29 / 29
モノローグ ⑮ 最終項
しおりを挟む
──潮風の届く丘にて
「父さん、僕もうお腹が空いたよ?」
「え?ああ、もうそんな時間か」
思い出にひたり海を眺める。
そんな僕の顔を覗き込み、和志がきょとんと首を傾げた。
「父さん……泣いているの?」
「ごめんな……父さんちょっと、悲しい事を思い出していたんだ」
「悲しい事って、ここのお墓の人のこと?」
「ああ、そうだよ……ここのお墓に眠るのは、父さんが一番大切に思っていた人なんだ」
「一番って、僕より大切な人?」
僕は思わず、力一杯和志を抱いた。
「痛いよ父さん」
「和志、今は和志が一番だ。和志は父さんの宝物だよ……」
この潮風の届く丘に設けられた
「メモリアル・パーク」と呼ばれる市立霊園。
──ここに君は眠っている。
君の息子に和志と名付けた。
君と同じに和志と呼んでる。
決して君の身代わりじゃない。
そんなつもりは微塵も無い。
──ただ僕は求めた。何か君との繋がりが欲しい。
戸籍上は「藤崎和志」
君とは何ひとつ関わりが無い。
君が和志の父親だなんて、世間的には誰も知らない──。
寂しいじゃないか、
君も和志も……
せめてもと思い、
同じ名前を共有させた。
僕は和志を愛しているよ?
君が残した尊い命。
和志は僕の生き甲斐だ。
──愛する人の血を引く子供が、こんなにも愛おしいし存在だとは、僕は全く知らなかったよ。
和志は5歳。
僕も、もう直28歳。
──君が逝って、もう6年か……
色々あったよ、この6年間。
沢山の人を欺いて、沢山の人を傷付けた。
──それもこれも和志のために。
生まれ来る尊い命のために。
────僕は絵理と対峙した。
「えっ!堕ろすの?和志の子だよ?!」
それを聞き、僕は激しい衝撃に打ちのめされた。
「だって!それなら一体どうすればいいの?!
和志は死んでしまったのよ?
私一人でどうすればいいのよ…」
激しい嗚咽に泣き伏す絵理を、僕は歯がゆい思いで見詰めるしかなかった。
──そして激しい苛立ちが湧き起こる。
「命だよ?和志が残した、たったひとつの命だよ!
どうしてそれを殺せるんだ!
僕は嫌だ!殺せない!
堕ろすなんて絶対に許さない!」
僕はその時必死だった。
和志が残したひとつの灯し火、それが直にも消されてしまう!!
「なによ!他人事だから言えるのよ!私の将来はどうなるの?
和志とは籍も入っていないのよ?
私はまだ、22なのよ……」
絵理は力無く泣き伏した。
彼女の言うのは正論だ。
彼女の思いは尊重すべきだ。
彼女の意志を……踏み付けてはならない──と理屈では分かる。
が、しかし、それでも僕は引き下がらなかった。
むしろ激しい怒りが僕を襲う。
愛する和志が亡くなったのに、絵理はこの世に生きる和志の子より、自分の明日を憂慮している。
絵理にとって和志は過去か?
死んでしまった和志の子供は、絵理にとっては足かせか?!
「他人事?他人事って言ったよね?そうだね確かに他人事さ。
……僕は和志の子供を産めない!たとえどんなに望んでも!!」
「あなた?何を言ってるの?」
「僕には子供なんて産めないって言っているんだ。それがどんなに悔しい事か……女の君には分からないよね……」
「あなた、もしかしてやっぱり」
「僕なら産むよ?何が有っても!
愛する和志が死んだんだ。だけど
命を残してくれた。
どうしてそれを殺せるの?和志の
血を引く子供だよ?
……僕には殺せない、絶対に!」
僕は激情に押し流された。
そんな僕を絵理はののしる。
「あなたの気持ちは分かったわ!そうね、そうじゃないかと思ってた。あなたの事を見ていれば気が付くのは当然よ?私はただ和志を失いたくなくて、気付かない振りをしてただけ!」
「ごめん、それは謝る。でも和志と絵理ちゃんがうまくいくには、隠すしかなかったんだ……」
「そうね、そんな事はもういいわ!だって終わった事ですもの。和志との事は終わったのよ……。
でも子供の事はこれからなのよ!産むのは私よ?育てるのも私!
