陸に存在していた。今ではほとんど迷信だけど、まあ、迷信でもないか。実際迷信でもなかったわけよ。魔法と呼ばれるものはあり、それが今は天の庭となっている地のいろいろなところで、さかんに研究されていた。詳細はとても興味深いけれど、個人的に……話のマクラだから省くわね」
アキホはさらに続けた。
場所は、今は喫茶のできる店に移っている。人に聞かれて困るような話でもないが、さすがに個人の民家で話すようなことではないということか。
天の庭やら、追放者の楽園やら、グランスら冒険者には、よく聞く単語だったとしても、カタギの人間には、まったく興味がない。
知らない。
頭がおかしいのでは?
そのようなたぐいの話である。
アキホはその話を言う。
「で、天の庭は今も文明の凍土と呼ばれるように、魔法でもまた、今の追放者の楽園が想像もできえない……」
くすっと、アキホは笑った。
「でもないか、人間が想像できる、空想できるものっていうのは、すべて実現するものなんだって。むかーしの人は言ったらしいわ」
などと、自分で言っておいて脱線している。
グランスはしらりとしていた。案外、この女も、学者肌の話好きということなのかもしれない。
話好きと言っても会話を楽しむのではない。一方的に、自分の事を話すことを楽しむ。
まあ、それはアキホ自身も悪い癖だと自覚してはいるらしい。
すぐに話を戻した。
聞きながら、グランスは思った。おそらくこの女、頭も悪くはないだろう。
直感だ。しかし、直感は、個人にとってはときに真理でもある。
このビビッとくる短いぞわぞわとした感触。それを信じすぎるのは危険だと言われ、事実危険だった。
しかし、これがなければ人間は生きていけないのだろう、とも思う。
まあ自分の人生からくる感想だ。
もの思いにふけりながら聞いているので、アキホの話は頭に入ってこない。頭に入れる必要もないのだが。続ける。
「とにかく発達していた。魔法は伝承にあるとおりの万能に近いもので、人間の生活におけるさまざまな問題を解決できた。逆に魔法がない田舎の者達とは格差を広げた、でも、この時点で天の庭は、高い文明を得たと言っても過言ではない。魔法って言うのは、あれよ、また学問でもあった」
アキホは続けた。
「人々は学ぶことによって発達させた。実際、誰にでもできるものだった。少数の選ばれし者へ託されるようなそれではなく、武術の腕は鍛えれば向上するように、建築技術は、職人から職人へ受け継がれ、発展していくように、農耕技術が、道具の発達やらを得る前から、方法で向上していったように、向き不向きはあれど、発展する力だった」
発展する力には頭脳が伴う。ものの考え方と、考える力だ。
魔法もやはり、人が古代に夢見るほどの万能ではなく、確立した技術だった。
技術である以上は、長い時間をかけて発展する。さらに派生して失敗や、犠牲が積み重なる。
医学と同じである。
発展させる以上は、机上の論議と、なによりも実証が必要となる。土、水、木、火に始まり、空、星、人のこさえたものもの、農業、工業、狩猟、畜産。
動物や、ときに人体にまでもそれはおよんだ。倫理の問題ではなく、魔法の波及する範囲がそれだけ広かった。
強引で非道な実験にも及んだ。
それらは罪になることもなく、実績を積み重ねた。そして魔法は発展し、さらなる発展を目指す。
「そして、一定以上まで発展すると、今度は少し要素が違ってくる。発展した技術ったら、利益になることがまず挙げられる。利益は当然しがらみを生む。けれど、全ての者がこのしがらみを望むはずもなく、ましてや、学問にも似た性質をもつ魔法は、それだけに研究する者に暗い一面をもたらした。じめじめとして湿っぽい、世間から隠れる性質ね」
地下に潜る者達は、表で、利益にからんだもろもろをやってのける、きらびやかな技術を嫌った。それにかかわる者らをうとんだ。そういう場合、やるのは、少し魔法の発展とは、少々関係ない域に入っていったりするし、実際した。
魔法が一種暇人のもの好きになったころに、ひとつの術が(技法、というべきか)実用化の段階までこぎつけた。
これは先にのべるような経緯を経ていて、とても表に出して評価を得られるものではなかった。それは異世界召喚の術といった。
異世界、とはなにか。
この点をしかし、アキホはすっ飛ばした。
「面倒くさい」
というのが、主な理由だった。ともかく自分たちが今暮らしている世界というものを『世界』と定義して、まったくこれと関係ない所に、やはりその『世界』がある。
しかもそれは、事前の学問では幾つもあると予想され、異世界召喚というのを、確立されるころには、その実証と観測をこころみよう、という点まで話が進んでいた。
幾度かの失敗を経て、異世界召喚の術は、完全な成功に近い結果を出した。
異世界から、そこに暮らす者、おもに人間を、この世界に呼び出すという、非人道的でありトンチキな術である。
トンチキ、というのは、術が完成したこと自体は結果だが、これが魔法の発展や実益につながるものではなかったということである。
さらに非人道的だった。それに、これはあとで非難されるためにまとめあげられた『異世界召喚術難論』という論文に依るが、異世界から来た者は、その世界からの病気を持っており、これがさらに伝染病である場合、とてつもない危険として勘定される。
(結果的にのちにこの論文は棄却されたが)また、召喚される者の意思を無視している。誘拐のようなものだ。いや、事実誘拐、拉致といいかえても差し支えなかった。
これらのことから、異世界召喚は表立って認められることはなかった。
ただ、裏で細々と研究が続いた。このことが、思わぬ副産物を生んだ。
「非難されても、異世界召喚の研究自体は続けられた。それほどの危険性やなんかがほかに見つからなかったというのもあるようだけれど、結局は社会的に魔法に対する認識は緩く、よほどの決め手がなければ研究を禁止するといった事態にまでは至らなかった。そのうち、異世界召喚された異世界からの人間が、思わぬ効果を上げた。この彼又は彼女は、この異世界で自分の身を守る為という意図があったと思われているけれど、自分の世界における知識を披露しはじめた」
これが当たった。
異世界召喚に携わっていた研究者たちは、これをネタに出資者を次々捕まえた。
異世界に召喚された彼らについては記録に残されていないが、これは、奴隷や見世物小屋に身を売られていったものと考えられている。
異世界から召喚した人間を、元の世界に戻す術について、研究者たちはなにも議論していなかった。彼らもこの世界の住人として定着すればいいだろう、と考えていたのかもしれない。また、難度が高かったのだろうとも後世には言われていた。ともかく、とてつもなくろくでもない価値観のもとに、これが行われていたことは間違いない。
異世界から召喚された人間がもつ異世界の知識は、おもいもよらぬ形で、人の食いつくところとなった、それは珍しいばかりでなく、実用的である。
このことに味を占めて、異世界召喚は繰り返された。異世界の知識をどんどん求めようとする研究者、また出資者となったもの好きな金持ちと、この知識の価値に着目してそれにすり寄った技術関係、または違う種類の金持ちの人間等が力を合わせて、この行いを暗黙の事業に押し上げていった。
「そして異世界からの知識で、天の庭とのちに呼ばれるようになる世界の基礎は固められた。もっともこれは異世界からの知識だけではなく、ちょっとした偶然があったからと言われているわ」
と、アキホが言うには、異世界からの知識が生かされた理由は別にあるという。
異世界召喚が確立するようになるはるかな昔、一人の研究者がいた。彼は某といい、とりたてて注目されることなくこの世を去っている。
どちらかといえば、変わり者を通り越した厄介者だった。世になじまず、世間もまた彼を忌み嫌って遠ざけた。理由としては、狂人のたぐいだった。発明と言って、人に自分の書いたものや描いたものを見せたりしていたが、それが狂人と呼ばれた原因となったもので、まるで誰も理解できない子供の落書きだった。
彼は生涯にわたってそのようであったため、名前も残らず、膨大な遺品もほとんど処分された。
ただこれが、のちに驚くべきことに異世界から来た某の手に渡ったところ、驚かれた。
凄まじいまでの技術力を要する『機械』の設計図だった。
これが、技術革新におおいに貢献した。名前を知られないその天才(ということになる)は、残ったわずかな文献からも、名前すらつかめなかった。遺族もない。一族もない。
あまりの孤高から、彼は異世界から来た者であったのではないかという、眉唾話も出たほどだ。
眉唾、というのは、異世界が異世界召喚によって既定されるまで……と、いうか、まあ異世界召喚が確立するまで、異世界からこの世界に渡ってくることはできなかったからだ。
ともかく名も無き某のおかげで、天の庭の技術進歩はいよいよ進んだ。彼らが、追放者の楽園と、天の庭とに、大陸を二分するところまで来た。
そのころ異世界召喚も、ひそかに研究が進み、これが次の段階へ進んだ。
異世界召喚をもととして、改良されたその術は、異世界転生と呼ばれた。
異世界転生。
これは、過激さでは、異世界召喚を上回っていた。
非人道的でもあった。
倫理を無視していた。異世界召喚も、あるていどそうだったが、これはその非ではなかった。ただ、魔法という技術のうえで見ればどうだったかわからない。
この頃はすでに異世界から持ち込まれた『科学』の全盛の一歩手前である。
魔法は危険な技術だった。生命や霊魂、身体にないものの実在を仮定し、また実証してしまいかねない。使われる用語も異端である。
しかし、科学という新技術の台頭にも、魔法は一部から拭い去られなかった。異世界転生が実証に至ったのは、その証明でもあったといえる。
異世界転生は結果として、確立した。
で、結局その異世界転生とはなんなのか?
