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──高等部1年・陶酔の夏

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 それは寝苦しい程に蒸し暑い、ある夏の夜の事だった。

「七生、起きてるか?」
「ああ……どうした?和志……」

 その日、七生は協力して夏休みの宿題を済ませてしまおうと誘われ、和志の部屋に泊まりに来ていた。実際は遊びに来たようなものだし、こんな事は今までもあった。
 しかし、今日の和志はいつもと違う。何となく様子が変だと七生は感じた。
 案の定──こんな夜中に、思い
詰めた様子で話して来る。

「七生……俺………」
 とても言いにくそうだ。
「うん、だからどうした?」
 七生も何だかいらついて来る。
「つまり、その……」
 和志らしくもなくグダグダしている。七生はもう我慢の限界だ。

「和志、なにか話が有るんだろ?今日の和志は何だか変だよ。初めから何かあるな?って思ってた。いい加減はっきりしてくれ。僕まで頭が変になるよ!」

「実は昨日、部活の後に先輩たちが言うんだ。冷やかし半分なんだろうけど……」
「何を?」
「つまり、その……ぼやぼやしているとおまえの可愛い子ちゃん、取られちゃうぞ!って……」
「はあっ?なにかと思えばそんなこと~っ?!」
 七生は呆れて目を点にする。

──確かに高等部に進んで空気が変わった。中等部では目立たなかったが、要するに「疑似恋愛」と言う現象がちらほら目に着くようになってきた。
 これは男ばかりの環境では珍しくない。刑務所などでもよく有る事だ。
 だが、これが同性愛に直結する訳では決してない。男子ばかりの閉塞感から流行する麻疹はしかのようなものだ。そこを誤解してはいけない──。

 和志が心配そうに話し始めた。
「なんでもその先輩たちの友人が七生にラブレターを出したって、もっぱら評判だとか……」
 すねた口調で言い放つ和志。
「ああ、なるほど?サッカー部の平山先輩のことか。それで和志、いてくれてるわけ?」
 七生は、嬉しそうに和志に擦り寄る。
「えっ!そんなところからも貰ってるのか?!」
「え、違った?あれ?誰の事だろ?」
「剣道部の小川先輩の事だよ!」
「ああ、もしかして無理やり手渡されたあれかなぁ?小川先輩って言うの?手紙に名前が無かったから分からなかったよ。おっちょこちょいな人だね~」
「…………」

 無言のまま口を尖らせ、和志はじっと仰向あおむけている。
「えへっ……だから和志~、いてくれている訳~?」
「七生はどうなんだよ。高等部に上がった途端やたらと先輩たちにモテちゃって、誰かお目当てでもいるのかよ……」

 七生の人気が急上昇と言うのは事実だった。男子校、特に資訓しくんのような初等部からの持ち上がり校において、七生のように目立つ容姿の生徒は何かと祭り上げられる事が多かった。
 中等部まではそれ程でもなかった。まして七生自身が上級生ともなれば、そうそう気安く言い寄るやからもいなかった。
 しかし、高等部となると状況が一変する。なんと言っても七生は下級生である。年頃からも色々と思うところの有る上級生は、それこそ新入生の物色に鵜の目鷹の目──七生は絶好の標的だった。

「僕が好きなのは和志だけだよ?和志のことだけが好きなんだ。
ちゃんと分かっていると思ったのに……もう、忘れちゃった?」

 思えば半年前。あの真冬の第二音楽室───あの時の告白以来、そんなことは口にも出さない二人だった。

「あの日の事は憶えているよ。
あの時七生は──自分が変わったって言ったよな。今にして思う。この半年の間に俺も変わった。
あの時は訳も分からず七生が好きで、七生も俺が好きだって、ただそれだけで嬉しかった。
でも今は違う。俺はいま、七生にとって特別な存在でありたいんだ」

 和志は七生の方へと向き直り、そっと身体に手を回した。
 七生は戸惑い、視線を外す。

「和志は、僕にとって十分特別な存在だよ?」

「はぐらかすなよ……分かってるだろ……?」

 回した腕に力を込めて、和志は七生を向き直させた。

「ずっと前から気付いていたんだ。でも、言い出せなくて……」

「和志……?」

 七生の脳裏に──アンダンテ・スピアナートが響き渡る。
 それは甘い旋律だった──。

「俺たち今まで、まるで恋人同士のように仲好しだった。でも俺、恋人のように、じゃなくて、七生を本当の恋人にしたいんだ。
あれ?なんだか俺、回りくどい事言ってるか?」

──これは和志の告白なのか?
 確かに分かりにくい発言だったが、七生にはそれが、まるで切ないショパンのように聞こえてしまうから恋は不思議だ。
 
「和志、僕は今まで、あの音楽室で告白した時から……そして和志がそれを受け入れてくれたあの時から……ずっと和志を本当の恋人だと思っていたよ?」

「七生……」

「憶えてる?中2の夏休み……。僕が初めて……なっちゃった時。あの時和志は……どんな夢見た?って聞いただろ?僕は恥ずかしくて言えなかった。あの時……僕は和志の夢を」
 その言葉が終わらぬうちに和志が七生のくちびるを塞いだ。

(え!和志!)

(七生!)

 甘く優しい、官能のときめき。それはまるでアンダンテ・スピアナート
 二人は長くちづけに、幾星霜の時を止めた──。


(七生……今、はっきり思うよ。愛してる。俺は七生を愛してる)


 何故かよみがえる懐かしいときめき。
 和志の濡れたくちびるに、七生の身体が激しく震えた。


(和志、思い出したよ。
初めての筈なのに何故か懐かしいこの感触──そうだね……あの時僕は、君にこうして救われた。
君に拾われたこの命──海で救われたあの時から、僕は君のために生きている……!)


 夢見心地にくちびるを離す。

 和志と七生は瞳を合わせた。

「俺はずっと……えているのは自分の方だと思ってた。でも本当は、ずっと七生を待たせてたんだな」

 七生は黙って首を振る。溢れる思いに言葉も無い──。

「七生……おまえを愛してもいいか……?」

「愛しているのは僕の方だよ……ずっとずっと、僕の方だよ……」

「七生」

 和志の身体が七生に被さる。
──七生は陶酔の境地でため息を漏らした。


 16歳で初めて知った、
  二人の新しい愛の形。
   初めて二人が結ばれた夜。


 いつしか二人は眠りに落ちた。
   ショパンの旋律を
     夢に見ながら──。


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