この子はあなたに関係ないわ!!赤の他人よ!!
産めだなんて、どうしてあなたがそこまで言うの?!」
一旦、呼吸を整える──絵理が激怒するのは当然だ。
僕がするべきは喧嘩じゃない。
──和志の子供を救う事だ。
「絵理ちゃん、君は正しい。
僕の方が尋常じゃない。そんな事は分かってる……」
「そうね、あなたは尋常じゃないわ?取り乱しているのはあなたの方よ!この子はあなたの子供じゃない!!」
「そうだね、君の言う通りだね。確かに僕の子供じゃない。
僕には何も言う権利は無い。
でも………
生まれる前から愛しているよ?
愛する和志の子供じゃないか。
君のそのお腹にいるんだろ?
生まれる前から愛おしいよ……」
溢れる思いに涙を落した。
「あなた、本気……?」
ついに僕は泣き崩れた。
僕には何も出来ない。
──ただ、絵理に懇願するだけ。
「愛していたんだ、和志の事を!だから代われるものなら代わりたい。でもそれが出来ないから頼んでいるんだ。その子を助けて?
お願いだから……!」
「あなた、そんなに和志のことを……」
「僕は和志に救われた。あの海で命を助けられた。
だから今度は僕が助ける、和志の残した命を僕が救う!
お願いだ、絵理ちゃん!
君が無理なら僕が育てる。責任を持って僕が養う。
和志が死んでしまったからこそ、なおさらに僕はその子が愛しい。お願いだから産んで欲しい!」
僕はその場に手を付いた。
涙ながらに訴えた。
──絵理は呆然とした眼差しで、そんな僕を見詰め続ける。
「そんな事を言ったって、これは私の一生に関わる事よ……あなたに一体何が出来るの……」
「愛していたんだろ?和志のことを。愛していなかったとは言わせない。どんな愛にも必ずその代償は生じるはずだ。
僕がその子の父親になる。たとえ戸籍を汚そうが、君にはその子を産んで欲しい。それが君にとっての愛の代償……」
「私の、愛の代償……」
「その後は僕が引き取るよ。父親として立派にその子を育てる。
僕はもう、子供のころからずっとずっと……和志を愛し続けていたのだから……」
「それがあなたの、愛の代償?」
「……代償?……違うよ。それは僕の愛の証さ」
涙に濡れた瞳の奥に、君の笑顔が浮かんで見える。
僕は和志の幻に向けて、壮絶なまでの微笑みを投げた。
「ねぇ父さん。夕ご飯はいつものあのレストランにしようよ?ここの帰りにいつも寄る店」
「ああいいとも。和志はあの店が大好きなんだね」
「うん、あのお店は美味しいよ?今夜はグラタンにしようかな♪」
「よし、車に乗る前に手を洗っておいで。元気に遊んで真っ黒だ。ほら、あそこに水道が有る」
「うん、直ぐ戻るから待っててね?」
走り去る和志を目で追って、僕は君との思い出を閉じる。
──そして最後に思うのは、いつも必ず絵理とのそれから……。
君との思い出は美しいけれど、その後しばらくは大変だった。
彼女は僕の提案を受け入れてくれた。
結局、最後は了承をくれた。
──全ては彼女が決意したこと。
僕に出来たのは懇願だけ。
決定権は彼女のもの。
──やはり彼女は愛していたんだ、僕に負けないくらい和志の事を……!