アキホは簡単に説明するようだった。
「転生という名の通り、異世界で死ぬ運命にある者をこちらの世界に転生させる術よ。こちらの世界の人間として」
アキホは言った。
「異世界召喚は、そのままの人間やら物やらをこっちに呼び寄せる、わかりやすい話だった。異世界転生は違うわ。こちらの世界に生まれ変わらせる。赤子からやり直させるのよ」
「まったく意味がわからない術だな」
グランスは、口をはさんだ。ながながと、ほとんど相槌だけ打って聞いていた。
アキホはうなずいた。
「そう、最初はそういう術だった。異世界召喚の流れでできたへんてこ技術。変態技術っていったほうがいいのかしら。異世界転生ってのはそういうのだった。しかしこれが変わった。それはどういう力が作用したのか、今も分かっていない、って胡散臭い、でも事実が前に置かれるんだけどね」
言う。
そう、異世界転生による転生者は、やがて異常性を示した。
彼又は彼女らは、成長するにつれて、前世での記憶を宿した。だけでなく、彼らは、例外なく人より飛びぬけた頭脳や能力をもった、突出した異能者として成長した。
これは、幾度か繰り返される実証の中で、すべて同じ結果を示した。魔法に飛びぬけた者は、魔法に貢献し、科学という新しい技術、というより、学術に飛びぬけた者は、やがて科学にも貢献した。
転生者たちはあらゆる分野のことにおいて、異能を示し、実績を示すようになった。
研究者たちは狂喜した。
もともと、危険視されるうえ、実際に危険。
また倫理にも不確かで、研究者たちが言っているほどには、実際の所安定した実証を示せるわけではないと言う致命的欠陥を抱えている。
……というのは、一部、事実とは異なる。少なくとも、魔法は学術、学問、技術として、危険視されるほどには不安定でなく、安定した結果を出せるものであることが、すでに実証されていた。
しかし、科学という新分野の台頭、また文明の発展にともなう高度な経済構造の構築を前に、魔法はこれと争い競って、敗れていた。見限られたのである。
そっぽを向かれたものには悪評が、それ単体で残った。魔法は悪いものである。ただ、異世界召喚を確立して科学の発展の基礎や、文明への貢献という実績の一点から、かろうじて存在を許されてはいた。だが、日陰だった。
そこへ異世界転生である。
ただ魔法が復権することはなかった。
異世界転生には、致命的な欠陥がひとつあり、代償に要するものがとても大きく用意するのが厄介だった。
このため廃れた。ただ、技術としては残った。
そして、それはそれとして文明の発展はいよいよ目覚ましかった。
異世界転生者の台頭にともなって、いままでの異世界召喚では不可能であった、天才の某が遺した設計図や、著書。
高度すぎて、すべてが解読されたわけではなかった、それらの解読が進んだ。
天の庭は盤石のものとなった。
そして、今では追放者の楽園からはいつだかすらわからないときに、今の天の庭としてこの大陸を二分した。
以下、現在。
それらの話を終えて、「で、あなたよ」
と、アキホは言った。
「私が?」
グランスは言った。
「転生者。その力を借りて、私にはやりたいことがあるの。だからこうして、わざわざ「肉体になって出てきて」接触を――」
グランスは席を蹴った。椅子から立ち上がって、「断る」と言った。
いつだかの焼き直しである。
アキホはなにか言いかけた。グランスはそれを、静かにさえぎった。
「その転生者がなんだかはわかった。でもその転生者がどうこうってのは、なんのことだかわからないね」
「あらら」
アキホは呑気に言った。目を閉じるようにして飲み物を啜っている。
飲み物は冷えているはずだ。ここに入ったときに、頼んで出されたものだ。特に加工を施さない琥珀汁と熱くした家畜の乳そのままをほぼ同量に注いでまぜた、乱暴な飲み物である。
グランスは甘すぎて、家畜の乳よりも苦手だが、アキホは平然と飲んでいた。そういうところは女性らしい、と思われなくもないが、個人差だろう。
「ばいばい」
グランスは言った。席の飲み物は冷めている。
翌翌朝。
宿の下に下りていくと、なんだか暑いくらいだ。
外は晴天で、日差しがやたらぎらついている。
「なーに、この暑さ」
グランスはうんざりした様子で、上衣の襟元をあおいだ。
春にしては相当暑い。外を仰いだが、晴天だった。湿気のせいというわけでもないようだ。
単なる異常気象。そんな感じだ。
すんすん、と、グランスは鼻を鳴らして、眉をひそめた。
「おはよう」
ローマンが、言う。あいかわらずの様子だ。今日は雑誌を繰っている。なにかと思えば、驚いた。服飾系の雑誌だ。
とはいっても、このローマン、何をしているかわからない様子ではあるが、どうも乱読派の気配がある、とは、そんなに長くない付き合いでわかった、数少ないことだ。読むものに節操がない。
それも、読んでいるのは女性向けのものだ。なにか、真剣に目を注いでいる様子に、内心笑い転げながら、店主の正面側の席に座る。
たまには遠慮する日もある。ひとりで卓状の席を占めるのを、毎度やらかしておきながら、グランスは澄ました顔で、おかみの出してきた飲み物の容器を取った。
ローマンが言った。
「ところで、グランス、今日は暇かい」
グランスは言った。
「んん? なんだ、一昨日の仕事の裏でも取れたから暇を見て説教とか? それなら遠慮するな」
ローマンは眉をひそめた。言う。
「説教は違うけれど、……裏はとれたよ。良く分かるな」
「人の顔色をうかがうのが得意なんだよね」
言うと、ローマンは冗談と思ったようで、そういう顔をした。なんとなく、むなしさを感じたので、グランスは一昨日の裏、つまり落ちについて聞いてみた。
「落ちってほどのこた、ないさ。あそこの夫婦は、君が締め上げたちんぴら連中のちょっと上の人間の両親でね。昔、虐待癖がひどかったとかで、さんざんに子供をいじめてやったんだそうだ。子供は、ある冬の日に裸一貫で外に出されそうになって、このままだと殺されると思って、両親の手に噛みついて、逃げ出した。で、拾われた先で出世した。その仕返しに、ここ十年ばかりあの夫婦にさんざ嫌がらせを繰り返して、貧窮まで追い込んだ。このままじゃ殺されると思った両親が、今回の仕事を頼んだと」
グランスは微妙な顔つきで、不愛想な返事を返した。
ローマンは言った。
「で、暇なのかい」
「いや、今日はめずらしくオズと仕事に行く予定があってね。帰りは夜かな」
グランスは言った。
一人で出来ない仕事でもない。ちょっとたちの悪いのを追っ払ってやるだけだ。
依頼主は、女性で、四〇がらみといったところか。
なんでも最近、職場の同僚の男に、朝、昼、夜、と、後をつけられたり見張られたり、といった行為を受けているそうだ。
男は今年で七〇近くになる。年甲斐もなく、女性に懸想したそうだ。
女性は、この男に迫られて、三日前にはっきり断りをくれた。
その前から、つきまといには遭っていたからだ。
街の自警団にも相談したが、どうも動きが鈍い。男が、女性の勤める職場の、親方の義理の父に当たるからだろう。この男には娘がいるが、それが職場の親方から見初められた。
陰湿な真似をする男だが、身内にはとにかく気が強く、仕事中も親方相手に威張り散らすことがある。
とはいえ、斡旋所は探偵ではない。依頼をした女性は、両親に相談をしている。この街ではまあまあの資産家にあたる。
女性と、加害者の男が勤めている職場というやつは、街では中堅どころだ。
いくら相手が資産家とはいえ、このような依頼はもみ消しに走るか、身内で示談をもうけるはずだ。恥だからだろう。
