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──大学4年・別離の秋

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 遠い秋空──人気ひとけない砂浜。
 二人は肩を並べて堤防に腰掛け、この故郷の海を眺めていた。

──晴天に輝く秋の海。この季節になると砂浜は静かだ。
 波打ち際では数人の子供達が遊び、遠くには色取り取りのサーフボードが浮かんでいる。

「秋だから波が高いって言ったって、結局ここは穏やかで有名な海なのに、サーフィンなんて出来るのかなぁ?」
 七生が思い付いたように口走った。
「ああ、俺もサーフィンの事はよく知らないけど、秋になるとこうして結構集まって来るらしいよ?ああやって腹ばいになってパチャバチャやっていると、オットセイみたいで可愛いな、あははっ」
 
 二人は故郷の街に戻って来ていた。折しも新晃学生コンクールの時期である。
 これは新晃楽器が地元のピアノ文化向上のために開催されているコンクールで、秋にはそれに因んだ数々のイベントが開催される。
 昨夜は歴代優勝者によるガラコンサートが行われた。和志はそれに招かれ、ひと場面演奏を任せられたのだ──。

「色々新しいレパートリーを披露したけど、やっぱ最後はアンポロだったね」
「うん、そうして欲しいとの依頼だった。もう、俺のイメージってアンポロなのかな?」

 アンポロとは、つまりショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」の事である。

「そりゃ和志の場合『飛んでった失格の大ポロネーズ』とか翌年の『リベンジ大ポロネーズ』とか言われて、今やちょっとした伝説レジェンドだもんね♪」
「まあ、あの曲は嫌いじゃないからいいけど」
「僕は大好きだなぁ、特に前奏のアンダンテ・スピアナート……。子供の頃の思い出が甦るよ。僕はあの曲で和志のピアノが好きになったんだ」
「そうだな、いつもあの曲を弾いていたよな。懐かしいな~」

 ガラコンサートの翌日、久々に海に行こうと和志が誘い、二人でこうして海を見ていた。
 それは楽しいのだけれど、七生は和志の言動に何かいつもと違う含みを感じる。

「何だか、絵理ちゃんがいないと不思議だな。この頃は和志と絵理ちゃん、セットもんだから」
「七生は、絵理がいた方が楽しいか?」
「うん、僕は好きだよ?絵理ちゃんのこと……」
「俺は久し振りに七生と二人切りになれて嬉しいよ」
「和志……?」

 和志と絵理が一緒に暮らし始めて一年を越えた。
「七生……この一年、辛かっただろ……?」
 下を向き、抑えた口調に緊張の声色。和志は何か思い詰めてる。
「ん~ん、信じられないかも知れないけれど、僕は全然辛くなかった。和志の事が好きだから、だから僕は平気だったよ?」
 清々しい笑顔を見せて、七生は素直に本心を語った。

──しかしそんな七生にいぶかしげな和志。
「七生、こんな事を聞いちゃいけないんだろが……俺のこと、今でも好きか?」
「え?さっきそう言ったじゃないか……」
 七生の顔に困惑の色──和志が何を言いたいのか分からない。

「だったら七生、俺の事が今でも好きなら、どうして絵理の存在を許容出来る?」
「僕は和志が好きだから、だから和志が好きな彼女も好きさ。それじゃ駄目かな」
「七生……」

 和志のただならぬ困惑が七生にも伝わる。今日は初めからおかしかった。和志の様子が変だった。
──瞳を閉じて、そして観念したかのように口火を切った。

「和志……何か話が有るんだろ?分かっていたよ、初めから。和志の様子が変だったから……」
「……そうか、やっぱり七生にはお見通しなんだな……」
「和志……悪い話し?」

「俺は七生が好きなんだ。今でも七生だけが好きなんだ……」
「……和志?」
 見当違いな和志の答えに、七生は思わず呆気に取られる。

「きっとこれからも、益々七生に惹かれてしまう……そんな自分が恐ろしくって、俺は七生から逃げたんだ。自分を偽り、七生を傷付け、絵理をあざむき……」
「もういい和志!そんな話は聞きたくない!……話って、そんな事じゃないだろう?」
「それは……」
「やっぱり違うんだね?和志、僕は平気だよ?何を聞いても……」


「俺は、絵理と結婚する」


「……え?」


「………子供が出来たんだ。来年生まれる」


 瞬間!──七生の脳裏に閃光が走った。それは七生にとって、
──もう今までとは違うんだ──と言う、決定的な宣告だった。

 それは予測出来る話だったし、もちろん七生も覚悟はしていた。
 しかしこうして、今現実として突き付けられると、七生には動揺の色を隠し切れない。

 辛うじて七生は笑顔を保った。ふらりと立ち上がり声を震わす。

「もう秋なのに、今日は暑いよ。喉がからからなんだ。僕……何か買ってくるよ……」

 引きつった笑いに震える拳。
 話の後先も考えず、七生はその場を走り出した。

「七生!」
 和志は七生を目で追うが、その後を追い駆けたりはしなかった。七生が一人になりたがっているのを、和志は瞬時に理解したから──。

 堤防を駆け下り国道に向かう。どこに自販機があるかなんて目星も無い。
 ただがむしゃらに走り続ける。

(和志が結婚?和志に子供?)