僕たちは即座に籍を入れ、彼女は僕の妻となった。
戸籍だけの結婚は、僕が生まれ来る子の父親になるため。
互いの家族も友人も、僕たちは多くの人々を欺いた。
良心の呵責?罪の意識──全ては生まれ来る命を守るため。
僕には既に収入が有った。
あの新人賞を切っ掛けに、既に数冊本を出してた。
仕事の依頼もそこそこ有ったし、あのころ僕は、既に学生作家で通っていたから──。
その年、僕は大学を終えた。
やがて絵理は息子を産んだ。
──絵理は一学年上だから、既に前年、卒業していた。
だから出産に専念は出来たが、予定してた留学は延期になった。
僕は彼女に留学を勧めた──。彼女には望む道を歩んで欲しい。それは生まれて来た子供の為にも──彼女に、子供が足かせと思わせたくなかった。
資金援助はやぶさかでなかった。僕は彼女に報いたかったし、夫として留学を助けたかった。
しかし彼女はそれを拒否した。
もちろん生まれた子供は愛している。
しかし彼女にも望みは有った。
やはり女のとしての幸せが欲しい。長い人生を支える愛が欲しい。
それは人間として真っ当な要求。当たり前の希望──。
足かせだったのは子供ではなく、僕だった。
僕では彼女を幸せに出来ない。それは感情でなく、生理の問題。
──やがて僕たちは離婚した。
彼女にも愛する伴侶を得る権利が有る。
僕達は大勢の人々を騒がせた。
電撃結婚。
突然出産。
そして最後は非常識離婚──。
僕たち二人は評判を落とした。
家族も親戚も友人達も、みんなが僕たちを非難した。
──それもこれも子供のため。
多くを欺き多くを傷付け、そしていかなる困難を乗り越えようとも、僕には和志が必要だった。
君が残した命だもの……!
良識も、倫理も道徳も何ほどのものか!
──命は尊く、それを支えるのは愛そのもの!
良心の痛みはただひとつ。
君のご両親は全く知らない──この世に実の孫がいることを。
このまま知らせずに済むのだろうか?
僕は果てなく迷い続ける──。
絵理はドイツに滞在中。
子供よりバイオリンを選んだと、彼女は世間で非難の的だ。
傍目に見ればそうなのだろう。
子供を産んで即離婚。
日本を離れて芸術活動──。
しかし僕は感謝している。
彼女が和志を産んでくれた!
人知れずの堕胎の数がどれ程なのか、僕は知らない。
彼女は堕ろさずに産んだのに、どうして世間は彼女を責める?
中には子供を堕ろして知らん顔する人もいるだろうに、どうして産んだ彼女が非難を受ける?
彼女が留学を決めた時、確かに子供に未練はあった。
しかし彼女は未来を選んだ。
──それが彼女の人生の選択。
それが僕達二人の決断だから、周りにとやかく言われたくはない。
それでも彼女は最後に言った。
「私達、後悔せずに済んだわね」
誰が何と言おうとも、僕は彼女に感謝している!
僕はずっと思っていた。
僕は君に命を救われた。だから君の為に生きるんだって──。
でもそれは違った。
僕は今、君の息子の為に生きている──。
初等部6年のあの夏の日の海。
──君が救ったのは僕じゃない。
君は自分の息子を救ったんだ!
運命は不思議だね。
思えば僕が物書きを選んだのも、君の息子を育てて行くための手段だった。
僕が違う境遇だったら、とても一人では無理だった。
夜中に何度もミルクを上げて、その間僕も眠らず物書きをする。
昼間は和志を保育所に託して、僕はぐっすりと入眠する。
授乳期間──僕は普通とは全く昼夜逆転の生活だった。
サラリーマンじゃ無理だった。出勤自体が困難だった。
自宅勤務の、物書きだったから出来た子育て──。
僕は全てを和志に捧げた。君のことを忘れるくらいに──。
「父さんお待たせ。さぁ行こう」
「よ~し、行くか!アンディーのリードはちゃんと持てよ?和志が世話する約束だから」
「うん、アンディーのことはまかせて!父さんにねだって、やっと買って貰った仔犬だもの」
こうして和志とこの丘を去る時、僕は君との思い出を閉じる。
ここからはまた日常だ。
──思い出だけじゃ生きて行けない。僕は和志と明日に生きる。
───ボーッ、ボーッ、ボーッ。
響き渡る貨物船の汽笛に、僕達二人は振り返る。
(君の、さよならの合図だね…)
見渡す限りの広い海原。
潮風がそっと頬をくすぐる。
(君が、涙を拭いてくれた?)