やらなかったのは、ひとえに親方、男の義理の息子にあたる人物がひたすら気が小さく、もめ事どころか、身内からの叱責もさけて通る人物だったからに違いない。よほど義理の父親に当たる男を疎み、恐れているのだろう。
東の街が発展するにつれて、このような微妙なもめ事は増えた。金を持つ人間が増えたからだ。権利を持たない人間が少なければ、そもそもこういう話は起きない……はずだ。
田舎のような感情のもつれだが、金を持っている人間同士が当事者になると、どっちかが黙って引き下がらず、このような表ざたになるものも出てきた。豊かさの弊害というやつか。いいことなのだが。
感情のもつれから奇行に走る人間がいる、というのは、それだけ、心や時間に暇が持てる証でもある。もめ事さえ大きくならなければ、自由を謳歌できる機会も得られる。
今回の場合、ひとりで加害者をみはって接触すると、とぼけてぬるぬる逃げられる。二人か三人一組でことに当たるのが重要だろう。
「今回はくだらない落ちはつきそうにないし、安心していていいよ」
グランスが言うと、ローマンは、珍しく苦笑いした。
「わかった。それじゃ夜まで待とう。まあ場合によっては明日になるかな」
で、夜。
仕事を終えて、宿に戻った二人をまじえて、ローマンは相談をはじめた。
「ところで、今日の仕事はうまくいったのか?」
と、ローマンが言う。話のマクラだろうと、グランスはかるく流したが、オズは微妙な顔をした。
「いや、失敗した。オズのやつがジジイに逃げられて」
オズは弁解した。
「いや、参ったわ。怪物やら相手すんのとは勝手が違うよね」
グランスはへえ、と興味をしめした。脱線する。
「ふだんオズが相手してる怪物やらってどんなん?」
「グランス、見た事ないのか? 怪物」
やや皮肉な話だったが、オズは他意なく言ったようだ。やや疲れていたのだろう。
相手の男は、冒険者か、それとも探偵かが介入したことを知って、どんな行動かに転ぶだろう。とにかく、今までどおりということはない。
なぜなら、相手からあからさまな害意や悪意を示されたからだ。今までの被害者の女性は、とにかく男にとって獲物だった。狙われるだけの哀れな立場である。つまり自分より下ということだ。それはある種の、信頼関係でもあったが、これを女は裏切った。
下であればいいのに反撃に出た。いや、男からすれば社会的立場もあり、身内への居丈高もあり、相手は下であるべきであった。
これは許せない。
おかげで被害者の女性から、ねちねちと小言を喰らった。ヒステリーと言い換えていい。オズからしたらたまったものではない。
さいわい、あとは資産家の両親が介入するようだ。案外示談で決着がつくのではないか、いや、もしそうでなかったとしても斡旋所からはオズとグランスに声はかけまい。
失敗である。だが、こういうときもある。実を言うとグランスも気にしていない。オズは若干プライドが傷ついたようだが。
それだけといえばそれだけだ。
で、オズが語ったところによると、怪物というのは人間の背丈の六倍はあるようなものを普通というらしい。それ以下は小ぶりとなる。
どうやって生きているのかは知らない。しかし、近隣に現れて人や獣を襲う。当然家畜や畑に被害が出ることもある。人間にとっては、敵ということになる。対抗手段を持たない者には脅威となる。
それで、どうやって生きているかは知らないが、とにかく殺すことが出来る。これを一部、冒険者に委託される場合があるのが、オズのやっているものである。
自警団や、ときには、王都から派遣される腕利きの軍兵と共同で行動することもあるが、こういう仕事はまっとうな部類だ。めったにない。
オズは冒険者同士で徒党を組んで怪物を倒す仕事を主にやる。
ほかには以前言ったように、人の足の入っていない区域への護衛である。これは本当にごくたまにしかない。
この時、怪物の、大型と呼ばれる部類と遭遇することがある。
半々の割合で倒せないことがある。このときは、命からがら、護衛対象を護りきって逃げる。金が入らないからである。命あってのものだねということで、逃げる者も少なくはない。オズも逃げた事がある。
大型はすさまじく強い。
姿かたちは一定しない。爪や牙をもっている獣のようなものもいれば、巨大な蟲のようなものもいる。空を飛ぶものもいる。
このため、対応策も一定しない。だから打つ手がないと思った場合、逃げる。
(思ったより「バクチ」だよねえ)
グランスは思った。ひととおり話をしたあと、ローマンの咳払いで話に戻った。
「仕事の話だ。護衛だってさ」
ローマンは言った。
「もちろん安全な道を選んでのものだ。気を付けるのは個人狙いの盗賊ぐらいか」
「てことは、護衛対象は数人?」
「数人だ。夫婦と子供一人の一組と、この夫婦の親戚の男が一人。東の街から田舎に帰るんだとか」
グランスは頬杖をつきながら、ちらりと考えて言った。
「わけあり?」
「まあ、そうなるな。借金絡みでちんぴらの組織に身柄を狙われているとか」
「どこ経由の仕事よ?」
グランスは聞いた。とくに根拠があって言ったわけではないが、ローマンはやや苦い顔をした。
「出っ歯の某って、この街じゃ有名な男だ」
グランスも、やや苦い顔をした。
「ローマン、あんなのと付き合いがあんの」
「まあ。いろいろと世話になっているよ」
出っ歯の某。通称だが、その通称どおりの顔をしている。ちんけなあだ名だが、本人はちょっとしたものだ。
資産家の一人で、代々の商売で財を成した一族の当主に当たる。
冒険者にも出資しているが、斡旋所を通していない。個人でやっている。
まあ、実態は安い仕事を請け負う冒険者を引き込んで危ない仕事をさせるやら、まだ駆け出しでこの街を良く知らない冒険者を引き込んで、自分の関係する後ろ暗い仕事をさせるやら。
借金絡みでちんぴらの組織に云々と、仕事の話にも出たが、出っ歯の某自体、そのちんぴらの組織のひとつの元締めをやっている。どうせ組織同士のいざこざでも絡んでいるのだろう。とすれば、道中狙ってくるのは組織の腕利きである可能性もある。
「向こうからも人を出すそうだ。報酬はいい」
それだけではないのだろうが、ローマンはそれ以上は言わず、どうする? と促してきた。
断るのが一番だろう。しかし、ローマンが持ってきたということは、わざわざそうする事情が少なからずある。
それは無視しても構わない。しかし、今、グランスとオズらは、おり悪しく斡旋所からの仕事でヘマをやらかしている。このまま仕事をしばらく切られる、すなわち食いっぱぐれる可能性が、とてもある。
どうする? とわざわざ聞いてくるローマンは、すこしばかり嫌らしいと言えるが。
グランスの感情からすると、出っ歯の某とは関わり合いになりたくない。冒険者のような貧乏人は利用するものと思い、そうとしか思っていない人物だ。ろくなことになるとは思われない。
とりあえず、オズの意見をうかがった。
うかがうという時点でもう、グランスには受けるつもりが少なからずある、ということを相手に示していたが、オズは何も言わず、「しゃあないべ」と、うなずいた。
「やるしかないんじゃないかね」
というわけで、グランスもやりますか、と、返事をした。それで決まった。
翌々日、夜に仕事は始まった。
日暮れ頃にグランスらは街のはずれで待機した。
何をすることもなく、待っていると夜になり、数人がやってきた。
最初、出っ歯から、人手が貸される予定だったが、その話はなくなった。
出っ歯からの人手は二、三人で、街の外までは同行しないとのことだった。
護衛していく夫婦、それに子供。この子供はまだ幼い。田舎までの道程に堪えられるのかという、若干の不安はある。
そこは夫婦が面倒を見る、と、もうひとりの親戚の男というのが言った。
