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二粒目 美貌蔓 ~『美人というのも皮一重』の巻~
余話・三話目 夏泰然(シャタイラン)、天の湖の畔にて天帝と密談を交わす
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ここは、天界にある巨大な湖、伏龍湖。
その畔に、一人の男が佇んでいた。
男は、黒みを帯びた緑色のおくれ毛を肩に垂らし、ゆったりとした水色の衣を風になびかせていた。
男の足元に、餌をくれると勘違いした大きな魚が、口をパクパクさせながら集まってきていた。
それを見た男は、ブルッと身震いすると、魚から逃げるように湖から離れた。
「危ない、危ない……。でかい口を開けて、近づいてきおって! しっ、しっ! まあ、この姿なら、食われる心配はないがのう」
男は、自分の衣に目をやり、ニヤリと笑った。
「人」の形をとるのは、久しぶりだった。
この前、このような姿をしたのが、いつのことだったかも思い出せないほどだ。
「久しぶりよのう、夏泰然!」
「こ、これは、これは天帝様! いらっしゃったことに気づきませず、失礼いたしました」
男の隣には、いつの間にか楝色の靄が集まり、人の形にまとまりつつあった。
あまりの神々しさで、男はまともに目を向けることができず、靄の前に俯きながらひざまずいた。
「余が望んだ姿で来てくれて嬉しいぞ! さあ、立ち上がり顔を上げよ。そして、いつも変わらぬ、そなたの美丈夫ぶりを余にしっかりと見せてくれ」
夏泰然は、体を起こすと、胸の前で手を組んで正式な形の礼をした。
ゆっくりと顔を上げると、靄は眩しい煌めきを放ちながら、くっきりと天帝の姿を形作っていた。
これは、現し身ではない。そもそも、天帝に現し身があるのかも定かではない。
天帝は、現れねばならないところに、自由自在に出現することができるのだ。
「なぜ、青蛙になどなったのだ? そなたの霊力をもってすれば、人間界にいくら長くいたとて、今の姿を維持することなど容易であろうに」
「『人』の姿は、もう十分に楽しみました。下天して、わたしにはもったいないような女人に出会い、齢八十を数えるまで共に生きました。彼女を葬った後、一人天界に戻りましたが、もう何の欲もありません。池の畔に住む名も無き青蛙として、静かに暮らしていくことを選びました」
「本当に、欲はいっさい無いのだな?」
「はい、ございません。さっぱりとしたものです」
「ならば言うことはない。そなたは、適任だな!」
「はっ?」
天帝は、夏泰然に、天空花園における天女たちの不始末について話し、一人の天女を下天させ、人間界に落ちた種核の後始末をさせるつもりであると告げた。
「初めて下天するのだ。それもたった一人で――。己のしくじりの責を負ってのことであるから、過酷なのは仕方がないのだが、せめて、随従ぐらいは、つけてやりたいと思ってな。
そなたに、その役を頼めないだろうか? 全ての欲を捨てた老青蛙ならば、面倒なことも起こるまい」
夏泰然が、人間界で長いときを過ごしたのは、もう、ずいぶんと昔の話だが、今でも青蛙であるのをいいことに、様々な宮殿の下天井をのぞきに行っている。
人間界の現状については、天界でも最も詳しい者の一人であると自認している。
人間界に不慣れな天女を案内するなど、彼にとっては造作も無いことなのだが――。
「天女の名前を教えていただけますかな?」
「ほう? 興味を持ってくれたか? 残念ながらそなたの食指が動くような、手弱女ではないのだがな。いや、だからこそ、そなたに頼めるのだが――。
その天女の名は、深緑と申す。翠姫の手下だ」
「深緑、でございますか――」
深緑――。夏泰然がよく知る天女だ。
彼の主な住処である天人寮の池で、深緑は、よく一人でのんびりと沐浴している。
衣を全部脱ぎ捨てて、池の水をバシャバシャと波立てて泳いでいることもある。
そうかと思えば、くてんと池の中の岩に身を預け、居眠りをしていることもある。
なんとも無邪気で屈託のない天女である。
「確かに、深緑一人で人間界へ赴くというのは、いささか心配な気もいたしますな」
「そうであろう? だから、そなたがついて行ってやれ。ただし、青蛙としてだぞ。そなたを頼り過ぎては、深緑の修業にならぬからな。それに、人の形をしたそなたは美しすぎる。務めを忘れて、そなたにうつつを抜かすことになってもまずい」
「承知いたしました。青蛙として、深緑とともに下天いたしましょう」
それを聞くと、天帝は、夏泰然に、紫微宮の牢獄にまもなく入牢する深緑に今すぐ会いに行くよう命じた。
「蛙を気味悪がる者もおるからな。下天をする前に、顔馴染みになっておくとよかろう。そのついでと言ってはなんだが、深緑に聞き出してきて欲しいことがある。
実は、余に無断で翠姫が下天しているらしいのだ。天女たちは認めぬが、天界を留守にしていることは間違いない。深緑が、知っていることを探り出してくれ」
翠姫様が、天帝に断り無く下天した?