僕は思わずしゃがみ込み、和志の顔を覗き込む──その黒曜石のような瞳が輝いた。
(幼い頃の君のようだよ……)
こみ上げる思いに胸が詰まる。君は和志の中に生きている──。
「和志、ちゃんとお守り持ってるか?」
「うん、ほら大切に持ってるよ」
「そうか、いい子だ……」
和志に持たせたお守り袋。
──火葬場で盗んだ君のお骨。
お骨を拾う時、そっとポケットに隠し入れた。
たったひと欠だけだけど、和志に持たせた唯一の形見。
潮風の匂いは、君の匂いに似ているね。
ここに来ればいつでも会える。
──星の数ほどの君の思い出。
遠い波間に君が見えるよ。
──アンダンテ・スピアナートを奏でる君が……。
──Memories of you
決して君を忘れない。
【GOOD BY MY ONLY LOVER】
「父さん、僕もうお腹が空いたよ?」
「え?ああ、もうそんな時間か」
思い出にひたり海を眺める。
そんな僕の顔を覗き込み、和志がきょとんと首を傾げた。
「父さん……泣いているの?」
「ごめんな……父さんちょっと、悲しい事を思い出していたんだ」
「悲しい事って、ここのお墓の人のこと?」
「ああ、そうだよ……ここのお墓に眠るのは、父さんが一番大切に思っていた人なんだ」
「一番って、僕より大切な人?」
僕は思わず、力一杯和志を抱いた。
「痛いよ父さん」
「和志、今は和志が一番だ。和志は父さんの宝物だよ……」
この潮風の届く丘に設けられた
「メモリアル・パーク」と呼ばれる市立霊園。
──ここに君は眠っている。
君の息子に和志と名付けた。
君と同じに和志と呼んでる。
決して君の身代わりじゃない。
そんなつもりは微塵も無い。
──ただ僕は求めた。何か君との繋がりが欲しい。
戸籍上は「藤崎和志」
君とは何ひとつ関わりが無い。
君が和志の父親だなんて、世間的には誰も知らない──。
寂しいじゃないか、
君も和志も……
せめてもと思い、
同じ名前を共有させた。
僕は和志を愛しているよ?
君が残した尊い命。
和志は僕の生き甲斐だ。
──愛する人の血を引く子供が、こんなにも愛おしいし存在だとは、僕は全く知らなかったよ。
和志は5歳。
僕も、もう直28歳。
──君が逝って、もう6年か……
色々あったよ、この6年間。
沢山の人を欺いて、沢山の人を傷付けた。
──それもこれも和志のために。
生まれ来る尊い命のために。
────僕は絵理と対峙した。
「えっ!堕ろすの?和志の子だよ?!」
それを聞き、僕は激しい衝撃に打ちのめされた。
「だって!それなら一体どうすればいいの?!
和志は死んでしまったのよ?
私一人でどうすればいいのよ…」
激しい嗚咽に泣き伏す絵理を、僕は歯がゆい思いで見詰めるしかなかった。
──そして激しい苛立ちが湧き起こる。
「命だよ?和志が残した、たったひとつの命だよ!
どうしてそれを殺せるんだ!
僕は嫌だ!殺せない!
堕ろすなんて絶対に許さない!」
僕はその時必死だった。
和志が残したひとつの灯し火、それが直にも消されてしまう!!
「なによ!他人事だから言えるのよ!私の将来はどうなるの?
和志とは籍も入っていないのよ?
私はまだ、22なのよ……」
絵理は力無く泣き伏した。
彼女の言うのは正論だ。
彼女の思いは尊重すべきだ。
彼女の意志を……踏み付けてはならない──と理屈では分かる。
が、しかし、それでも僕は引き下がらなかった。
むしろ激しい怒りが僕を襲う。
愛する和志が亡くなったのに、絵理はこの世に生きる和志の子より、自分の明日を憂慮している。
絵理にとって和志は過去か?
死んでしまった和志の子供は、絵理にとっては足かせか?!
「他人事?他人事って言ったよね?そうだね確かに他人事さ。
……僕は和志の子供を産めない!たとえどんなに望んでも!!」
「あなた?何を言ってるの?」
「僕には子供なんて産めないって言っているんだ。それがどんなに悔しい事か……女の君には分からないよね……」
「あなた、もしかしてやっぱり」
「僕なら産むよ?何が有っても!
愛する和志が死んだんだ。だけど
命を残してくれた。
どうしてそれを殺せるの?和志の
血を引く子供だよ?