これがなにやらただ者ではない。
夫婦も、あまりこの男とは口を聞こうとしない。子供も懐いていないようだ。
表情に陰があり、うっすらと頬に傷痕が走っている。頭巾に隠れて見えないが、頭髪はすっかりないようだ。剃ってあるのか、そうなったのかは知らない。
(なんだか波乱を起こしそうだな)
と、グランスは思った。同業の匂いがするのだ。
ローマンにひそかに聞いてみたが、素性は分からないらしい。
ともかく一団は出発した。
闇に紛れて歩く。
夜通し歩くのかと思ったが、途中で更けてから宿に入る。
東の街からは、何本も街道が伸びている。
もっとも、整備されたものは一、二本だ。陸路の運送に使う。非常に広く、快適だ。
人目を忍ぶ以上は、この整備されたものは使えない。
さらに、この夫婦と男の田舎だという村に通じているのは、北に長く伸びたものになる。これはあまり整備されていない。ただ、人の往来はそれなりにある。
通じているとは言ったが、田舎というのは田舎で、街道のように使われている道からはだいたい外れているものだ。北行きの街道に乗り、宿場を越えてからはさらに道が細くなる。
ただ、この一連のあいだは、安全がそれなりに保障されている。
むろん、ローマンが保証したことだ。
東の街の周囲に設けられた、一定の地帯は、地図によって見ると、ちょうど色分けされて管理されているのがわかる。
これを担当を決めて、冒険者、自警団、王都の軍兵の部隊によって巡回し、安全管理を行う。
といって、すべての危険が実力で駆逐できるわけではない。
できないものは、注意喚起を行って、危険区域を設けて、周囲から商人や人足、用人を遠ざける。
「ここは今通るな」という通知が、効率をもうけて伝達される。
その仕組みが出来上がっている。
というわけで、よほどへまをしない限りは危険区域は避けられることになる。
この安全管理は、金の行き来がかかっているという点で徹底されている。
しかし人間であるから、穴がある。
すべて完璧に、滞りなく運ぶなど、人間には無理である。それが完璧だからだ。
よって、鍛錬された軍兵や、戦闘慣れした自警団、向こう見ずの冒険者たちのなかのマシな一握りなどが、実際は信じる対象となる。これはそこそこは信じられる。
少なくとも、怪物と出くわすということはない。
出くわすとすれば、それは人間であり、怖いのも人間だ。もちろん、今回護衛する夫婦家族についての事情は、意図的に伏せられたために、ローマンも把握はしていない。組織同士のいざこざが絡んでいるなら、だが、襲撃があるだろう。
人間を殺害、暗殺におよぶというのなら、怪物より、慣れた人間や、夜目の利く、という特技でもって買われているような人間の方が、はるかに恐ろしいことになる。
自然、警戒して進んでいったが、宿場に着くまでには、何もなかった。人の目が絶えた、少なくなったあたりを狙っている、と見るのが妥当だろうか。
それとなく、ローマンが聞き出しを試みたが、夫婦も男もなにも喋らない。
おそらく、こちらを信用していないのだ。
信用できない理由は、三流の(と紹介されたかはしらないが、よほど名が知れていなければ、冒険者はみな三流以下である)冒険者など、どのような顔をしていても、しょせんはならず者である。あと汚い。
まともに話をしようというほうがおかしいのである。
ローマンは言った。
「まあ、ともかく怪物の心配がないだけよしとしよう」
グランスは言った。夫婦はすでに寝ている。親戚の男は知らない。
宿は飯を焚くのも、材料持ち込みという、おそろしく粗末な宿だった。端に薪が積んであった。
グランスたちは、備え付けの調理炉で、湯を沸かして飲んだ。春の夜は、まだ冷える。
子供が赤ん坊でないだけよかった。夫婦で面倒は見切れるからだ。
「怪物ってそんなに厄介なん?」
ローマンは、答えて言う。
「もちろん。彼らはまず」
ローマンは言った。
「ためらいを知らない。獣と違って恐れないし。あーでも、それは些細な違いか」
ちょっと顎をさすって、湯を飲む。ローマンの工夫で、ちょっと苦みのある花の蜜を溶かしている。
ここら辺では見ない飲み方なので聞くと、故郷で流行っていたらしい。ただの湯を飲むより、腹に重みがある気がする。それはともかく。
「彼らって言ったけれど、それは本職の冒険者の前で言わない方がいい。本職って言うのは、特に戦いを経験している連中だけど」
オズがちょっと苦笑したが、口を挟まずに、容器を啜った。
ローマンは言う。
「怪物は賢い。動物ほどではないが、というのも、怪物を動物と考えるかは、微妙な所だからで。鳥や獣、虫とは似ているんだが、怪物はどこか作り物っぽい」
生き物であるのは確かだ、殺せるからね、ローマンは言った。
その他は、オズが言っていたのと大差ない。
とにかく連中には目的がないようだけど、動くものを見ると殺しにかかる。同じ怪物どうしでは殺し合わない。そのくせ、人の群れているところには近づかない。何を食べて生きているのか分からない。
また、諦めるということも知らないらしい。そのしつこさは、盗賊というより軍の兵士に似ている、とローマンは例えた。
訓練された動物。なにをもって訓練なぞされたのか、誰が訓練なぞしたのか、とにかくそのような「もの」だという。
「大型のものほど人里には近づかないけど、当然、六、七人程度でいるようなら狙われるだろうね」
とはいえ、と、ローマンは言った。
先に述べられたように安全管理が完全ではないが、されている。これは有償ではあるが、少ない値で情報として売ってもらえる。ローマンはそれを買った。
今回取る道筋なら、いるとしても小型のもので、固まっているのなら、五人以上の人間を認めれば、襲ってはこない。注意するなら大きな体を持つ獣や大型の動物になる、と、気楽にローマンは言った。このことぐらいは、なにかしら荒仕事の経験があるらしい、親戚の男と情報を共有してある。男からの情報で、夫婦も知っている。
翌朝早くに起きて、宿を出た。今日は、休憩を挟んで歩きどおしになる。
宿場を過ぎて、街道を伝うと、やがて、街道を外れた道に出た。
狭い。
整備もろくにされていないようだ。少し進んで橋もかかっていない川を注意して渡る。
そのときだった。射掛けられた。グランスらは素早く動いた。オズの反応が、特に早かった。
オズはいつもの半分に落とした袖の上衣に、長い袖の上衣を下に重ねているが、その長い袖の部分にちょうどはめ込むように、肘から二の腕の半ばまであるような、大きい籠手をつけている。下には靴を履いていた。これが、向う脛から、太ももまでを覆うような、乾かした皮のようなもので作られてあり、防御を目的としたものである。
脛とあわせて、ふくらはぎも別の部品で足首の少し上までを覆っている。これらを革をなめして重ねた帯でつないで、金具で調節までできるつくりで、様子から手の込んだものであるのがうかがえる。
そのくせ造りは荒く、おそらく手作業ものなのだろう。あらかじめ作った型に、高い熱で柔らかい半液体状になるまで熱したものを流し込んで、作るやり方もあるが、それではない。
オズは他に長弓も担いでいて、これはつるが強く、弓を引くのにとんでもない筋力を要求される。
グランスは、少し弓についての知識があり、それがわかった。なので、驚いて聞いてみた。
「いや、故郷じゃみんな普通に使ってたぜ」
オズは、特に不思議にすることなく、答えてきた。
ともかく隠れる。射線はオズが見ている。その指示に従う。
一本の樹の後ろに隠れる。
全員、水しぶきを上げて川から上がったが、襲い掛かる人影はない。
こちらの人数を警戒しているのか。しかし、それなら襲うと言うのは少し変である。
(警告?)