ああ、女神は、とうとうあの男を見つけたのだな――と夏泰然は思った。
かつて、下天に失敗し人間に助けられた翠姫は、自分を救った男に恋情を抱いた。
天界の女神としての記憶が戻り、人間界での務めを果たした翠姫は、天帝により天界へ連れ戻された。
人間界で最愛の相手と出会い添い遂げた夏泰然には、思い半ばで天界に戻らねばならなかった女神の無念さがわかる。
あれから、二年――。
天帝は気づいていないのかもしれないが、翠姫は、近頃、下天井をたびたびのぞき込んでいた。そして、誰かを探していた――。
おそらく、長い年月を経て生まれ変わったあの男を見つけ、女神は会いに行ったのだろう。
今度こそ、思いを遂げるために――。
さて、あのどこか子どもっぽさがある深緑が、そんな話を聞かせてもらえているだろうか?
話したところで、きょとんとしているばかりで、何も伝わらぬ気もする。
おそらく、女神が下天することしか知らされていないであろう。
その方が良い。
まっさらな心で人間界を学んでこそ、深緑は成長できる……。
そう思うと、新たな疑問が湧いてきた。
本当に深緑の随従は自分だけなのだろうか――、夏泰然は、首を傾げる。
天人果から生まれて間もない深緑を、慈しみを込め大切に育てあげ自分の手下とした女神が、青蛙一匹の随従で安心するとは思えない。
もしかすると、戦と兵法の女神である玄姫にでも頼んで、天帝五軍の精鋭をこっそり護衛としてつけさせるかもしれない。
(それはそれで、なにやら面倒な旅になりそうな気もするのだが……)
天帝の許しを得て、青蛙に姿を変えると、夏泰然はくるりと空中で一回転し、あっという間に紫微宮の牢獄の窓辺に転移した。
牢番が牢の扉を開けたところだった。
入牢を命じられたのに、なぜか安心した顔で牢に入ってきて、寝台に腰かけてしまった深緑に、夏泰然は、親しみを込めて呼びかけた。
「おお、深緑! 昼寝癖が災いして、とうとう牢獄送りとなったか!」
その畔に、一人の男が佇んでいた。
男は、黒みを帯びた緑色のおくれ毛を肩に垂らし、ゆったりとした水色の衣を風になびかせていた。
男の足元に、餌をくれると勘違いした大きな魚が、口をパクパクさせながら集まってきていた。
それを見た男は、ブルッと身震いすると、魚から逃げるように湖から離れた。
「危ない、危ない……。でかい口を開けて、近づいてきおって! しっ、しっ! まあ、この姿なら、食われる心配はないがのう」
男は、自分の衣に目をやり、ニヤリと笑った。
「人」の形をとるのは、久しぶりだった。
この前、このような姿をしたのが、いつのことだったかも思い出せないほどだ。
「久しぶりよのう、夏泰然!」
「こ、これは、これは天帝様! いらっしゃったことに気づきませず、失礼いたしました」
男の隣には、いつの間にか楝色の靄が集まり、人の形にまとまりつつあった。
あまりの神々しさで、男はまともに目を向けることができず、靄の前に俯きながらひざまずいた。
「余が望んだ姿で来てくれて嬉しいぞ! さあ、立ち上がり顔を上げよ。そして、いつも変わらぬ、そなたの美丈夫ぶりを余にしっかりと見せてくれ」
夏泰然は、体を起こすと、胸の前で手を組んで正式な形の礼をした。
ゆっくりと顔を上げると、靄は眩しい煌めきを放ちながら、くっきりと天帝の姿を形作っていた。
これは、現し身ではない。そもそも、天帝に現し身があるのかも定かではない。
天帝は、現れねばならないところに、自由自在に出現することができるのだ。
「なぜ、青蛙になどなったのだ? そなたの霊力をもってすれば、人間界にいくら長くいたとて、今の姿を維持することなど容易であろうに」
「『人』の姿は、もう十分に楽しみました。下天して、わたしにはもったいないような女人に出会い、齢八十を数えるまで共に生きました。彼女を葬った後、一人天界に戻りましたが、もう何の欲もありません。池の畔に住む名も無き青蛙として、静かに暮らしていくことを選びました」
「本当に、欲はいっさい無いのだな?」
「はい、ございません。さっぱりとしたものです」
「ならば言うことはない。そなたは、適任だな!」
「はっ?」
天帝は、夏泰然に、天空花園における天女たちの不始末について話し、一人の天女を下天させ、人間界に落ちた種核の後始末をさせるつもりであると告げた。