……僕には殺せない、絶対に!」
僕は激情に押し流された。
そんな僕を絵理はののしる。
「あなたの気持ちは分かったわ!そうね、そうじゃないかと思ってた。あなたの事を見ていれば気が付くのは当然よ?私はただ和志を失いたくなくて、気付かない振りをしてただけ!」
「ごめん、それは謝る。でも和志と絵理ちゃんがうまくいくには、隠すしかなかったんだ……」
「そうね、そんな事はもういいわ!だって終わった事ですもの。和志との事は終わったのよ……。
でも子供の事はこれからなのよ!産むのは私よ?育てるのも私!
この子はあなたに関係ないわ!!赤の他人よ!!
産めだなんて、どうしてあなたがそこまで言うの?!」
一旦、呼吸を整える──絵理が激怒するのは当然だ。
僕がするべきは喧嘩じゃない。
──和志の子供を救う事だ。
「絵理ちゃん、君は正しい。
僕の方が尋常じゃない。そんな事は分かってる……」
「そうね、あなたは尋常じゃないわ?取り乱しているのはあなたの方よ!この子はあなたの子供じゃない!!」
「そうだね、君の言う通りだね。確かに僕の子供じゃない。
僕には何も言う権利は無い。
でも………
生まれる前から愛しているよ?
愛する和志の子供じゃないか。
君のそのお腹にいるんだろ?
生まれる前から愛おしいよ……」
溢れる思いに涙を落した。
「あなた、本気……?」
ついに僕は泣き崩れた。
僕には何も出来ない。
──ただ、絵理に懇願するだけ。
「愛していたんだ、和志の事を!だから代われるものなら代わりたい。でもそれが出来ないから頼んでいるんだ。その子を助けて?
お願いだから……!」
「あなた、そんなに和志のことを……」
「僕は和志に救われた。あの海で命を助けられた。
だから今度は僕が助ける、和志の残した命を僕が救う!
お願いだ、絵理ちゃん!
君が無理なら僕が育てる。責任を持って僕が養う。
和志が死んでしまったからこそ、なおさらに僕はその子が愛しい。お願いだから産んで欲しい!」
僕はその場に手を付いた。
涙ながらに訴えた。
──絵理は呆然とした眼差しで、そんな僕を見詰め続ける。
「そんな事を言ったって、これは私の一生に関わる事よ……あなたに一体何が出来るの……」
「愛していたんだろ?和志のことを。愛していなかったとは言わせない。どんな愛にも必ずその代償は生じるはずだ。
僕がその子の父親になる。たとえ戸籍を汚そうが、君にはその子を産んで欲しい。それが君にとっての愛の代償……」
「私の、愛の代償……」
「その後は僕が引き取るよ。父親として立派にその子を育てる。
僕はもう、子供のころからずっとずっと……和志を愛し続けていたのだから……」
「それがあなたの、愛の代償?」
「……代償?……違うよ。それは僕の愛の証さ」
涙に濡れた瞳の奥に、君の笑顔が浮かんで見える。
僕は和志の幻に向けて、壮絶なまでの微笑みを投げた。
「ねぇ父さん。夕ご飯はいつものあのレストランにしようよ?ここの帰りにいつも寄る店」
「ああいいとも。和志はあの店が大好きなんだね」
「うん、あのお店は美味しいよ?今夜はグラタンにしようかな♪」
「よし、車に乗る前に手を洗っておいで。元気に遊んで真っ黒だ。ほら、あそこに水道が有る」
「うん、直ぐ戻るから待っててね?」
走り去る和志を目で追って、僕は君との思い出を閉じる。
──そして最後に思うのは、いつも必ず絵理とのそれから……。
君との思い出は美しいけれど、その後しばらくは大変だった。
彼女は僕の提案を受け入れてくれた。
結局、最後は了承をくれた。
──全ては彼女が決意したこと。
僕に出来たのは懇願だけ。
決定権は彼女のもの。
──やはり彼女は愛していたんだ、僕に負けないくらい和志の事を……!