グランスは何となくそんなことを思った。状況から考えついたのがそれということだ。警告。
警告するとしたらいったいなんだろう。この先には進むな。もしくは、お前、もしくはお前達を狙う者がいる。
なにも事情を知らない者が、受ければ考えつくのはそんなところだろう。あとは、それ以外に身に覚えのある場合。いや、グランスには思いつかないが、護衛対象の夫婦、子供、親戚の男。
そちらをちらりと見やったが、おびえた様子であること以外、思いつかない。子供は眠っている。
少々とっぴだが、では警告ではないとしたらどうだろうか。しかし、グランスは頭の巡りがいいほうではない。
連れの男ふたりは、少しばかり違う。
というより、グランスも気づいた。だから、当然、オズにもローマンにも気づくところがあったはずだ。行動を起こしたのはオズで、これはさっさと敵の視界に出て行った。
撃ってくれというものだ。しかし、撃たれもせずに、しばらくあたりを見て、元の茂みへ帰ってきた。
「おかしい」
オズは言った。
ローマンは黙っている。グランスは黙っていた。言いあぐねたと言っていい。
夫婦は黙っている。子供はまだ眠っている。親戚の男が、うながすように聞き耳を立てた。
「おかしいぞ。射手のやつ、今の一射でいなくなった。逃げたみたいだ。だがなにから――」
そう言ったときだった。
がぼっと、グランスは仰天するところだった。
なにしろ、オズの顔に一瞬にして張り付いたやつがいて、それが、オズの身体を打ち倒した。グランスは、背負っている大剣の柄、ではなく、それを固定している剣の鞘にかけている帯に親指をかけた。
が、オズはさらに驚くべき行動に出た。
ぐわばっと、顔に(面のような張り付き方で、呼吸ができなさそうだ)張り付いたやつを、――それはグランスが見た感じ、奇怪な姿をしていた。丸い。
丸いのは、胴体のようだ。蟲に見えたが、こんなに大きな蟲はいない。いや。
実際はいて、このように動くのだとしても、このようには動かないと思う。なんとなく嘘じみていた。
作り物じみている。が、生きている。動いている。そして、おそらくは襲い掛かってくる。
とにかくオズは、顔に張り付いたやつを力任せにはたき落とした。
引きはがしたのだろう。口に何か咥えていたが、草の茎のような、樹の枝のような、それが中途半端に折れたようだが、それはたぶんなにかの器官だったのだろう。生き物の身体の一部である。
なぜかというと、わずかに動いていたからだ。ちょうど、ちぎれたりした蟲の肢が、こんな動きをするのを、グランスは連想した。子供の頃は、残酷なことをしていたものだ。とにかくそんなことを思い浮かべる。思考を、そう言ったのは、途中で体の動きが優先された。親指に掛けていた革を重ねた丈夫な帯を、引っ張って、あっという間に大剣を、鞘ごと抜いた。
いや、正確には抜いてもいない。体からはずした革の帯を、鎖のように持つ。
そして宙に舞っていた大剣の鞘を、思い切りぶん回す。
これは、カンでの行動だった。
すでに、ローマンや夫婦、子供、親戚の男らは手早く退避を始めている。
ちらりと見た感じだと、ローマンの顔には困惑が深かった。この状況であれば当然の反応だろう。だが、なぜかそれに違和感を覚えた。
しかし違和感の正体を探る間もなかった。
蟲はその間にも次々と襲ってきた。蟲は苦手である。ぎゃあぎゃあ言って、逃げ回るわけにもいかず、天敵を叩く心地で、グランスは大剣を――帯を駆使して、仕掛け紐のついた鉄球のようにだが。ちなみに、その鉄の球のついたやつだと、鉄の球に棘が幾本も生えているが、そんな便利な付属物はない――ぶおんぶおん回して、ときに器用に引き絞って敵を地面に叩きつぶしたりした。
だが、有効打になっていないのは丸わかりで、グランスが叩き落とした一匹に(一体だろうか、一個だろうか)――もはや、気がつくとそこらじゅうこいつらだらけだ!――なんと、拳で止めをさしながら。つまり、オズの拳で、この丸い蟲状のやつが、一発で動かなくなる。身体を、オズの拳がやすやすと、貫くのだ。貫く、といっても比喩ではない。そのままぶじゅりと、熟れた実でもたたきつぶすようにだ。
「その大剣はなまくらかよ!」とでも言いそうな。
実際は言えなかったが。
グランスを一瞬見た眼が、そのような訴えをおこしていたというだけだ。
言えなかった、と言うが、実際オズは言わなかっただろう。性格上、そういう罵倒はあまり出てこない。
言ったとしても、別のことを言っただろう。
しかし、そのとき恐ろしい事が起きた。
恐ろしい事。
一口に言うのは簡単だが、恐ろしい事だ。尋常ではない。
また、受け取りようによっては、陳腐で、逆に笑いが起きるだろう。
笑うどころではなかった。
目の前で、地面が砕かれた。岩盤ごとである。それが、粉々になって、その場に降り注いだ。ついで、雄叫びだ。グランスは反射的に耳をふさいだ。
雄叫び。耳をふさぐ。間に合うはずもない。しかし、その雄叫びは振動していた。体中の骨と言う骨、臓器と言う臓器が、びりびりびりと音を立てた。
グランスは吐いた。胃の中に食べ物が残っていたのを呪った。
げろ臭い、口の中を噛みしめる。眼球も振動したのだろう。その奥の繊細な神経まで、揺すぶられるようなものだった。実際、そうなったのかもしれない。視界が真っ赤だ。グランスはまたたきを何度もして、視界を確保した。
そんなことで、赤い視界は直らなかった。しかし放っておけば、黒く変わっただろう。闇のようなぬばたまの黒。失明していたということだ。
いた。
なにが。
なにがと言われると困る。グランスはそんなものは見た事もない。
なんだ、それは、なんと。
ただただ巨大で恐ろしかった。
雄叫びは長かったのだろう。長かったはずだ。雄叫びのようなものを上げる、獣の吼える声や、動物のそういうやつ、それと、いままで聞き覚えのあるそれらと比べて、明らかに長かったはずだ。少なくとも短くはなかった。
だから耳をふさいだことには効果がある。そう思いたい。
だが、横からかっさらわれた。
おそらく、怪物の――その大きくて怖ろしいものの、なにかの動作が、横薙ぎにグランスをひっかけたのであろう。
吹きとばしたとか、当てたとかそういう表現は思い浮かばなかった。
それほど圧倒的だった。
ちらりと見えた身体は、一部だった。
目だ。
人の一・五倍はあるような、目。
目、と言った。だがそれ以外表現のしようのないものだった。
それがこちらを見ていたはずだ。
そんな事実を認識して、まともに思考が続けられる奴はいないだろう。
とにかく、状況から察するに、そいつは現れた。どうして? おそらくは、グランスたちが標的だったのだろう。あんなものが、人間のようなちっぽけで矮小なものを、わざわざ狙うなど信じられないが、逆に、あんなものがいたら、人間のような矮小でちっぽけなものを、塵を払うように追い落とそうとするのは自然にも思う。
とにかく逃げ出した。グランスは、その振られた巨大な何かから、寸前でオズにかっさらわれた。命を取り留めたのだ。
助かった。助かっていない。
あんなものに目をつけられて、逃げられる道理はない。道理は。とにかくわけもわからず、といったていでグランスは逃げた。
血走ったオズの声が耳に入るが、何事かきいきいわめいているとしか聞こえない。とにかく、走った。自分の身体をかっさらったオズの腕を振り払って走った。
逃げられるわけがない。逃げられるわけがなかった。
だが、オズは瞬間、姿が消えた。
あれに殺された。
なんの疑いもなくそう思った。だが、次の瞬間、がらがらと辺りの樹が、丸太にされたように転がった。すさまじい地響きが、一瞬遅れて聞こえてくる。
「なにしてんだ、走れ!!」
そう言ったのはローマンだった。とっくに殺されたものと、いや、意識の隅にすらいなかったが、姿が見えて驚いたときに、そう感じたからそうなのだろう。
足止め、いや足止めか? とにかく怪物の気をいったん逸らしたのは、オズの仕業のようだった。グランスは走りながら思った。二刀を携えた、オズの姿が、幻の揺らめくさまのように、木々の間に見えたからだ。
さらに雄叫びが上がった。グランスは、気絶しそうになるのを、驚いたが、ぎっと口を噛んで持ち直した。ぶっと、口の端から噴水のように、鮮血が上がるのがわかる。身体の奥からせりあがったのだろう。
まさか、内臓を傷つけたか。
そんなグランスの横に、オズが一瞬並走してきた。
何か、と思ったら、振り下ろされてきたものをずずん、と受けている。が、グランスはそれどころではない。衝撃で大地が揺れた。
しかも、さらに驚くべきことに、オズは、がっと、それを踏みとどまる? ようにすると! なんと、受け返した。
(冒険者って化け物?)
