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四粒目 結縁花 ~『恋は思案の外』の巻~

その八 身の危険って、こういうことだったんですね、思阿さん!

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 ◇ ◇ ◇

 前を行くあの人が伸ばしてくれた手につかまって、わたしは、小舟から桟橋に降り立った。
 目の前には、よく手入れをされた薔薇園が広がっていた。
 薄桃色や深い紅色の花々は、もちろん艶やかで美しいが、「雪莉シュエリー」と名付けられた白い薔薇は、爽やかな香りと凜とした花の姿がひときわ魅力的で、この薔薇園の主役となって咲き誇っていた。

 ―― 永庭ヨンティンさんたら、とうとう、こんなに立派なお庭を任されるまでになったのね!
 ―― あの日、深緑シェンリュが、二人を勇気づけ、送り出してあげたからですよ。
 ―― そして、あなたが、二人に力を貸してくれたからね――。

 わたしは、あの人の手を両手で握りなおして、感謝の気持ちを伝えた。
 薔薇園の中の四阿あずまやで、永庭さんと雪莉様が待っている。
 雪莉様は、赤ちゃんを抱えて幸せそうに笑っている。
 かいがいしくお茶の支度をしているのは、美珊メイシャンさんと妙香ミャオシァンさんね!

 良かった……。何もかも、上手くいったんだわ。
 わたしだって、今、とても幸せよ……。
 だって……、こうして、あの人の温かい腕に……。

 ◇ ◇ ◇

「お嬢様、お嬢様……。すっかり寝入ってしまわれたようです。お起きになりません」
「まあ、雪莉はなかなか肝が据わっているわね。ホホホ……、いいわ、そのまま寝かせておきましょう。その方が、黙っていてくれて扱いやすいでしょうし……」
「なあ、本当にいいのだろうか? このまま、ジァン様の所へ嫁がせて――」

 わたしの肩に触れて起こそうとしていたのは――、妙香ミャオシァンさんかしら?
 ええっと、わたしは、雪莉様と入れ替わって、雪莉様の代わりに寝台に横たわって――。
 やだ! わたしったら、こんなときだというのに、シャ先生の虫籠を両手で包んで、いつの間にかお昼寝を楽しんでしまっていたんだわ!
 ということは、枕元で話をしている男女は、もしかして、県令様と奥様ってことかしら?
 二人で、雪莉様の輿入れのことを話しているみたいだけれど……。

「江様にお妾がいたことには驚きましたが、そのお妾に、来月お子が生まれると聞いて、はじめはどうなることかと思いましたわ! 確かに、お妾の出産と雪莉の輿入れが重なってしまっては、とんでもないことになりますわね。
まあ、かねてからの約束通り、正妻としてすぐにでも輿入れして欲しいというのですから、こちらに異論はありませんよ。
それに、これでこちらが少し優位に立てますわ。何しろ、大事な婚礼を前に、お妾を孕ませてしまうような男に、大事な一人娘をくれてやるのですからね。江様も、わたくしたちの要求に逆らえなくなることでしょう。
あとは、雪莉が、お妾以上のご寵愛を得て男児を産んでくれれば、我が家もあなたも逸真イーチェンも先の先まで安泰ですわ、オホホホホ!」

 なるほど、そういうことで、許嫁さんは雪莉さんとの婚礼を急いだってわけね。
 お妾というのは、奥様とはべつの夫人のことよね? 十年も前に、雪莉様の許嫁になっておきながら、その輿入れ前に別の女の人をそばに置くとはどういうことよ?
 おまけに、そのお妾が子どもを産むなんて、いったいどうなっているのよ!?

 人間界には、天人樹はなくて、赤児は女の人の体の中で育つのですって。
 仕組みはよくわからないけれど、「産み落とすのは大変なのですよ」って、姉様方が言っていたわ。

 命をかけて子どもを産もうとしているところに、突然、正妻が輿入れしてきたら、お妾だって驚くだろうし悲しい気持ちになるわよね。自分や子どもが、とても軽く扱われているような気がして――。
 雪莉様だって、不慣れな生活の中で、いろいろと余計な気をつかうことになる――。

 雪莉様を、永庭さんの所へ行かせて正解だったと思う。
 江様の元へ輿入れしても、この先、苦労が絶えないことになりそうな気がするもの。
 苦労をするのなら、好きな人とするべきだわ。雅文ヤーウェンだって、そう言うわよね!
 二人の話は、まだ終わらない。

「前の奥様が亡くなって、あなたは、ずいぶん雪莉を甘やかしておいででしたけど、無事に我が家の役に立つ娘に育ってくれて助かりましたわ。
わたくし、あのわがまま娘から解放されると思うと、ちょっとホッとしておりますの。これからは、逸真の官吏登用試験の準備に、思う存分打ち込めますわ!」
「お、おまえは、そ、そんなふうに――」
「さあ、そろそろ、江様も沐浴を終えて、旅のお疲れもとれた頃でしょう。こちらへお呼びして、雪莉とゆっくりお話などしていただいてはどうかしら?
妙香! 香を焚いておくれ。白檀がいいわね。心がほぐされて、二人の仲も深まるでしょうから――。用意ができたら、おまえも部屋を出るのですよ」