僕たちは即座に籍を入れ、彼女は僕の妻となった。
戸籍だけの結婚は、僕が生まれ来る子の父親になるため。
互いの家族も友人も、僕たちは多くの人々を欺いた。
良心の呵責?罪の意識──全ては生まれ来る命を守るため。
僕には既に収入が有った。
あの新人賞を切っ掛けに、既に数冊本を出してた。
仕事の依頼もそこそこ有ったし、あのころ僕は、既に学生作家で通っていたから──。
その年、僕は大学を終えた。
やがて絵理は息子を産んだ。
──絵理は一学年上だから、既に前年、卒業していた。
だから出産に専念は出来たが、予定してた留学は延期になった。
僕は彼女に留学を勧めた──。彼女には望む道を歩んで欲しい。それは生まれて来た子供の為にも──彼女に、子供が足かせと思わせたくなかった。
資金援助はやぶさかでなかった。僕は彼女に報いたかったし、夫として留学を助けたかった。
しかし彼女はそれを拒否した。
もちろん生まれた子供は愛している。
しかし彼女にも望みは有った。
やはり女のとしての幸せが欲しい。長い人生を支える愛が欲しい。
それは人間として真っ当な要求。当たり前の希望──。
足かせだったのは子供ではなく、僕だった。
僕では彼女を幸せに出来ない。それは感情でなく、生理の問題。
──やがて僕たちは離婚した。
彼女にも愛する伴侶を得る権利が有る。
僕達は大勢の人々を騒がせた。
電撃結婚。
突然出産。
そして最後は非常識離婚──。
僕たち二人は評判を落とした。
家族も親戚も友人達も、みんなが僕たちを非難した。
──それもこれも子供のため。
多くを欺き多くを傷付け、そしていかなる困難を乗り越えようとも、僕には和志が必要だった。
君が残した命だもの……!
良識も、倫理も道徳も何ほどのものか!
──命は尊く、それを支えるのは愛そのもの!
良心の痛みはただひとつ。
君のご両親は全く知らない──この世に実の孫がいることを。
このまま知らせずに済むのだろうか?
僕は果てなく迷い続ける──。
絵理はドイツに滞在中。
子供よりバイオリンを選んだと、彼女は世間で非難の的だ。
傍目に見ればそうなのだろう。
子供を産んで即離婚。
日本を離れて芸術活動──。
しかし僕は感謝している。
彼女が和志を産んでくれた!
人知れずの堕胎の数がどれ程なのか、僕は知らない。
彼女は堕ろさずに産んだのに、どうして世間は彼女を責める?
中には子供を堕ろして知らん顔する人もいるだろうに、どうして産んだ彼女が非難を受ける?
彼女が留学を決めた時、確かに子供に未練はあった。
しかし彼女は未来を選んだ。
──それが彼女の人生の選択。
それが僕達二人の決断だから、周りにとやかく言われたくはない。
それでも彼女は最後に言った。
「私達、後悔せずに済んだわね」
誰が何と言おうとも、僕は彼女に感謝している!
僕はずっと思っていた。
僕は君に命を救われた。だから君の為に生きるんだって──。
でもそれは違った。
僕は今、君の息子の為に生きている──。
初等部6年のあの夏の日の海。
──君が救ったのは僕じゃない。
君は自分の息子を救ったんだ!
運命は不思議だね。
思えば僕が物書きを選んだのも、君の息子を育てて行くための手段だった。
僕が違う境遇だったら、とても一人では無理だった。
夜中に何度もミルクを上げて、その間僕も眠らず物書きをする。
昼間は和志を保育所に託して、僕はぐっすりと入眠する。
授乳期間──僕は普通とは全く昼夜逆転の生活だった。
サラリーマンじゃ無理だった。出勤自体が困難だった。
自宅勤務の、物書きだったから出来た子育て──。
僕は全てを和志に捧げた。君のことを忘れるくらいに──。
「父さんお待たせ。さぁ行こう」
「よ~し、行くか!アンディーのリードはちゃんと持てよ?和志が世話する約束だから」
「うん、アンディーのことはまかせて!父さんにねだって、やっと買って貰った仔犬だもの」
こうして和志とこの丘を去る時、僕は君との思い出を閉じる。
ここからはまた日常だ。
──思い出だけじゃ生きて行けない。僕は和志と明日に生きる。
───ボーッ、ボーッ、ボーッ。
響き渡る貨物船の汽笛に、僕達二人は振り返る。
(君の、さよならの合図だね…)
見渡す限りの広い海原。
潮風がそっと頬をくすぐる。
(君が、涙を拭いてくれた?)