受け返した、という表現が正しい。
ともあれ、それで、怪物に隙が出来た。
グランスは握ったままでいた(革の帯には、血が迸っている)、大剣をまた振り上げた。
「バカ、何やってんだ――」
オズは、それが、気配からもうわかったらしい。やる、と思った瞬間には叫んでいた。
しかしぴくり、ともせずに、グランスは振った。怪物の大きな横面を捉える。
「――オォらぁ!!」
裂帛の気合いを上げる。
怪物の横面が、鞘に当てられた掌と共に、ずべしゃん、というように、反対の地をうがった。
岩盤が悲鳴をあげる。いつの間にか入っていた森が、乱雑に蹴散らかされるように、がらがらと根っこごと浮き上がった大木やらで、覆われる。
オズは驚いたようだったが、すぐに連携した。
といって、その太刀筋が、見えたわけではない。
奔った。
そう思った。
その瞬間には、怪物の胴体が液体を噴き出し、ずべしゃあ、と、無用の用となった、怪物の巨大な身体の一部を、地面に落とさせた。怪物が雄たけびを上げる。今度は苦悶の悲鳴だ。
その瞬間だった。また次も。
別の雄叫びが、「反対方向の」「少し離れたところ」から聞こえた。
驚いて、というよりは、総毛だって振り返る。
目を見開いて、かちこちに固まった身体。
血走った心臓。
二体目。
いる!!
いる!!
――いる?
気がつくと。
二体の倒れ伏した怪物がじたばたともがくのを背に、グランスはその場を離脱していた。
記憶にはそう残っている。
洞窟。
それは、どのようだったか。
覚えていない。
いや、本当に。
だが、自分がやった。
「はあっ、はあっ」
グランスは、顔を上げられずに、ひざまずいていた。
片手が痛いほど岩肌を掴んでいる。
それどころではなく、爪が割れていた。
痛みがないのは、痛すぎるからか。
ともかく、気がついたときには、這いつくばって、迸る胃液を、押さえていた。
口の中が苦い。あと酸っぱい。
逃げられたのはオズの助力あってのことだ。そうでなくては一時的に大型の怪物二体を叩き伏せることなどできない。
いや、人間にはできない。たぶん「大方は自分がやったのだろう」。わかっていた。
そして逃げるときに見た光景がある。男。男の顔。
「シットシュツルゥ」
と、声を聞いたわけではないが、笑みとともに言っていた。そいつがいた。どうやってか、怪物どもの向こうで笑っていた。
殺意。疑問。敵意。情況。絶望。忿怒。感情、感情、感情が堰を切って胃を捻転させた。
「おい!! どういうことなんだ、え!!」
オルグ。オルグ・リートワ。
どういうことなんだ。え。
あいつがなぜあそこにいた。
あいつが、なぜあそこにいる。
あいつが、なぜ、あそこに。
うるさい。
さっきから気づいてなかったわけではない。
どこともしれない洞窟だった。
どこともしれないが、離れたわけではない。
あの怪物から。
外に出れば、また遭遇する可能性が高かった。
ここへ来てだいぶ時間が経っている。
どこをどう逃げたか知れないが、状況を好転させるには至らなかったようだ。
逃げるときに見かけた。
二体、三体。
あの場にいた二体の他にである。
そいつらは小ぶりなのと、そして、「同じぐらい」のが一匹きりだろう。
そして蟲のような怪物。
つまりは、囲まれている。
いや。
囲まれている?
これが?
すでに全滅しているというのに近くないか。
ここまで逃げ切れたのだって奇跡に等しい。いや、あれは。
奇跡だ。
奇跡なんかではない。
ともかく怒鳴っていた。
怒鳴っていたのは親戚の男だ。
あと、子供が泣いていた。夫婦もいる。動転し切っている。
ここは暗く、底も知れない洞窟のようだった。
我ながら、よくこんなところに逃げこめたものだ。
これなら怪物にも見つからないだろう。
そう、二、三時間くらいは見つからない。
今頃はきっと見つかっている。
グランスはうるさいなと言おうとして、ぐっと口を押えた。
それと右腕を見る。
血塗れで、ぽきぽきと何か所かで曲がっていた。
使い物にならないのだ。いったい、どういう使い方をしたものか。
それと、見ないようにしていたが、両足が動かない。まだオズやローマンには言っていないが。
ローマンは無傷だった。
オズはそこかしこ、身体をやられている。
「どういうことだって言ってんだよ!」
「落ち着いてくれ――」
ローマンは言った。グランスは苛立った。なんに対してかはわからない。
「おい、言い合いなんてしてる場合じゃないぞ」
オズが言った。グランスは苛立った。これもよくはわからない。
この状況であるにも関わらず、口が利けることにか。
もういっそ、全員黙ってしまったらどうだろう。
そうすれば、この肺からひゅうひゅう、と漏れる耳障りな音も聞こえやすくなる。
「あのひと、だいじょうぶ」
子供が言った。
が、状況が分かっていない。
グランスは静かにしろと殴りつけてやる衝動にかられた。
できなかった。
全ては幻だ。
幻なのだ。
死ねよ。
そう言いかけてきた男の貌だけが、幻でない。
オルグ。
オルグ・リートワ。
親戚の男が言った。唾を飛ばして。
「俺はあんたの言ったとおりに乗っただけだ。そこのくそったれな夫婦とガキどもを道を間違えたふりをして始末するんだってな、ああそう言ったとも、あんたとちゃんと話し合っただろうが、どういうことだ、てめえ!!」
男が続ける。
「そういう手筈だっただろうが!!」
グランスは察した。
男は錯乱している。
そして、それにローマンが言った。
「ちょっと待ってくれ! あんたが何を言っているのか――」
ローマンは心外そうに言った。
「あの夫婦と子供を殺すためだって? ああ、確かにあんたに持ちかけられて、「必ず怪物が間違って襲ってくる手引きのある場所へ導くよう、」取引はしたが、俺には身に覚えが――」
ローマンは、そこまで言って、何かに気付いた。
そして言った。
「アキホ!! 私の口を借りたな!!」
そして狂ったように叫んだ。
親戚の男は、驚かず、さらに食ってかかった。
「気が狂ったふりか、その手には乗らないぞ、ちくしょう、昔のコネを伝って、冒険者を遣ったらこれだ――」
ぱち、ぱち、ぱち、と拍手の音が聞こえた。
グランスはそちらを見た。怒鳴っていた男も見た。
女がいた。
灰色の外套を身に纏った女だ。両耳に、小さな鉱物の類でつくった耳飾りをしているのに、今更ながらに気付いた。
女の格好は、あいかわらずで、塵一つついていなくて、この場においてはまったく相応しくなかった。
無傷のローマンでさえ、身なりはぐしゃぐしゃに崩れていて、ひどい状態なのだ。髪はぼさぼさで、恐慌にあったあとにふさわしくそそけ立ち、またこの先の見えている絶望に、打ちひしがれて好きな方向に跳ねている。
ローマンは最初から女の方を見ていた。グランスにもオズにもわからなかった。
どうも、どういう仕掛けかローマンには女のいる方向、声がするほう、出てくる方が、いちはやくわかるようなのだ。本人は気づいていない。しかし、見る者が見れば不自然なその仕草を、なんの口裏あわせもなしにやってのけるのは、ある意味で、背筋が粟立った。今は、そんな場合ではないが、まるで舞台のうえの芝居を見ているような、しらじらしさがある。グランスは思った。