「初めて下天するのだ。それもたった一人で――。己のしくじりの責を負ってのことであるから、過酷なのは仕方がないのだが、せめて、随従ぐらいは、つけてやりたいと思ってな。
そなたに、その役を頼めないだろうか? 全ての欲を捨てた老青蛙ならば、面倒なことも起こるまい」
夏泰然が、人間界で長いときを過ごしたのは、もう、ずいぶんと昔の話だが、今でも青蛙であるのをいいことに、様々な宮殿の下天井をのぞきに行っている。
人間界の現状については、天界でも最も詳しい者の一人であると自認している。
人間界に不慣れな天女を案内するなど、彼にとっては造作も無いことなのだが――。
「天女の名前を教えていただけますかな?」
「ほう? 興味を持ってくれたか? 残念ながらそなたの食指が動くような、手弱女ではないのだがな。いや、だからこそ、そなたに頼めるのだが――。
その天女の名は、深緑と申す。翠姫の手下だ」
「深緑、でございますか――」
深緑――。夏泰然がよく知る天女だ。
彼の主な住処である天人寮の池で、深緑は、よく一人でのんびりと沐浴している。
衣を全部脱ぎ捨てて、池の水をバシャバシャと波立てて泳いでいることもある。
そうかと思えば、くてんと池の中の岩に身を預け、居眠りをしていることもある。
なんとも無邪気で屈託のない天女である。
「確かに、深緑一人で人間界へ赴くというのは、いささか心配な気もいたしますな」
「そうであろう? だから、そなたがついて行ってやれ。ただし、青蛙としてだぞ。そなたを頼り過ぎては、深緑の修業にならぬからな。それに、人の形をしたそなたは美しすぎる。務めを忘れて、そなたにうつつを抜かすことになってもまずい」
「承知いたしました。青蛙として、深緑とともに下天いたしましょう」
それを聞くと、天帝は、夏泰然に、紫微宮の牢獄にまもなく入牢する深緑に今すぐ会いに行くよう命じた。
「蛙を気味悪がる者もおるからな。下天をする前に、顔馴染みになっておくとよかろう。そのついでと言ってはなんだが、深緑に聞き出してきて欲しいことがある。
実は、余に無断で翠姫が下天しているらしいのだ。天女たちは認めぬが、天界を留守にしていることは間違いない。深緑が、知っていることを探り出してくれ」
翠姫様が、天帝に断り無く下天した?
ああ、女神は、とうとうあの男を見つけたのだな――と夏泰然は思った。
かつて、下天に失敗し人間に助けられた翠姫は、自分を救った男に恋情を抱いた。
天界の女神としての記憶が戻り、人間界での務めを果たした翠姫は、天帝により天界へ連れ戻された。
人間界で最愛の相手と出会い添い遂げた夏泰然には、思い半ばで天界に戻らねばならなかった女神の無念さがわかる。
あれから、二年――。
天帝は気づいていないのかもしれないが、翠姫は、近頃、下天井をたびたびのぞき込んでいた。そして、誰かを探していた――。
おそらく、長い年月を経て生まれ変わったあの男を見つけ、女神は会いに行ったのだろう。
今度こそ、思いを遂げるために――。
さて、あのどこか子どもっぽさがある深緑が、そんな話を聞かせてもらえているだろうか?
話したところで、きょとんとしているばかりで、何も伝わらぬ気もする。
おそらく、女神が下天することしか知らされていないであろう。
その方が良い。
まっさらな心で人間界を学んでこそ、深緑は成長できる……。
そう思うと、新たな疑問が湧いてきた。
本当に深緑の随従は自分だけなのだろうか――、夏泰然は、首を傾げる。
天人果から生まれて間もない深緑を、慈しみを込め大切に育てあげ自分の手下とした女神が、青蛙一匹の随従で安心するとは思えない。
もしかすると、戦と兵法の女神である玄姫にでも頼んで、天帝五軍の精鋭をこっそり護衛としてつけさせるかもしれない。
(それはそれで、なにやら面倒な旅になりそうな気もするのだが……)
天帝の許しを得て、青蛙に姿を変えると、夏泰然はくるりと空中で一回転し、あっという間に紫微宮の牢獄の窓辺に転移した。
牢番が牢の扉を開けたところだった。
入牢を命じられたのに、なぜか安心した顔で牢に入ってきて、寝台に腰かけてしまった深緑に、夏泰然は、親しみを込めて呼びかけた。
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