僕は思わずしゃがみ込み、和志の顔を覗き込む──その黒曜石のような瞳が輝いた。
(幼い頃の君のようだよ……)
こみ上げる思いに胸が詰まる。君は和志の中に生きている──。
「和志、ちゃんとお守り持ってるか?」
「うん、ほら大切に持ってるよ」
「そうか、いい子だ……」
和志に持たせたお守り袋。
──火葬場で盗んだ君のお骨。
お骨を拾う時、そっとポケットに隠し入れた。
たったひと欠だけだけど、和志に持たせた唯一の形見。
潮風の匂いは、君の匂いに似ているね。
ここに来ればいつでも会える。
──星の数ほどの君の思い出。
遠い波間に君が見えるよ。
──アンダンテ・スピアナートを奏でる君が……。
──Memories of you
決して君を忘れない。
【GOOD BY MY ONLY LOVER】
応援ありがとうございます!
5
お気に入りに追加
20
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(4件)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
やさしい…やさしいお話ですね!
さまざまなお話を思い出します…「砂の城」「糸のきらめき」「汝、星のごとく」そして、理久さん自身のストーリー…
その上に、このお話が重なって、わたしの中でキラキラと輝いています☆
愛は失われない…
時を止められたひとは、思い出のなかでより美しくなっていく…
なんてロマンティックなんでしょう♡
モノローグでかすかに感じた違和感の訳に、ほおっ、となります。ちょっとした謎解きとなり、面白いです。
「アンダンテ・スピアナート」
とても素敵な曲ですね!静かなのに、キラキラしていて、このお話のように情熱を感じます。
悲しいお話なのに、しあわせを感じます。
理久さん、ありがとうございます。
ありがとうごさいます♡
くあくあさんの繊細なハートにあのエンディングはどうかな?と心配していたので安心しました。
「悲しいお話なのに、しあわせを感じる」→まさにそう言う心境でこのストーリーを創作しました。
その殆どを「メモリーズ」で構成したストーリーでしたが、現在は前向きに明るく生きて行こうとの、ある意味ハッピーエンドと思って書いていました。
人は思い出だけでは生きていけない。でも、思い出だからこそ、それは益々美しくなって行く──そんな感じでしょうか?
安易に人を殺す話は本来きらいなのですが、この話の切っ掛けは「愛する人(男性)の子供を自分(男性)が代わりに育てるってどうな感じなんだろう?」って思い付きから始まりました。
だからどうしても死んでもらうしかなかった。でも、人の死を描くってとても難しいものですね。
自然に描けた自信はありません。どうしても宝塚のような大芝居になってしまうのが欠点と自覚しています。
それともう一点、100%のゲイではなくバイセクシャル?あるいはノンケ寄り?女性とも付き合えちゃうと言う、そう言う男を描かなければならないのが難しかったですね〜。自分にはよく分からないタイプでしたから……。
正直、僕は七生とも全く違います。僕だったらバイの人とは面倒臭くてとても付き合えません。七生はかなり辛抱強いと思います。
てへへ(=_=)
女性の方から非難を受ける事は覚悟の上で公開しまし。現に不愉快に思う方もいるでしょう。
でも、僕には七生の気持ちが分かるんです。だから主人公にしました。←これ変な発言か?フィクションなのに……
ただ、現実にも戸籍上の親子が必ずしも血縁上の親子でないとの事実もあり、そのひとつの形として書き上げました。
「生みの親より育ての親」と言う諺もあります。全ては「愛」だと思います。(恥ずかし、汗)
ありがとうございます。
実は僕も安直に人を殺すストーリーは嫌いなのですが、このお話を思い付いた根源が「好きな人の子供を自分が代わりに育てる」ってどうなんだろう?と言う発想から始まっているので、それならそれがごく自然な感情となるように、二人の関係を幼少期からの長いものとして描いたのですが……いざ、亡くなるシーンを書く時は辛くなってしまいました。
七生はこの後も難しい人生を送る事になると思います。