 県令様は、もごもごして、まだ何か言いたそうだったが、奥様は、何も言わせず、二人一緒に部屋を出て行ってしまったようだ。
 そうか……、あのやけに若々しい奥様は、雪莉さんの本当のお母様じゃなかったのね。
 きっと、雪莉様は、寂しさや悲しみを抱えて幼少期を過ごしていたのだろう。
 それを癒やし励ましてくれたのが、永庭さんと庭の花々だったのだわ。

「深緑さん、起きていらっしゃいますか?」
「あ、は、はい……。起きました、先ほど……」

 わたしが、上掛けをまくり、ぴょこっと顔を出すと、妙香さんが心配そうな顔でのぞき込んだ。
 
「今、お話にあったとおり、お嬢様の許嫁の江様がお着きになりまして、この邸でご休憩を取られています。旦那様も、お役所から急遽お戻りになりました。
江様は、まもなく、この部屋へいらっしゃいます。ですから、深緑さん――、今のうちにお逃げになってください。あとは、わたしが何とか誤魔化しますので」
「で、でも、まだ、美珊さんや思阿さんが戻らないし、永庭さんと雪莉様がとうなったかわからないでしょう? もう少し、時間を稼がないと――」
「ええ……、ですが、あの江様というお方は、たいそう好色なお方のように、お見受けしました。
お茶をお出ししたとき、妙にねちっこくわたしの手を握られましたし、奥様のことも嫌らしい目つきで眺めておいででした。もし、この部屋で二人きりになったら、あのお方はきっと――」

 えっ?! も、もしかして、よくわかりませんけど、思阿さんが言っていた「身の危険」というものが、わたしに迫っているということなの?
 この部屋へ向かって、バタバタと慌てて近づいてくる足音が聞こえた。
 わたしが、上掛けに潜り込み、妙香さんが、舌打ちしながら寝台から離れた途端、勢いよく扉が開き、誰かが部屋の中へ入ってきた。

「雪莉どのぉ! お加減が悪いと伺いましたが、いかがでございますかぁ? わたしが、優しく看病して差し上げますよ!」

 少し鼻にかかった、甘ったるい声だった。これが、江様だろうか?

「江様、お嬢様は、今、お休みになっています。静かにしていただけませんか?」
「ふん! 生意気な侍女だな! 用が済んだのなら、ここから出て行け! 雪莉どののお世話はわたしがする。ご両親も、承知しておられる。さあ、わかったら、さっさと退出しろ!」

 妙香さんは、しつこく食い下がっていたが、とうとう扉の外に追い出されてしまったらしい。
 掛け金を下ろす音が聞こえ、足音が寝台に近づいてきた。
 虫籠が、ゴソゴソ動いている。夏先生が、蓋を開け外に這い出てきたようだ。
 小さく丸まったわたしの首のあたりを、江様の大きな手が、上掛け越しになで始めた。

「雪莉どの、何も怖がることはありませんよ。わたしとあなたは、明日には婚礼を挙げ、晴れて夫婦となるのです。あまりお目にかかる機会はございませんでしたが、あなたが魅力的な女人にお育ちになったことは、陳殿のお手紙でよく存じております。どうぞ、そのお姿をわたしに見せてください」

 わたしは、江様に背を向けたまま少しずつ体を滑らせ、寝台の反対側へと移動していた。
 ふいに首筋に、しっとりと温かいものが触れた。上掛けの端をめくるようにして、江様の手が入り込んできたのだ。襟の合わせ目を探るように、指先が前へと伸ばされて――。

「ゲロロロロローーーッ」

 わたしが寝台から転がるように床に降りると同時に、夏先生が上掛けから飛び出し、上半身を寝台に載せていた江様の顔に、ペトリと張り付いた。

「うわっ、な、何だ?! ペトペトと張り付いて――」
「毒蛙じゃよぉ~! おぬしの顔は、わしの毒でただれて、どろどろじゃあ~! ほれ、ほれ、ほれ~!」
「ど、毒蛙う~?! ヒ、ヒ、ヒイイイイィィィィ~ッ……」

 わたしが立ち上がると、夏先生はニヤリと笑いながら、虫籠へ戻ってきた。
 江様は、白目をむいて、寝台に寄りかかるようにして倒れていた。
 別に、顔は爛れたりしていない。当たり前よね! 夏先生は、ただの青蛙なのだもの。
 そろそろ潮時ね。江様が気を失っている間に、こっそり逃げだそう。
 掛け金をはずそうと、扉に近づいたそのとき、誰かが体当たりして扉をこじ開けた!

「シ、思阿さん?!」
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