 七生の胸に熱いものが込み上げて来る。

(知らなかったよ、こんなにショックを受けるだなんて!
僕はそれを望んでいたのに!和志のためだと、思っていたのに!)

 国道にたどり着き、七生は振り返って海を見詰めた。
──見渡す限りの広い海原。
 ついに七生は耐え切れず、潤んだ瞳を空に向ける。

(分かったよ、自分って奴がっ!和志のためにだって?和志の彼女だから僕も好きだって?
そんなの何もかも全部欺瞞ぎまんだ!)

 力無く、七生がその場にへたり込む。

(僕は和志が欲しかったんだ。
いつかきっと戻って来ると、本当は心の奥で願っていたんだ!)

 溢れる涙を止められない。

(子供が出来た……?
僕ではとても敵わない……もう、君は完全に僕の立ち入れない領域の人になってしまった……)

 響き渡る潮騒の中にもう和志のピアノは聴こえて来ない。アンダンテ・スピアナートは響かない。

 二人の思い出のあの曲は、もう七生の耳には届かない──。







 そしてその頃、和志も堤防に腰掛け、ひとり海を見ていた。

(七生、ごめんよ……俺は七生を傷付けてきた。何度も何度も傷付けた……そして、これからも…)
「キャーッ!!誰か!誰か助けてーっ!!」
 突然、女性の叫びが響き渡る。
 瞬時に和志が立ち上がった。
 堤防を降り、声の方へと直ぐに駆け出す。

「どうしました!何事ですか!」
「娘が波にさらわれて!!」
「ええっ!!」
 海を見る。
 女性の指差す先に溺れる女児。遠い波間にゆらゆらと赤い洋服が見え隠れしている。
──秋になって、確かに波は高くなってた。波打ち際で遊ぶ女児が突然の荒波に足を取られ、引っ張られても不思議は無い。
 和志に躊躇させるひまは無かった。このままでは、女児は沖へと流され海の藻屑となってしまう。
 海に向かい、一目散に駆け出す和志。衣服を捨てる余裕も無い。
 女児を目指して和志は必死に泳いだ。衣服が重い。靴が邪魔だ。
 しかしここで戻る訳には行かない。自分が見捨てたら誰が女児を救う?誰もいない!
──俺しかいない!
 しかし思いとは裏腹に息が苦しい、辛い海水を何度も呑んだ。
 不可能だ。いくら慣れた海でもあまりに無防備。服が重くて身体が沈む。
(あ、やばいな)
──それでも何とかたどり着き、和志は赤い洋服を右手に掴んだ。







 その頃七生は、せめて少しでも平静を取り戻そうと、自分を厳しく戒めていた。
──考えてみれば、自分は和志の言葉に取り乱し、闇雲に逃げ出して来てしまったのだ。
 和志が今ごろどんなに戸惑い、心配に胸を痛めているか──。
 七生は缶ジュースを二つ買い、気を取り直して堤防へと戻る。

(僕は泣かない、和志の前では)

 作り笑顔を無理に浮べ、七生は和志が待つはずの堤防に着いた。

(あれ?和志がいない……)

 見渡すと、波打ち際に人が集まっている。
 子供達と、その母親らしき数人の女性。それにウエットスーツ姿のサーファーも数人。


(何だろう?)


 七生は堤防を降りて、呼ばれるような思いで小走りになった。
 近付くにつれて不穏な空気。
 人々はざわめき、海を指差す。

(ここで、何か有ったのか?)

 七生の心に不安が芽生える。

(この人だかりにも和志はいない。和志は一体どこへ行った?)

 突然、見知らぬ女性が飛び付いてきた。
「あの!あなたあの堤防にいましたよね?!あの白いシャツの男の人と一緒に!」
 ああ、さっきまで和志と並んで海を見ていた。その時波打ち際にいた女性だと、七生は嫌な予感と共に気が付いた。
 女性は七生にしがみつく。
「あなた、あの男の人のお友達ですか?!あの、私!あのう!私、ああ~っ!あああーー!!!」
 取り乱した女性が女児を抱き、七生の足元へと泣き崩れる。それは激しい号泣だった。
「何ですか?どうしたんですか!確かに僕はさっきまで和志と一緒に堤防にいたけど、和志は?和志はどこ?!」
 缶ジュースを振り落とし、七生
が動転した女性の肩を掴む。
 衝撃に泣き叫ぶ女児とただ嗚咽
にむせび泣く女性──。

(何だよこれ!分からないよ!!僕には何が何だか分からない!)