意識が沈みそうだ。咳をすることでどうにか取り戻す。あぶない、あぶない――。
「当たり」
アキホ、灰色の外套の女は言って、あっはっは、と快活に笑うようにしながら、微笑んで髪をかき上げた。その仕草はこのうえなく可愛らしさがあった。
「あなたの察しのいいところ好きよ、ローマン。土壇場でしか観られないし、しかも決まってなんの役にも立たなかったとしても」
「何を企んでいる」
ローマンは言った。いつもより、はるかに激昂している。というよりか、こんな顔のこの男は、グランスは初めて見た。長い付き合いでもないが。
「出てきたときもそうだ、君がそこまで『力』を取り戻している事なんて、俺に一言も――」
「なんだてめえ」
親戚の男が言った。それよりはやく、オズが立ち上がって、女に掴みかかった。女は襟首をつかまれたが、妙なことに、その身体はびくともしていない。
「おい、テメエ。テメエか!? あの化け物どもを――怪物どもを。何をしたのか知らないが!」
アキホは鼻で笑った。
「すまないわね、あなたには人間としても役柄としてもこれっぽちも興味の欠片はないの。そうね、あなたの両腕のそれ、篭手っぽくしているけれどなにやらいわくありげなそれには大変興味があるけれど、あなた自身にはね」
オズは動揺した。それで、胸ぐらをつかむ手が緩んでいたのかどうか。とにかく、するりと女は離れた。グランスの方を見て、あらら、と嘆く仕草をしてみせる。
「ちょっと待った」
グランスは言った。オルグ。オルグ・リートワ。
「あの怪物って、なに」
「あの怪物は、あなたを殺しに来たのよ。オルグだっけ? あなたの知り合い。もううすうす感づいているかもだけど、あれと取引したのが私。かくして、小さい規模の怪物に、情報が誤っていて襲われるはずが、さらに人間には倒せるはずない規模の怪物を三匹、おっと、四匹だったか。もう一匹は、護衛で立ち寄る村のすぐ近くに伏せさせてあるけれど、そこまであなたたちがたどり着けそうにないから、今こっちに向かわせたって。今、四匹の大型に襲われたら、まあ、無理ね、あなた」
という具合で、さらなる誤情報を掴まされたグランスらは、最初の誤情報どおりに、小さい怪物を掴まされて、命からがら逃げだす最中に、護衛対象を失うはずだった。任務は失敗で、グランスらの信用はもはや消え去るが、夫婦と子供の死で、莫大な土地と畑、財産を所有することになる、親戚の男から、一生食うに困らないだけの報酬を受け取って、人知れぬ田舎でのんびり余生を送れるはずだったという道を失った。全員死ぬことになる。
もう死んでいると言ってもいい。あの怪物は脚も人並み外れている、とアキホは言った。
すでに、こちらを見つけて、洞窟の外へ包囲を完成させている怪物から逃げる術はない。さっきので、グランスは重傷を負っている。すでにこうしているだけで、命が危うい。オズも同じようなものだろう。アキホに詰め寄る元気があるだけ、やはり、鍛え方が並外れているようだが。
「ぜんぶあなたのせいよ、グランス・シットシュツルゥ。あのオルグはあなたを殺しに来ているのだから」
「今更?」
「気分屋みたいよ、彼。それはあなたのほうが知ってそうだけど」
顔を合わせたら、今度こそ抑えきれなくなって、ってところかしらねー、とアキホは言った。
グランスは確かに、と、自棄気味に笑った。すべて自分のせいか。
と、いきなりわめき声が聞こえた。
見やると親戚の男だ。
といって、気付いたときに、なにかあったわけではない。
「畜生、このあばずれ!!」
言った時には、遅かった。
アキホの顔はそちらに向くことすらしなかった。たぶん、目の動きから見るに、本当に気づかなかったのかもしれない。
がっと、その側頭部と、頭を正面から見て三分の二くらいに割って、刃物が差し込まれた。大きな鉈とか呼ばれる類のようなものだったが、これは刃先が重くなっていて、薪割りなどに適している。
それを人間の頭に用いると見事に「かち割る」結果になった。もんどりうってアキホは倒れたようだ。
「畜生、畜生、畜生、全部台無しだぜんぶ、おまけにここで死んじまうだと――ああ、お前ら全員殺す、全部殺して俺だけ生きて帰ってやる、怪物だって人間の肉は食うだろう!!」
そう言って、子供と夫婦ににじり寄った。だものだから、場が一気に修羅になった。頭を割った刃物を引っこ抜き、多少血に塗れたぐらいのそれを手に持っている。
それも、意外と合理的で、判断は失っていないようだ。
檄し易そうに見えて、意外とたくましいたちかもしれない。親が動揺し、目の前でどくどくと血を流しながら、倒れる女の割れた頭(悪いことに、子供のいるほうへ断面が向いている)を見た事で恐怖を感じたのだろう。火が点いたように子供が泣きだした。
大きな人間の声は、怪物を引き寄せるに違いない。すでにぐらぐらと、地面が揺れていた。大勢で迫っている。
蟲の這う音が聞こえる。錯覚だろう。実際人間の耳はそこまで良くない。
グランスは息を吐いた。
とにかく起き上がる。足が動かなかった。当然だろう。腱が切れているはずだ。
腱がここまで切れたなら人間はもう歩けない。片腕も治るものではない、後遺症があるだろう。
「オズ」
掠れた声で言ったためか、オズはいったん聞こえないような反応をした。もう一度呼びかけると、こちらを見る。
目が狂乱している。
「どうする」
「……ローマン、グランスを背負ってくれ」
「背負ってどうする?」
「……隠れる。ここから逃げる」
グランスは言った。
「連中、どうやってここを嗅ぎつけたと思う? たぶんその魔女女が手引きしたんじゃないと思う。あいつら、どうやら血の匂いがわかるのね」
「なら一人殺す」
オズは言った。呆然としている。
「その血の匂いで少しは紛れるかもしれない。それで、俺が前に出る。怪物どもの注意を引く。戦えば派手に流血する」
「覚悟決まっているね、どうしてそんなにできるの」
「俺がそうしたい」
オズは言った。
「お前を見捨てない」
「でも、そのやり方じゃあ全員死ぬね。あんたも死に損だ」
「ほかに手がない」
「たしかに」
グランスは言いながら、「肩、貸して」と言った。
オズは、肩を貸した。グランスは立ち上がったような体制で、手にしていた革の帯を引き寄せた。
口で「はし」を咥える。ぎぎっと押さえて、大剣を抜く。
「うまくいく保証はないね」
「おい、何を――」
オズが言った。困惑している。それは、グランスの行動の意図が読めないというのもあっただろうが、今は別の理由もあるだろう。とにかく、グランスは動く片手で大剣を構えた。
構えたというよりは、単に持ったというのが正しい。事実、それしかできない。腕は、片方が損傷がひどく、もう二度と使い物にならない。大型の放つ謎の衝撃波を浴びた。
それは息吹のようだった。ふーっとかるく吹いた感じか。それで十分、岩盤と川が捲れ上がって、地形が変わった。
グランスはそれにまともに巻き込まれた。死んだと言っていい。だが死なずに、ここまで逃げてきた。
大型の動きは速かった。あの巨体であの動きはない。繰り出す攻撃は目にも止まらない。あのふーっとやるのを、もし、複数でやられたら。そういえば洞窟の中にまだ入ってこない。
(狩りを楽しんでいる?)
怪物は躊躇いがない。獣と違って恐れない。それはささいな違いだ。ローマンに言われたことを反芻する。
だがためらいがないなら、グランスたちはとっくに死んでいる。今もこうして洞窟を潰せばいいのになぜそうしないのか。
答えは、正答を持っているわけではない。だが、あれが怪物などではないからだろう。
ならば、できる。
できるのだ。
大剣をはじめて見たオズは、驚いているように見えた。ただ、その驚きはこういったものをはじめて見たからではないようだった。
その大剣は、ある意味、剣とは呼べない形をしていた。だって刃が欠けているのだ。
刀身も分厚くて、不格好だった。刃がないようにすら見える。まるで鈍器だ。
実際、厚みがありすぎて葉っぱ一枚正確に切ることもできないだろう。
実際出来ない。
これは刃ではない。
剣でもない。
そして、これから剣になる。
分かる。
不可思議な刃を通して力が満ちる。
その力は身体の傷を癒やすことはない。
ただ。
なにかを。変えた。
がっと、グランスは、刃を突いた。杖のようにして立つ。実は左眼を咆哮でやられたらしく、そちらは何も見えない。おそらく、何も見ることは、二度とできないだろう。
「オズ。逃げて」
グランスは言った。身体が変わる。
ふーっと、グランスは息を吐いた。ちょうど、大型の怪物がそうしたみたいに。
すると目は潰れたままだった。腱は切れたままだった。なのに、身体だけが、立った。まるでなんの損傷も負っていないように立った。
気力でどうにかなる状態ではない。現に、ぐしゃぐしゃになっていた片腕の指もそのままだ。
「洞窟の外に逃げる「のよ」」
「……。のよ?」
オズはへんな所で首を傾げた。
「私が逃がす。合図したら、そっちに駆けて。ヘマは、まあ、しないと思うけれど。それから、あの家族も一緒に。親戚の野郎はあんたがなんとかしておいて、そこまでは面倒見切れないもん」
「もん?」
オズはまだ口調にこだわっている。
グランスはくすっと笑った。
「私の名前なんだけど、おかしいと思わなかった?」
「――グランス?」
「グランス」
呼びかけた、と思ったが、そうではなかったらしく、オズは言ってきた。
「西の国の言葉だな、白い、空白って意味だ」
「そう、それ。偽名よ」
グランスは言った。そのときには、洞窟の天井がみしみし鳴っている。もう崩れてくるのだ。そこらじゅうにひびが入っている。
向こうでローマンが、呆然と突っ立っている。こちらにも何か言いたかったが、なにも言わずともいい気がした。
「……なんだか、変な事知っているのね?」
「俺はもともと、向こうと付き合いのある国の生まれなんだ」
そう、とグランスは言った。
「本来の女性らしい口調で」。オズは、聞いてきた。
「さっきからお前、変じゃないか?」
「お前」とは、うっかりでた言葉だろう。グランスが女性らしい言葉を使い、初めて認識が生まれ、女性に接する口調になったのかもしれない。おかしい。
「偽名?」
「そう、本当は私には名前はないのよね。空白だから、空白。まったく適当な名前つけてくれちゃって」
洞窟が崩れた。ずん、と勢いよく欠片が落下する、もう喧騒と化した洞窟内に、誰に言うでもなく。
グランスは言った。
「私の本当の名前、本当の名前は――」
そう。
この世界の言葉ではない。
この世界の発音ではない。
怪物が、崩れた洞窟の一部から、わっと落ちる。ぎょろりとしたあの目。
人の身の丈よりも、大きな目。ちょうど、それを睨んで、グランスは思い切り息を吸い込んで、――解き放った!
「【PRE・TENDER】!!」
怪物の目が、爆散した。砕け散って、液体になって落ちる。
その前に空中で炎を上げて燃え尽きて、消えた。白い炎。
怪物は、それで怯むわけもないが、目から一気に広がった亀裂が、白い炎を吐いて、爆散するように砕け散ってはたまらなかった。
怪物の頭が砕けて降る。その中を、グランスは奔り、一気に切っ先を旋回させた。大剣の切っ先を。グランスの立っていた場所に、白い波紋が広がる。花吹雪のような白い炎。
「――真名・部分開放」
口走る。その身体も、もはや元のグランスではない。
額に巻いた布切れ、バンダナに、『ハーフコート』、タンクトップのシャツ、擦り切れたジーンズ。それらが輪郭を保ったまま、白くなる。全身が白に変わる。
潰れていた左腕は、うろこ状の装甲を備えた見た目に、半分露出したような乳房から、正確にはそのあたりから広がった、炎状の白は、人形の手足のように。球体関節が、両の腕に現れ、皮膚もみな白くなる。マネキンのような作り物の腕。
しかし、それは意志を持って動き、手にした大剣を振るった。大剣もまた白く燃える。身体の節々から、白い炎状の何かが噴き出し、竜のように弧を描く。
右眼だけは朱かった。髪もほとんど白く変わっていたが、右眼を起点とした、顔の半分、のさらに三分の二。メッシュを入れたような赤い髪がなびく。その動きも炎のようで、腰まであるロングヘアは、すべてそのように燃え上がっていた。
その様は異形だった。
頭を潰した怪物を乗りこえ、その身体を駆けまわりながら刻む。
なますのように切り裂かれ、炎を噴き出して、紫色じみた体色がすべて真っ白に染め上げられる。
染め上げられた部分は恐ろしい高熱らしく、その巨体が地面を圧すると、岩が溶岩になって溶けだした。
「――――――――!!!」
言葉もなく、声もなく、次々に襲い掛かる。
それは怪物もグランスか、炎と化したグランスであったものか、も、同様である。
髪を振り乱し、炎を纏って、怪物も炎に変える。二体目、三体目が同時に襲い掛かってきた。グランスに飛びつこうとした蟲のような小型が中空で焼け消える。
白い炎は一切容赦しない。グランスが大剣を振りかざすと、二体目が身体の一部にある、一本きりの腕のような部分を、白くさせる。
雄叫び。しかし、それは、最初グランスが喰らったようなものとは違う。明らかな指向性があった。
それは槍となって、グランスの腹を貫いた。
比喩ではない。いったいどれほどの硬度なのか。念動力。
それもたかが音を収束して、キリのような一点に絞るほどに。
こいつでどんなものも、なにもかも貫くのだろう。
怪物の顔は醜悪だった。
口が無かった。目は三つ。これは、ある程度の整合性でもって、頭の左右と中央に付いている。
全身は紫だが、銀のような鋭い光沢があり、金属のように、鎧のようなものを形作っていた。
人の武器では貫けないだろう。
口に当たる部分のような、目の下には、ぱくりとした裂け目がある。
雄叫びや、念動力を駆使する際に、それがむっつややっつに割れるが、どんな規則性かはわからない。仕組みも分からない。
うろろろろろろと、奇怪な音を立てて、頭を潰された怪物が、無数に念動力を飛ばしてくる。
それは、目には見えないほど、薄さをもった糸よりも細い空気の裂け目と化して、グランスを横から襲った。
三体目はがば、と思い切り開口部を開いて、液体を飛ばしてきた。黄金に輝く、目を疑うほど美しい液体だ。質量がなくて、気体に近い。網のようになって、違う方向からグランスに襲い掛かる。
その三つが同時に来た。どれも、人の集落を一瞬で壊滅するだろう力だ。空気が渦を巻き、気圧が変化した。重力も狂っている。グランスは空中でバランスを崩しながら、身体がにぶく折れ曲がり、内臓が歪むのを感じた。
ぶしゃっと血が迸る。それは血だった。グランスは構わずに血を吐きながら、吼えた。
「オズ!!」
言いながら、かっと白く燃え上がる。
それで、まず念動力の槍が燃え散った。
別の方向から来た、念動力の糸は、重力と気圧の中で動いた腕で、大剣を振るい、振り払う。ごしゃっと、振るった腕は潰れて、血を噴き出した。念動力の糸は吹き飛んだ。
最後になんとも表現しがたい、液体の網が残る。これは仕方ない。
グランスは覚悟して燃え散った。ぱらりと消えた炎が、何もなくなった空間に一層激しい形になって燃え上がる。それは、網より大きく広がって、広がって、広がって、放った怪物を逆に呑み込んで広がった。閃光に包まれたように、断崖のようにそびえる怪物の身体が、白く発色した。苦悶の呻き、いや、怪物に苦悶などない。だからそれは錯覚だろう。なんとかしようとして、なんともできなかった結果の動作。
怪物の一体が、そうして焼けて、崩れ落ちる。地形が変わった。全て倒れたところが溶岩状に変わり、とろけて溢れ出す。
怪物は動きを変えた。残り二体は、完全に、グランスに集中した。おぞけが振るう。無機質な強大な殺気。いや、殺気ではない。殺気というのは、のべて気のせいか、そうとしか表現できないものをそう呼ぶ。
これは、ほかの表現方法があった。殺意だ。あの怪物は。他者への殺意を持っている。そのような意思をもっている。
当然だ。自然に存在しない、行動も、生態も、元の世界に馴染まないのなら、それは怪物だ。兵器だ。人を殺すものなのだから。
がん!! と、攻撃をいなしたグランスを、何かが横殴りに弾き飛ばした。怪物だ。あれらも、さるものだ。
通用しないとみれば攻撃を変える。学習と選択を持っている。
だが、オズたちは逃げたはずだ。まあ、こればっかりは信じるしかない。
しかし、オズさえいれば、あの場にいた全員は切り抜けられるだろう。
何かがきた。
グランスは、反射的にそれを焼いた。
だが、全身を黒いなにかでつつんだそれは、炎を二つに分かれただけでいなした。
結合点が、また戻る。それは人の形をしている。左眼が赤い。
(オルグ・リートワ!!)
ごっと、なにかにぶち当てられて、高速でグランスは空中の高い所から、一気に落下した。
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