 この女性では埒が明かない。 
 蒼白の七生は周りを見渡す。
 そんな七生を目ざとく見付け、一人のサーファー青年が駆け寄って来た。
「奥さん!この人は?!」
「この子を!この子を助けてくれた人のお友達だそうです!」
 瞬間、七生に驚愕の表情。
「ええっ?!この子を助けた?!和志は?和志はどこですか!!」
 七生は必死でそのサーファーに詰め寄った。
 困惑の色を浮かべながら、サーファーが事実を話し出した。

「実はこの女の子が波にさらわれて溺れているところを……和志君って言うのかい?その彼が、助け出すために海に入ったんだ」
「ええっ?!それで和志は?!」
「うん、かなり沖まで流されていたこの子をかかえ込んで、何とかオレの所までは泳いで来たんだ。それでオレに後を託して、サーフボードにその子を乗っけたまでは良かったんだけど……」
「ま、まさか!!」
「ああ、彼は服を着たままだったし、かなり身体に絡みついて拘束されていたのかも知れない」
「だから和志は?和志はどうした!!」
「この子をサーフボードに乗せて直ぐ、折からの高波を被ってそのまま姿が……」
「沈んでしまったんですか?!」
「いや、本当のところ良く分からないんだ。今はシーズン・オフで監視塔に人もいないし、オレにしても、ボードを漕ぎながら波を待っていたら突然子供を抱えた彼が波間から現れて、驚くばかりで、
オレもこの子を守りながら何とか砂浜まで戻るのが精一杯で、そのあと彼がどうなったのかは……」
「ええっ!!」
 目まいと共に七生を襲う激しい動悸。力無くその場に倒れ込む。

「大丈夫!警察と救急には携帯で直ぐに通報した。警察が漁船にも協力を仰ぐって!それに、オレ達サーファー仲間もいま必死に捜してる。なあに、もしかしたらどこか離れた浜に泳ぎ着いて、こっち
に向って歩いているかも知れないよ!」
──サーファーの励ましの声が、どこか違う次元から聞こえて来るようだ。
 震える両手で自分を抱きしめ、七生は激しく自分を責めた。

(一緒にいたのに、僕は!僕は!
……僕が和志から離れたのがいけない!僕が一緒にいれば、和志にそんな無謀な事は絶対にさせなかった!服を着たまま、ストレッチもウォーミング・アップもせずにこの高波に入るだなんて!
絶対に僕はさせなかった!
和志から離れた僕が悪い!!
僕が和志と一緒にいれば、こんな事にはならなかった!!)

 ついさっきまで一緒にいた和志なのに、七生は今その手に触れる事さえ出来ない。

(和志、早く帰ってきて……和志がいなくなったら、僕はもう生きて行けない……)

 七生は、海に向かって思い切り和志の名を叫んだ──それは喉を潰すほど悲痛な、全身全霊を込めての叫びだった──。







───────その日の夕刻。
 砂浜に立てたテント張りの捜索本部に、家族をはじめ和志の関係者が詰め掛けていた。
──その片隅で小さく肩を震わす七生。
 それは捜索可能時間ぎりぎりの、赤い夕日がさす頃だった。

「お~い!見つかったぞ~っ!」

 その声ひとつで捜索本部が色めき立つ。
 押し流れる人波に身をまかせ、七生は夕刻の浜辺を走った。

(和志!生きていて!頼むから……!!)

 煌々と輝くライトに照らせれ、一個の人の群れが夕焼けの砂浜に立つ。
 担架に乗せられ、白いシーツに包まれた、それは紛う事なき和志の肢体──。

「ご確認下さい」
 警察官がシーツをめくる。
 濡れそぼつ白シャツにジーンズのラフな格好。
 靴が片方無くなっている──。

「か、和志……!」
 和志の母が、震える両手で口を塞いだ。
「和志!」
「和志~っ!」
 和志の家族が担架を囲み、一様
に皆泣き崩れる。
 多くの号泣が夕焼けの渚に響き渡った。

 七生は呆然としながらも、恐る恐ると覗き込む。

 七生の顔から生気が消えた。

 閉じた瞳。
 紫の唇。
 横たわる和志の身体は、何故か生前よりずっと華奢に見えた。


(和志……違う……こんなの和志じゃない……………………)


 遠のく意識にピアノを聴いた。
 潮騒にまじる懐かしいあの曲。
 そう、これはアンダンテ・スピ
アナート──。
──和志が得意の美しい曲。


 七生の背中に羽根が生えた。
 力が抜けて宙に浮く。

 後ろにのけ反るその瞬間、七生は確かに星を見た。
──秋の夜空の満天の星々。

(え?もう夜なの……?)

──遠のく意識に瞳を閉じる。


「おい!君!!」
 周りの数人が、かろじて七生の身体を受け止めた。



(かず……し…………)



 そして七生は気を失った──。


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